「ふんっ! 人間界も随分と退屈になったものだ……」

 フード姿の魔王ゼノヴィアスは、ローゼンブルク中心部にある噴水広場のベンチにどさりと身を沈めた。大理石の冷たさが、五百年生きた体には心地よい。

 変装の魔法で角は隠しているが、その威圧感までは消せない。だからこそ、顔を隠すように深くフードを被っている。

(ここも、昔は戦場だったというのに)

 四百年前、この場所で人間の騎士団と激突した時、自らの放った爆裂魔法【終焉の劫火(カタストロフ・エンド)】が大地を焼き、全てを灰にした。あの時の熱気、煙の匂い、断末魔の叫び――――。ゼノヴィアスは目をつぶり、懐かしそうにその情景を思い返す。

 だが、今はどうだ――――。

 子供たちが噴水の周りで遊び、恋人たちが寄り添い、商人たちが笑いながら商談をしている。

「腑抜けどもが……」

 ゼノヴィアスは吐き捨てるように呟いた。だが、その声には怒りよりも、むしろ虚しさが滲んでいた。

(もう一度、全てを焼き尽くしてやろうか……)

 ふんっ!

 全身に一瞬紫の輝きを纏い、ゼノヴィアスは殺気を放った。

 バサバサバサバサ。

 鳥たちが一斉に飛び立った――――が、人間たちはそのいきなりやってきた寒気が何なのかも分からずお互い顔を見合わせるばかり。

(……馬鹿馬鹿しい)

 この町を焼いてどうなるというのか?

 ゼノヴィアスは首をふり、深いため息を漏らした。

 破壊衝動は確かにある。闇の生命体としての本能が、時折牙を剥く。だが、四百年もの孤独な時間が、その衝動を押さえ込む術を教えてくれた。

 いや、押さえ込むというより――単に面倒になっただけなのかもしれない。それだけ気力の衰えが深刻ということだろう。

 些細なことで辺り一体を焼け野原にしていた五百年前の自分では考えられないことだった。

「ふぅ……、城に戻るか……」

 立ち上がろうとした、その時だった――――。

 風が、奇妙な香りを運んできた。

「ん……?」

 ゼノヴィアスの鼻腔を、今まで嗅いだことのない芳醇な香りが撫でる。甘く、酸っぱく、そして何より――温かい。

「何だ、これは……?」

 五百年の生涯で、こんな香りは初めてだった。

「おねーちゃん、あのオムライス最高だったね!」

 香りの方向から、姉弟が歩いてくる。その顔は、まるで天国から帰ってきたかのように輝いていた。

「うん! 赤いソースがとろーりで、卵がふわふわで!」

「魔法のお料理だよね!」

「きゃははは! 魔法だって!」

 二人の幸せそうな笑い声が、ゼノヴィアスの胸に小さな棘のように刺さった。

(オムライス……? 魔法……?)

 ゼノヴィアスは無意識のうちに立ち上がっていた。そして、姉弟が来た方向へと足を向ける。魔法の料理が人間界で発明されたとあらば魔王軍としても看過できないではないか。

 路地を曲がると、小さな店があった。

 『ひだまりのフライパン』

 看板の文字が、陽の光を受けて優しく輝いている。

「魔法の……オムライス……?」

 ゼノヴィアスは繁盛している店の中でクルクルと働く美しい少女にくぎ付けとなった。

「あの娘が……?」

 しかしさすがに魔王が人込みのカフェになど入れない。

「ふんっ!」

 魔王はいったん空高く飛んでいった。


        ◇


 そろそろ閉店時間。激動の一日がようやく終わる――――。

 ふと片付けの手を止め、シャーロットは窓の外に目をやった。

 ――視線を感じる。

 街灯の光が作る境界線、明と暗の狭間に、大きな影が佇んでいた。

 フードを深く被ったその人影は、まるで店内を観察するように、じっと見つめている。いや、観察というより何かを確かめているような――――。

(お客様……? でも、何か違う?)

 シャーロットが扉へ向かって一歩踏み出した瞬間、影はさっと身を翻した。闇に溶けていく、その後ろ姿に――――。

「お待ちください!」

 なぜか、声が出ていた。

 理由は分からない。ただ、このまま行かせてはいけない。そんな直感が、シャーロットの胸を衝き動かしていた。

 影が立ち止まる。

「まだ……まだ開いてますから。よろしければ……」

 長い、長い沈黙。

 風が止み、虫の音も消え、まるで世界が息を潜めたような静寂の中で――――。

 ゆっくりと、影が振り返った。

 重い足取り。まるで、見えない鎖を引きずるように、一歩、また一歩と店内へ。ドアベルが鳴るが、その音さえも遠慮がちだ。

 男はカウンターから最も遠い隅の席を選んだ。背を壁に、出口を視界に。まるで、いつでも逃げられる態勢を整えるかのように。