男はゆっくりと、スプーンを手に取る。

 一口――――。

 フードの奥で、小さく息を呑む音がした。

 そして、昨日よりも落ち着いて、でも一口一口を大切に味わうように食べ始めた。

 シャーロットは、その様子をそっと見守った。

 ルカも、皿洗いの手を止めて、固唾を呑んで見つめている。

 やがて――――。

「……美味い」

 低い声が、静かに響いた。

 たった一言。

 でも、その言葉には昨日よりも深い何かが込められていた。

 シャーロットの頬が、薔薇色に染まる。

「ふふっ。良かった」

 窓の外では、夕陽が完全に沈もうとしている。


         ◇


 空になった皿を前に、ゼノヴィアスは放心したように座っていた。

 まるで、美しい夢から覚めたくない子供のように。

 シャーロットは、そっと空になったグラスを手に取った――――。

 グラスに注ぐ水の音が、静かな店内に心地よく響く。

「どうぞ」

 優しく差し出されたグラスを、ゼノヴィアスはぶっきらぼうに手に取った。冷たい水が喉を通り、ようやく現実に戻ってきたようだ。

「カフェは……、あまり行かれないんですか?」

 シャーロットが柔らかく尋ねる。

「こ、ここが……」

 ゼノヴィアスの声が震えた。

「初めて……だ」

 その告白に、シャーロットの目が優しく細められた。

「ふふっ、そうだったんですね」

 彼女は嬉しそうに微笑んだ。

「カフェって、いいところでしょう? これからカフェ巡りをされてもいいかもしれませんね」

 明るく提案するシャーロットだったが――――。

「わが国には……カフェなどない」

 低い声には、どこか寂しげな響きがあった。

「え?」

 シャーロットは目を丸くした。

「カフェが……ない?」

「そうだ」

 ゼノヴィアスは深くため息をついた。

「こんな洒落た文化など……我が国にはない。そういう……国なのだ」

 言葉の端々に、何か複雑な感情が滲んでいる。

「ふぅん……」

 シャーロットは首を傾げた。そして、無邪気に続けた。

「その国の王様は、何を考えているのでしょうね? こんな素敵な場所を作らないなんて……」

 ブッ――――。

 ゼノヴィアスが飲みかけていた水を吹き出しそうになった。

 ゴホッゴホッ!

 激しくむせる。

(まさに、その王が俺なのだが……)

 だが、そんなことは言えるはずもない。それにどんな言葉も自分への批判にしかならない。五百年の治世で、カフェなど興味すら持たなかった自分への。

「だ、大丈夫ですか?」

 シャーロットが心配そうに背中をさする。またしても、あの温かい手が。

「カ、カフェについて、ここで勉強させてもらおう……」

 苦し紛れにゼノヴィアスは呟いた。

「ふふっ、ぜひ!」

 シャーロットは満面の笑みを浮かべた。

「お国にも、カフェを広めてくださいね」

「あぁ……」

 ゼノヴィアスは苦笑した。

 魔王がカフェを作る。想像するだけで、部下たちの困惑した顔が目に浮かぶ。

 でも――――。

(悪くない、かもしれない)


     ◇


 やがて、ゼノヴィアスは立ち上がった。

 今日も金貨を置こうとして、先払いしたことを思い出し――ふと、足を止めた。

「お、お前……」

 振り返り、シャーロットを見つめる。

「何か欲しいものは、ないか?」

「シャーロットです」

「え……?」

 ゼノヴィアスは戸惑った。

「『お前』じゃなくて」

 シャーロットは少し頬を膨らませた。可愛らしい抗議の表情。

「私の名前は、シャーロット。覚えてくださいね?」

 その瞬間、ゼノヴィアスの時が止まった。

 シャーロット――――。

 その名前が、深く深くゼノヴィアスの心に刻まれる。

「シャ……シャーロット……」

 恐る恐る、その名を口にする。まるで、壊れやすい宝物を扱うように。

「いい……名だ」

 心からの賛辞だった。ありふれた名前、でもなぜか美しい響きが心にしみてくる。

「ありがとうございます」

 シャーロットは嬉しそうに微笑んだ。

 そして――――。

「お客さんは?」

「え?」

「お客さんのお名前ですよぉ」

 にっこりと笑いながら、シャーロットはゼノヴィアスを見上げる。

 ゼノヴィアスは困った。

 魔王ゼノヴィアス。その名を名乗れば、全てが終わる。この温かい時間も、この優しい笑顔も――――。

 だが、偽りの名を告げることもできない。偽名を騙るなど魔王としてのプライドが許さないのだ。