姉の死で一度破滅した世界は、思った以上に私に生きる意味を失わせた。心臓や脳の機能が半分停止したみたいに、これまで普通に送っていた生活を続けることができなかった。仕事も何日も休んだし、食事も睡眠も何もかもが“普通に”できなかった。姉の真似事をしていたのはその頃だったから、あの時の私は確かに狂っていたと思います。

 姉の四十九日を過ぎて、姉が死んだことがぼんやりと現実味を帯びてきました。津波みたいに押し寄せていた姉を失ったという喪失感が少しだけ引くような、不思議な感覚だった。けれど、波が引いたそこに残ったのは、傷と、怒りと、憎しみでした。

 「姉を騙し、妊娠させた男を私は恨みました。そんな男に出会わなければ、騙されなければ、姉は死ななかったのにと思ったんです。けれど、姉は死ぬ前に両親に対して、どうか彼だけは責めないでほしいと懇願したそうです。両親は、それが姉の最後の願いだったのだと言い、その男への憎しみに蓋をして、私にも何もするなと言いました。私には、両親はただ世間体を気にしているようにしか見えませんでした」

 私は、そんな聞き分けのいいことは出来ません。姉と不倫した男を調べて、会社と住所を特定しました。

 そして、その男の妻が妊娠していることも知りました。もう時期臨月を迎えるという。これはあくまで想像ですが、その男は、家で片付けられない欲求を姉で満たしただけ。姉は、ただ利用されただけだったのだと思う。

 あの柔和で穏やかな、誰も責めることをしなかった姉が死のうとした時、どれだけ孤独な気持ちだっただろう。愛する人から騙され、家族にも咎められたとき、姉は、何を考えていたのだろう。

 私は、男を殺してやろうと思った。

 「でも、皮肉なもので、私も幼い頃とは変わった部分があって、学生の頃のように衝動に走ることができなかったんです」

 男が住むマンションに向かうまでの電車に乗っている間、私は鞄に入れた包丁を見ながら、何をしているんだろう、次の駅で降りて帰らなきゃと思うと同時に、殺してやろうと考えている。頭の中で自分自身が警告するけれど、気持ちがそれを許さない。理性が保てていない状態であることは確かだった。

 なのに、その時は殺しませんでした。それどころか、男の真正面に立つこともしなかった。

 「憎くて憎くてたまらなくて、男を殺してもきっと後悔はしないと思っていました。でも、笑っちゃうんですけど、行き慣れない東京で道に迷いに迷って、その男のマンションに辿り着くまで結構時間がかかったんです。そんな自分がどこか滑稽で、私はなんでこんなことをしているんだろうと考えたとき、もしかすると、私はただ八つ当たりをしに来ただけなのかもしれないと思いました」