アルバイトの初の給料日には、生活費として給料全額を渡してきて『もう少し、ここで生活させてほしい』とものすごく遠慮がちに言ったので、私は快く了承した。

 ただ、給料は受け取らなかった。私自身の給料は決して高くはないけれど、匡と暮らすようになってからは食費は丸々浮いているし、本業を休んでいる匡にとっては、きっと今のアルバイトで稼いだお金は後に彼を助けてくれるものになるはずだから、そんな大切なお金を受け取るわけにはいかない。

 それに、私にとっても、誰かと生活をすることは孤独が紛れて心地よかった。何より、仕事を終えて帰路に着いたときアパートの窓から灯りが漏れている光景は、沈んだ気持ちを軽くしてくれた。これは、匡と暮らさなければ分からなかった、私の中の“生きててよかった”と思えたもののひとつだ。

 「匡さんは、今日休みでしたっけ」

 「うん、お店は定休日。伊都さん、どれ食べる?」

 匡はキッチンの棚から袋に入ったパンを幾つか出してテーブルに置く。思わず「わぁ」と声が漏れる。

 「好きなの選んでね。僕、コーヒー淹れるね」

 「ありがとうございます」

 匡は、ここにグラフィックデザイナーの仕事ができるようパソコンや画材を持ち込んだけれど、思うように仕事は進まないようで専らパン屋のアルバイトと家事に専念している。私はゆっくり休んだら良いと伝えたが、匡は『もう十分休んだよ』と言った。

 パン屋のhitotokiは、賄いにとお店のパンを出してくれたり、売れ残った商品は格安で売ってくれたりと何かと良心的で匡はいつもそのパンを買ってきてくれる。私は朝はパン派で、今まではスーパーで買った6枚切りの食パンを食べていたけれど、朝からパン屋さんの色々なパンが食べられるのはとても嬉しくて、朝が楽しみになった。

 「フォカッチャと、ブルーベリースコーンが食べたいです。 匡さんも、今食べますか?」

 「うん。僕も、スコーン食べようかな」

 「じゃあ、ちょっと焼き直しますね」

 コーヒーの芳ばしい香りとパンの甘い匂いで満ちた狭いキッチンはふたりで立つと、背中がぶつかりそうになる。匡は、こちらを向いて「いい匂い」と微笑む。私も「はい 」と微笑み返した。

 ふたりでテーブルについて、私は先にフォカッチャを齧って、匡はゆっくりコーヒーを飲む。焼き直した生地は焼き立てのように香ばしい。コーヒーもあたたかくて、ものすごく美味しい。やっぱり、温かい食べ物はホッとする。

 「そのフォカッチャ、試作品だって言ってた。どう?」

 「トマトとさつまいもが、すごく合います。生地もモチモチで美味しいから、人気になると思います」

 「よかった。和巳さんに伝えたら、きっと喜ぶなあ」

 和巳さんは、hitotokiの店主だ。奥さんの晴海さんと2人でお店を営んでいるけれど、その晴海さんが妊娠して産休に入ることとなったらしい。匡の話では、長年の不妊治療の末に授かり、特に和巳さんが晴海さんの体調を心配して負担をかけまいと妊娠が発覚して早々にアルバイト募集をかけたそう。

 私はまだ和巳さんと晴海さんには会ったことがないけれど、匡の話を聞く限り2人とも気さくで、いい人なのだろうなと想像している。

 「伊都さん、今日仕事で何もなく帰れたら、外食しない?」

 私は次にスコーンを齧ろうと口を半開きにさせたまま「えっ?」と固まる。そんな私を見て、匡は穏やかに、楽しそうに微笑む。