辺境(へんきょう)への道のりは長い。揺れる馬車の中で、シャーロットは過去を思い返していた。

 前世の記憶が蘇ったのは八歳の時。高熱にうなされ、生死の境を彷徨った末に思い出したのは、平凡なOLとしての人生と、『聖女と五つの恋』というゲームの内容だった。

(まさか自分が悪役令嬢に転生してるなんて……しかも、最後は処刑される運命だなんて)

 最初は絶望した。だが、シャーロットには武器があった。前世の知識――特に、基本的な衛生観念と科学の知識だ。

 王都の不衛生な環境を見て、彼女は決意した。解決策を知っている以上人々の役に立とうと。

 しかし、シャーロットは決して表に出ないように気を配る。「古い書庫で見つけた文献に書いてあった」と嘘をつき、手柄は全て他人に譲った。

(だって、目立ったら悪役令嬢として目をつけられるもの。地味に、目立たず、でも確実に)

 シャーロットの最大の功績は、やはり抗生物質の開発だった。

 思い出すだけで、背筋が寒くなる。

 十五歳の冬、王都で猩紅熱(しょうこうねつ)が流行した。子供たちが次々と倒れ、既存の薬では太刀打ちできない。シャーロットは決意した。前世の知識にあったペニシリンを作ると。

 問題は材料だった。青カビ――正確にはペニシリウム属の特定の菌株が必要だが、どれが正しいものか、見た目だけでは判断できない。

 シャーロットは公爵家の地下室を改造し、秘密の実験室を作る。そして、ありとあらゆる青カビを集めては、培養と抽出を繰り返した。

 夜中、皆が寝静まった後。シャーロットは一人、地下室に降りる。蝋燭(ろうそく)の明かりだけを頼りに、危険な実験を続けた。

 何度も失敗した。カビの胞子を吸い込んで倒れそうになったことも、抽出液で手を荒らしたことも数知れない。それでも諦めなかった。

 そして、ついに――――。

「できた……」

 震える手で持ち上げた小瓶の中には、透明な液体が入っていた。動物実験で効果を確認し、ごく少量を自分でも試した。前世の記憶通りの効果だった。

 だが、シャーロットは気づいていた。この薬を公にすれば、必ず疑われる。なぜ公爵令嬢がこんな薬を作れるのか、と。

 だから彼女は、「祖母から教わった民間薬」として、こっそりと流通させた。重篤な患者の家族に、「効くかもしれない」と言って渡す。代金は受け取らない。ただ、「誰から貰ったかは内緒に」とだけ頼む。

 奇跡は起きた。死の淵から生還する子供たち。「天使様の薬」と呼ばれるようになったそれは、口コミで広がっていった。

 だが、製造できるのはシャーロット一人だけ。毎晩毎晩、地下室にこもって薬を作る日々。誰にも頼れない。誰にも打ち明けられない。

(本当に、孤独だった……)

 思えば前世でも研究所で毎晩遅くまで実験に明け暮れ――みじめに過労で死んでいたのだった。転生しても同じとは全く進歩がない。

 でも――――。

 これからは違う。【スローライフ】――そう、ゆったり穏やかに笑顔の中で暮らすのよ。ゆったり穏やかに、笑顔に包まれて――――。

 馬車が大きく揺れ、シャーロットは現実に引き戻された。

 御者が声をかける。

「お嬢様、そろそろ宿場町に着きますよ」

「ありがとう」

 シャーロットは微笑んだ。過去は過去だ。これからは、誰のためでもない、自分のための人生を生きるのだ。

 宿場町の宿で一泊し、翌朝再び馬車に乗る。持参した金貨を数えてみるがかなりの額だ。この日のために無理して溜めて来たお金――小さなカフェを開くには十分すぎる。

「ふふ、何を作ろうかしら。オムライス? ハンバーグ? それともケーキ?」

 前世の記憶にある料理の数々を思い浮かべ、シャーロットは頬を緩める。この世界にはない食べ物でみんなを笑顔にする――なんて幸せなのだろうか。

 もう、誰かのために隠れて働く必要はない。
 もう、危険な実験に身を晒す必要もない。
 もう、孤独に耐える必要もない。

 これからは、太陽の下で、堂々と生きていける。

「ああ、早く着かないかしら、辺境(へんきょう)の町!」

 シャーロットの瞳は、希望で輝いていた。