「――そしてこの良き日に、私たち第142期生は卒業いたします」
3月の初旬。寒い冬が終わり、春の息吹を感じる。この日、花ノ宮学園は卒業式を迎えた。
(いよいよ今日か。……くそ、手が震えてる)
卒業するのはもちろん3年生だが、2年生と1年生もまた式に参列した。凪は壇上で行われる卒業生代表のスピーチを聞きつつも、頭の中ではまったく違うことをぐるぐると考えていた。
(あああ、どうしよう)
ガチガチに緊張しているせいで手が冷たい。グー、パー、グー、パー、とさりげなく手を動かした。正直卒業式どころではなかった。というのも今朝、大事な話があるから時間を作ってくれと頼に持ちかけていたのだ。
凪は今日、頼に告白するつもりだった。
「先輩、ご卒業おめでとうございますっ」
式が無事に終わると、下級生がわーっと卒業生のもとへ駆け寄る。部活や委員会でお世話になった卒業生たちに感謝を伝えに行くためだ。凪が頼の動きを目で追っていると、予想通り弓道部の集団へと加わった。
(少し時間かかるだろうから、先に行って待っておくか)
凪はくるりときびすを返すとホールを出て、頼との約束の場所――秘密のベンチに向かおうとした。
そこに声がかかった。
「逢坂くん」
「えっ……あ、はい」
見たことのない生徒だ。胸にバラを差している。卒業生だ。何の用だろうか?
「ちょっと今、話せるかな?」
そう言って卒業生は、アセンブリホールの横手の花壇に凪を誘った。糸目の特徴的な顔立ちをしている。彼はぽりぽりと頬をかきながら「驚かせてごめんね」と謝った。
「話したこともない相手に呼び出されて、戸惑っていると思うけど。僕は逢坂くんのこと、一方的に知ってたんだ」
「はぁ、そうなんですか」
「うん。体育祭での活躍を見てからずっと、いいなと思って」
「い、いいなと思って…?」
「へへ。うん。僕、きみのことが気になってるんだ。今、付き合ってる人とかいるの?もしいないなら、よかったら連絡先を交換してくれないかな。まずは友達からでいいからさ、仲良くなりたいんだ」
凪は目を丸くした。バレンタインデーの時といい今回といい、いわゆるモテ期のようなものがきているのだろうか?ただし、相手は全員男という。
「あー、気持ちはありがたいんですが…」
凪は糸目の卒業生をまっすぐ見て答えた。もしかしたら昔の自分だったら、なんとなくはぐらかして明言しなかったかもしれない。だが今は違う。
「俺、今、猛烈に好きな人がいるんです。だから、先輩とは付き合えません」
「そ…そっか。そうだよね」
「でも、わざわざ伝えにきてくれてありがとうございました」
「あ、ううん。いいんだ。こちらこそ、ありがとう。うまくいくといいね」
残念そうに眉を下げる卒業生に一礼して凪はその場をあとにしようとした。直後、別の卒業生に足止めを食らう。
「逢坂凪くん」
結論から言おう。告白ラッシュだった。
考えてみれば今日で花ノ宮を離れる卒業生からすれば、思いを打ち明ける最後のチャンスなのだ。しかも振られたって顔を合わせることもないだろうから後腐れが無い。次は自分だとばかりに凪の周囲には順番待ちの影がいくつもあった。
(ま、マジかよ…これいつまでかかるんだ?)
無下にするわけにもいかず、凪は「俺にはすごく好きな人がいるんで」の一点張りで断り続けた。そのうちに凪に告白する目的を持たない人々も何事かと集まり始め、花壇はちょっとした人だかりができつつあった。
(もう勘弁してくれ……)
気持ちはありがたいが、中には記念告白のような感じで来る卒業生もいる。たいして本気でもないのに、面白半分に凪を試しているのだ。これには参った。ああもう、と思う。
頼に正面からぶつかろうとせっかく心の準備をしてきたのに、これではぐちゃぐちゃだ。
凪の心には焦りが生まれていた。頼のところに行きたい。頼の顔が見たい。頼の声が聞きたい。
「凪?」
その瞬間、集団の中から欲しかった声がした。けして大きくなくても、凪の耳にはくっきりと聞こえた。振り返ればそこには弓道部員たちと一緒にいる頼の姿があった。たくさんの人の中に埋もれているのに、凪の目には頼の輪郭だけが輝いて見えた。
「頼っ!」
迷わず叫ぶ。気づけば走り出していた。人混みをかき分け、頼の腕を取る。そして勢いのまま頼をさらった。
「凪っ?おい、どうした?」
「俺はずっと、お前と二人きりになりたかったんだよっ」
それなのに上級生に絡まれ続け、ひっじょーうにダルかったんだ――走りながらそう頼に伝えた。
「卒業生がお前に何の用だったんだ?」
「そりゃあ卒業式といえばだろっ」
「は?卒業式といえば?」
気持ちの良い風が凪の髪をかき上げた。若葉色の芝生の上を走った。茂みに入り、草をかきわけ、秘密の場所を目指す。腕は掴んだままだ。
やがて視界が開けた。
「はぁっ、はぁ……、はぁっ、いい加減教えろよ。何言われてたんだ」
「ほんとにわかんないのか?」
「わっかんねぇよ」
ドスン、と頼がベンチに座る。背もたれに体重をかけ、天を仰いだ。凪は答えを言った。
「引き留められて、告られたんだよ」
「…はぁっ?」
頼がガバリと体を起こす。表情が険しい。
「告られたって、卒業生に?」
「ああ」
「好きだって言われたのか?」
「ああ」
「付き合うのか?」
「付き合わねぇよ。断った」
凪はバクバクと脈打つ心臓をなだめながら、ゆっくりと頼の前に進んだ。座っている頼を見下ろす形になる。頼の眉には力が入って歪んでいた。多分凪も同じ顔をしていたはずだ。声が震えないように、眉間に力を込めていた。
「俺には心の底から好きな人がいるから付き合えません、って答えた」
「……そうか」
頼が下を向く。しばらくの間、誰も何も言わなかった。凪は長く息を吐き出すと、同じだけ空気を吸って肺を満たした。
「なぁ頼」
正直今になっても、やっぱりやめてしまおうかと思う瞬間がある。だけど。
「今から俺、そのどうしようもなく好きな人に告白しようと思う」
もしここで言わなくても、きっとどこかで打ち明けるタイミングがくるだろう。それだけは確信していた。
「頼」
繰り返し名前を呼ぶ。なぁ、頼。顔を上げてこっちを見てくれよ。
「お前だよ」
「っ……」
「お前なんだよ」
頼がぱっと頭を上げた。目が合う。凪は心臓が体から飛び出してしまいそうな感覚を耐えながら、必死に言葉を紡いだ。
「俺が好きなのは、お前だ。頼。ごめんな。俺、親友に恋しちゃったんだ」
言い切ると、心の重りが外れたような気持ちになった。凪は努めて明るく笑いかける。面倒なやつだとは思われたくなかった。
「でもわかってる、安心してくれ。お前に好きな人がいることも知ってるよ。俺はお前が好きな気持ちと同じくらい、お前に幸せになってほしい。だから邪魔する気はないんだ」
息を継いだ。頼は目を丸くしてフリーズしている。
「思いっきり振ってくれていい。そのほうがスッキリする。そりゃしんどいけど、この先もずっとお前への気持ちを隠して一緒にいることのほうが辛い。……今日言えてよかったよ」
頼が立ち上がった。凪のほうへ一歩踏み出す。何も言わないから、何を考えているのかわからない。急激に不安になった。
「頼?その……俺の希望としてはこれからも友人としてそばにいたいんだけど……ダメだろうか?絶対邪魔しないって約束するよ。なんならお前の恋が成就するよう協力だって――」
「うるさい」
最後まで言わせてもらえなかった。頼の手のひらが凪の口を塞いでいる。その視線は凪を射貫くほどのまっすぐさだった。
「お前、俺のことが好きなのか?」
ん、という鼻声と共に頷いて見せる。
「お前の好きなやつって、俺なのか?」
「んーーっぷはぁ!だからそう言ってる」
「嘘だろ……」
ぐにゃりと頼の表情が変わった。とても苦しそうだ。苦しそうだけれど、頬が上気している。瞳がキラリと光を孕んでいる。そして放たれた言葉に凪は衝撃を受けた。
「俺だってお前が好きだ」
「え?」
「凪。俺が好きなのもお前だよ……」
え……?
今度は凪がフリーズする番だった。ちょっと待て。それって一体どういうことだ。頼が自分を好き?本当に?嘘だ、そんな、まさか。
「つまり、俺たちって、両思い…?」
「……そう、みたいだな」
つかの間の沈黙のあと、凪は「えええええっ!」と叫んだ。にわかには信じられなかったからだ。
「で、で、で、でも、お前誰が好きか聞いても頑なに教えてくれなかったじゃんか!」
「それはそうだろう。一番の親友で、ライバルで、ルームメイト相手に、下手に告白なんてできねぇわ!」
「できろよ!愛の告白をしろよ!言ってくれたらもっと早く想いが通じ合ってたかもしれないだろぉ!」
「無茶言うな!」
ぎゃあぎゃあ喚く。凪が頼を好きで、頼も凪が好き。それがわかった瞬間、凪の感情は荒れ狂う土石流のように体中を暴れ回り始めた。
嬉しい。嬉しい。嬉しい。よかった。幸せだ。でも恥ずかしい。照れてしまう。まともに目が見れない。ドキドキする。息がしづらい。胸が苦しい。泣きそうだ。どうしよう?どうしたらいい?どうしていいかわからない。
わからずじまいの凪は一歩下がって頼をぴしっと指差すと、思い切りにらみつけて叫んだ。どうせ顔は真っ赤だろう。なんせ照れ隠しなのだから。
「ここここんにゃろオメェ、ふざけんな!俺の悩んだ時間返せぇ!」
「はぁ?そっちだって誰が好きか聞いても答えなかっただろうがよ!人のこと言えんのかよ!」
「ムキィ~~~~!俺がどんだけ悩んだと思ってるんだァ!お前がわかりにくい態度取ったからだろうがァ!」
「言ってくれるじゃねぇか凪」
早くも痴話喧嘩が勃発した。頼も「そっちがその気なら、俺にだって考えがある」と言って凪から距離を取る。両者背中を向け合った。
一秒、二秒、三秒。近くで小鳥が鳴いた。そよ風がほてった頬を冷ます。次の瞬間にはもう、凪は自分たちの間に距離が空いていることが嫌でたまらなかった。頼の近くに行きたい。
「なぁ、お前、もっと俺の近くに来いよ」
「そっちが来い」
「嫌だね。頼が来い」
「凪が」
「頼が」
くるりと振り返り頼を睨む。同じようにこちらを振り返った頼が凪のことを睨んでいた。凪は大きく息を吸った。
「お前、俺のこと好きなんだろ?好きならお前のほうが来い!」
「嫌だね。絶対俺のほうが早く好きになった。凪がこっちに来るべきだ」
「なんだといつだよ言ってみろよ!」
「去年の夏だよ!肝試しして、謹慎なって、お前に無自覚アッパー食らった時だ!」
「無自覚アッパーだとぉ?」
なんだよそれ、と噛みつく。
「意味わかんねぇこと言うな!」
「あーあーわかんないだろうね凪は。無自覚だから!」
「ムッカァ!ってかなんだよ自分のほうが早く好きになったとかって。先のほうが偉いとかないだろ、どれだけ相手のことが好きかのほうが大事だろ!」
「じゃあお前俺のことどんくらい好きなんだよ」
「それはっ……」
頼からの熱い視線をびしびしと感じる。凪はぎゅっと拳を握った。今まで我慢してきたぶんを全部ぶつけるように「すんげぇ好きだよ」と言い切った。
「好きで好きで、どうしようもないくらい大好きだよ。お前と目が合うだけで嬉しいし、お前が別の誰かを見ているだけで苦しくなるくらい好きだ。夜は眠れなくなるしわけもなく泣きたくなるし、もうほんとに、ムカつくくらい好きで好きで――」
衝撃があった。人の体温を感じた。頼に抱きしめられていた。耳元で「もう無理、限界」と囁かれる。
「俺も好きだ」
「え……?」
「俺も好きなんだよ、凪」
「う、うん」
至近距離で甘く言われ、一気に力が抜けた。へなへなと座り込む。頼もまた芝生の地面に膝を着いた。少し背の高い頼に対し凪はすがるようにして、「ほんとに好きなのか」と問う。「好きだよ」
「ほんとに?」
「ああ。凪が好きだ」
そう返されるたびに心がくすぐったくなる。嬉しくて嬉しくて、凪はえへへと笑った。頼はといえばお前何回言わすんだよ、という表情をしている。だってしょうがないだろう、嬉しいんだから。
聞き過ぎだという自覚はあったが、最後にもう一回だけという思いを込めて凪は頼を見つめた。
「なぁ、頼。俺のこと、ほんとに好き?」
「ああ。好きだよ」
「…そっか。同じだな。俺もお前が好きだ。頼。これからよろしくな。お前は今日から俺の彼氏、ってことか……えへへ。えへへへへ…――」
キスをした。
目を閉じて、その柔らかさと温かさに感動した。
目を開けて、映る風景の鮮やかさに感動した。
大好きな頼も、古びたベンチも、風に揺れる木々も、全てが輝いて見える。
凪の世界が一気に鮮明になった。