―――

 今日は、早く帰りたい。そう思いながら、刻々と針を進める壁掛け時計に視線を向けると、21時半を過ぎようとしている。

 今日は大量の請求書チェックの日だったから、定時で帰れないことはほぼ確定していた。けれど、仕事はもともと予定していた業務以外にイレギュラーなことが私の都合とは関係なく飛び込んでくることがある。それが、不運にも今日だった。

 きのこ栽培と販売を行っている林田株式会社に入社して6年が経過し、私は今も新入社員の教育係。今年の新人である田村君が入社して8ヶ月が経過したが、正直成長が乏しい。私たちの部署は営業事務なので社内外からの電話が鳴るが、電話対応に自信がないのかまず取らない。仕事の説明をしてもメモも取らないからか、私が説明した業務内容が彼の仕事に反映されない。

 そんな田村君は、私が教育した新人の中で5人目となる。新入社員は毎年1名入ってきたが、1年経たずに辞めていった。
 
 新人が辞めていくのは私の教育がなっていないからだと権田係長は、他の社員の前で私を説教する。いつも言っているだろう、やって見せ、言って聞かせ、させてみせ、ほめてやらねば人は育たぬって。な?人件費かかってるんだからさぁ。
 
 権田係長の言うことは理解できる。でも、そうだったとしても、私は新人が辞めていく理由に権田係長が強く関わっていることを知ってる。パワハラと、セクハラ。
 
 この4年間で入社した新人はみんな女子で、権田係長は平気で体形や容姿のことを言う。『もっと食べないと付くとこに付かないぞ』『女芸人の誰々に似てるな』と、挨拶するみたいに何の澱みもなくそんな言葉がポロポロと出てくる。それに加えて、休日の過ごし方や恋人の有無など根掘り葉掘り聞くし、仕事のこととなれば自分の拘りを押し付ける。社員がどれだけ困っていようが『成長の為だ』と言いフォローはしない。そんなのが事務所で偉そうにふんぞり返っているのだから、辞めたくなる気持ちは十分理解できる。
 
 それに、勤続年数15年なのに仕事内容と立場が全く変わらないまま偉そうな顔をしている峰越さんも、新人が入ると必ずと言っていいほど“使えない”悪口を言う人だ。一年目の新人が使えないことなんて当たり前ではないかと思うが、彼女にとって“使える”の基準は、“私の機嫌取りができるか”ということで振り分けられているので、仕事ぶりというより、差し入れのお菓子を持ってくるかとか、自分より年上や男性社員と峰腰さん以上に親しげに話さないようにするとか、そんなことが重要視される。

 そんな社員がいるこの会社で、私が新人の精神的ケアにどれだけ勤しもうが、それは意味をなさない。私ひとりで立ち向かえるはずはない。

 だから、彼女たちにはここが嫌でつらかったら辞めた方がいいと伝えた。すると、彼女たちは辞めて行った。あのふたりに正しさを伝えたところでもう変わらないから、それでよかったと思う。

 私も私だ。セクハラやパワハラに“慣れたから"と平気な顔を取り繕って、彼女たちの困り感を聞いてやるだけで何もしない。一番悪いのは、ただ傍観しているだけの私なのだと思う。ただやはり、あのふたりに私ひとりで立ち向かうパワーは、ない。

 しかし、田村君はこの5年で初めての男子新入社員。権田部長の嫌味がいまいちピンと来ないのか言われても乾いた笑いで受け流し、峰越さんには何故か気に入られていて、ミスをしたらうっかりさんで可愛いと言われている。一度、彼が休日に家族と行ったという福島県名物の焼き菓子を差し入れで持ってきた時は“若いのになんて気が利くのだろう”と褒めちぎっていた。そんな人材は今までいなかったので、ある意味とても貴重だ。ただ、仕事のミスをしながら必ず定時きっかりに退勤するところは、一体何を考えていたらそうできるのだろうと不思議に思う。

 今日も今日とて、先週頼んだ資料が上がってこないので確認したら作ること自体忘れていたという。それが判明したのは16時。来週には営業が取引先へのプレゼンで使用する資料なので、後回しにはできないから私も自分の仕事は止めて手伝った。しかし、田村君は大切な用事があるからと言って、私に申し訳なさそうな顔を向けて定時で上がっていった。

 その後、部長から他に田村君が作成した資料のミスの指摘と取引先からも発注数の間違いの指摘が入った。その修正は、教育係の私が行わなければならないのであり、全てのミスは教育係の私の責任らしい。このミスは、もっと私が田村君という人物を理解し、先手を打って常に彼の仕事状況の進捗を確認して、彼が『できました』と言ったものには必ず一度は目を通さなければならないと、権田係長は私を叱責した。

 田村君に一度連絡したが繋がらず、今でも折り返し連絡はない。大事な用事と言っていたから、電話に出られないのは仕方がないのかもしれない。

 私自身も決して要領が良いわけではないので、田村君の指導とフォローで失った時間を必死に取り戻そうとしたが、結局これだ。今日は金曜日だから、ミスを来週に持ち越すわけにもいかない。

 「今日は、早く帰りたかったのになぁぁ」

 誰もいない事務所で、ひとりごちる。誰もいないから、ちょっと大きな声で語尾を余計に伸ばして言ってみても、誰の目線も痛くない。残業中はイヤホンをつけて音楽を聴きながらすると孤独が紛れて良い。昼間じゃ絶対出来ないような姿勢で椅子の背もたれに寄りかかって、イヤホンを指先でトントンと叩きながら自分で作ったプレイリストの中から今の気分の曲を探す。