角を二つ曲がり、メインストリートから少し入った静かな通りで、マルタは立ち止まった。

「ここよ」

 マルタが指差した先で、シャーロットは息を呑んだ。

 二階建てのクリーム色の建物が朝の陽光の中、静かにたたずんでいたのだ。

 正面には可愛いアーチ型の大きな窓が三つ並んでいて、かつては町の人々で賑わっていたであろう温もりが、今も残っているような気がした。

 入口は重厚な(とち)の木の扉で、色ガラスで小さな花模様の小窓があり、二階には白い木製の鎧戸がついた窓が四つ。一番右端の窓の下には小さなバルコニーがあり、そこだけ濃い緑の蔦が優雅に絡まっている。

 しっかりとした灰色の石造りの土台は、何十年もこの町の風雪に耐えてきた風格があった。

「前はパン屋だったんだけどね。店主が年で引退して、もう半年も空き家なの」

 マルタの声には、一抹の寂しさが混じる。

「素敵……」

 シャーロットは、まるで恋に落ちたように建物を見つめた。

 頭の中で、既に夢が形を成し始めている。窓際には、陽だまりのような温かいテーブル席を。入口には、手書きの可愛い看板を。二階の窓からは、ハーブの鉢植えを吊るして……。

「中も見る? 大家は私の古い友人でね、鍵を預かって……」

「ぜひ!」

 かぶせてくるようなシャーロットの即答に、マルタは優しく微笑んだ。

 重い木の扉を開けると、埃の舞う光の筋が現れた。でも、その埃っぽさも、シャーロットには素敵な物語の始まりの予感に思える。

 中は予想以上に広い。床は年季の入った木製で、歩くたびに優しい音を立てる。厨房も、かつてのパン屋の設備がしっかりと残っていて、少し手を加えれば十分使えそうだ。

「裏庭もあるのよ」

 マルタに案内されて裏口から出ると、小さいけれど陽当たりの良い庭が広がっていた。

 シャーロットは、そこに広がる可能性を見た。ローズマリー、タイム、バジル……新鮮なハーブを摘んで、すぐに料理に使える。小さなテーブルを置けば、天気の良い日は外でもお茶を楽しめる。

「どう? 気に入った?」

 マルタの問いに、シャーロットは振り返った。

「はい! ここに決めます!」

 その顔には、十数年ぶりに見せる、心からの笑顔が輝いている。

「あら、即決?」

「ええ。もう、ここしかないって感じがするんです。まるで、この建物が私を待っていてくれたみたいに」

 マルタは一瞬驚いた顔をした後、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。

「そう、それなら良かった。大家のトーマスも喜ぶわ。彼、この建物を大切に使ってくれる人を探してたから」

 その日のうちに、とんとん拍子で話は進んだ。大家のトーマスは、人の良い老紳士で、シャーロットの熱意をいたく喜んでくれた。

「若い人がこの町で夢を叶えようとしてくれるなんて、嬉しい限りじゃなぁ」

 思っていたより遥かに安い家賃に驚くシャーロットに、トーマスは優しく言った。

「町に活気が戻るなら、それが一番の家賃じゃよ」

 宿に戻ったシャーロットは、ベッドに寝転がって天井を見上げる。

 木目の美しい天井。王都の豪華な屋敷とは違う、素朴だけれど温かみのある部屋――――。

「明日から、頑張らなくっちゃ……」

 やることは山ほどある。掃除、修繕、家具の調達、食器に調理器具の準備、メニューの考案……でも、そんな大変なことにワクワクしてしまうのだった。

 十数年間眠っていた何かが、ゆっくりと目覚め始めているような感覚。体の奥から、生きる力が湧き上がってくる。

「お店の名前は何にしようかしら……」

 シャーロットは、子供のようにウキウキしながら考える。

「『金のたまご亭』……いえ、ちょっと大げさね。『幸せの黄色いスプーン』……可愛いけど、長すぎるわ」

 ごろんと寝返りを打ち、窓の外を見る。

 傾いてきた太陽が町を優しいオレンジ色に染めている。まるで、大きな日溜(ひだま)りに包まれているような、温かい光景。

「……そうだわ」

 シャーロットの顔が、ぱっと輝いた。

「この町の温かさ、この光……『ひだまり』……そう、カフェ『ひだまりのフライパン』!」

 声に出してみると、しっくりくる。温かくて、親しみやすくて、ちょっとユーモラスで。まさに、自分が作りたい店のイメージそのもの。

「うん、いい名前だわ!」

 シャーロットは幸せそうに微笑んだ。

 明日から、本当の意味での新しい人生が始まる。誰のためでもない、自分のための人生が。そして、この町の人々に、美味しい料理と温かい時間を提供できる、【ひだまり】のような場所を作るのだ。

「どんなメニューにしようかしら……。ハンバーグ、パスタ? あの可愛いお店に似合うのは……オムライス? オムライスの黄色は『ひだまりのフライパン』っぽいかも!? ふふっ。そしたらインテリアは……」

 アイディアがどんどんあふれ出してきて止まらない。

 窓の外では、ローゼンブルクの穏やかな夜が更けていく。どこかで(ふくろう)の鳴く声が、まるで祝福の歌のように響いている。

「うーん、なんて幸せなのかしら! 明日が待ち遠しいわ!!」

 満天の星々の下、シャーロットは希望に満ちた幸せな気持ちで目を閉じる。

 夢の中でもう、『ひだまりのフライパン』には、たくさんのお客様の笑顔が溢れていた。