文化祭の日に衝撃的な事実を知ってからというもの、凪は凪でなくなってしまった。
「で、あるからしてここにx5の値を代入すると――」
凪は数学の授業を受けていたが、頬杖をついてぼうっとしていた。内容が右耳から左耳に抜けていく。なかなか集中できない。努力してみても、視界に気になるものが映って気が散ってしまうのだ。
(くそっ、柿下のやつ、頼にベッタベタしやがって)
この日もいつも通り起床し、4人で朝食をとって、着替え、講義棟へと移動していた。だが途中で凪は筆記用具一式置いてきてしまったことに気づき、一人戻った。教室に着いたときにはすでに席が後方しか空いておらず――この授業はみんなちゃんと聞きたいから前列が人気なのだ――、しかたなく凪は後列に座った。するとどうだろう?今までは4人横並びで見えていなかったが、頼と柿下の距離がやけに近い気がするのだ。
(頼の好きな相手って、柿下だったりするんだろうか…?)
モヤっとした。
(そりゃあ親友としては、頼の恋路を応援すべきだとわかっているけどさ)
どうしてか感情が伴わない。頼が特定の誰かに独占されてしまうというのがひどく面白くない。それがたとえ、自分の仲の良い友人である柿下であっても。
(好きなやつって柿下?それとも別のやつ?年上?年下?……わからない。あいつ、全然教えてくれないもんな。いったい誰なんだ)
もやもや、きしきし、むかむか。なんでこんな思いをしなくちゃいけないんだと脳内で叫んでいると、次第に頼のことが小憎らしく思えてきた。凪は口をへの字に曲げ、頼の広い背中をぎぃっと睨む。
(まあいいさ。教えてくれないなら、俺が見つけ出すまでだ)
かくして凪による凪のための「頼観察日記」が始まった。
「おはよー」
「おう、おはよ」
「逢坂くん、最近早起きだよね」
「まぁな。朝活してるんだ」
爽やかな朝が来た。相部屋4人の中で頼は起床時刻が一番早い。だから凪も早めに起きるようになった。起きたらまず、頼は洗面と歯磨きにいく。歯を磨かないと口の中が気持ち悪いらしい。
その後部屋着のまま食堂へ朝食をとりにいく。凪、柿下、宇田川の髪の毛にはたいてい寝癖がついているのだが、頼がぼっさぼっさの頭でご飯を食べているところを見たことがない。いわく、「俺、髪質的にクセが付きにくいんだよな」とのことだ。このイケメン、生まれ持った要素がすでに爆アドすぎる。
部屋に帰ってくると各々が授業に行く準備を始めた。頼はたいてい持って行く荷物の整理は前の晩に終わらせているので、やることといえば制服に着替えることだけ。
「凪、そんなにガン見されると着替えにくいんだけど」
「えっ、べ、別に、見てねぇし!筋肉すげぇなとか思ってねぇし!」
「筋肉すごいって思ってるんだね」
柿下に突っ込まれて笑いが起きた。
授業にいけば、頼は真剣に先生の話を聞いている。凪は黒板半分、頼の顔半分くらいの比率でこっそり交互に見つめていた。だが途中、「俺のこと見過ぎ。前を向け、バカ」と口パクで諫められてしまった。なんだバレていたのか。
順調に午前の授業を4つこなせば、昼食の時間だ。みんなで食堂へと赴く。食欲をくすぐるいい匂いが漂ってきた。
「おお、みんな大好き肉ジャガじゃんっ」
凪はウキウキでトレーを運び、席に着く。他3人が着席したのを見届けると、「いただきます」と元気よく言ってガツガツ食べ始めた。うまい。味噌汁もとても沁みる。もう季節も冬だ。体が温まるものはありがたい。
半分ほど平らげたところで、忘れていた「頼観察日記」を再開した。頼は今凪の目の前に向かい合って座っている。その隣に柿下がいて、凪の隣は宇田川だ。
(こいつってほんと、行儀良いよなぁ)
男子高校生なのだから、その食べっぷりは非常に気持ちが良い。だけれども頼の食べ方にはどこか品がある。箸の使い方もちゃんとしているし、もちろん音を立てずに咀嚼している。でも、すごく美味しそうに食べるのだ。
「凪、マジで見過ぎ。お前はいったい何を企んでる」
「うぇ、え、いや見てないし」
「俺に何か言いたいことでもあんのか?」
「そうじゃない。マジでただ見てただけ……なんていうかその、頼の食べ方が気持ちいいなぁって」
「気持ちいい?」
「ほら、さ」
うちは妹と弟がいるからいつも食卓は戦場だったんだよ、と凪は話をした。山盛りに盛られた唐揚げもうかうかしてると秒でなくなってしまう。落ち着いて食事を味わえるっていうのは、とても幸せなことなんだよ、と。
「だからさ、俺は想像しちゃったわけよ」
「どんな」
「お前と結婚したら、幸せだろうなって」
「げほっ……」
頼が盛大にむせた。凪はびっくりした。
「だ、だ、だ、大丈夫伊坂くん!?」
「ほら水、水飲め伊坂っ」
「っ………ぷはっ」
コップの水を飲み干した頼は口元を拭うと、目元を赤くしながら凪のことを睨んだ。なんだよ、そんな気に障るようなこと言ったか?
「いきなりとんでもないこと言うねぇ、逢坂くん」
柿下が肩をすくめる。宇田川も苦笑いで「逢坂は本当に伊坂のことが好きなんだな」と言った。
「そりゃ好きさ。親友だからな。お前らのことだって好きだぞ。でもさ、そんな変なこと言ったか?俺はただ、頼と結婚する人は幸せ者だなって思っただけだ。こんなふうに落ち着いて食卓囲んでくれて、しかも美味しそうに食べてくれるんだろ?最高じゃん」
凪が言い切ると、柿下と宇田川が互いに顔を合わせてから、なんとも言えない表情になった。頼が言った。
「いいよ、柿下、宇田川。こいつのことはほっといて」
「うん、でも、僕、不覚にもときめいちゃった。大輔もときめいた?」
「あ……ああ。だが、狙ってやってないんだろうな、逢坂は」
「そう、そこなんだよ!」
頼が勢いよく頷く。
「こいつはもう、どうっっしようもなく無自覚でさ」
「……はぁッ? んだよ頼、無自覚無自覚うるせぇな」
「無自覚な上に魔性の小悪魔で手に負えないとんでもモンスターなんだ」
「無視すんなっ! てかお前それ、悪口だろっ」
凪の短い叫びが食堂に響き渡った。
それから1週間ほどだ。
凪は頼のことを目で追う生活を続けていた。そのうちに変化があった。なんと、凪の体調が悪くなってしまったのだ。
頼のことを考えていると夜眠れないことが増え、食欲も落ちた。原因不明の胸の痛みは今もなお突発的に発生する。頼の姿を視界に入れると胸が痛むことに気づいてからは、ふざけんなという気持ちと、だけれども目が離せないという現実の板挟みに悩んでいた。
(これまでずっと観察してきたけど、頼の好きな相手の手がかりは全然掴めてないし…)
なにしてんだろ。
「またあんまり寝れなかったな……」
ちゅんちゅんちゅん――小鳥の声が窓の外から聞こえてくる。眠れずに布団の中で丸くなていた凪は、むくりと起き上がった。寒くて出たくはなかったが、今日は朝食当番だ。
花ノ宮学園では寮生活をする上で決まり事がたくさんある。その中の一つに、寮生は交代で食事係をするというものがあった。
食事係といっても調理や配膳のことではない。決められた時間内に寮生がしっかり食事をとりにきているか、名簿にチェックしていくのだ。昔は監督生によって行われる仕事だったのだそうだが、いつしか寮生が全員参加するシステムに変わっていったという。
凪は洗面を済まし適当に髪をとかすと、食堂の入り口へと赴いた。時刻は朝の6時半だ。ぶるりと体が震える。一歩部屋から出ると、屋内であっても寒い。
「おはようございます。ってあれ?誰もいない」
一番乗りだ。ファイルを手に取り、相方である上級生の朝食当番が来るのを待った。だが待てども待てども来ない。ついには食事をしにきた早起きの寮生たちがちらほらと現れ始めた。仕方がない。一人でやるか。
「おはよう逢坂。今日お前担当なん?」
「おう、おはよ。そうなんだよ。マジだりぃ~」
顔見知りが来たので軽口を叩く。名前がわかるので楽だ。わからない相手のことはいちいち引き留めて聞かなくてはならない。そうやって忙しなく動いているうちに1時間弱ほど経った。困った。
いよいよ来ないのだ、相方の上級生が。
もしかしたら忘れているのかもしれない。それはいい。いいのだが、これでは凪が食事をとる時間がなくなってしまう。本来なら交代で休憩が設けられるはずが、凪はぶっ通しで入り口に立っていた。
(食欲はないしワンチャン朝飯抜きでもいいんだけど、さすがに寒いんだよな……)
身震いした。薄着をしてきたつもりはないが、明らかに嫌な寒気を感じていた。最終の朝八時までこのままでは風邪を引いてしまうかもしれない。
すん、と鼻をすすってどうしようか考えていると、廊下の先から耳慣れた声が聞こえてきた。角から姿を現したのは頼、柿下、宇田川の3人組だ。
柿下が何かを面白そうにしゃべっていて、頼と宇田川が笑っている。そのまま柿下は何かの真似をし始め、ぴょんぴょんと跳びはねた。ジャンプしすぎて、横を行く他の寮生にぶつかりそうになる。頼がぐいと柿下の腕を引いた。
「あ」
きゅうっと凪の胸が痛くなる。苦しい。息がしづらい。
凪はふるふると頭をふると、頼たちを見ないよう手の中の名簿に集中した。たんたんと寮生を捌いていく。やがて頼たちが入り口を通った。
「凪?」
耳心地の良い声が落ちてくる。見なくてもわかる。頼だ。だけど凪はどうしてか顔を上げたくなかった。頼にひっつく柿下の姿を見たら、うまく笑える気がしない。
「大丈夫か?」
だが頼は凪を下から覗き込んできた。びっくりした。
「顔色悪いぞ。真っ青だ。体調悪いのか?」
「よ……頼」
顔を上げれば、そこには頼一人しかいない。柿下と宇田川はもう中に入っているらしい。ということは、頼だけ残ってわざわざ凪に声をかけてくれたということだ。ほわっと心が温かくなる。
「食事係は二人一組だろ?もう一人はどうした」
「先輩のはずなんだけど、まだ来ないんだ」
「は?ってことはずっと凪一人でやってたのか」
頼の眉が歪められる。怒っているのがわかった。たぶん、凪のために怒ってくれている。そう思うと再びほわっと心が軽くなる。
「メシは食ったか?」
首を横に振る。
「ファイル、貸して。俺が立っとくから、メシ食って来いよ。今にも倒れそうな顔してんぞ」
「いいのか……?」
「いいさ。ま、これは貸しだけどな」
わざとらしくにっと笑う頼を見て、凪はなんて優しいやつなんだろうと思った。あえてふざけたように言うことで、凪に申し訳なさを感じさせないようにしているのだろう。それが伝わってくる。頼はそういうやつだ。
「ありがとう。恩に着る。食べ終わったら、すぐ戻ってくるから」
「ゆっくりでいい。しっかり食べろ」
頼の言葉に甘えて凪は食堂に入った。柿下と宇田川のいるテーブルに座ると、「どうしたの逢坂くん今にも倒れそうな顔してるよっ?」と心配されたので相当ひどい状態だったのだろう。そして言葉の通り、ご飯を食べている最中で凪は倒れてしまった。
「――それじゃあ逢坂くん。食欲がなくてもしっかり食事はとるように。体を冷やさないこと。いいですか」
「は、はい」
「そうしたら、今日からもう部屋帰っていいから。忘れ物しないようにね」
「はい。お世話になりました」
凪は白いベッドから降りると、寮医に頭を下げ、身支度を始めた。久しぶりに部屋に帰ることができる。ほっと息を吐いた。
(たった三日間だったけど、長く感じたな。みんな元気かな)
あの日、食堂で倒れてしまった凪は、結局高熱を出して寝込むことになった。体調不良の寮生は相部屋で寝ることができないので、凪はずっと寮の医務室で過ごしていた。もちろん授業などはすべて欠席だ。
進んだ分の授業をどうにか追いつかなくては――などと考えていると、コン、コン、とドアがノックされる音がした。寮医が答える。
「はい、どうぞ」
「失礼します」
「おや、またきみかい」
頼が顔を出した。凪の気分が浮上する。医務室で過ごした3日間、頼は毎日欠かさずお見舞いにきてくれていた。
「凪、おはよう。調子はどうだ」
「おう。すっかり熱も下がったぜ。もう帰っていいって」
「本当か!」
凪がピースをしてみせると、寮医が「くれぐれも油断しないでくださいね」と釘をさしてきた。二人して苦笑いをする。
「荷物、これだけ?持つよ」
「サンキュ、助かる」
肩を並べて部屋へと帰る。到着すると、柿下と宇田川がおかえりといって喜んでくれた。
(あ、やべ、セーター、洗濯しなきゃだ)
一時間目の授業の用意をしていると、部屋に置きっぱなしにしていた自分のセーターが汚れたままだったことに気がついた。食堂で倒れてしまった時にオニオンスープを引っかけてしまったのだ。洗濯に出さなければ。
予備を探すもなかなか見つからない。時間も無いので、凪はシャツの上にブレザーを羽織って部屋を出ようとした。
「薄着すぎだろそれ」
頼に待ったをかけられた。状況を説明すると、頼がおもむろに着ていたセーターを脱ぎ始めた。
「着ろ」
「え?」
「貸してやる。着ろ。それだと治った風邪もまたぶり返すだろ」
「いいのか? 頼が寒いんじゃ?」
「俺は健康体だからな」
手渡されたセーターにはぬくもりが残っている。凪はそれをじっと見つめたあと、思わず笑みを零した。シンプルに嬉しい。ありがたく頭を通す。爽やかな匂いが鼻孔をくすぐった。頼に包まれているような感覚がして、ひどく安心した。
「あったかい。ありがと」
「おう」
「でも見ろよ、ワンサイズ大きいから萌え袖になっちまう、ハハ」
「あー……うん。いいんじゃない?」
若干の間を不思議に思ったが、「ほら早く行くぞ」といって頼はブレザーを羽織り直した。部屋を出て講義棟へと向かう。
それからだ。頼がかいがいしく凪の世話を焼くことが増えた。倒れたことが相当心配だったのだろう。たとえば食堂で凪が席に着こうとしたら頼が代わりにイスを引いてくれたし、風呂上がりには濡れた髪の毛をドライヤーで乾かしてくれた。休んでいた分の勉強を見てほしいと頼めば、快く承諾してくれた。
「だから、この指示語の意味はここから引っ張ってくればいい。それからここの構文の訳は――」
さすがはインターナショナルスクール卒、頼は英語が抜群にできる。しかもわかりやすい。英語に限らず、不安な教科は全てわかるまで教えてくれた。
「悪いな頼、貴重な休日なのに。お前も柿下たちと一緒に行きたかっただろ?」
「いいや。俺は凪といるほうがいい」
「そ、そう?」
この日は週末の日曜日で、部屋には凪と頼の二人だけだった。柿下と宇田川は知り合いの演劇部の公演を見にアセンブリホールに出かけている。凪は照れくさくなったことがバレないよう、懸命に手を動かした。
「じゃあ次は化学、ノート見せてもらってもいいか?」
「もちろん」
頼の美しい字を追う。教科書を横に置きながら、自分のノートに書き写していった。途中で難しい部分があったので、質問をした。
「あ、それね。先生も応用問題だって言ってた」
勉強机に座る凪に対して右側から、覆い被さるようにして頼が身を寄せてきた。距離が近い。何度嗅いだかわからない頼の匂いがする。
(いかんいかん、集中集中)
邪念を振り払い勉強すること数十分。凪は化学でわからないところも全て潰し終え、欠席分の遅れを無事に取り戻すことができた。開放感に深く息を吐く。
「終わったぁ~!根詰めてやったから、疲れたなぁ」
「お疲れ。昼過ぎから始めたから、かれこれ3時間?」
「ぶっ通しだったな。頼も長時間、俺に付き合ってくれてサンキューな」
「おうよ」
ぐうっと伸びたついでに立ち上がり、凪は頼のベッドにダイブした。「おい、俺の寝床だぞ」と言われたが知るか。今は頼のベッドに寝転がりたい気分なんだ。
「頭使ったから腹減ったなぁ。なんかおやつあったっけ」
そういえば、とズボンのポケットをごそごそする。凪のお気に入りのチューイングキャンディーが顔を出した。
「ははっ。なぁ頼これ、覚えてるか?」
「うわ、懐かしい。肝試しの時くれたやつじゃん」
まさにその通り。あの時と味まで同じだ。凪は銀紙を剥がし、一つを口に放り込んだ。
「頼も食べるか?」
「食べる」
凪が差し出したそれを受け取ると、頼も凪の隣にきてクッションをいい位置に調整し、寝転がった。もぐもぐと味わいながら、あの日はマジでヤバかったよな、と昔話に花を咲かせる。
「お前が腹鳴りそうとか言った時はほんと焦ったぜ」
「しかたねぇだろ、成長期舐めんな」
「俺に感謝しろよな。コイツのおかげで少なくとも腹は鳴らずに済んだんだから」
結局見つかっちゃったけどな、と言って、また二人で笑った。今ではいい思い出だ。
笑いながら、凪はふいにあることを思いついた。
「頼」
「ん?」
「あーん」
「は?」
「ほら、口開けろよ。あーん」
「おまっ…」
ピアノの下と同じように、凪が手ずから頼に食べさせようとする。頼はぎょっと目を丸くして最初は抵抗していた。けれども凪が引かないとわかると、しぶしぶ唇で受け取り、食べ始めた。ほんのり頬が赤い。しばらく咀嚼したあと、喉仏が上下した。
「ふざけんな凪。素面でやったらこれめちゃめちゃ恥ずかしいんだぞ?あの時は深夜テンションだったからよかったものを」
「ハハハッ、赤くなってやんの」
「っ、お前も食え!俺の手から食え!」
やだね、と拒否する。久しぶりにぎゃあぎゃあうるさいもみ合いになった。押さえつけ、押さえつけられ、最終的には頼が凪の上に馬乗りになる。
「これでお前はもう、動けまい」
「お、重てぇよ頼!ずりぃぞ」
ニヤリと笑った頼が銀紙を剥がし始めた。裸になったチューイングキャンディーを凪の唇にあてがう。甘酸っぱいレモンの香りが鼻腔を突き抜けた。
「凪、ほら、あーん」
「んんんーっ」
「諦めろ。お前だって俺に食べさせただろ?今度は俺がそうする番だ」
「んぐっ!」
お、鬼だこいつ!あろうことか、頼は凪の鼻をつまんだのだ。口を開けざるをえなかった。
「ふぃふぉーふぁほ!」
「うるさい」
凪はぷりぷりしながらチューイングキャンディーを食べた。食べ物に罪はない。
飲み込み、もうどけよ、と言おうとした瞬間、もう一つが突っ込まれた。
「うぐ!」
「凪だって俺に何個かくれただろ?はい、あーん」
「おまえなぁ……」
そんなやりとりがしばらく続いた。次第に口数が減る。凪はしかめっ面で頼のことを見上げていた。下からのアングルでもイケメンとはまったくどういうことだ。
ついに最後の一個が与えられた時、指に唇が触れてしまった。びくりと頼が固まる。一瞬の出来事だったが、頼の指は熱を孕んでいたような気がした。そして凪のことを眺めたまま、動かなくなってしまった。
「おい、頼。どうかしたか?もうないぞ」
「ん……」
なんだか変だ。凪はよっこらせと上体を起こした。頼がどかないので自然と顔が近くなる。ずっとこちらの顔を見られている。厳密に言えば、ずっと唇を見られているような気がする。
「なぁ、どうしたんだよ」
頼は何も言わない。
「なぁって。何考えてるんだ?俺の口に何か付いてるか?」
「いや。……どんな味がするのかな、と思って」
――どんな味がするのかな、と思って。
凪は首をかしげた。レモン味に決まっている。それは頼もわかって食べていたはずだ。
「多分凪が考えていることじゃない」
刹那、目と目があって、凪も動けなくなった。黒の瞳がまっすぐこちらを見つめている。違うというなら、正解はなんなんだ。
「どんな味がするんだろうな……」
同じことを繰り返した頼は、ゆっくりと右手を持ち上げ、その親指の腹で凪の唇をなでた。輪郭を辿るように行き来する。魔法にかかったように体温が上がった。吸い寄せられる。
頼に吸い寄せられる。
(どんな味がするんだろう)
気がつけば凪も、頼に対して同じことを考えていた。濃密な雰囲気に、頭がバグりそうだ。いや、ずいぶん前からバグっていた。
触れてみたい。
頼に触れてみたい……。
そう思った、その時だった。
「ただいまぁ~!あぁ、面白かったぁ」
部屋の扉が開いて魔法が解けた。柿下が帰ってきたのだ。宇田川もいる。彼らは室内の様子をみとめると驚いた顔をした。
「ちょっと、またケンカァ?プロレスでもやってたのぉ?」
「ずいぶん散らかってるな」
二人が驚くのも無理はない。布団はぐしゃぐしゃに丸まり、お菓子の包み紙があちこちに散乱している状態なのだから。だけれども凪はそんなことはどうでもよかった。心臓がバクバクしてはち切れそうだ。
「ってか逢坂くん大丈夫? 顔が真っ赤だよぉ?」
「お、お、お、お、俺、トイレッ!」
頼の下から這い出ると、小学生男子のようなセリフを吐いて部屋を飛び出した。廊下をひた走る。どこに行けばいいかなんてわからない。本能のまま体を動かす。陽が傾き始め、遠くの空はオレンジ色になりつつあった。やがて凪は秘密のベンチにたどり着いた。
「はぁっ、はぁ、はぁ……っ」
膝に両手を支えのようにしてつく。泣き出したい気分だ。
「だからか……、やっと全部、腑に落ちた……っ、くそ」
文化祭の日、どうして千夏を見て胸がモヤモヤしたのか。
柿下が頼の近くにいるだけで、どうして胸が痛むのか。
頼のことを考えるだけで、どうして夜も眠れなくなったのか。
答えはすごく簡単なことだった。
(あぁ、俺って……)
頼のことが好きだったんだ。
ずっとずっと、好きだったんだ。だからこんなにも苦しかった。
「くっそ」
膝を折り、地面に座り込んだ。ベンチの座面に背を預ける。これは勘違いではない。勘違いだったら親友に対して触れたいなどと思わないだろう。それ以上のことも考えないだろう。
だって、凪はキスしてみたかった。あのまま柿下たちが帰ってきていなかったら、多分自分は一線を越えようとしていたと思う。
(最悪だ……)
できっこないのに。よかった、柿下たちが来てくれて。
「ふざけんなよぉ、好きだってわかった瞬間、玉砕確定かよぉ……」
憎らしいほどに綺麗な夕空に向かって、凪は吠えた。親友であり、ライバルであり、想い人のいる相手を好きになってしまった。叶いっこない。片思いだ。
「あーあ」
吐き出した息は、目を見張るほどに白かった。
2025年も最終盤、12月25日を迎えた。クリスマスだ。
花ノ宮学園は2学期の期末試験も終え、成績発表があり、さきほど終業式も終えた。試験の結果は散々だった。頼がぶっちぎりの1位に対し、凪はそれに30点差をつけられてしまった2位。逆に3位とは5点差だ。まぁ色々あったし、しょうがないかなとも思っている。
「よぉ~し、みんな準備できた?よーい、スタート」
寮の部屋にジングルベルの音楽が流れる。柿下がスマートフォンで見つけてきたものだ。今日は柿下の発案で、帰省をする前にプレゼント交換会をしようということになっていた。
室内にはスーツケースやボストンバッグが目立つ傍ら、みんなで部屋の中心にほど近い頼のベッド周辺に集まる。各自土日などを利用して買ってきたクリスマスプレゼントを、爆弾ゲームのように隣の人間に回し始めた。
(頼のプレゼント、何だろう。……欲しいな)
凪は回転寿司よろしくくるくると回るプレゼントたちを――というより頼の用意した包みを――注意深く目で追っていた。有名百貨店とわかる緑色の包装紙に赤いリボンが付いていて、いかにもクリスマスらしい。
4人の中では凪の買ってきたものが一番小さい。小さいけれど、安くはない。もしも頼にわたったら……ということを想像しながら、百貨店で時間をかけて選んだものだ。見た瞬間にこれだと思った。
(渡るといいな……)
ちら、と頼を盗み見る。頼は楽しそうに笑っていた。それだけで喉元がきゅうとするような、むず痒くなるような妙な感覚だった。
(頼のプレゼントも、できたら欲しいな)
凪は目線を戻した。
あれから、頼との関係はなんら変わっていない。普通に接してくれている。きっと頼の中では大した出来事ではなかったのだろう。凪の中は荒れに大荒れだが。
ふとした瞬間に好きだと思ってしまう。それが溢れ出ないようにするのに骨が折れる。そして同じだけ切なくなる。胸がきゅうと苦しくなる。
「はいはいはいっ、ストップ~!」
ジングルベルが鳴り終わり、回転寿司が止まった。凪の手元には、柿下からのプレゼントがあった。そして、凪のプレゼントは運良く頼の手中に納められている。
(よっしゃ…っ)
脳内ガッツポーズを決めた。
「わぁ、僕のプレゼント、逢坂くんにいったんだね!気に入ってくれるといいな」
「おう。ありがとう。柿下のは、宇田川からの?」
「うん。へへ、開けるの楽しみぃ~」
誰のが誰にいったかを確認したあと、順番に開封していくことにした。
「わ、マグカップだ!おしゃれ~」
柿下が手にしているのはステンレスマグカップだ。ホットもアイスもいけるし、アウトドアでも使えるらしい。宇田川らしいと思った。
凪が包みを開けると、入浴剤のセットとアイマスクが入っていた。柿下は「今すっごく寒いから、体が温まるものにしたんだよ~」とにこにこしている。凪はありがたく感謝を伝えた。
宇田川が頼からのプレゼントの包装紙をあけている間、凪は正直羨ましくて直視できなかった。
(いいなぁ、宇田川。頼からだったら、どんなプレゼントでも嬉しいや)
気になる中身は、定番ブランドのハンカチとタオルケットのセットだ。頼らしい品のいいチョイスである。
最後は頼が凪からのプレゼントを開ける番だった。ドキドキした。気に入ってくれるだろうか?
「あ……」
箱を開けると、光沢のあるボディのボールペンが姿を現した。色はネイビーのようでありシルバーのようであり、その唯一無二な感じを凪は気に入っていた。気になる頼の反応はといえば、まじまじとそのボールペンを見つめたあと、パッと凪のほうを見て、
「かっけぇ!これ、すげぇいいボールペンじゃなかったっけ?」
と喜んでいる。凪も嬉しくなった。
「おう。探してたらさ、出会って一目惚れしたんだよね」
柿下や宇田川からもそれいいねと褒められた。凪は頭のうしろをぽりぽりとかいて「へっへ~」と照れ笑いをした。
その後名残惜しくも交換会が幕を下ろすと、いよいよ帰路へとつく。約2週間の冬休みだ。もう年が変わるのかと思うと感慨深い気持ちになる。
「凪、俺もそっち方面いくよ」
「え?」
家の人が車で迎えにくる柿下と宇田川とは違い、凪と頼はそれぞれ電車で帰る組だ。頼はなんと、凪を電車で1人帰らせるのは心配だからとわざわざ最寄りの駅まで送ってくれるというのだ。こういうところが、ほんと、なんていうか――、
「ずるいよなぁ、お前って」
「は?」
「ほんとずるい。人の気も知らないで」
「なんだよ、一人で帰りたかったか?」
「ちげぇよ!そうじゃねぇんだよ!ありがてぇよ!あーもうこんにゃろこんにゃろこんにゃろ」
ホームで電車待ちをしながら頼のお腹にパンチを食らわせた。もちろん本気ではない。頼も「情緒不安定かよ」と笑っている。
「よし来た電車乗るぞっ」
「はいはい」
ホームに滑り込んできた電車に荷物ごとよいしょと乗り込み、座席に並んで座る。時刻は午後3時を過ぎたくらいで、幸いそこまで混んではいない。電車が発進し、しばらくは他愛のない話をした。
だがすぐに凪は寂しくなった。
(あと3駅か……)
凪の最寄りまでの駅が1つ1つと減っていくのが寂しい。ついてしまったら、別れを言わなくてはいけない。きっと頼はそんな感情みじんも抱いていないんだろうけど。
「お前、今夜は何か予定あるのか?」
気を紛らわすように話題を振った。
「ん?今夜はそうだな、家で家族とそれなりの食事、かな。チキン食べたりとか」
「おお、うちもそう。やっぱあそこのチキン?」
人気フランチャイズ店の名前が出て盛り上がる。今年はレギュラーの味に加え、ゆずコショウや甘辛味噌、南蛮タルタルなどの変わり種が発売されているから、どれを試してみたいかなんてことも話した。
「そろそろ着くな」
そう呟いて頼が立ち上がる。一方の凪は腰が重くて仕方がなかった。
(降りたら、次に頼と会えるのは3学期……)
ドアが開くと冷たい風が頬をなでた。首元が寒くてぶるりと震える。凪はホームに降りると、
「今度は俺がお前の帰りの電車のホームまで見送るよ」
と言った。少しでも一緒にいられる時間を稼ぐためだ。二人でエスカレータを下りた。
凪の最寄りの駅はそれなりに大きく、駅構内の地下には服屋や雑貨屋、本屋をはじめとした複数のショップが入っていた。それらを横目に凪がとぼとぼ歩いていると、ケーキ屋のそばで後ろから声がかかる。
「凪」
ふり帰れば、頼が立ち止まっていた。まっすぐこちらを見ている。どうしたんだろう。
「あのさ、渡したいものがあるんだ」
「渡したいもの?」
数歩戻って頼に近づいた。頼は荷物の中をごそごそ探すと、なにやら包みを取り出す。ぽかんとしていると、それが目の前に差し出された。
「メリークリスマス」
「メリー……、え?なに?これ、俺に?」
「ああ。お前にやる」
「えっ、でもさっき寮でプレゼントは……」
戸惑いを察知したのだろう、頼が説明してくれた。最初から、凪に個人的に渡すつもりだったのだと。
「だから寮でのあれは、誰に渡ってもいいものを選んだんだ」
「えっ……」
理解が追いつかずに目をぱちぱちしていると、「開けてみて」と頼が優しく言った。凪は震える手で包みを解いていった。
「マフラー……」
「うん。お前、こないだひどい風邪引いて倒れたくせに、マフラーも手袋もないんだもんな。もっと体温めないとよくないぞ、マジで」
貸して、と言われて頼がマフラーを取り上げる。タグを取り外すと、凪の首にぐるりとマフラーを巻いてくれた。新品の匂いがする。温かい。肌触りはふかふかで、とても気持ちいい。
「似合うじゃん」
「頼…」
急に顔が熱くなる。嬉しくてどうしようもなかった。胸がはち切れそうだ。
「お前ってほんと、マジ、すげぇよ……」
「え、どゆこと」
凪の心を掴んで離さない。凪は両手でぎゅっとマフラーを顔に押し当てた。
(どうしよう、好きだ。好きで好きでたまらない)
パッと顔を上げ、凪は笑った。
「ありがとう。マジで嬉しい。一生大切にする」
「おうよ。気に入ってくれたならよかった」
「それからさ――」
伝えたかった。この気持ちを、頼が好きなんだと、伝えたかった。頼に好きな人がいると知っていても、片思いだとわかりきっていても、凪は言ってみたかった。言葉にしてみたかった。
「頼に聞いてほしいことがあるんだ」
「ん?」
「お、俺、実は……」
重要な部分をぼかして伝えるぶんにはいいだろう。
「好きな人ができた」
「………は?」
「俺にも、好きな人ができたんだ」
しばしの沈黙。
直後、凪は目の前の人物がすさまじい顔をしていることに気づいてぎょっとした。
「よ、頼?」
「……だろ……」
「え?」
「嘘だろっ?」
ガシッと両肩を掴まれた。強い力だ。
「誰だ!」
「い、いてぇよ、いきなりなんだよ」
「相手は誰だ!」
問いただされる。頼の眉は歪められていた。凪はびっくりした。
「それは……言えない」
「言えないだと! 俺の知っている人か? いつからだ? 付き合うのか?」
「痛いって頼! ええっと、自覚したのはつい最近……?」
その後も繰り返し相手は誰かと聞かれたが、凪は頑なに言わなかった。「そっちだって教えてくれないじゃんか」と言うと頼がばつの悪そうに黙り込む。やがてしぶしぶといった感じで、「お前が誰かを好きなるのを俺は止められない。だけどな」と言った。
「俺に親友特権とか言って、恋人を作らせまいとしてきたんだから……お前も絶対作るなよ?」
「え、あー……大丈夫。それはない」
凪は言い切った。
「俺が好きになった人には他に好きな相手がいるから」
「そうなのか?」
「そうだよ。片思い。玉砕決定。だからその人と俺が付き合う確率はゼロ」
ま、お前のことだけどな。
内心呟く。すると頼が興味深いことを言った。
「同じだ」
「え?」
「俺も同じだ。俺の好きな人にも、好きな相手がいる」
「マジかよ……」
俺たち、どっちも片思いなのか。
きゅうっと喉が締め付けられる。頼もまた同じ境遇だとは思わなかったので、不覚にも嬉しくなってしまった。そして嬉しいと思っている自分が嫌になる。凪は下を向いた。
ふいに、リンリンリーンというベルの音が耳に飛び込んできた。
「16時になりました~、17時までの限定クリスマスケーキセールで~す!」
リンリンリーン。
子連れの母親がホールケーキを買っている。子どもは嬉しそうだ。見渡せば、構内は幸せそうな家族やカップルの姿が多くあった。そりゃそうだ、クリスマスだもの。
「いいよなぁ、世間は幸せそうで」
「……だな」
「あーあ。お互い、頑張ろうな」
何をどう頑張るかはわからない。だけど凪はとりあえずそう言った。頼も「そうだな」とアンニュイに返事をする。「帰るか」とどちらともなく言った。
ケーキ屋のそばを離れる直前、スタッフの女性にメリークリスマスと声をかけられた。二人は苦笑いでメリークリスマスと挨拶を返す。内心、凪は違った。
メリー・メリー・クルシミマスー。
「で、あるからしてここにx5の値を代入すると――」
凪は数学の授業を受けていたが、頬杖をついてぼうっとしていた。内容が右耳から左耳に抜けていく。なかなか集中できない。努力してみても、視界に気になるものが映って気が散ってしまうのだ。
(くそっ、柿下のやつ、頼にベッタベタしやがって)
この日もいつも通り起床し、4人で朝食をとって、着替え、講義棟へと移動していた。だが途中で凪は筆記用具一式置いてきてしまったことに気づき、一人戻った。教室に着いたときにはすでに席が後方しか空いておらず――この授業はみんなちゃんと聞きたいから前列が人気なのだ――、しかたなく凪は後列に座った。するとどうだろう?今までは4人横並びで見えていなかったが、頼と柿下の距離がやけに近い気がするのだ。
(頼の好きな相手って、柿下だったりするんだろうか…?)
モヤっとした。
(そりゃあ親友としては、頼の恋路を応援すべきだとわかっているけどさ)
どうしてか感情が伴わない。頼が特定の誰かに独占されてしまうというのがひどく面白くない。それがたとえ、自分の仲の良い友人である柿下であっても。
(好きなやつって柿下?それとも別のやつ?年上?年下?……わからない。あいつ、全然教えてくれないもんな。いったい誰なんだ)
もやもや、きしきし、むかむか。なんでこんな思いをしなくちゃいけないんだと脳内で叫んでいると、次第に頼のことが小憎らしく思えてきた。凪は口をへの字に曲げ、頼の広い背中をぎぃっと睨む。
(まあいいさ。教えてくれないなら、俺が見つけ出すまでだ)
かくして凪による凪のための「頼観察日記」が始まった。
「おはよー」
「おう、おはよ」
「逢坂くん、最近早起きだよね」
「まぁな。朝活してるんだ」
爽やかな朝が来た。相部屋4人の中で頼は起床時刻が一番早い。だから凪も早めに起きるようになった。起きたらまず、頼は洗面と歯磨きにいく。歯を磨かないと口の中が気持ち悪いらしい。
その後部屋着のまま食堂へ朝食をとりにいく。凪、柿下、宇田川の髪の毛にはたいてい寝癖がついているのだが、頼がぼっさぼっさの頭でご飯を食べているところを見たことがない。いわく、「俺、髪質的にクセが付きにくいんだよな」とのことだ。このイケメン、生まれ持った要素がすでに爆アドすぎる。
部屋に帰ってくると各々が授業に行く準備を始めた。頼はたいてい持って行く荷物の整理は前の晩に終わらせているので、やることといえば制服に着替えることだけ。
「凪、そんなにガン見されると着替えにくいんだけど」
「えっ、べ、別に、見てねぇし!筋肉すげぇなとか思ってねぇし!」
「筋肉すごいって思ってるんだね」
柿下に突っ込まれて笑いが起きた。
授業にいけば、頼は真剣に先生の話を聞いている。凪は黒板半分、頼の顔半分くらいの比率でこっそり交互に見つめていた。だが途中、「俺のこと見過ぎ。前を向け、バカ」と口パクで諫められてしまった。なんだバレていたのか。
順調に午前の授業を4つこなせば、昼食の時間だ。みんなで食堂へと赴く。食欲をくすぐるいい匂いが漂ってきた。
「おお、みんな大好き肉ジャガじゃんっ」
凪はウキウキでトレーを運び、席に着く。他3人が着席したのを見届けると、「いただきます」と元気よく言ってガツガツ食べ始めた。うまい。味噌汁もとても沁みる。もう季節も冬だ。体が温まるものはありがたい。
半分ほど平らげたところで、忘れていた「頼観察日記」を再開した。頼は今凪の目の前に向かい合って座っている。その隣に柿下がいて、凪の隣は宇田川だ。
(こいつってほんと、行儀良いよなぁ)
男子高校生なのだから、その食べっぷりは非常に気持ちが良い。だけれども頼の食べ方にはどこか品がある。箸の使い方もちゃんとしているし、もちろん音を立てずに咀嚼している。でも、すごく美味しそうに食べるのだ。
「凪、マジで見過ぎ。お前はいったい何を企んでる」
「うぇ、え、いや見てないし」
「俺に何か言いたいことでもあんのか?」
「そうじゃない。マジでただ見てただけ……なんていうかその、頼の食べ方が気持ちいいなぁって」
「気持ちいい?」
「ほら、さ」
うちは妹と弟がいるからいつも食卓は戦場だったんだよ、と凪は話をした。山盛りに盛られた唐揚げもうかうかしてると秒でなくなってしまう。落ち着いて食事を味わえるっていうのは、とても幸せなことなんだよ、と。
「だからさ、俺は想像しちゃったわけよ」
「どんな」
「お前と結婚したら、幸せだろうなって」
「げほっ……」
頼が盛大にむせた。凪はびっくりした。
「だ、だ、だ、大丈夫伊坂くん!?」
「ほら水、水飲め伊坂っ」
「っ………ぷはっ」
コップの水を飲み干した頼は口元を拭うと、目元を赤くしながら凪のことを睨んだ。なんだよ、そんな気に障るようなこと言ったか?
「いきなりとんでもないこと言うねぇ、逢坂くん」
柿下が肩をすくめる。宇田川も苦笑いで「逢坂は本当に伊坂のことが好きなんだな」と言った。
「そりゃ好きさ。親友だからな。お前らのことだって好きだぞ。でもさ、そんな変なこと言ったか?俺はただ、頼と結婚する人は幸せ者だなって思っただけだ。こんなふうに落ち着いて食卓囲んでくれて、しかも美味しそうに食べてくれるんだろ?最高じゃん」
凪が言い切ると、柿下と宇田川が互いに顔を合わせてから、なんとも言えない表情になった。頼が言った。
「いいよ、柿下、宇田川。こいつのことはほっといて」
「うん、でも、僕、不覚にもときめいちゃった。大輔もときめいた?」
「あ……ああ。だが、狙ってやってないんだろうな、逢坂は」
「そう、そこなんだよ!」
頼が勢いよく頷く。
「こいつはもう、どうっっしようもなく無自覚でさ」
「……はぁッ? んだよ頼、無自覚無自覚うるせぇな」
「無自覚な上に魔性の小悪魔で手に負えないとんでもモンスターなんだ」
「無視すんなっ! てかお前それ、悪口だろっ」
凪の短い叫びが食堂に響き渡った。
それから1週間ほどだ。
凪は頼のことを目で追う生活を続けていた。そのうちに変化があった。なんと、凪の体調が悪くなってしまったのだ。
頼のことを考えていると夜眠れないことが増え、食欲も落ちた。原因不明の胸の痛みは今もなお突発的に発生する。頼の姿を視界に入れると胸が痛むことに気づいてからは、ふざけんなという気持ちと、だけれども目が離せないという現実の板挟みに悩んでいた。
(これまでずっと観察してきたけど、頼の好きな相手の手がかりは全然掴めてないし…)
なにしてんだろ。
「またあんまり寝れなかったな……」
ちゅんちゅんちゅん――小鳥の声が窓の外から聞こえてくる。眠れずに布団の中で丸くなていた凪は、むくりと起き上がった。寒くて出たくはなかったが、今日は朝食当番だ。
花ノ宮学園では寮生活をする上で決まり事がたくさんある。その中の一つに、寮生は交代で食事係をするというものがあった。
食事係といっても調理や配膳のことではない。決められた時間内に寮生がしっかり食事をとりにきているか、名簿にチェックしていくのだ。昔は監督生によって行われる仕事だったのだそうだが、いつしか寮生が全員参加するシステムに変わっていったという。
凪は洗面を済まし適当に髪をとかすと、食堂の入り口へと赴いた。時刻は朝の6時半だ。ぶるりと体が震える。一歩部屋から出ると、屋内であっても寒い。
「おはようございます。ってあれ?誰もいない」
一番乗りだ。ファイルを手に取り、相方である上級生の朝食当番が来るのを待った。だが待てども待てども来ない。ついには食事をしにきた早起きの寮生たちがちらほらと現れ始めた。仕方がない。一人でやるか。
「おはよう逢坂。今日お前担当なん?」
「おう、おはよ。そうなんだよ。マジだりぃ~」
顔見知りが来たので軽口を叩く。名前がわかるので楽だ。わからない相手のことはいちいち引き留めて聞かなくてはならない。そうやって忙しなく動いているうちに1時間弱ほど経った。困った。
いよいよ来ないのだ、相方の上級生が。
もしかしたら忘れているのかもしれない。それはいい。いいのだが、これでは凪が食事をとる時間がなくなってしまう。本来なら交代で休憩が設けられるはずが、凪はぶっ通しで入り口に立っていた。
(食欲はないしワンチャン朝飯抜きでもいいんだけど、さすがに寒いんだよな……)
身震いした。薄着をしてきたつもりはないが、明らかに嫌な寒気を感じていた。最終の朝八時までこのままでは風邪を引いてしまうかもしれない。
すん、と鼻をすすってどうしようか考えていると、廊下の先から耳慣れた声が聞こえてきた。角から姿を現したのは頼、柿下、宇田川の3人組だ。
柿下が何かを面白そうにしゃべっていて、頼と宇田川が笑っている。そのまま柿下は何かの真似をし始め、ぴょんぴょんと跳びはねた。ジャンプしすぎて、横を行く他の寮生にぶつかりそうになる。頼がぐいと柿下の腕を引いた。
「あ」
きゅうっと凪の胸が痛くなる。苦しい。息がしづらい。
凪はふるふると頭をふると、頼たちを見ないよう手の中の名簿に集中した。たんたんと寮生を捌いていく。やがて頼たちが入り口を通った。
「凪?」
耳心地の良い声が落ちてくる。見なくてもわかる。頼だ。だけど凪はどうしてか顔を上げたくなかった。頼にひっつく柿下の姿を見たら、うまく笑える気がしない。
「大丈夫か?」
だが頼は凪を下から覗き込んできた。びっくりした。
「顔色悪いぞ。真っ青だ。体調悪いのか?」
「よ……頼」
顔を上げれば、そこには頼一人しかいない。柿下と宇田川はもう中に入っているらしい。ということは、頼だけ残ってわざわざ凪に声をかけてくれたということだ。ほわっと心が温かくなる。
「食事係は二人一組だろ?もう一人はどうした」
「先輩のはずなんだけど、まだ来ないんだ」
「は?ってことはずっと凪一人でやってたのか」
頼の眉が歪められる。怒っているのがわかった。たぶん、凪のために怒ってくれている。そう思うと再びほわっと心が軽くなる。
「メシは食ったか?」
首を横に振る。
「ファイル、貸して。俺が立っとくから、メシ食って来いよ。今にも倒れそうな顔してんぞ」
「いいのか……?」
「いいさ。ま、これは貸しだけどな」
わざとらしくにっと笑う頼を見て、凪はなんて優しいやつなんだろうと思った。あえてふざけたように言うことで、凪に申し訳なさを感じさせないようにしているのだろう。それが伝わってくる。頼はそういうやつだ。
「ありがとう。恩に着る。食べ終わったら、すぐ戻ってくるから」
「ゆっくりでいい。しっかり食べろ」
頼の言葉に甘えて凪は食堂に入った。柿下と宇田川のいるテーブルに座ると、「どうしたの逢坂くん今にも倒れそうな顔してるよっ?」と心配されたので相当ひどい状態だったのだろう。そして言葉の通り、ご飯を食べている最中で凪は倒れてしまった。
「――それじゃあ逢坂くん。食欲がなくてもしっかり食事はとるように。体を冷やさないこと。いいですか」
「は、はい」
「そうしたら、今日からもう部屋帰っていいから。忘れ物しないようにね」
「はい。お世話になりました」
凪は白いベッドから降りると、寮医に頭を下げ、身支度を始めた。久しぶりに部屋に帰ることができる。ほっと息を吐いた。
(たった三日間だったけど、長く感じたな。みんな元気かな)
あの日、食堂で倒れてしまった凪は、結局高熱を出して寝込むことになった。体調不良の寮生は相部屋で寝ることができないので、凪はずっと寮の医務室で過ごしていた。もちろん授業などはすべて欠席だ。
進んだ分の授業をどうにか追いつかなくては――などと考えていると、コン、コン、とドアがノックされる音がした。寮医が答える。
「はい、どうぞ」
「失礼します」
「おや、またきみかい」
頼が顔を出した。凪の気分が浮上する。医務室で過ごした3日間、頼は毎日欠かさずお見舞いにきてくれていた。
「凪、おはよう。調子はどうだ」
「おう。すっかり熱も下がったぜ。もう帰っていいって」
「本当か!」
凪がピースをしてみせると、寮医が「くれぐれも油断しないでくださいね」と釘をさしてきた。二人して苦笑いをする。
「荷物、これだけ?持つよ」
「サンキュ、助かる」
肩を並べて部屋へと帰る。到着すると、柿下と宇田川がおかえりといって喜んでくれた。
(あ、やべ、セーター、洗濯しなきゃだ)
一時間目の授業の用意をしていると、部屋に置きっぱなしにしていた自分のセーターが汚れたままだったことに気がついた。食堂で倒れてしまった時にオニオンスープを引っかけてしまったのだ。洗濯に出さなければ。
予備を探すもなかなか見つからない。時間も無いので、凪はシャツの上にブレザーを羽織って部屋を出ようとした。
「薄着すぎだろそれ」
頼に待ったをかけられた。状況を説明すると、頼がおもむろに着ていたセーターを脱ぎ始めた。
「着ろ」
「え?」
「貸してやる。着ろ。それだと治った風邪もまたぶり返すだろ」
「いいのか? 頼が寒いんじゃ?」
「俺は健康体だからな」
手渡されたセーターにはぬくもりが残っている。凪はそれをじっと見つめたあと、思わず笑みを零した。シンプルに嬉しい。ありがたく頭を通す。爽やかな匂いが鼻孔をくすぐった。頼に包まれているような感覚がして、ひどく安心した。
「あったかい。ありがと」
「おう」
「でも見ろよ、ワンサイズ大きいから萌え袖になっちまう、ハハ」
「あー……うん。いいんじゃない?」
若干の間を不思議に思ったが、「ほら早く行くぞ」といって頼はブレザーを羽織り直した。部屋を出て講義棟へと向かう。
それからだ。頼がかいがいしく凪の世話を焼くことが増えた。倒れたことが相当心配だったのだろう。たとえば食堂で凪が席に着こうとしたら頼が代わりにイスを引いてくれたし、風呂上がりには濡れた髪の毛をドライヤーで乾かしてくれた。休んでいた分の勉強を見てほしいと頼めば、快く承諾してくれた。
「だから、この指示語の意味はここから引っ張ってくればいい。それからここの構文の訳は――」
さすがはインターナショナルスクール卒、頼は英語が抜群にできる。しかもわかりやすい。英語に限らず、不安な教科は全てわかるまで教えてくれた。
「悪いな頼、貴重な休日なのに。お前も柿下たちと一緒に行きたかっただろ?」
「いいや。俺は凪といるほうがいい」
「そ、そう?」
この日は週末の日曜日で、部屋には凪と頼の二人だけだった。柿下と宇田川は知り合いの演劇部の公演を見にアセンブリホールに出かけている。凪は照れくさくなったことがバレないよう、懸命に手を動かした。
「じゃあ次は化学、ノート見せてもらってもいいか?」
「もちろん」
頼の美しい字を追う。教科書を横に置きながら、自分のノートに書き写していった。途中で難しい部分があったので、質問をした。
「あ、それね。先生も応用問題だって言ってた」
勉強机に座る凪に対して右側から、覆い被さるようにして頼が身を寄せてきた。距離が近い。何度嗅いだかわからない頼の匂いがする。
(いかんいかん、集中集中)
邪念を振り払い勉強すること数十分。凪は化学でわからないところも全て潰し終え、欠席分の遅れを無事に取り戻すことができた。開放感に深く息を吐く。
「終わったぁ~!根詰めてやったから、疲れたなぁ」
「お疲れ。昼過ぎから始めたから、かれこれ3時間?」
「ぶっ通しだったな。頼も長時間、俺に付き合ってくれてサンキューな」
「おうよ」
ぐうっと伸びたついでに立ち上がり、凪は頼のベッドにダイブした。「おい、俺の寝床だぞ」と言われたが知るか。今は頼のベッドに寝転がりたい気分なんだ。
「頭使ったから腹減ったなぁ。なんかおやつあったっけ」
そういえば、とズボンのポケットをごそごそする。凪のお気に入りのチューイングキャンディーが顔を出した。
「ははっ。なぁ頼これ、覚えてるか?」
「うわ、懐かしい。肝試しの時くれたやつじゃん」
まさにその通り。あの時と味まで同じだ。凪は銀紙を剥がし、一つを口に放り込んだ。
「頼も食べるか?」
「食べる」
凪が差し出したそれを受け取ると、頼も凪の隣にきてクッションをいい位置に調整し、寝転がった。もぐもぐと味わいながら、あの日はマジでヤバかったよな、と昔話に花を咲かせる。
「お前が腹鳴りそうとか言った時はほんと焦ったぜ」
「しかたねぇだろ、成長期舐めんな」
「俺に感謝しろよな。コイツのおかげで少なくとも腹は鳴らずに済んだんだから」
結局見つかっちゃったけどな、と言って、また二人で笑った。今ではいい思い出だ。
笑いながら、凪はふいにあることを思いついた。
「頼」
「ん?」
「あーん」
「は?」
「ほら、口開けろよ。あーん」
「おまっ…」
ピアノの下と同じように、凪が手ずから頼に食べさせようとする。頼はぎょっと目を丸くして最初は抵抗していた。けれども凪が引かないとわかると、しぶしぶ唇で受け取り、食べ始めた。ほんのり頬が赤い。しばらく咀嚼したあと、喉仏が上下した。
「ふざけんな凪。素面でやったらこれめちゃめちゃ恥ずかしいんだぞ?あの時は深夜テンションだったからよかったものを」
「ハハハッ、赤くなってやんの」
「っ、お前も食え!俺の手から食え!」
やだね、と拒否する。久しぶりにぎゃあぎゃあうるさいもみ合いになった。押さえつけ、押さえつけられ、最終的には頼が凪の上に馬乗りになる。
「これでお前はもう、動けまい」
「お、重てぇよ頼!ずりぃぞ」
ニヤリと笑った頼が銀紙を剥がし始めた。裸になったチューイングキャンディーを凪の唇にあてがう。甘酸っぱいレモンの香りが鼻腔を突き抜けた。
「凪、ほら、あーん」
「んんんーっ」
「諦めろ。お前だって俺に食べさせただろ?今度は俺がそうする番だ」
「んぐっ!」
お、鬼だこいつ!あろうことか、頼は凪の鼻をつまんだのだ。口を開けざるをえなかった。
「ふぃふぉーふぁほ!」
「うるさい」
凪はぷりぷりしながらチューイングキャンディーを食べた。食べ物に罪はない。
飲み込み、もうどけよ、と言おうとした瞬間、もう一つが突っ込まれた。
「うぐ!」
「凪だって俺に何個かくれただろ?はい、あーん」
「おまえなぁ……」
そんなやりとりがしばらく続いた。次第に口数が減る。凪はしかめっ面で頼のことを見上げていた。下からのアングルでもイケメンとはまったくどういうことだ。
ついに最後の一個が与えられた時、指に唇が触れてしまった。びくりと頼が固まる。一瞬の出来事だったが、頼の指は熱を孕んでいたような気がした。そして凪のことを眺めたまま、動かなくなってしまった。
「おい、頼。どうかしたか?もうないぞ」
「ん……」
なんだか変だ。凪はよっこらせと上体を起こした。頼がどかないので自然と顔が近くなる。ずっとこちらの顔を見られている。厳密に言えば、ずっと唇を見られているような気がする。
「なぁ、どうしたんだよ」
頼は何も言わない。
「なぁって。何考えてるんだ?俺の口に何か付いてるか?」
「いや。……どんな味がするのかな、と思って」
――どんな味がするのかな、と思って。
凪は首をかしげた。レモン味に決まっている。それは頼もわかって食べていたはずだ。
「多分凪が考えていることじゃない」
刹那、目と目があって、凪も動けなくなった。黒の瞳がまっすぐこちらを見つめている。違うというなら、正解はなんなんだ。
「どんな味がするんだろうな……」
同じことを繰り返した頼は、ゆっくりと右手を持ち上げ、その親指の腹で凪の唇をなでた。輪郭を辿るように行き来する。魔法にかかったように体温が上がった。吸い寄せられる。
頼に吸い寄せられる。
(どんな味がするんだろう)
気がつけば凪も、頼に対して同じことを考えていた。濃密な雰囲気に、頭がバグりそうだ。いや、ずいぶん前からバグっていた。
触れてみたい。
頼に触れてみたい……。
そう思った、その時だった。
「ただいまぁ~!あぁ、面白かったぁ」
部屋の扉が開いて魔法が解けた。柿下が帰ってきたのだ。宇田川もいる。彼らは室内の様子をみとめると驚いた顔をした。
「ちょっと、またケンカァ?プロレスでもやってたのぉ?」
「ずいぶん散らかってるな」
二人が驚くのも無理はない。布団はぐしゃぐしゃに丸まり、お菓子の包み紙があちこちに散乱している状態なのだから。だけれども凪はそんなことはどうでもよかった。心臓がバクバクしてはち切れそうだ。
「ってか逢坂くん大丈夫? 顔が真っ赤だよぉ?」
「お、お、お、お、俺、トイレッ!」
頼の下から這い出ると、小学生男子のようなセリフを吐いて部屋を飛び出した。廊下をひた走る。どこに行けばいいかなんてわからない。本能のまま体を動かす。陽が傾き始め、遠くの空はオレンジ色になりつつあった。やがて凪は秘密のベンチにたどり着いた。
「はぁっ、はぁ、はぁ……っ」
膝に両手を支えのようにしてつく。泣き出したい気分だ。
「だからか……、やっと全部、腑に落ちた……っ、くそ」
文化祭の日、どうして千夏を見て胸がモヤモヤしたのか。
柿下が頼の近くにいるだけで、どうして胸が痛むのか。
頼のことを考えるだけで、どうして夜も眠れなくなったのか。
答えはすごく簡単なことだった。
(あぁ、俺って……)
頼のことが好きだったんだ。
ずっとずっと、好きだったんだ。だからこんなにも苦しかった。
「くっそ」
膝を折り、地面に座り込んだ。ベンチの座面に背を預ける。これは勘違いではない。勘違いだったら親友に対して触れたいなどと思わないだろう。それ以上のことも考えないだろう。
だって、凪はキスしてみたかった。あのまま柿下たちが帰ってきていなかったら、多分自分は一線を越えようとしていたと思う。
(最悪だ……)
できっこないのに。よかった、柿下たちが来てくれて。
「ふざけんなよぉ、好きだってわかった瞬間、玉砕確定かよぉ……」
憎らしいほどに綺麗な夕空に向かって、凪は吠えた。親友であり、ライバルであり、想い人のいる相手を好きになってしまった。叶いっこない。片思いだ。
「あーあ」
吐き出した息は、目を見張るほどに白かった。
2025年も最終盤、12月25日を迎えた。クリスマスだ。
花ノ宮学園は2学期の期末試験も終え、成績発表があり、さきほど終業式も終えた。試験の結果は散々だった。頼がぶっちぎりの1位に対し、凪はそれに30点差をつけられてしまった2位。逆に3位とは5点差だ。まぁ色々あったし、しょうがないかなとも思っている。
「よぉ~し、みんな準備できた?よーい、スタート」
寮の部屋にジングルベルの音楽が流れる。柿下がスマートフォンで見つけてきたものだ。今日は柿下の発案で、帰省をする前にプレゼント交換会をしようということになっていた。
室内にはスーツケースやボストンバッグが目立つ傍ら、みんなで部屋の中心にほど近い頼のベッド周辺に集まる。各自土日などを利用して買ってきたクリスマスプレゼントを、爆弾ゲームのように隣の人間に回し始めた。
(頼のプレゼント、何だろう。……欲しいな)
凪は回転寿司よろしくくるくると回るプレゼントたちを――というより頼の用意した包みを――注意深く目で追っていた。有名百貨店とわかる緑色の包装紙に赤いリボンが付いていて、いかにもクリスマスらしい。
4人の中では凪の買ってきたものが一番小さい。小さいけれど、安くはない。もしも頼にわたったら……ということを想像しながら、百貨店で時間をかけて選んだものだ。見た瞬間にこれだと思った。
(渡るといいな……)
ちら、と頼を盗み見る。頼は楽しそうに笑っていた。それだけで喉元がきゅうとするような、むず痒くなるような妙な感覚だった。
(頼のプレゼントも、できたら欲しいな)
凪は目線を戻した。
あれから、頼との関係はなんら変わっていない。普通に接してくれている。きっと頼の中では大した出来事ではなかったのだろう。凪の中は荒れに大荒れだが。
ふとした瞬間に好きだと思ってしまう。それが溢れ出ないようにするのに骨が折れる。そして同じだけ切なくなる。胸がきゅうと苦しくなる。
「はいはいはいっ、ストップ~!」
ジングルベルが鳴り終わり、回転寿司が止まった。凪の手元には、柿下からのプレゼントがあった。そして、凪のプレゼントは運良く頼の手中に納められている。
(よっしゃ…っ)
脳内ガッツポーズを決めた。
「わぁ、僕のプレゼント、逢坂くんにいったんだね!気に入ってくれるといいな」
「おう。ありがとう。柿下のは、宇田川からの?」
「うん。へへ、開けるの楽しみぃ~」
誰のが誰にいったかを確認したあと、順番に開封していくことにした。
「わ、マグカップだ!おしゃれ~」
柿下が手にしているのはステンレスマグカップだ。ホットもアイスもいけるし、アウトドアでも使えるらしい。宇田川らしいと思った。
凪が包みを開けると、入浴剤のセットとアイマスクが入っていた。柿下は「今すっごく寒いから、体が温まるものにしたんだよ~」とにこにこしている。凪はありがたく感謝を伝えた。
宇田川が頼からのプレゼントの包装紙をあけている間、凪は正直羨ましくて直視できなかった。
(いいなぁ、宇田川。頼からだったら、どんなプレゼントでも嬉しいや)
気になる中身は、定番ブランドのハンカチとタオルケットのセットだ。頼らしい品のいいチョイスである。
最後は頼が凪からのプレゼントを開ける番だった。ドキドキした。気に入ってくれるだろうか?
「あ……」
箱を開けると、光沢のあるボディのボールペンが姿を現した。色はネイビーのようでありシルバーのようであり、その唯一無二な感じを凪は気に入っていた。気になる頼の反応はといえば、まじまじとそのボールペンを見つめたあと、パッと凪のほうを見て、
「かっけぇ!これ、すげぇいいボールペンじゃなかったっけ?」
と喜んでいる。凪も嬉しくなった。
「おう。探してたらさ、出会って一目惚れしたんだよね」
柿下や宇田川からもそれいいねと褒められた。凪は頭のうしろをぽりぽりとかいて「へっへ~」と照れ笑いをした。
その後名残惜しくも交換会が幕を下ろすと、いよいよ帰路へとつく。約2週間の冬休みだ。もう年が変わるのかと思うと感慨深い気持ちになる。
「凪、俺もそっち方面いくよ」
「え?」
家の人が車で迎えにくる柿下と宇田川とは違い、凪と頼はそれぞれ電車で帰る組だ。頼はなんと、凪を電車で1人帰らせるのは心配だからとわざわざ最寄りの駅まで送ってくれるというのだ。こういうところが、ほんと、なんていうか――、
「ずるいよなぁ、お前って」
「は?」
「ほんとずるい。人の気も知らないで」
「なんだよ、一人で帰りたかったか?」
「ちげぇよ!そうじゃねぇんだよ!ありがてぇよ!あーもうこんにゃろこんにゃろこんにゃろ」
ホームで電車待ちをしながら頼のお腹にパンチを食らわせた。もちろん本気ではない。頼も「情緒不安定かよ」と笑っている。
「よし来た電車乗るぞっ」
「はいはい」
ホームに滑り込んできた電車に荷物ごとよいしょと乗り込み、座席に並んで座る。時刻は午後3時を過ぎたくらいで、幸いそこまで混んではいない。電車が発進し、しばらくは他愛のない話をした。
だがすぐに凪は寂しくなった。
(あと3駅か……)
凪の最寄りまでの駅が1つ1つと減っていくのが寂しい。ついてしまったら、別れを言わなくてはいけない。きっと頼はそんな感情みじんも抱いていないんだろうけど。
「お前、今夜は何か予定あるのか?」
気を紛らわすように話題を振った。
「ん?今夜はそうだな、家で家族とそれなりの食事、かな。チキン食べたりとか」
「おお、うちもそう。やっぱあそこのチキン?」
人気フランチャイズ店の名前が出て盛り上がる。今年はレギュラーの味に加え、ゆずコショウや甘辛味噌、南蛮タルタルなどの変わり種が発売されているから、どれを試してみたいかなんてことも話した。
「そろそろ着くな」
そう呟いて頼が立ち上がる。一方の凪は腰が重くて仕方がなかった。
(降りたら、次に頼と会えるのは3学期……)
ドアが開くと冷たい風が頬をなでた。首元が寒くてぶるりと震える。凪はホームに降りると、
「今度は俺がお前の帰りの電車のホームまで見送るよ」
と言った。少しでも一緒にいられる時間を稼ぐためだ。二人でエスカレータを下りた。
凪の最寄りの駅はそれなりに大きく、駅構内の地下には服屋や雑貨屋、本屋をはじめとした複数のショップが入っていた。それらを横目に凪がとぼとぼ歩いていると、ケーキ屋のそばで後ろから声がかかる。
「凪」
ふり帰れば、頼が立ち止まっていた。まっすぐこちらを見ている。どうしたんだろう。
「あのさ、渡したいものがあるんだ」
「渡したいもの?」
数歩戻って頼に近づいた。頼は荷物の中をごそごそ探すと、なにやら包みを取り出す。ぽかんとしていると、それが目の前に差し出された。
「メリークリスマス」
「メリー……、え?なに?これ、俺に?」
「ああ。お前にやる」
「えっ、でもさっき寮でプレゼントは……」
戸惑いを察知したのだろう、頼が説明してくれた。最初から、凪に個人的に渡すつもりだったのだと。
「だから寮でのあれは、誰に渡ってもいいものを選んだんだ」
「えっ……」
理解が追いつかずに目をぱちぱちしていると、「開けてみて」と頼が優しく言った。凪は震える手で包みを解いていった。
「マフラー……」
「うん。お前、こないだひどい風邪引いて倒れたくせに、マフラーも手袋もないんだもんな。もっと体温めないとよくないぞ、マジで」
貸して、と言われて頼がマフラーを取り上げる。タグを取り外すと、凪の首にぐるりとマフラーを巻いてくれた。新品の匂いがする。温かい。肌触りはふかふかで、とても気持ちいい。
「似合うじゃん」
「頼…」
急に顔が熱くなる。嬉しくてどうしようもなかった。胸がはち切れそうだ。
「お前ってほんと、マジ、すげぇよ……」
「え、どゆこと」
凪の心を掴んで離さない。凪は両手でぎゅっとマフラーを顔に押し当てた。
(どうしよう、好きだ。好きで好きでたまらない)
パッと顔を上げ、凪は笑った。
「ありがとう。マジで嬉しい。一生大切にする」
「おうよ。気に入ってくれたならよかった」
「それからさ――」
伝えたかった。この気持ちを、頼が好きなんだと、伝えたかった。頼に好きな人がいると知っていても、片思いだとわかりきっていても、凪は言ってみたかった。言葉にしてみたかった。
「頼に聞いてほしいことがあるんだ」
「ん?」
「お、俺、実は……」
重要な部分をぼかして伝えるぶんにはいいだろう。
「好きな人ができた」
「………は?」
「俺にも、好きな人ができたんだ」
しばしの沈黙。
直後、凪は目の前の人物がすさまじい顔をしていることに気づいてぎょっとした。
「よ、頼?」
「……だろ……」
「え?」
「嘘だろっ?」
ガシッと両肩を掴まれた。強い力だ。
「誰だ!」
「い、いてぇよ、いきなりなんだよ」
「相手は誰だ!」
問いただされる。頼の眉は歪められていた。凪はびっくりした。
「それは……言えない」
「言えないだと! 俺の知っている人か? いつからだ? 付き合うのか?」
「痛いって頼! ええっと、自覚したのはつい最近……?」
その後も繰り返し相手は誰かと聞かれたが、凪は頑なに言わなかった。「そっちだって教えてくれないじゃんか」と言うと頼がばつの悪そうに黙り込む。やがてしぶしぶといった感じで、「お前が誰かを好きなるのを俺は止められない。だけどな」と言った。
「俺に親友特権とか言って、恋人を作らせまいとしてきたんだから……お前も絶対作るなよ?」
「え、あー……大丈夫。それはない」
凪は言い切った。
「俺が好きになった人には他に好きな相手がいるから」
「そうなのか?」
「そうだよ。片思い。玉砕決定。だからその人と俺が付き合う確率はゼロ」
ま、お前のことだけどな。
内心呟く。すると頼が興味深いことを言った。
「同じだ」
「え?」
「俺も同じだ。俺の好きな人にも、好きな相手がいる」
「マジかよ……」
俺たち、どっちも片思いなのか。
きゅうっと喉が締め付けられる。頼もまた同じ境遇だとは思わなかったので、不覚にも嬉しくなってしまった。そして嬉しいと思っている自分が嫌になる。凪は下を向いた。
ふいに、リンリンリーンというベルの音が耳に飛び込んできた。
「16時になりました~、17時までの限定クリスマスケーキセールで~す!」
リンリンリーン。
子連れの母親がホールケーキを買っている。子どもは嬉しそうだ。見渡せば、構内は幸せそうな家族やカップルの姿が多くあった。そりゃそうだ、クリスマスだもの。
「いいよなぁ、世間は幸せそうで」
「……だな」
「あーあ。お互い、頑張ろうな」
何をどう頑張るかはわからない。だけど凪はとりあえずそう言った。頼も「そうだな」とアンニュイに返事をする。「帰るか」とどちらともなく言った。
ケーキ屋のそばを離れる直前、スタッフの女性にメリークリスマスと声をかけられた。二人は苦笑いでメリークリスマスと挨拶を返す。内心、凪は違った。
メリー・メリー・クルシミマスー。
