◇◇◇

 「伊都さん、おはよう」

 「おはようございます」

 姉の五周忌から、3ヶ月が過ぎようとしていた。匡は今、私のアパートで暮らしている。

 あの夜、匡はこのアパートに来て、私が作ったビーフシチューを食べた。あの時は自信があると豪語した癖に匡の口に合うかと緊張していて私は味わうどころではなかったけれど、匡は『美味しい』と言った。スーパーで買ったバゲットも、匡はゆっくり噛み締めるみたいに食べて、デザートのアイスまで食べた。食べ終わる頃には、真っ白だった肌はやっと血が通い始めたかのようにほんの少し赤みを帯びていた。

 それから、匡にこれからどうするのかと聞いたら、匡は分からないと言った。『やっぱり、どうしたらいいか、分からない』

 私はそんな匡に、家に帰るのが怖いならここに居たらいいと伝えた。自分でも、無茶苦茶なことを言っていることは分かっていたけれど、匡をこのまま帰らせることが怖かった。綺麗に平らげられたふたつの皿がテーブルに並んでいる光景が、あまりに懐かしかったせいかもしれない。

 『でも、迷惑じゃない?』

 そう遠慮がちに匡が言ったとき、きっぱり断られるかもと不安だった私は堪らないくらい安堵して、けれどもそれを悟られないように、静かに首を横に振った。それから匡は、私のアパートの空いていた一部屋に居候中だ。

 「匡さんは、今日休みでしたっけ」

 「うん、お店が定休日だからね。 伊都さん、どれ食べる?」

 匡はキッチンの棚から袋に入ったパンを幾つか出してテーブルに置く。思わず「わぁ」と声が漏れる。

 「好きなの選んでね。 僕、コーヒー淹れるね」

 「ありがとうございます」

 匡は、ここにグラフィックデザイナーの仕事ができるようパソコンや画材を持ち込んだけれど、思うように仕事は進まないようだった。

 私はゆっくり休んだら良いと伝えたが、匡は『もう十分休んだよ』と言って、この近所で仕事を探して、パン屋『hitotoki』の販売員の求人を見つけてきた。そこは、売れ残りを従業員に格安で売るようで匡はいつもそのパンを買ってきてくれる。私は朝はパン派で、今まではスーパーで買った6枚切りの食パンを食べていたけれど、朝からパン屋さんの色々なパンが食べられるのはとても嬉しくて、朝が楽しみになった。

 「フォカッチャと、ブルーベリースコーンが食べたいです。 匡さんも、今食べますか?」

 「うん。 僕も、スコーン食べようかな」

 「じゃあ、ちょっと焼き直しますね」

 コーヒーの芳ばしい香りとパンの甘い匂いで満ちた狭いキッチンはふたりで立つと、背中がぶつかりそうになる。匡は、こちらを向いて「いい匂い」と微笑む。私も「うん」と微笑み返した。

 ふたりでテーブルについて、私は先にフォカッチャを齧って、匡はゆっくりコーヒーを飲む。焼き直した生地は焼き立てのように香ばしくなって、あたたかくて、ものすごく美味しい。やっぱり、温かい食べ物はホッとする。

 「そのフォカッチャ、試作品だって言ってた。どう?」

 「トマトとさつまいもが、すごく合います。 生地もモチモチで美味しいから、人気になると思います」

 「よかった。 和巳さんに伝えたら、きっと喜ぶ」

 匡は、ここに住み始めた頃の数日間は、部屋に布団と私が貸した漫画だけを置いて過ごした。ずっと部屋から出てこないので、もしかしたら死んでいるかもと不安になったけど、きっと今はそっとしておくしかないのだろうとドアをノックしようとしていた手を引っ込めた。本当は、毎日あたたかいご飯を作ってあげたりしたいと思ったけれど、変わらず仕事は忙しくて帰宅する時間が遅く、そんな時間に声を掛けることはできなかった。

 そうしているうちに、匡はある朝から、私とともに起きてコーヒーを飲むようになった。匡はもともと朝はあまり食べないらしく、私が食パンにジャムを塗って食べる様子をぼうっと眺めて、仕事に向かう私の見送りをしてくれるようになった。

 そして、たまたま早く帰ることが出来た日、テーブルに肉じゃががあった。私は幻を見ているのかとテーブルの上を凝視していると、匡は『勝手にキッチン使って、ごめんね』と言った。肉じゃがは匡が作ったと言うので、私は驚いて声が出なかった。そして、とびきりに美味しかった。

 あの日を境に匡は私と同じ時間に起きて、私の朝食風景を眺めて、夕食を作って待ってくれるようになり、私と同じ時間帯に眠るようになった。パン屋に勤めてからは私より就寝・起床時間は早くなったけれど、規則正しい時間で生活をして、夕食作りも継続してくれている。

 匡が作る料理は、いつも、ちゃんと美味しい。

 「伊都さん、今日仕事で何もなく帰れたら、外食しない?」

 私は次にスコーンを齧ろうと口を半開きにさせたまま「えっ?」と固まる。そんな私を見て、匡は穏やかに、楽しそうに微笑む。