「明けましておめでとう~」
「今年もよろしくな」
花ノ宮学園は3学期最初の登校日を迎えた。冬休み越しに顔を合わせた寮生たちはそこかしこで新年の挨拶を交わしあっている。みなエネルギーに満ち足りた明るい顔だ。
凪も寮の部屋へと行くと、2週間ぶりに会う柿下と宇田川に声をかけた。
「柿下、宇田川、明けましておめでとう」
「逢坂くん。明けましておめでとうだよ~!」
「逢坂今年もよろしくな」
「おう!こちらこそ」
頼は自分のベッドに座り、すでに荷ほどきを始めていた。1月4日に会って以来なのでそこまで久しぶりという感じはしない。凪が「よう」と声をかけると、頼も「おう」と手を上げ返した。
「あれ、逢坂くんたちなんでそんなそっけないの」
「そっけないか?つっても俺たち年明け早々に会ってるからな」
「え、そうなの!?」
「ああ。頼がうちに遊びに来たんだよ。そんで二人で初詣にいった」
「えええ」
柿下が驚いた声を上げる。
「いいなぁ!呼んでよぉ僕も参加したかった」
「はは。今度は柿下も宇田川もうち遊びに来いよ。最近我が家には念願のたこ焼き機が来たんだ。たこパできるぞ」
行く行くー!と柿下がはしゃいでいる。頼が「凪んち仲いいんだよ」とエピソードトークを始めると部屋中が笑いに満ちた。
こんなふうにして凪の今年の出だしはスムーズに切れたように思えた。だが、1つだけやっかいなことが起こっていた。
「これはこれは、負け犬の逢坂凪くんじゃあないですか」
「ちょっと、可哀相だよ中島くん」
「可哀相?事実だろ。2学期期末の試験結果を見たか?伊坂にずいぶん負けていたじゃないか。もう坂坂コンビの二強は終わったな」
新年ムードもおさまり寮生の生活リズムも通常運転になった頃、寮の2階にある談話室の前を通りかかれば、くすくすという笑い声が聞こえてきた。凪は内心「またか」とため息をついた。見なくてもわかる。
長めの前髪をオールバックにセットした中島一樹とかいう態度の悪い生徒が、どうせふんぞり返って椅子に腰掛けているのだろう。中島とはクラスが違うし接点はないが、いい噂は耳に入ってこない。アレでもなかなかの財閥の息子なのだが、腰巾着にしているのはだいたい自分より立場の下の寮生という凪の嫌いな部類の人間だった。
「おい、無視するなよ逢坂」
少し前まで、寮生は中島のことを裏で「万年三位」とあだ名していた。一年生が始まった4月からおよそ9ヶ月の間、何をやらせてもツートップの凪と頼から頭一つ分離されての三番手だったからだ。
だが2学期の締めくくりに発表された試験の結果で、凪が首位の頼からやや遅れをとってしまった。今までびくともしなかった双璧が綻んだ今だからこそ、中島は日の目を見なかった分の当てつけをしたいのだろう。
とはいえ凪は相手にしない。流し目だけを寄越し、足早にその場を立ち去る。
「あ、おい、待てよ!」
中島が立ち上がった気配がした。追いかけてくる。3階の自分たちの部屋に戻ろうと階段を上がっている最中だった。踊り場に差しかかったところで、強引に腕を取られて振り向かされた。
「お前、いい加減俺を見ろ!」
「見てるが?」
望み通りにしてやったというのに、中島は顔を赤くして固まってしまった。凪が小首をかしげると今度は耳の先まで赤らめて、「きょ、今日のところは許してやる」と吐き捨ててどこかに消えた。
「は?なんだそれ。一体凪に何をしたいんだそいつは」
「わかんね。次は自分が2位をとるぞっていう宣戦布告?」
部屋に戻った凪はいつもの三人と合流すると、食事をとりに食堂へと移動する傍ら、最近中島という生徒に絡まれていることを話して聞かせた。すかさず頼が眉間にしわを寄せる。
「もしなんかされたら言えよ。いや、されそうになった時点で言えよな」
「お前は過保護なパパかよ」
凪は笑った。頼が心配してくれるのが嬉しい。
「うーん、でも、僕は微妙に違う気がするなぁ」
「ん?」
柿下が首を捻るから、凪はそちらに意識が向いた。
「僕は単に、中島くんは当てつけをしたいだけじゃないと思うよ」
「どういうことだ?」
「自分が2位になれるかも、って気持ちもあるとは思うけど。中島くんは逢坂くんの気を引きたいだけだと思うよ」
「…はぁ?」
凪は気の抜けた声を出した。
「なんで俺の気なんか引きたいんだよ」
「なんでって、もう1月も終わるんだよ?1月が終わったら2月でしょ。そしたらバレンタインデーじゃん」
「バレンタインデー」
「その通りっ!」
柿下が力説した。
「男子校だからってバレンタインデーのそわそわがないわけではないでしょう?女性が男性に送る文化も今じゃあ古いくらいだしね。僕たち同士だって友チョコを送りあったりしてもいいんだよ。だから逢坂くん、わかる?みんなチョコ、ほーしーいーの」
「チョコならどこにでも売ってるだろ」
「かぁぁぁぁっ!逢坂くんからのチョコが、ほーしーいーのー!」
「なんで俺」
柿下が黙り込んでぷるぷるとし始めたから、助けてほしくて宇田川のほうを見た。宇田川、通訳してくれ。
「えーっと、ほら、逢坂って一部絶大な人気があるというか。とくに凪子は寮のアイドルだろ?友チョコもいいけど、男は誰しも可愛い子からほしいと思う生き物なんじゃない……かな」
「はぁ?つまり、凪子からのチョコが欲しいってことか?意味わかんね」
階段を降りきり、食堂前の廊下にさしかかる。納得しかねる声を出すと、柿下が「やれやれ」という仕草をした。
「逢坂くんはさ、凪子の破壊力を理解したほうがいいよ。性格はこんなだけどさ、きみビジュだけは国宝級なんだから」
「おうおう柿下言ってくれるじゃねぇか」
「そのビジュが凪子ちゃんになることによって大爆発したときに、『あなたのことが好きですきゅるん☆』なんて言われてチョコ渡されたら、みーーんな鼻血ぶうして喜んじゃうよ。そんなつもりなくてもくらっときちゃうと思うな」
「えっ…マジ?」
そんなつもりなくてもくらっときちゃう、の部分に引っかかった。ということはもしかすると、凪に気のない相手でも凪のことを好きになってくれる可能性があるということか。
凪はチラと頼を見た。頼が少しでも、凪のことを気にしてくれるきっかけになったりするのだろうか……?
「よし、やってみるか」
「ダメだ」
凪のやる気は頼の一言によって霧散した。
2月14日当日。
考えた末、凪は凪自身から友チョコという形で仲のいい相手にだけ渡すことにした。まぁいつものメンバーのことだが。
(今日の夜でいっか)
チョコの入った紙袋はベッドサイドに置いてある。渡す算段をつけると、いつものように4人で朝食を済ませ、午前の授業を受けた。
昼休みになればちらほらとチョコをわけあっている寮生の姿を見かけた。柿下が得意顔で「ほらね、僕の言った通りでしょう?」と眉を上げる。
「僕だってみんなに持ってきてるんだよ」
「お、マジか。俺も俺も。あとで渡すわ」
やったー、交換だね、と柿下が喜んでいる。
そんな和気藹々とした雰囲気の中、凪たちが寮の玄関ホールを横切っていると、知らない寮生に呼び止められた。
「あ、あ、あのうっ!お邪魔してすみません。お、お、逢坂くん」
「えっ、お、俺?」
「はいっ」
小柄な寮生だ。同じ一年生だろうが、中学生に見える。その寮生は明らかに緊張しつつも礼儀正しく凪に「はじめまして」と言った。
「いきなりすみません。ただ僕、きみに、渡したい物があって……」
彼は自分の背中に隠し持っていたものをおずおずと差し出した。きれいにラッピングされたお菓子だ。
「僕、料理部なのですが、週末調理室を借りて作ったんです。自分でもかなりの出来だという自信があります。あの、よかったら、受け取っていただけませんか?」
「ええっと……」
びっくりした。まさか自分がよく知らない相手からいきなりチョコを渡されるとは思っていなかったからだ。
「それは、つまり、きみは俺のことが…好きってこと?」
平生を装いつつ、慎重に問うてみる。寮生はパッと顔を輝かして「はいっ」と答えた。
「でも安心してください!好きとはいっても、推しの意味のほうですから!つまり僕は、逢坂くんの大ファンってことです!」
「大ファン…、はぁ、なるほど?」
「だから付き合ってほしいとかじゃないんです。僕の自信作を受け取って欲しい、ただそれだけです。
だめですか?と聞かれたので、そういうことならと受け取った。
「ありがとう。美味しくいただくよ」
ただ中身がよくなかった。
「おーーーい頼ィ、何してんだよォどこ行くんだよォ離れんなよォ」
「コラ!離せ、このくっつき虫!お前に飲ませる水取りに行くんだよ!」
放課後になると、凪はトンデモナイ状況に陥っていた。もらったチョコがボンボンショコラだったのだ。
「わぁぁぁ、逢坂くん、吐く?吐きそう?気持ち悪い?だめだよ歩き回らないで、そんなフラフラじゃ転んじゃうよ!」
「がっはっは、俺が転んだりするかよォ!あィヤっ」
「……っぶねー。お前頭打って死ぬとこだったぞ。ほら、水飲め」
「頼じゃねぇかァ、まったくどこほっつき歩いてたんだァ」
「いいから水」
「いやだ」
「飲め」
「飲まん」
「うるせぇ」
「いやdごぼぼぼぼ……」
凪が飲みきると、頼、柿下、宇田川の三人は「はぁ」と深くため息をついていた。
「僕もまさか逢坂くんがここまでお酒弱いなんて思わなかったよ」
「ほんとに」
「二十歳になっても、絶対飲ませちゃだめだね」
「マジでな…」
柿下の呟きに頼と宇田川が同意した。
「う、ううう」
しばらくベッドで横になっていた凪は、意識が浮上してきたタイミングでもぞもぞと起きた。見回せば部屋には頼しかいない。
「あれぇ、みんなは?」
「夕飯。お前を一人にしておけないし、交代でいってる」
「ほえぇ」
「お前まだ酔ってるな」
「酔ってない。俺もチョコあるんだ。渡しに行かなきゃ」
ベッドサイドの紙袋を掴むと凪は部屋を出ようとした。頼に「コラ」と襟の後ろを掴まれる。
「酒が抜けるまでは外出禁止。あいつらなら戻ってくるのを待て」
「なぁんで頼はそんな怖い顔してるんだ?」
「怖い顔にもなるわ」
凪はきょとんと頼を見つめると、その顔が険しい理由について思い至った。
「わかったぞ。さてはお前、自分のぶんのチョコが無いと思ってご機嫌斜めなんだろ?」
「はぁ?……て、え、ちょっ」
勢い任せに頼にダイブする。予期していなかったのだろう、頼が「うわっ」と声をあげてベッドに倒れ込んだ。
「お前、なんだよっ」
「あるんだなぁ、それが!」
「やめろ、重い!」
凪は頼の上に馬乗りになった。にやりと笑う。
「バレンタインだぞー?俺からお前にチョコがないわけないだろっ!俺がお前のこと大好きだって知ってるくせに」
包みを頼の胸に押しつけた。頼が目を丸くしている。その頬にはさっと赤みが差したように見えた。
「どうだ、嬉しいか?ちゃんと休みの日に電車乗って買いに行ったんだぞ。大嫌いな電車に乗って行ったんだからなっ!お前のために」
「それは……ありがとう。嫌な目に遭わなかったか?」
「うむ。遭わなかった。俺は賢いからな。オフピークを狙って電車に乗ったんだ」
「そっか。安心した」
頼がほっとした表情をした。心配してくれたのがわかる。凪の胸がきゅんとした。チョコレートが溶けるみたいに、ほわっと温かくなった。
(ああ、好きだな……)
目の前の人が好きだ。それだけで、すごく幸せな気分になる。凪はにっこり笑った。
「へへへ、バレンタインだからなー、特別サービスだ!お前の好きなとこ10個言ってやる!」
「え」
大きく息を吸うと、凪は頼の好きなところを羅列していった。頼はびっくりした顔のままフリーズしている。
「まずはそうだなぁ、一緒にいて、一番楽しいやつだろ?」
「…お、おう」
「それから一緒にいて、一番落ち着くやつでもある」
「そ、そうか」
「けんかもするけど、俺のことちゃんと見てくれるし、優しい。満員電車で助けてくれたの、嬉しかったよ。倒れた時はすごく心配してくれたし、セーター貸してくれた」
「な、凪……」
「そういえばめっちゃいい匂いするんだよな、お前」
なんで?と首をかしげてから、鼻を頼の首元に近づけてすんすんと匂いを嗅ぐ。うん、やっぱりいい匂いだ。
頭を上げれば、頼は顔を右のほうに向けていて、右手で口元を覆っていた。耳の先まで赤くなっている。
「はは、顔真っ赤!頼くんたら照れてるのぉ?」
「ふざけんなっ。こいつマジなんなん……」
「あとはあとはぁ――」
めちゃくちゃ勤勉で努力家なところも尊敬してるし、弓道部での活動を頑張ってるのもすごいと思う。文武両道ってシンプルかっこいいよな。それから、ずぼらな俺とは違って身の回りの整理整頓とかちゃんとしているし、俺の消し忘れた明かりとか消しといてくれるし、そうだ、そういえば私服もかっこよかったな。遊園地の時もセンスいいなって思ったけど、俺んち遊びに来てくれた時も思った。なぁ、今度お前と服買いに行きたい。俺に似合うの一緒に探してよ。
「あれ?今いくつ言ったっけ?」
思いの丈を思うがままに吐き出していたら数えるのを忘れてしまっていた。
「ま、いっか。というわけで頼、俺はお前のこと相当好きなの。わかった?」
「わ、わかったわかった。わかったからそろそろどいてくれ」
「ダメだ。今度はお前の番なんだから」
「は?」
「俺の好きなとこ10個言って」
「……え」
「俺の!好きなとこ!お前も!10個!言えよーっ!」
「な、凪」
頼の両肩に手をついてふにゃふにゃと揺さぶる。頼が即答しないのが気にくわなかった。
「早く言えよ!言えないのか?ま、どうせお前は俺の顔だけ好きだったってことだろ。凪子のことタイプだもんな。このめんくいめが」
「ち、違うっ」
「じゃあ答えろよ!なんですぐ言えないんだよ!俺のこと好きじゃないのかっ?」
「凪、マジで勘弁して…」
依然として頼の顔は真っ赤だ。照れてしまって言いづらいのだろうが、酔っ払った凪にはそんなこと関係なかった。小さな子どものようにかんしゃくを起こす。
「なんで言ってくれないんだよ!俺のことそんな好きじゃないってことなのかよ!へーへーどうせ頼の本命より何もかも劣りますよーだ。ってかいい加減教えろよ!誰なんだよ好きなやつ!この俺を差し置いて一体誰がお前を好きにさせたんだーっ!親友は俺だぞー!俺のほうが絶対頼のこと好きだぞー!言えよー!じゃないと特権発動するからなー!お前は今後一切死ぬまで彼氏も彼女も作っちゃだめだっ!」
ジタバタと暴れた。頼が「落ち着け」と凪の腕を取る。そのうちに疲れと眠気がきて、へなへなと全身から力が抜けた。頼の胸にすっぽり収まる。耳がちょうど頼の心臓の位置にきた。バクバクと早い鼓動が聞こえてくる。
凪は最後の力を振り絞った。
「ほんとにおれは、おまえのことが、すきなんだよ」
覚えているのはそこまで。
カチャ、と扉が開く音がし、人の声が聞こえてきた。
「はぁ、あったまった~。やっぱり日本人はお風呂だねぇ」
凪の意識が浮上する。
「伊坂くん見守りお疲れ様。うちの問題児はまだ寝てるのかな?」
気配が近寄ってくるのを感じ取り、凪はゆっくりとまぶたを開けた。
「あ、逢坂くん、起きた?」
「う、ん……?」
「気分はどうだ、凪」
むくりと起き上がる。壁の時計を見ると夜の9時だった。夕食をすっとばして寝ていたらしい。
「腹減ったぁ、頭いてぇー、なにこれ、何があった?」
「覚えてないのか?」
頼に聞かれ、頭を抱えて唸る。うーん、うーん、うーん。三回目で凪は全部思い出した。
「お、俺っ!」
短く叫ぶと、こちらを覗き込んでいた頼と目がばっちり合った。焦りでアワアワする。凪は頼に迫り、「好きだ好きだ」といいまくったのではなかったか。や、や、やばすぎる!
急激に顔がカッとした。こればかりは恥ずかしくて穴があったら入りたいというか穴を掘ってでも入りたい。
「ごごごめん、あれはなんというか、なんだろう、とにかくごめん! ちょっと風呂いって頭冷やしてくる!」
「あ、おいっ」
慌てたような頼の声が凪の背中にかかった。
「お前、ボンボンショコラで酔っ払ってたんだからな!あんまり長湯するなよ!」
「おっけ」
――と、返事をしたはずが、絶賛凪はのぼせ気味だった。
共同風呂に入り頭と全身を洗い、少しの間だけ湯につかった。すると体がぽっぽしてきて、まずいと思った時にはフラフラし始めていた。
風呂から上がり、脱衣所でパンツ一丁のまま、扇風機の風にあたる。しばらくそうしていると、がらりとドアが開いて誰かが入ってくるのがわかった。
「おやおや、珍しい。逢坂凪じゃないか」
「……中島」
サイアクだ。今はこいつに会いたくなかった。またダル絡みされるのかと思うと引いてきた頭痛もぶり返しそうだ。
「もしかして昼寝でもして、そのまま寝過ごしたオチか? 夕食にもいなかったよなぁ」
「人の動向いちいち見てんじゃねぇよ。暇かよ」
「今日は大好きな伊坂もいないんだな」
「はぁ…」
盛大にため息をつく。ここは素直になったほうがいいのかもしれない。
「なぁ中島。ちょっと頼めるか。実は俺、今少し気分が悪くて」
「…俺に頼み事だと?」
「ああ。頼を呼んできてほしい」
「………アホか」
少し間があったあと、中島から怒号が飛んできた。「どうして俺があいつなんかを!」と吠えている。視界の端で拳が固く握られたのが見えた。
「お前はいつもいつも、伊坂伊坂伊坂伊坂っ!」
「なんだようるせぇな」
「あいつのことしか頭にないんだなっ!」
「悪ぃかよ」
「俺を見ろと言っただろっ!」
「はぁ? 頼むから怒鳴んないでくれ、頭に響く」
「俺を見ろよっ…!」
俯いた凪のあごを中島が掴む。凪は無理矢理上を向かせられた。そのまま体勢を崩し、膝から床に崩れ落ちる。仰向けに倒れたところに、なんと中島が覆い被さってきた。
「やめろ中島っ、どういうつもりだ」
「お前が悪い!全部お前が!」
「言いがかりだ。俺が一体お前に何をした」
両手首を掴まれ、床に縫い付けられた。中島の目は血走っていてギラギラしている。相当キレている。ゾッと悪寒が走った。
(もしかして俺、今、襲われてる……?)
抵抗しようにも力が入らない。このままボコボコに殴られてしまうのだろうか?くそ、こんな日に限ってどうして中島と遭遇してしまうのか。
(誰か助けてくれないだろうか…誰か……)
誰か、と願いながら、思い描いていたのは一人だった。自然と名前がこぼれた。
「頼……」
声が震えた。
「助けてくれ……頼」
突如、凪を押さえつけていた中島の重みが消えた。すべてがスローモーションに映り、中島の体が放物線を描いて脱衣ロッカーに激突する。何者かによって吹っ飛ばされたのだ。凪は目を瞠った。本物の頼だった。
「てめぇ!中島ァ!この野郎!」
凪は頼の咆哮を初めて聞いた。全身がビリビリする。髪の毛の1本1本までが怒っているかのように頼の髪が揺れている。
うっと呻きを上げた中島の首根っこを掴むと、頼は広い床まで引きずり出した。そして馬乗りになり、拳を振りかぶる。落とされたそれは中島の頬にクリティカルに入った。
「ゥっ!」
もう一発、二発。さすがにまずい。
「だめだ頼!それ以上殴るなっ!」
暴力沙汰はこの学園において指導が重い。相手にけがを負わせたとなれば謹慎処分になってしまうかもしれない。凪のせいで頼がそうなってしまうのは嫌だ。凪は必死にそれを伝えた。
「知ったことか!俺はお前が、こいつに傷つけられたことが許せない!」
「っ……」
ドスン、と鈍い音がした。頼の渾身の一発はしかしながら、中島の顔の真横の床に落とされていた。中島が脂汗を流しながら青い顔をしている。
その時再び扉がガチャリと開き、別の声がした。
「ちょっとぉ~、もうすぐ消灯時間だよ?いつまでお風呂入ってるつもりー?」
柿下と宇田川が立っていた。二人ともきょとんとしている。
「え、どういう状況?」
結局頼には、自宅謹慎1週間が言い渡されてしまった。学年末試験も差し迫るこの時期に、だ。だから頼が復帰した際には、凪はいの一番に謝った。
「本当にごめん!頼に迷惑かけてしまって。俺がもっとしっかりしてたら…」
「俺はいい」
「だけど、お前、また家で」
「ああ、これのことか」
頼は寮の部屋の鏡で自分の顔を確認した。見た目ほど痛くねぇしと笑っている。今回の件でよりはまた、父親に詰められたのだ。頬に前よりも大きな青アザができていた。
「マジでごめん…。俺のせいで、2度も」
「謝るなよ。これはむしろ凪のことを守った証だ。お前が無事でよかった」
「っ……」
「いわば勲章だよな。男の誉れだ」
頼はさっぱりした顔をしていた。凪のほうを向き、片方の眉尻だけ器用に上げる。
「惚れるだろ。惚れてもいいぞ」
「………バーカ」
もうすでに、惚れてるんだって。
内心そう呟きながら、凪は胸を押さえた。痛い。苦しい。頼のことが愛しくて胸が張り裂けそうだ。意味も無く泣けてくる。凪は悟った。
(この先もずっと、どんなことがあっても、この気持ちからは逃れられないんだろうな)
頼が好きだ。
たとえ頼に他に好きな人がいても、凪はいつまでも頼が好きだ。
それはどこか、諦めにも近い感情だった。
「あーあ。なんか一周まわってなんかムカついてきた」
「ん?」
「頼がかっこよくてムカつくって話」
「ハハッ。なんだそれ」
頼が笑う。つられて凪も笑う。凪は思った。伝えたい。
今度はちゃんと、ぼかすことなく、思いを伝えたい。
(来年は同じクラスになれるとも限らない。同じクラスだったとしても、同部屋になる保証はない。頼とずっと一緒にいられるわけじゃない。今ある当たり前は当たり前なんかじゃない)
「なぁ、頼」
「ん?」
「3学期が終わる頃にさ、お前に言いたいことがある。時間を取ってくれないか?」
「もちろんいいけど。今じゃダメなのか?」
「んー、まだ、心の準備ができてないから」
「心の準備?」
「まぁまぁ楽しみに待っててくれよ」
そう言って、凪は頼の肩を叩いた。
悔いなくこの一年を終えよう。
凪は一人気合いを入れ直した。
「今年もよろしくな」
花ノ宮学園は3学期最初の登校日を迎えた。冬休み越しに顔を合わせた寮生たちはそこかしこで新年の挨拶を交わしあっている。みなエネルギーに満ち足りた明るい顔だ。
凪も寮の部屋へと行くと、2週間ぶりに会う柿下と宇田川に声をかけた。
「柿下、宇田川、明けましておめでとう」
「逢坂くん。明けましておめでとうだよ~!」
「逢坂今年もよろしくな」
「おう!こちらこそ」
頼は自分のベッドに座り、すでに荷ほどきを始めていた。1月4日に会って以来なのでそこまで久しぶりという感じはしない。凪が「よう」と声をかけると、頼も「おう」と手を上げ返した。
「あれ、逢坂くんたちなんでそんなそっけないの」
「そっけないか?つっても俺たち年明け早々に会ってるからな」
「え、そうなの!?」
「ああ。頼がうちに遊びに来たんだよ。そんで二人で初詣にいった」
「えええ」
柿下が驚いた声を上げる。
「いいなぁ!呼んでよぉ僕も参加したかった」
「はは。今度は柿下も宇田川もうち遊びに来いよ。最近我が家には念願のたこ焼き機が来たんだ。たこパできるぞ」
行く行くー!と柿下がはしゃいでいる。頼が「凪んち仲いいんだよ」とエピソードトークを始めると部屋中が笑いに満ちた。
こんなふうにして凪の今年の出だしはスムーズに切れたように思えた。だが、1つだけやっかいなことが起こっていた。
「これはこれは、負け犬の逢坂凪くんじゃあないですか」
「ちょっと、可哀相だよ中島くん」
「可哀相?事実だろ。2学期期末の試験結果を見たか?伊坂にずいぶん負けていたじゃないか。もう坂坂コンビの二強は終わったな」
新年ムードもおさまり寮生の生活リズムも通常運転になった頃、寮の2階にある談話室の前を通りかかれば、くすくすという笑い声が聞こえてきた。凪は内心「またか」とため息をついた。見なくてもわかる。
長めの前髪をオールバックにセットした中島一樹とかいう態度の悪い生徒が、どうせふんぞり返って椅子に腰掛けているのだろう。中島とはクラスが違うし接点はないが、いい噂は耳に入ってこない。アレでもなかなかの財閥の息子なのだが、腰巾着にしているのはだいたい自分より立場の下の寮生という凪の嫌いな部類の人間だった。
「おい、無視するなよ逢坂」
少し前まで、寮生は中島のことを裏で「万年三位」とあだ名していた。一年生が始まった4月からおよそ9ヶ月の間、何をやらせてもツートップの凪と頼から頭一つ分離されての三番手だったからだ。
だが2学期の締めくくりに発表された試験の結果で、凪が首位の頼からやや遅れをとってしまった。今までびくともしなかった双璧が綻んだ今だからこそ、中島は日の目を見なかった分の当てつけをしたいのだろう。
とはいえ凪は相手にしない。流し目だけを寄越し、足早にその場を立ち去る。
「あ、おい、待てよ!」
中島が立ち上がった気配がした。追いかけてくる。3階の自分たちの部屋に戻ろうと階段を上がっている最中だった。踊り場に差しかかったところで、強引に腕を取られて振り向かされた。
「お前、いい加減俺を見ろ!」
「見てるが?」
望み通りにしてやったというのに、中島は顔を赤くして固まってしまった。凪が小首をかしげると今度は耳の先まで赤らめて、「きょ、今日のところは許してやる」と吐き捨ててどこかに消えた。
「は?なんだそれ。一体凪に何をしたいんだそいつは」
「わかんね。次は自分が2位をとるぞっていう宣戦布告?」
部屋に戻った凪はいつもの三人と合流すると、食事をとりに食堂へと移動する傍ら、最近中島という生徒に絡まれていることを話して聞かせた。すかさず頼が眉間にしわを寄せる。
「もしなんかされたら言えよ。いや、されそうになった時点で言えよな」
「お前は過保護なパパかよ」
凪は笑った。頼が心配してくれるのが嬉しい。
「うーん、でも、僕は微妙に違う気がするなぁ」
「ん?」
柿下が首を捻るから、凪はそちらに意識が向いた。
「僕は単に、中島くんは当てつけをしたいだけじゃないと思うよ」
「どういうことだ?」
「自分が2位になれるかも、って気持ちもあるとは思うけど。中島くんは逢坂くんの気を引きたいだけだと思うよ」
「…はぁ?」
凪は気の抜けた声を出した。
「なんで俺の気なんか引きたいんだよ」
「なんでって、もう1月も終わるんだよ?1月が終わったら2月でしょ。そしたらバレンタインデーじゃん」
「バレンタインデー」
「その通りっ!」
柿下が力説した。
「男子校だからってバレンタインデーのそわそわがないわけではないでしょう?女性が男性に送る文化も今じゃあ古いくらいだしね。僕たち同士だって友チョコを送りあったりしてもいいんだよ。だから逢坂くん、わかる?みんなチョコ、ほーしーいーの」
「チョコならどこにでも売ってるだろ」
「かぁぁぁぁっ!逢坂くんからのチョコが、ほーしーいーのー!」
「なんで俺」
柿下が黙り込んでぷるぷるとし始めたから、助けてほしくて宇田川のほうを見た。宇田川、通訳してくれ。
「えーっと、ほら、逢坂って一部絶大な人気があるというか。とくに凪子は寮のアイドルだろ?友チョコもいいけど、男は誰しも可愛い子からほしいと思う生き物なんじゃない……かな」
「はぁ?つまり、凪子からのチョコが欲しいってことか?意味わかんね」
階段を降りきり、食堂前の廊下にさしかかる。納得しかねる声を出すと、柿下が「やれやれ」という仕草をした。
「逢坂くんはさ、凪子の破壊力を理解したほうがいいよ。性格はこんなだけどさ、きみビジュだけは国宝級なんだから」
「おうおう柿下言ってくれるじゃねぇか」
「そのビジュが凪子ちゃんになることによって大爆発したときに、『あなたのことが好きですきゅるん☆』なんて言われてチョコ渡されたら、みーーんな鼻血ぶうして喜んじゃうよ。そんなつもりなくてもくらっときちゃうと思うな」
「えっ…マジ?」
そんなつもりなくてもくらっときちゃう、の部分に引っかかった。ということはもしかすると、凪に気のない相手でも凪のことを好きになってくれる可能性があるということか。
凪はチラと頼を見た。頼が少しでも、凪のことを気にしてくれるきっかけになったりするのだろうか……?
「よし、やってみるか」
「ダメだ」
凪のやる気は頼の一言によって霧散した。
2月14日当日。
考えた末、凪は凪自身から友チョコという形で仲のいい相手にだけ渡すことにした。まぁいつものメンバーのことだが。
(今日の夜でいっか)
チョコの入った紙袋はベッドサイドに置いてある。渡す算段をつけると、いつものように4人で朝食を済ませ、午前の授業を受けた。
昼休みになればちらほらとチョコをわけあっている寮生の姿を見かけた。柿下が得意顔で「ほらね、僕の言った通りでしょう?」と眉を上げる。
「僕だってみんなに持ってきてるんだよ」
「お、マジか。俺も俺も。あとで渡すわ」
やったー、交換だね、と柿下が喜んでいる。
そんな和気藹々とした雰囲気の中、凪たちが寮の玄関ホールを横切っていると、知らない寮生に呼び止められた。
「あ、あ、あのうっ!お邪魔してすみません。お、お、逢坂くん」
「えっ、お、俺?」
「はいっ」
小柄な寮生だ。同じ一年生だろうが、中学生に見える。その寮生は明らかに緊張しつつも礼儀正しく凪に「はじめまして」と言った。
「いきなりすみません。ただ僕、きみに、渡したい物があって……」
彼は自分の背中に隠し持っていたものをおずおずと差し出した。きれいにラッピングされたお菓子だ。
「僕、料理部なのですが、週末調理室を借りて作ったんです。自分でもかなりの出来だという自信があります。あの、よかったら、受け取っていただけませんか?」
「ええっと……」
びっくりした。まさか自分がよく知らない相手からいきなりチョコを渡されるとは思っていなかったからだ。
「それは、つまり、きみは俺のことが…好きってこと?」
平生を装いつつ、慎重に問うてみる。寮生はパッと顔を輝かして「はいっ」と答えた。
「でも安心してください!好きとはいっても、推しの意味のほうですから!つまり僕は、逢坂くんの大ファンってことです!」
「大ファン…、はぁ、なるほど?」
「だから付き合ってほしいとかじゃないんです。僕の自信作を受け取って欲しい、ただそれだけです。
だめですか?と聞かれたので、そういうことならと受け取った。
「ありがとう。美味しくいただくよ」
ただ中身がよくなかった。
「おーーーい頼ィ、何してんだよォどこ行くんだよォ離れんなよォ」
「コラ!離せ、このくっつき虫!お前に飲ませる水取りに行くんだよ!」
放課後になると、凪はトンデモナイ状況に陥っていた。もらったチョコがボンボンショコラだったのだ。
「わぁぁぁ、逢坂くん、吐く?吐きそう?気持ち悪い?だめだよ歩き回らないで、そんなフラフラじゃ転んじゃうよ!」
「がっはっは、俺が転んだりするかよォ!あィヤっ」
「……っぶねー。お前頭打って死ぬとこだったぞ。ほら、水飲め」
「頼じゃねぇかァ、まったくどこほっつき歩いてたんだァ」
「いいから水」
「いやだ」
「飲め」
「飲まん」
「うるせぇ」
「いやdごぼぼぼぼ……」
凪が飲みきると、頼、柿下、宇田川の三人は「はぁ」と深くため息をついていた。
「僕もまさか逢坂くんがここまでお酒弱いなんて思わなかったよ」
「ほんとに」
「二十歳になっても、絶対飲ませちゃだめだね」
「マジでな…」
柿下の呟きに頼と宇田川が同意した。
「う、ううう」
しばらくベッドで横になっていた凪は、意識が浮上してきたタイミングでもぞもぞと起きた。見回せば部屋には頼しかいない。
「あれぇ、みんなは?」
「夕飯。お前を一人にしておけないし、交代でいってる」
「ほえぇ」
「お前まだ酔ってるな」
「酔ってない。俺もチョコあるんだ。渡しに行かなきゃ」
ベッドサイドの紙袋を掴むと凪は部屋を出ようとした。頼に「コラ」と襟の後ろを掴まれる。
「酒が抜けるまでは外出禁止。あいつらなら戻ってくるのを待て」
「なぁんで頼はそんな怖い顔してるんだ?」
「怖い顔にもなるわ」
凪はきょとんと頼を見つめると、その顔が険しい理由について思い至った。
「わかったぞ。さてはお前、自分のぶんのチョコが無いと思ってご機嫌斜めなんだろ?」
「はぁ?……て、え、ちょっ」
勢い任せに頼にダイブする。予期していなかったのだろう、頼が「うわっ」と声をあげてベッドに倒れ込んだ。
「お前、なんだよっ」
「あるんだなぁ、それが!」
「やめろ、重い!」
凪は頼の上に馬乗りになった。にやりと笑う。
「バレンタインだぞー?俺からお前にチョコがないわけないだろっ!俺がお前のこと大好きだって知ってるくせに」
包みを頼の胸に押しつけた。頼が目を丸くしている。その頬にはさっと赤みが差したように見えた。
「どうだ、嬉しいか?ちゃんと休みの日に電車乗って買いに行ったんだぞ。大嫌いな電車に乗って行ったんだからなっ!お前のために」
「それは……ありがとう。嫌な目に遭わなかったか?」
「うむ。遭わなかった。俺は賢いからな。オフピークを狙って電車に乗ったんだ」
「そっか。安心した」
頼がほっとした表情をした。心配してくれたのがわかる。凪の胸がきゅんとした。チョコレートが溶けるみたいに、ほわっと温かくなった。
(ああ、好きだな……)
目の前の人が好きだ。それだけで、すごく幸せな気分になる。凪はにっこり笑った。
「へへへ、バレンタインだからなー、特別サービスだ!お前の好きなとこ10個言ってやる!」
「え」
大きく息を吸うと、凪は頼の好きなところを羅列していった。頼はびっくりした顔のままフリーズしている。
「まずはそうだなぁ、一緒にいて、一番楽しいやつだろ?」
「…お、おう」
「それから一緒にいて、一番落ち着くやつでもある」
「そ、そうか」
「けんかもするけど、俺のことちゃんと見てくれるし、優しい。満員電車で助けてくれたの、嬉しかったよ。倒れた時はすごく心配してくれたし、セーター貸してくれた」
「な、凪……」
「そういえばめっちゃいい匂いするんだよな、お前」
なんで?と首をかしげてから、鼻を頼の首元に近づけてすんすんと匂いを嗅ぐ。うん、やっぱりいい匂いだ。
頭を上げれば、頼は顔を右のほうに向けていて、右手で口元を覆っていた。耳の先まで赤くなっている。
「はは、顔真っ赤!頼くんたら照れてるのぉ?」
「ふざけんなっ。こいつマジなんなん……」
「あとはあとはぁ――」
めちゃくちゃ勤勉で努力家なところも尊敬してるし、弓道部での活動を頑張ってるのもすごいと思う。文武両道ってシンプルかっこいいよな。それから、ずぼらな俺とは違って身の回りの整理整頓とかちゃんとしているし、俺の消し忘れた明かりとか消しといてくれるし、そうだ、そういえば私服もかっこよかったな。遊園地の時もセンスいいなって思ったけど、俺んち遊びに来てくれた時も思った。なぁ、今度お前と服買いに行きたい。俺に似合うの一緒に探してよ。
「あれ?今いくつ言ったっけ?」
思いの丈を思うがままに吐き出していたら数えるのを忘れてしまっていた。
「ま、いっか。というわけで頼、俺はお前のこと相当好きなの。わかった?」
「わ、わかったわかった。わかったからそろそろどいてくれ」
「ダメだ。今度はお前の番なんだから」
「は?」
「俺の好きなとこ10個言って」
「……え」
「俺の!好きなとこ!お前も!10個!言えよーっ!」
「な、凪」
頼の両肩に手をついてふにゃふにゃと揺さぶる。頼が即答しないのが気にくわなかった。
「早く言えよ!言えないのか?ま、どうせお前は俺の顔だけ好きだったってことだろ。凪子のことタイプだもんな。このめんくいめが」
「ち、違うっ」
「じゃあ答えろよ!なんですぐ言えないんだよ!俺のこと好きじゃないのかっ?」
「凪、マジで勘弁して…」
依然として頼の顔は真っ赤だ。照れてしまって言いづらいのだろうが、酔っ払った凪にはそんなこと関係なかった。小さな子どものようにかんしゃくを起こす。
「なんで言ってくれないんだよ!俺のことそんな好きじゃないってことなのかよ!へーへーどうせ頼の本命より何もかも劣りますよーだ。ってかいい加減教えろよ!誰なんだよ好きなやつ!この俺を差し置いて一体誰がお前を好きにさせたんだーっ!親友は俺だぞー!俺のほうが絶対頼のこと好きだぞー!言えよー!じゃないと特権発動するからなー!お前は今後一切死ぬまで彼氏も彼女も作っちゃだめだっ!」
ジタバタと暴れた。頼が「落ち着け」と凪の腕を取る。そのうちに疲れと眠気がきて、へなへなと全身から力が抜けた。頼の胸にすっぽり収まる。耳がちょうど頼の心臓の位置にきた。バクバクと早い鼓動が聞こえてくる。
凪は最後の力を振り絞った。
「ほんとにおれは、おまえのことが、すきなんだよ」
覚えているのはそこまで。
カチャ、と扉が開く音がし、人の声が聞こえてきた。
「はぁ、あったまった~。やっぱり日本人はお風呂だねぇ」
凪の意識が浮上する。
「伊坂くん見守りお疲れ様。うちの問題児はまだ寝てるのかな?」
気配が近寄ってくるのを感じ取り、凪はゆっくりとまぶたを開けた。
「あ、逢坂くん、起きた?」
「う、ん……?」
「気分はどうだ、凪」
むくりと起き上がる。壁の時計を見ると夜の9時だった。夕食をすっとばして寝ていたらしい。
「腹減ったぁ、頭いてぇー、なにこれ、何があった?」
「覚えてないのか?」
頼に聞かれ、頭を抱えて唸る。うーん、うーん、うーん。三回目で凪は全部思い出した。
「お、俺っ!」
短く叫ぶと、こちらを覗き込んでいた頼と目がばっちり合った。焦りでアワアワする。凪は頼に迫り、「好きだ好きだ」といいまくったのではなかったか。や、や、やばすぎる!
急激に顔がカッとした。こればかりは恥ずかしくて穴があったら入りたいというか穴を掘ってでも入りたい。
「ごごごめん、あれはなんというか、なんだろう、とにかくごめん! ちょっと風呂いって頭冷やしてくる!」
「あ、おいっ」
慌てたような頼の声が凪の背中にかかった。
「お前、ボンボンショコラで酔っ払ってたんだからな!あんまり長湯するなよ!」
「おっけ」
――と、返事をしたはずが、絶賛凪はのぼせ気味だった。
共同風呂に入り頭と全身を洗い、少しの間だけ湯につかった。すると体がぽっぽしてきて、まずいと思った時にはフラフラし始めていた。
風呂から上がり、脱衣所でパンツ一丁のまま、扇風機の風にあたる。しばらくそうしていると、がらりとドアが開いて誰かが入ってくるのがわかった。
「おやおや、珍しい。逢坂凪じゃないか」
「……中島」
サイアクだ。今はこいつに会いたくなかった。またダル絡みされるのかと思うと引いてきた頭痛もぶり返しそうだ。
「もしかして昼寝でもして、そのまま寝過ごしたオチか? 夕食にもいなかったよなぁ」
「人の動向いちいち見てんじゃねぇよ。暇かよ」
「今日は大好きな伊坂もいないんだな」
「はぁ…」
盛大にため息をつく。ここは素直になったほうがいいのかもしれない。
「なぁ中島。ちょっと頼めるか。実は俺、今少し気分が悪くて」
「…俺に頼み事だと?」
「ああ。頼を呼んできてほしい」
「………アホか」
少し間があったあと、中島から怒号が飛んできた。「どうして俺があいつなんかを!」と吠えている。視界の端で拳が固く握られたのが見えた。
「お前はいつもいつも、伊坂伊坂伊坂伊坂っ!」
「なんだようるせぇな」
「あいつのことしか頭にないんだなっ!」
「悪ぃかよ」
「俺を見ろと言っただろっ!」
「はぁ? 頼むから怒鳴んないでくれ、頭に響く」
「俺を見ろよっ…!」
俯いた凪のあごを中島が掴む。凪は無理矢理上を向かせられた。そのまま体勢を崩し、膝から床に崩れ落ちる。仰向けに倒れたところに、なんと中島が覆い被さってきた。
「やめろ中島っ、どういうつもりだ」
「お前が悪い!全部お前が!」
「言いがかりだ。俺が一体お前に何をした」
両手首を掴まれ、床に縫い付けられた。中島の目は血走っていてギラギラしている。相当キレている。ゾッと悪寒が走った。
(もしかして俺、今、襲われてる……?)
抵抗しようにも力が入らない。このままボコボコに殴られてしまうのだろうか?くそ、こんな日に限ってどうして中島と遭遇してしまうのか。
(誰か助けてくれないだろうか…誰か……)
誰か、と願いながら、思い描いていたのは一人だった。自然と名前がこぼれた。
「頼……」
声が震えた。
「助けてくれ……頼」
突如、凪を押さえつけていた中島の重みが消えた。すべてがスローモーションに映り、中島の体が放物線を描いて脱衣ロッカーに激突する。何者かによって吹っ飛ばされたのだ。凪は目を瞠った。本物の頼だった。
「てめぇ!中島ァ!この野郎!」
凪は頼の咆哮を初めて聞いた。全身がビリビリする。髪の毛の1本1本までが怒っているかのように頼の髪が揺れている。
うっと呻きを上げた中島の首根っこを掴むと、頼は広い床まで引きずり出した。そして馬乗りになり、拳を振りかぶる。落とされたそれは中島の頬にクリティカルに入った。
「ゥっ!」
もう一発、二発。さすがにまずい。
「だめだ頼!それ以上殴るなっ!」
暴力沙汰はこの学園において指導が重い。相手にけがを負わせたとなれば謹慎処分になってしまうかもしれない。凪のせいで頼がそうなってしまうのは嫌だ。凪は必死にそれを伝えた。
「知ったことか!俺はお前が、こいつに傷つけられたことが許せない!」
「っ……」
ドスン、と鈍い音がした。頼の渾身の一発はしかしながら、中島の顔の真横の床に落とされていた。中島が脂汗を流しながら青い顔をしている。
その時再び扉がガチャリと開き、別の声がした。
「ちょっとぉ~、もうすぐ消灯時間だよ?いつまでお風呂入ってるつもりー?」
柿下と宇田川が立っていた。二人ともきょとんとしている。
「え、どういう状況?」
結局頼には、自宅謹慎1週間が言い渡されてしまった。学年末試験も差し迫るこの時期に、だ。だから頼が復帰した際には、凪はいの一番に謝った。
「本当にごめん!頼に迷惑かけてしまって。俺がもっとしっかりしてたら…」
「俺はいい」
「だけど、お前、また家で」
「ああ、これのことか」
頼は寮の部屋の鏡で自分の顔を確認した。見た目ほど痛くねぇしと笑っている。今回の件でよりはまた、父親に詰められたのだ。頬に前よりも大きな青アザができていた。
「マジでごめん…。俺のせいで、2度も」
「謝るなよ。これはむしろ凪のことを守った証だ。お前が無事でよかった」
「っ……」
「いわば勲章だよな。男の誉れだ」
頼はさっぱりした顔をしていた。凪のほうを向き、片方の眉尻だけ器用に上げる。
「惚れるだろ。惚れてもいいぞ」
「………バーカ」
もうすでに、惚れてるんだって。
内心そう呟きながら、凪は胸を押さえた。痛い。苦しい。頼のことが愛しくて胸が張り裂けそうだ。意味も無く泣けてくる。凪は悟った。
(この先もずっと、どんなことがあっても、この気持ちからは逃れられないんだろうな)
頼が好きだ。
たとえ頼に他に好きな人がいても、凪はいつまでも頼が好きだ。
それはどこか、諦めにも近い感情だった。
「あーあ。なんか一周まわってなんかムカついてきた」
「ん?」
「頼がかっこよくてムカつくって話」
「ハハッ。なんだそれ」
頼が笑う。つられて凪も笑う。凪は思った。伝えたい。
今度はちゃんと、ぼかすことなく、思いを伝えたい。
(来年は同じクラスになれるとも限らない。同じクラスだったとしても、同部屋になる保証はない。頼とずっと一緒にいられるわけじゃない。今ある当たり前は当たり前なんかじゃない)
「なぁ、頼」
「ん?」
「3学期が終わる頃にさ、お前に言いたいことがある。時間を取ってくれないか?」
「もちろんいいけど。今じゃダメなのか?」
「んー、まだ、心の準備ができてないから」
「心の準備?」
「まぁまぁ楽しみに待っててくれよ」
そう言って、凪は頼の肩を叩いた。
悔いなくこの一年を終えよう。
凪は一人気合いを入れ直した。
