「……へ?」

 一人残されたシャーロットは、呆然と立ち尽くす。

(失敗した……? でも、あんなに驚いた顔してたのに……)

 鍋に残ったトマトソースを指ですくい、ペロリと味見をする。トマトの旨味は十分に引き出せているはず。味付けも悪くない。

(一体、何が……)

 不安に駆られていると、ドタドタと激しい足音が近づいてきた。

 バタン!

 勢いよくドアが開き、ガンツが飛び込んでくる。両腕いっぱいに、様々な種類のトマトを抱えて――――。

「お嬢ちゃん!」

 老人の顔は、まるで少年のように輝いていた。

「これは甘みが強い! こっちは酸味のバランスがいい! あと、これは試験的に作った品種でな……」

 テーブルの上に、次々とトマトを並べていく。

「多分、味の濃いトマトの方がきっともっと美味いはずだ。いくつか持ってきたから、これで試してくれんか? な?」

 瞳をキラキラと輝かせながら、ガンツは身を乗り出した。

「え? じゃあ、譲っていただけるんですね?」

「もっちろんじゃ!」

 ガンツは大きく頷いた。

「トマトが、こんなに……加熱したら甘みが増して、でも酸味も活きて、全体がまとまって……こんなに美味くなるとは!」

 感極まった様子で、老人は続ける。

「嬢ちゃん、わしは二十年以上トマトを作ってきた。でも、こんな食い方があったとは知らんかったぞ!」

「これはほんの一例です」

 シャーロットも興奮気味に答える。

「トマトは煮込み料理にも、スープにも、ソースにも使えます。グラタンに入れても美味しいし、肉と一緒に煮込めば最高のご馳走に……」

 その情熱的な説明に、ガンツは何度も深く頷いた。

「そうじゃろう、そうじゃろう! じゃから、加熱に合いそうなトマトを見繕ってきたぞ。これで試してみぃ!」

「あ、ありがとうございます!!」

 感激のあまり、シャーロットは思わずガンツの手を握った。

 (しわ)だらけで、土の匂いのする、働き者の手。二十年間、理解されなくても、トマトを作り続けてきた手。

「おう! いっぱい育ててやっからな! 任せたぞ!」

 ガンツはニカッと笑って固い握手を交わす。

 こうして、シャーロットは良質なトマトの安定供給先を確保しただけでなく、トマトへの情熱を共有する、かけがえのない仲間を得たのだった。

 この出会いが、ローゼンブルクの町の食文化を大きく変える第一歩となることを、まだ誰も知らない。

 窓の外では、トマトたちが陽光を浴びて、まるで祝福するかのように赤く輝いていた。


       ◇


 その頃、魔の森の最深部――――。

 魔王城の最上階、黒曜石で造られた玉座の間で、魔王ゼノヴィアスは深い憂鬱(ゆううつ)に沈んでいた。

 巨大なアーチ窓から見下ろせるのは、どこまでも続く原生林の海。紫がかった霧が立ち込め、時折、魔獣の遠吠えが響いてくる。

 五百年を超える歳月を生きてきた魔王。しかし、その姿は人間でいえば二十代半ばといったところだろうか。

 艶やかな黒髪は肩まで流れ、切れ長の瞳は深い紫色をしている。高い鼻梁、整った顎のライン――人間界にいれば、間違いなく女性たちが群がるような美貌の持ち主だ。ただ、額から生えた漆黒の角だけが、彼が魔族であることを物語っていた。角は僅かにカールし、まるで王冠のような威厳を放っている。

 コンコン。

 重厚な扉を叩く音が、静寂を破った。

「魔王様、お食事の時間でございます」

 扉の向こうから、恭しい声が響く。

「呼ばずとも良い!」

 ゼノヴィアスは玉座から立ち上がることもなく、苛立たしげに声を荒げた。切れ長の瞳が、一瞬だけ赤く光る。

 しかし、扉はゆっくりと開かれた。

 入ってきたのは、山羊の頭を持つ老執事バフォメット。燕尾服を完璧に着こなし、白い手袋をはめている。三百年以上、この城に仕えてきた忠実な部下だ。

「そうは参りません」

 バフォメットは胸に手を当て、深く一礼する。しかし、その声には毅然とした響きがあった。

「魔王様が食事内容を確認されませんと、厨房の者たちが困ります。『今日の料理は魔王様のお気に召さなかったのではないか』と、皆、不安に駆られるのです」

「ふんっ!」

 ゼノヴィアスは不愉快そうに鼻を鳴らしたが、それ以上反論はしなかった。

 バフォメットが手を叩くと、小悪魔たちがぞろぞろと入ってくる。赤い肌に小さな翼を持つ彼らは、必死に重そうな料理を運んでいた。

 銀の大皿には、香草をまぶした子鹿の丸焼き。琥珀色のソースが艶やかに照り、香ばしい匂いが漂う。

 深い鍋には、魔界でしか採れない紫色の根菜と、魔獣の肉をじっくり煮込んだシチュー。表面には油が浮き、スパイスの刺激的な香りが立ち上る。

 他にも、血のように赤いワイン、黒いパン、得体の知れない果実……どれも、人間界では決して見ることのできない料理ばかりだった。