息を切らしながら追いついたシャーロットの前で、女神は巨大な木製のドアを開けた。

 パシュー!

 瞬間、別世界が広がる――――。

「えっ……?」

 そこは、宇宙空間から一転して――驚くほど普通のオフィスだった。

 いや、普通というには洗練されすぎている。

 深い色合いの木製家具が落ち着いた雰囲気を醸し出し、大きな観葉植物――フィカスやモンステラが生き生きと葉を広げている。そして何より、鼻腔をくすぐる芳醇なコーヒーの香り。

(ここが……全宇宙の地球たちを管理する場所?)

 想像していたような、冷たい機械に囲まれた空間ではない。
 むしろ、シリコンバレーの最先端IT企業のような、創造性を重視した空間設計。

 広々としたワークスペースで、十数人のスタッフが思い思いの場所で作業をしている。彼らの前には、虚空に浮かぶ複数のホログラフィックディスプレイ。指先が優雅に舞うたび文字列や図形が踊るように変化していく。

(まこと)ぉ!」

 女神が、奥の方で作業している男性に声をかけた。

「新人連れてきてやったぞ!」

 しかし――。

 大きなヘッドホンを装着した男性は画面に向かって小刻みにリズムを取りながら、完全に自分の世界に没頭している。

 女神の眉がぴくりと動いた。

 手近のティッシュボックスを掴む――――。

 パァン!

 容赦ない一撃が、男性の後頭部に炸裂した。

 ゴハッ!

 男性はつんのめり、慌てて頭を押さえながら振り返る。

「ちょっと何すん……」

 怒りの言葉が、相手を認識した瞬間に変わった。

「あ、美奈ちゃん……」

 まるで悪戯を見つかった子供のような表情。

「あんたねぇ、呼んだら応えなさいよ!」

 美奈は腰に手を当て、まるで姉が弟を叱るような調子で言う。

「あ、ごめんごめん……」

 誠と呼ばれた男性は、人懐っこい笑みを浮かべながら頭を掻いた。

 アラサーくらいだろうか。ラフなTシャツにジーンズという格好で、IT企業によくいるタイプのエンジニアに見える。

 その時、彼の視線がシャーロットを捉えた。

「って、誰……?」

 好奇心に満ちた瞳で、じろじろと観察してくる。

「ああ、彼女はね」

 美奈が面倒くさそうに肩をすくめる。

「『何でもやる』んですって。だから、こき使ってやって」

 まるで荷物でも押し付けるような言い方。

「えっ!」

 誠の顔に困惑が広がった。

「ちょっと待ってよ。彼女、何ができるの?」

「ほら!」

 美奈はグイッとシャーロットの背中を押した。

「自分で説明して!」

「あっ!」

 前につんのめりそうになりながら、シャーロットは慌てて口を開く。

「え、えぇとですね……前世は製薬会社で研究員をしていまして……」

 必死に、少しでも役立ちそうな経歴をアピールしようとする。でも、この宇宙規模の職場で、製薬会社の経験が何の意味を持つのか――?

「製薬? バイオ系?」

 誠が興味を示した。

「ITの経験は?」

「あ、ITは……」

 シャーロットの声が急速にしぼんでいく。

「EXCELやWORDが使えるくらいで……」

 言った瞬間、自分でも恥ずかしくなった。

「ん~」

 誠は顎に手を当てて考え込む。

Python(パイソン)は使える?」

「へ?」

 シャーロットは目をぱちくりさせた。

「パ、パイソン……ですか?」

 蛇? いや、違う。きっとプログラミング言語か何かだ。
 額に冷たい汗が浮かぶ。自分がいかに場違いな存在か、痛感させられる。

「ちょっと美奈ちゃん」

 誠が泣きそうな顔で女神を見る。

「ド素人押し付けられても……」

「うるさいわね!」

 美奈がピシャリと言い放った。

「この子、『役立たなかったら死ぬ』って言ってんのよ? その命がけの熱意を活かすのが、あんたの仕事でしょ?」

 恐ろしい言葉なのに、どこかフォローするような響きもある。

「えぇーーっ!」

 誠は大げさに天を仰いだ。

「きょ、教育から始めるってこと? そんな暇ないんだけど……」

「何よ! 文句あんの?」

 美奈がずいっと顔を近づける。

「いや、文句っていうか……」

「この宇宙の最高神のお願いを、断るっての?」

 琥珀色の瞳が、危険な光を宿す。

「いや、俺じゃなくてもよくない? もっと教育係に向いてる人が……」

「ぐだぐだ言わない!」

 美奈は誠の言い訳を一蹴した。

「任せたわよ!」

 パン!

 誠の肩を、励ますように、でも逃げられないように叩く。