お腹が空いてきて、デスクの引き出しに乱雑に入れてある差し入れの醤油煎餅を齧った。ガリリ、と硬い咀嚼音が頭の中に響いて、空っぽの胃が待ち望んだ栄養が入ってきたと喜んでぐうと音を鳴らす。本来の予定なら、今日は定時に上がって昨晩から仕込んでいたビーフシチューを食べようと思っていたし、デザートに普段は高くて手が伸びないお高めのアイスまで用意していた。
 
 ビーフシチューは牛すじ肉を赤ワインでじっくり煮込んだから、ほろほろに柔らかくなっているはず。そんな想像をしながら、醤油煎餅をガリガリ、バリバリと音を鳴らしながら食べている自分がなんだか滑稽で、ひとりで少し笑った。

 黙々とキーボードを叩き、最後、部長宛のメールに田村君作成の、私が修正を加えたデータを添付して送信。やっと、全部終わった。
 
 スマホを見ると、今の時刻は22時35分。思わず、手が止まる。

 あの時、電話が来たのはこの時間だった。そう気付いたら、全身の血がさぁっと引いていく感覚に襲われる。思わず頭を伏せる。手が微かに震える。何年経っても、この日の、この瞬間は、つらい。

 もう一度スマホを見る。22時36分。もう帰りのバスはない。

 私が暮らすアパートは、会社から徒歩25分のところにある。いつもなら自転車通勤だが、今朝は雨が降っていたのでバスで来た。だから帰りもバスで帰りたかったが、仕方ない。

 今から走れば、まだ十分今日中には帰って夕食を食べられる。スマホを制服のポケットに捩じ込んで、イヤホンを耳から外して会社を出た。意を決して走り出す。

 走るのなんて久々だ。息が切れる。辺りは街灯と、車のライトくらいしか灯りがない。走りながら、なんだか景色が白黒だなと思う。疲れているせいで、目が霞んでいるだけかもしれない。
 
 会社と、私が暮らすアパートを繋いでくれている大田原橋が見えた。この橋を渡り切れば、もう少しだと思える。走れ走れ。一生懸命前に進んでいると、視界の中に、橋の上の街灯にぼんやりと照らされた黒い人影のようなものが見えた。見間違いかと思い走るスピードを少し緩めてよく見ると、その影は確かに人で、橋の欄干の外側に経っていた。

 私はギョッとして、その人影に声が届くくらいの場所で足を止めた。
 
 「はぁ、はぁ、あの、はぁっ、何、してるんですか」

 息も切れ切れで、喉もカラカラで上手く声が出ない。言ってから、心臓がはち切れるぐらいドカドカしていて、両手を膝についた。はぁ、はぁ、肩が呼吸に合わせて大きく揺れる。

 普段なら橋の上の人影を見ても絶対に素通りしているはずだった。でも、今日だけは。いや、ただ疲れているせいもあるかもしれない。

 黒い影はゆっくり動いて、白い顔が見えた。

 「僕に、話しかけてますか」

 その声と話し方を聞いて、再びギョッとした。髪が首元を覆うまで長くて身体の線が細いからてっきり女の人かと思ったけれど、声は私よりもずっと低くて少し掠れていた。完全に、男の人だった。

 予想外すぎて、今すぐこの場から走って逃げ出そうかと一瞬迷うと、男の人は「あれ、違う?」と小首を傾げる。そのどこか柔らかな仕草が、何処か懐かしく感じられて私は咄嗟に走り出すことはできなかった。

 「……あなたに、はぁ、話しかけ、はぁ……っ、ました」

 「はあ……なにか?」

 なにか、と言われれば、この状況で訊くことはひとつだよなあと思う。胸に手を当てて、なんとか呼吸を落ち着かせようとする。でも、なかなか呼吸が整わない。そんな自分に段々と焦ってきて、余計に息が上がる。

 そんな様子の私を、男の人は不思議そうにじっと見つめている。