「そのパウチのビーフシチューが、まあ、美味しかったんです。その頃はまともな食事も取っていなかったから、こんな身近に、こんな美味しい食べ物があったのだと感動しました。でも、きっと手作りの方が美味しいんだろうなと思って、あのときの洋食店のビーフシチューは、どんな味だっただろうと想像しました」

 さっきまで死に方を調べていたスマホで、姉と行った東京の洋食店を調べました。でも、姉に連れて行かれるがままだったから、店名も場所も分からなかった。姉のSNSに写真がアップされていたかと思って、久々に見ました。そこには、笑顔で映る姉がいる。

 「改めて姉の顔を見たとき、同じ顔だけど、私が姉を真似た顔とは別人でした。唯一姉と同じだった顔も、環境や生き方が違えば少しずつ変わってしまうとかと、そのときも少し寂しかった」

 姉がSNSに投稿していた写真をひとつひとつ見返して感傷に浸っているうちに、酔いも回っていたせいもあって私はその場で寝落ちして、翌朝を迎えました。

 窓から注がれる朝陽が痛いと感じる朝だった。皿に、乾いてこびりついたビーフシチューの匂いがキツかった。卓上にあったスマホは充電が切れていて、テレビをつけたら、朝の報道番組で私と姉がそれぞれ好きな歌手が映画の主題歌でコラボするというニュースが流れたんです。二日酔いで頭痛もあって、気分も体調も酷くぼんやりとした意識の中で、そのニュースを見たとき、ほんのちょっとだけ、僅かに、心が弾みました。

 どんな曲だろう、どんな映画で流れるんだろうと考えて、そのとき一瞬、いま私が置かれているこの現実から意識が遠のいた気がした。

 「ふと、昨日死んでたら、このニュースは見れなかったんだなぁと思ったら、なんかこう、良かったなと思ったんです。昨日死ななくて、良かったと」

 かと言って、死にたい気持ちがどこかに飛んでいく訳でもなかったけれど、死ぬ前にこの曲を聴いて、姉にどんな曲だったか感想を聞かせてあげられるかなとか考えて、一先ず死ぬのは一旦後回しにしました。

 映画館に行けば一足早く先に曲を聴くことも出来たけれど、その映画は当時流行っていたアニメの劇場版でそんなに惹かれなかったので、曲がリリースされる日まで待つことにしました。

 「なのに、その日を迎えたら、私は曲を聴くことが出来なかったんです。待ち望んでいたと思ったのに、この曲を聴いたら死ぬんだと思ったら、怖かったんです」

 自分でも変だと思いつつ、その曲を聴いた時に自分がどんな感情を抱くのかとか、その後にどうなってしまうんだろうとか考えてしまった。結局曲を聴かないまま一週間が過ぎて、でもどんな曲だろうと気になって、自分の中で押し問答した後にやっと曲を聴きました。

 「心地の良い曲でした。心地が良い、なんて思ったのは久々で、どこか拍子抜けしてしまったんです」

 こんな私でも、まだそんな感情があることすらもう分からなくなっていた。高揚感にも、近いもののような気がしました。

 懐かしいような、初めてのような感情を抱きながら、もしも、このまま生きていたら、またこんな気持ちになれる日があるかもしれない。あの朝のように僅かに心が躍って、今日のように心地良い日が、あるもしれない。そんな日があるのなら、まだ、生きていられるような気がした。

 綺麗ごとかもしれない。本当に死にたいと思った人は、そんなことでは立ち直れないと言われるかもしれない。けれど、私は、そんな不確かで些細なものに、今日まで生かされてきた。