「どうかな」
「は、はい。あ、でも、匡さんは早く寝ないとじゃ……」
「それがね、明日は和巳さんが美晴さんの定期検診に付き添いしたいからって休みになったんだ。だから、大丈夫」
そうなんですねと頷きながら、明日は土曜日だ、と思う。匡が働き始めてから休日が重なるのは、初めてだ。
「どこか、行きたいお店はある?」
行きたいお店……。突然の提案に、私は再び固まる。いつも1人だったから、外食なんて滅多にしたことがなくて付近の飲食店が咄嗟に思い浮かばない。
「私、近くのお店あまり詳しくなくて……匡さんはどこかありますか?」
言いながら、ふと、改まって食事に誘われるということは“何か”
があるんじゃないかと思い浮かんだ。もしかしたら、ここを出て行くとか……。そう思ったら、しっかり床についているはずの足元が、ぐらりと揺れたような気がした。
けれど、匡と出会って3ヶ月。この時間は、もしかしたら匡にとって立ち直るのには十分だったのかもしれない。匡は、もうここにいる理由が、なくなったのかもしれない。
「うーんとね、この前、和巳さんにお勧めのお店をいくつか教えて持ったんだ。中華にイタリアン、定食屋とか、居酒屋とか」
けれど匡は、普段と変わらない様子で話している。“普段と変わらないように努めている”ような素振りは、見当たらない。だから、これは私の考えすぎなのだろうと疑念を意識の外へと追い払って「和巳さんのお勧めなら、きっとどこも美味しいですね」と、努めて穏やかに微笑み返した。ただの、私の考えすぎだ。
和巳さんはhitotokiの店主で、恰幅が良くて小麦色の肌と溌剌とした笑顔が印象的な男性だ。趣味はジムと、休日に奥さんの美晴さんと外食をすることらしく、美味しいお店を見つけると匡に教えてくれるらしい。
ただ、今は美晴さんは現在妊娠中で和巳さんは以前のように外食をすることが減ってしまったそう。hitotokiの求人は美晴さんの妊娠が分かり、パン屋の勤務時間に体調を合わせることが困難になったため、人員補充のため出したと、面接の時に聞いたと匡が言っていた。
「伊都さんが帰ってきたら、その時の気分で決めようか」
「はい」
頷きながら、匡の笑顔は爽やかだなぁと思う。会社にいる同年代の男性とは違う、肌は程良く水分を保ちながらもサラリとしていてくすみもない。出会った時は十分に栄養も睡眠の取れてないみたいに肌が青白くて目の下にはクマがあったけれど、今は血色の良い頬に、目の下にはさりげなく膨らんだ涙袋があるだけで、笑うとそれが少しだけ強調される。
私は、そんな風に笑う匡に安心感を覚える。でも、この安心感はいずれ私の目の前から無くなるものなんだ。そう思ったら、とても寂しくて、胸の辺りがひんやりと冷たくなった。その冷たさを自覚して、私の中に匡の存在がそれほどまでに大きくなっていることが意外で、自分自身でも少し怖かった。
「伊都さん、時間、大丈夫?」
さっき口に運んだスコーンを、ぼんやりとしながらずっと咀嚼していた。頷きながら、コーヒーで口の中のそれを流し込む。時計を見ると、いつもなら朝食を食べ終えて歯磨きをしている時間だった。残りのスコーンを頬張ると口いっぱいになって水分が全部スコーンに吸い取られるので、ブルーベリーの僅かな果汁と残り少なくなったコーヒーを頼りに何とか飲み込んだ。
「コーヒー、おかわりいる?」
「あ、いや、大丈夫です」
食器をシンクに置いて、洗い物をしようとすると「僕が洗うから、いいよ」と匡が言った。
「すみません。ありがとうございます」
「ううん」
歯磨きを済ませて「行ってきます」と言うと、匡がリビングから顔を覗かせて「いってらっしゃい。気を付けて」と言った。普段なら、匡の方が早く仕事に向かうのでこんな風に見送られるのは久々だった。ふと、こんな何気ないやり取りですら3か月より前には無いものだったんだと気付いて、あまりに自分の生活に、身体に染み込んでいて、少しだけ戸惑う。私はそれを悟られないよう、振り返ってこちらに手を振る匡に笑顔を向けた。



