「いらっしゃいませ」

 シャーロットは優しく微笑み、メニューを差し出した。

 マントの奥から、白い手が伸びてくる。

 月光のように白く、彫刻のように美しい手。けれど、その指の動きには、長い年月を生きた者だけが持つ重みがあった。

 指が、静かに一点を指す。

 ――『とろけるチーズの王様オムライス』

「かしこまりました」

 厨房へ向かいながら、シャーロットは不思議な感覚に包まれていた。

(この人のために、特別な一皿を作らなければ)

 なぜそう思ったのかよくわからない。でも、あの孤独な佇まいが、まるで「助けて」と言っているような気がしたのだ。

 卵を割る――いつもより慎重に、愛情を込めて。

 フライパンに流し込み、菜箸で優しく、まるで子守唄を歌うようにかき混ぜる。半熟の瞬間――それは魔法が生まれる瞬間――を見極める。

 その間、男は不思議な行動を見せていた。

 まるで、生まれて初めて「カフェ」という空間に足を踏み入れた人のように――――。

 指先でテーブルクロスの質感を確かめ、壁のタペストリーに描かれたヒマワリを穴が開くほど見つめ、風に揺れるレースのカーテンを、奇跡でも見るような目で追っていた。

(ふふっ、まるで、子供みたい)

 その無邪気な仕草に、シャーロットの心が温かくなった。

「お待たせしました」

 皿を置いた瞬間――――。

 男の全身がびくりと震えた。

 そして始まった、奇妙な儀式。

 まず、真上から観察。次に横から。匂いを確かめ、湯気の立ち方を見つめる。その必死さはまるで時限爆弾の解体をするかのようだった――――。

 やがて、震える手でスプーンを取る。

 最初の一すくい。真紅のケチャップをほんの少し。

 舌先に乗せた瞬間。

 彼の時が、止まった――。

 フードの奥から、かすかに震える吐息が漏れる。

 次に、オムレツにスプーンをスッと差し込み――ゆっくりと持ち上げる。とろけたチーズが、まるで金の糸のように伸びて――――。

「ほお……」

 それは感嘆か、驚愕か、それとも――――。

 一口。

 その瞬間、男の体に雷が走ったかのように見えた。

 刹那、まるで、五百年の飢えを一気に満たすかのように、むさぼり始めた。一口、また一口。砂漠で水を見つけた旅人のように、生まれて初めて「美味しい」を知った子供のように――――。

「うっ!」

 突然、動きが止まる。

 ゴホッ! ゴホッ!

 激しい咳。急いで食べ過ぎたのだ。

「大丈夫ですか!?」

 シャーロットは反射的に駆け寄り、その大きな背中をさすった。

 ――その瞬間。

 男の体が、石のように固まった。

(えっ?)

 戸惑いながらも、シャーロットは優しく背中をさする。掌に伝わるのは、鋼のような筋肉。長い戦いを生き抜いてきたかのような戦士の体。

 しかし、男も戸惑っていた。

 五百年もの間、誰も彼の背中をさすることなどなかった。病の時も、傷ついた時も、ただ一人で耐える。それが魔族の頂点として当たり前だったのだ。

 だから今、優しい手の温もりに、魔王ゼノヴィアスは完全に動揺していた。

 慌てて振り返る。

 フードがずれ、一瞬、顔が露わになった。

 シャーロットは息を呑んだ。

 彫刻のように完璧な顔立ち。けれど、その瞳にはまるで永遠の冬のような、深い孤独が宿っていた。

 二人の視線が絡み合う。

 ブラウンの瞳と、深紅の瞳。

 時間が止まり、世界が消え、ただ二人だけが――――。

 ゴホゴホゴホッ!

 激しい咳が、魔法のような瞬間を破った。

「あらあら……」

 シャーロットは我に返り、再び背中をさする。今度は、もっと優しく、もっと温かく。

「大丈夫、大丈夫ですよ」

 まるで、怯えた子供をあやすように。

 男は慌ててフードをかぶり直す。その手が、かすかに震えていることに、シャーロットは気づいていた。

「ひ、久しぶりの……食事だったものでな」

 絞り出すような声。五百年ぶりの動揺を、必死に隠そうとしている。

「久しぶり……?」

 シャーロットの胸が、きゅっと締め付けられた。

(この人は、どれだけ長い間、一人で……)

「お料理は逃げませんから」

 優しく微笑んで、もう一度、そっと背中を撫でた。

「ゆっくり、味わってくださいね」

「……すまぬ」

 その言葉には、食事を急いだことへの謝罪だけでなく、もっと深い何かが込められていたような気がした。

 その後、男は一口一口を、まるで宝物を扱うように大切に。時折目を閉じて、深く味わい、そして――かすかに、本当にかすかに、口元が緩むのをシャーロットは見逃さなかった。

 やがて、皿が空になる。

 男はしばらく、空の皿を見つめていた。まるで、夢が終わってしまうのを惜しむかのように――――。