ふぅと大きく息をつくと男は立ち上がり、懐から金貨を取り出す。
「悪くなかった……」
ぶっきらぼうな言葉。でも、シャーロットには分かった。それが、この人なりの最大級の賛辞だということが。
「おそまつ様です……」
男は無言でうなずき、古びた金貨をテーブルに置いて足早に出口へ向かった。
「へっ!? あの!」
シャーロットが慌てて呼び止める。
「金貨一枚は……多すぎます」
金貨であれば百皿分くらいの価値になってしまうのだ。
男は足を止める――――。
「もらっておけ。それだけの価値は……あった」
最後の言葉は、まるで自分でも信じられないというような、不思議な響きを持っていた。
「でも……」
いくら『もらっておけ』と言われても、百倍はもらいすぎなのだ。
「なら……」
男は少し考えて――――。
「先払いだ」
「先払い?」
「また来る」
それは宣言だった。そして何より――五百年ぶりに見つけた、温かい場所への帰還の誓いだった。
カランカランとベルを鳴らしながら男は去っていく――――。
「あ、ちょっと……」
追いかけて店の外に出たシャーロットだったが――、もう男の姿はなかった。
「あ、あれ……?」
まるで消えてしまったかのような不可思議な事態を理解できず、シャーロットはその場に立ち尽くす。
(不思議な人……)
でも、怖くはなかった。
むしろ、あの一瞬見えた瞳の奥の孤独が、胸に突き刺さって離れない。
(また来る……)
その言葉を反芻する。
きっと来る。あの人は必ず。
なぜなら――――。
(あの人も、温もりを求めているから)
シャーロットは目を閉じて金貨を胸に抱きしめた――――。
◇
片付けをしながら、シャーロットは今日という日を振り返る。
朝の不安が嘘のような、充実した一日。
トムの太陽のような笑顔。
ルカの真っ直ぐな情熱。
そして――冬の旅人。
全てが愛おしく、全てが必然だったような気がする。
「明日も、頑張ろう」
明日も、きっと素敵な出会いが待っている。
◇
魔王城の巨大な門が、主の帰還を察知して音もなく開いた。
ゼノヴィアスは足早に玉座の間を通り過ぎ、自室へと向かう。いつもなら下僕たちに威厳ある姿を見せつけるところだが、今夜は違った。
――動揺している。
五百年生きてきて、こんなにも心が乱れたことがあっただろうか。
「陛下、お帰りなさいませ」
執事長のバフォメットが深々と頭を下げる。だが、ゼノヴィアスはそれに応えることもなく、ただ手を振って下がらせた。
自室の扉を閉めると、ようやく大きく息をつく。
フードを脱ぎ捨て、鏡に映る自分の顔を見つめる。
――まだ、熱い。
背中に感じた、あの小さな手のひらの温度が、まだ残っている。
「馬鹿な……」
ゼノヴィアスは首を振った。
たかが人間の娘に触れられただけだ。それも、ただ咳き込んだ時に背中をさすられただけ。なのに――――。
(あんなに優しく触れられたのは、いつ以来だろう)
記憶を辿る。百年、二百年、三百年……いや、もっと前。母がまだ生きていた頃まで遡らなければならないかもしれない。
ふと、舌の上にまだ残る味を意識した。
あの赤いソースの甘酸っぱさ。とろけるチーズの濃厚さ。そして、全てを包み込む卵の優しさ――――。
「『王様オムライス』……、か」
呟いてみる。その響きさえも、どこか温かい。
コンコン。
扉を叩く音に、ゼノヴィアスは我に返った。
「陛下、夕餐の準備が整いました」
そうだ、魔王城には世界最高レベルの豪華な食事がそろっているではないか。人間界の小さなカフェの料理など、比べるまでもないはずだ。
急いで大広間へ向かうと、そこには目もくらむような御馳走が並んでいた。
黄金の皿に盛られた極上仔羊の香草焼き。
深紅のソースがかかった仔牛のステーキ。
宝石のように輝く果実の盛り合わせ。
三十年物のワインが注がれた水晶の杯。
どれも、人間の王でさえ簡単には口にできないという極上の品々。
ゼノヴィアスは席に着き、銀のフォークを手に取った。
一口――――。
確かに美味い。素材も調理も完璧だ。魔界一の料理人たちが腕によりをかけて作った最高級の料理。
だが――――。
(何かが違う)
もう一口。やはり違う。
美味いのだ。間違いなく美味い。しかし――、心に響いてこない。
あのオムライスを食べた時のような、全身に電気が走るような感動がない。魂が震えるような喜びがない。
「どうかされましたか、陛下」
バフォメットが心配そうに尋ねる。
「……いや、何でもない」
ゼノヴィアスは席を立った。
「今夜はもうよい」
「しかし、まだほとんどお召し上がりになって……」
「よいと言っている」
低い声に、バフォメットは慌てて頭を下げた。
「悪くなかった……」
ぶっきらぼうな言葉。でも、シャーロットには分かった。それが、この人なりの最大級の賛辞だということが。
「おそまつ様です……」
男は無言でうなずき、古びた金貨をテーブルに置いて足早に出口へ向かった。
「へっ!? あの!」
シャーロットが慌てて呼び止める。
「金貨一枚は……多すぎます」
金貨であれば百皿分くらいの価値になってしまうのだ。
男は足を止める――――。
「もらっておけ。それだけの価値は……あった」
最後の言葉は、まるで自分でも信じられないというような、不思議な響きを持っていた。
「でも……」
いくら『もらっておけ』と言われても、百倍はもらいすぎなのだ。
「なら……」
男は少し考えて――――。
「先払いだ」
「先払い?」
「また来る」
それは宣言だった。そして何より――五百年ぶりに見つけた、温かい場所への帰還の誓いだった。
カランカランとベルを鳴らしながら男は去っていく――――。
「あ、ちょっと……」
追いかけて店の外に出たシャーロットだったが――、もう男の姿はなかった。
「あ、あれ……?」
まるで消えてしまったかのような不可思議な事態を理解できず、シャーロットはその場に立ち尽くす。
(不思議な人……)
でも、怖くはなかった。
むしろ、あの一瞬見えた瞳の奥の孤独が、胸に突き刺さって離れない。
(また来る……)
その言葉を反芻する。
きっと来る。あの人は必ず。
なぜなら――――。
(あの人も、温もりを求めているから)
シャーロットは目を閉じて金貨を胸に抱きしめた――――。
◇
片付けをしながら、シャーロットは今日という日を振り返る。
朝の不安が嘘のような、充実した一日。
トムの太陽のような笑顔。
ルカの真っ直ぐな情熱。
そして――冬の旅人。
全てが愛おしく、全てが必然だったような気がする。
「明日も、頑張ろう」
明日も、きっと素敵な出会いが待っている。
◇
魔王城の巨大な門が、主の帰還を察知して音もなく開いた。
ゼノヴィアスは足早に玉座の間を通り過ぎ、自室へと向かう。いつもなら下僕たちに威厳ある姿を見せつけるところだが、今夜は違った。
――動揺している。
五百年生きてきて、こんなにも心が乱れたことがあっただろうか。
「陛下、お帰りなさいませ」
執事長のバフォメットが深々と頭を下げる。だが、ゼノヴィアスはそれに応えることもなく、ただ手を振って下がらせた。
自室の扉を閉めると、ようやく大きく息をつく。
フードを脱ぎ捨て、鏡に映る自分の顔を見つめる。
――まだ、熱い。
背中に感じた、あの小さな手のひらの温度が、まだ残っている。
「馬鹿な……」
ゼノヴィアスは首を振った。
たかが人間の娘に触れられただけだ。それも、ただ咳き込んだ時に背中をさすられただけ。なのに――――。
(あんなに優しく触れられたのは、いつ以来だろう)
記憶を辿る。百年、二百年、三百年……いや、もっと前。母がまだ生きていた頃まで遡らなければならないかもしれない。
ふと、舌の上にまだ残る味を意識した。
あの赤いソースの甘酸っぱさ。とろけるチーズの濃厚さ。そして、全てを包み込む卵の優しさ――――。
「『王様オムライス』……、か」
呟いてみる。その響きさえも、どこか温かい。
コンコン。
扉を叩く音に、ゼノヴィアスは我に返った。
「陛下、夕餐の準備が整いました」
そうだ、魔王城には世界最高レベルの豪華な食事がそろっているではないか。人間界の小さなカフェの料理など、比べるまでもないはずだ。
急いで大広間へ向かうと、そこには目もくらむような御馳走が並んでいた。
黄金の皿に盛られた極上仔羊の香草焼き。
深紅のソースがかかった仔牛のステーキ。
宝石のように輝く果実の盛り合わせ。
三十年物のワインが注がれた水晶の杯。
どれも、人間の王でさえ簡単には口にできないという極上の品々。
ゼノヴィアスは席に着き、銀のフォークを手に取った。
一口――――。
確かに美味い。素材も調理も完璧だ。魔界一の料理人たちが腕によりをかけて作った最高級の料理。
だが――――。
(何かが違う)
もう一口。やはり違う。
美味いのだ。間違いなく美味い。しかし――、心に響いてこない。
あのオムライスを食べた時のような、全身に電気が走るような感動がない。魂が震えるような喜びがない。
「どうかされましたか、陛下」
バフォメットが心配そうに尋ねる。
「……いや、何でもない」
ゼノヴィアスは席を立った。
「今夜はもうよい」
「しかし、まだほとんどお召し上がりになって……」
「よいと言っている」
低い声に、バフォメットは慌てて頭を下げた。



