「もう、今日が終わったね」
匡の顔を見る。けれど、俯いていて目は合わない。
「……僕は……、……僕は……どうしたら、いいんだろう」
その声は張り詰めて、耐え難い痛みに耐えているようだった。さっきよりは優しく吹いている夜風ですら、匡には針のように感じられるのではないかと思ってしまうほどに。
私には、匡の悲しみや絶望感は計り知れない。今ここで聞いた話だけでは、到底理解しきれない感情を抱えているのだと、思う。
そんな時、そんな状況にいる今から逃げ出したくなる。全てが面倒に思えて、これから先もこんなことが続くのかと思うと眩暈がしてくる。そのままふらついて、どこかから転げ落ちてしまうそうなほど、そこに留まるのが難しい。
自分を責め続けると、本当に、この世に自分は居てはいけない存在のように思えてくる。
だから、どうか。今、あなたがくれた言葉のように。
「匡さんも、間違ってなんか、ないんです」
匡は、俯いたまま。けれど、夜風に混ざって小さな嗚咽が聞こえた。
震える肩にそっと手を寄せる。でも、触れる前に引っ込めた。簡単に触れられる程、私は、まだ。
「迷うなら……死ぬのは、まだ先にしませんか」
言葉を続ける私の声も、匡と同じだった。風が痛い。
こんなこと、私が言う資格があるだろうか。この現実を受入れたと思ったのに、それなのにまだ迷う時があるような、私が。
だけど、今はこの人に死んでほしくない。終わってほしくない。そう思ってしまうのは、間違っているだろうか。
溢れてきそうだった涙が今度こそ零れてしまいそうで、息苦しくなる。
ああ、私にはまだ、こんな感情が、残っていた。
匡がおもむろに私に視線を向けた。私は熱い目元を隠したかったけれど、匡から視線を逸らせなかった。
「……僕も伊都さんみたいに、何か、そう感じられるものに出会えるかな」
そう言う瞳は、小さな子どもが迷子になったときのように頼りない。
「……確証はないけど、きっと……きっと、絶対」
頼りない、涙が滲む瞳を真っすぐ見つめる。その綺麗な瞳には、今、何色が映り込んでいるだろう。
私は、どう映っているだろう。
「……うん、そうだね。そうかも、しれない」
匡は頼りないまま、曖昧に微笑んだ。それから、「今日は……死ぬのは、やめとくよ」と続けた。
「ひとまず……帰ろうかな」
「もう、バスも、電車もないですよ」
「え、ウソ」
「田舎ですから」
だから、私はここまで走って来たのだ。ああ、そのせいか、今とても。
「お腹、空いてませんか」
「えっ?」
匡は拍子抜けしたみたいに目を僅かに見開く。
「ビーフシチューを、作ってあるんです。もうかれこれ5年作り続けているから、自信はあるんですよ」
言いながら、思わず微笑んでいた。料理に自信なんてないのに強がってしまったけど、まあいいかと思う。
「私のアパートまで歩いて、10分くらいです。良かったら、一緒に食べませんか」
「一緒に……」
「お腹、空いてませんか?」
「お腹は……すごく、空いてる」
匡は自分のお腹を摩って、「お腹が空いたと思うなんて、久々だ」と少し笑った。
「デザートに、アイスもあります」
「え、2人分?」
「バニラとチョコ、選べなかったからどっちも買ったんです。大人買いです」
思わずまた笑うと、匡も私と目を合わせて笑った。ふたりで、ゆっくりと立ち上がる。ずっと同じ姿勢でいた所為か、腰が痛い。匡も同じようで、お互いに「イタタ……」と声が漏れた。
行きましょうか、と匡に言おうと顔を上げた。匡は、夜空を見上げていた。私は、匡から視線を逸らすのに一瞬だけ躊躇して、でも、同じように、そこにある夜空を見上げた。
「星が、綺麗だね」
「……本当だ」
冷たい風が、今も頬を刺す。胸に空いた隙間に、入り込んでくる。
私は、きっとまだ間違ったままでいる。けれど、いま、それを匡には言えなかった。
けれど、それでもいい。きっと……きっと、大丈夫。
「行きましょうか」
「うん」
私たちは、ともにふたりで、歩き出した。
―――



