とある土曜日の朝、凪は昼近くまでゆっくりと寝ていた。凪の所属するバドミントン部は平日しか練習がないため、基本的に土日は自由に過ごすことができる。
目を覚ますと他には誰もいない。部屋の隅にある洗面台へと顔を洗いにいく。鏡に映った自分の姿にはセルフつっこみを入れざるをえなかった。なんじゃこの寝癖は。まるで鳥の巣だ。
そこに部活の午前練習を終えた頼が帰ってきた。弓道部の道着を身につけ、右肩にはカバーに入った長い弓をかけている。
「おう、凪。今起きたのか?」
「ああ。おはよ。おつかれ」
「すげぇ頭だな」
そのすげぇ頭をわしゃわしゃとかき回され、さらにひどい有様にされた。やめろよと言って腹パンする。
「今からウルトラスーパースタイリッシュ俺になるんだからよ」
頭に水をざぶーんとかけ、ドライヤーと手ぐしでなんとか整えた。
髪が乾ききる頃には頼も普段着へと着替え終わっていた。1年生だが大会に出ることもあるらしい頼は忙しい。それなのに頼が練習を午前で切り上げて戻ってきたのには理由がある。二人には今日、やるべき任務があるのだ。
『次は、△△駅~、△△駅~。お降りの際はお忘れ物にご注意ください』
ガタンゴトンと電車に揺られて目的の駅まで行くと――ちなみに二人とも、ショルダーバッグには凪が遊園地でゲットしたブサカワなぬいぐるみをぶら下げている――、ショッピングセンターへと歩いて向かった。任務とはズバリ、買い出しである。11月に開催される花ノ宮学園の文化祭のためだ。
(あーあ、またあの格好するのかぁ。だりぃなぁ)
凪は髪をがしがしかきながらため息をついた。クラスの出し物がメイド&執事カフェに決まった時、クラスはまた凪子が見れるとボルテージマックスになっていた。凪もすかさず「俺だって執事がいい!」と訴えたのだが、民主主義の力の前に却下された。はぁ。
そんなこんなでカフェをやるのに使うものの調達はクラス全員が協力しあって持ち回りで出向いている。今日は凪と頼の番だった。幸いにも買い物自体は順調に終わった。
「なぁ頼、そろそろ今回のアレ、教えろよ」
「今回のアレ?」
いくばくかの疲労感を覚えた二人は、休憩するためフードコートに寄った。凪はミルクティー、頼はカフェオレをそれぞれ購入し、テーブル席につく。荷物は足下のかごに入れた。大きくて運べないようなものは全て学園宛てに配達を頼んだのでかなり楽だ。さすがは私立、こういうところは融通が利くからいい。
「忘れたのかよ。勝ったほうが負けたほうに言うこと聞かすアレ。お前少し考えたいとかもったいぶったきり全然言ってこねぇし」
「ああ、そうだったな」
凪が言っているのは少し前に行われた2学期中間試験の結果についてだ。頼が1位、凪が2位だった。猛烈に勉強机にかじりついたのだが5点差で負けてしまった。凪は肩をすくめた。
「そんな悩むことでもないだろ。思いつかないならナシでいいんだぜ?」
「残念。いろいろ迷ったけど、もう決めてある」
「チッ。しかたねぇな。聞いてやるさ。言うがいい」
からん、と氷がグラスの中で鳴った。凪が前傾姿勢で頬杖をついているのを真似するかのように、頼もまた頬杖をつき、まっすぐに凪のことを見つめてくる。自然と顔と顔の距離が縮まった。
「文化祭、俺と回ってよ」
しばし考える。
なんだそんな簡単なことでいいのかとほっとする反面、なんで?と不思議に思うことがあった。
「なんで、俺?別にいいけど……わざわざ約束を取り付けるほどのことなのか?」
「ああ。わざわざ約束を取り付けるほどのことなんだよ。わかんない?」
「はぁ?わかんね」
「わかんないか。無自覚だもんね」
「おいコラなんかけなされたことはわかったぞ」
頼は「はは、冗談だよ」と笑った。凪は頼を睨みながらストローでミルクティーを飲んでから、「うーむ、やっぱり納得いかねぇ。なんか匂うぞ」と腕組みをして考えた。以前は体育祭で都合の良い人数調整に使われ、女装までさせられたのだ。それに比べて今回の願いがあまりに簡単すぎる。裏がないはずがない。よく考えろ。文化祭当日、凪は凪子として女装して一日をすごす。その凪と回るということは……、
「わかった! お前、さては俺を笑いのネタにして見世物にする気だな?」
「なんでそうなる」
頼もまた女装メイドだったら凪も噛みつかないが、こいつは執事なのだ。きっとハマり役だろう。凪とは大違いだ。
「凪のことを見世物にする気はないよ。ただ純粋に、凪と回るのが一番楽しそうだなって。思い出に残るだろうし」
「マジ、ほんとにそんな理由?」
「ほんとにそんな理由。信じろよな。ま、見世物にする気はさらさらないけど、もう一度会いたいのは確かだよ」
「誰に」
「なぎこ」
「なんで」
「かわいいじゃん。わりとタイプ」
「おまっ……なんでもできるクセして、女子の趣味は悪いのな」
まじまじと頼を見つめて言うと、頼は苦笑いをしていた。
帰りの電車は帰宅ラッシュの時間帯にさしかかっており、だんだんと混み始めていた。二人は座席には座らず、並んで通路に立っている。なんの気なしに頭上のモニターから流れる広告を見ていると、最近中高生を中心に人気を博している女子アイドルグループが映った。「へぇ。新曲出たんだ」と凪が呟くと、頼が意外そうな声を出した。
「凪、こういうアイドル好きなの?」
「ん? あ、違う違う。妹がさ、ファンなんだよ」
「妹いんのか」
そういえば話してなかったな、と家族構成を説明する。温厚な父としっかり者の母のもとに生まれたのが長男である凪、今年中学1年生になるおてんば娘の妹、そして自称宇宙人と交信できる小学3年生の弟だ。
「驚きだな。一人っ子か末っ子だと思ってた。まさか長男だとは」
「どういう意味だよ」
小突いてやった。
その後、画面が別の広告に変わった。寮生活を始めてからテレビとは縁遠い生活をしているため、どんな内容でも興味が湧く。凪はしばらく食い入るように視聴していた――その時だ。
(うわっ。ちょっと待て……嘘だろ)
尻に違和感があった。すぐにわかった。痴漢だ。
だいぶぎゅうぎゅうな電車内で乗客同士の距離が近くなるのはわかる。だが凪の真後ろに立っている人物は故意に体をなすりつけてくるような動きをした。気持ち悪い。
(クッソ、油断していた……っ)
ぐっと下唇を噛む。頼に「どうかしたか」と聞かれてひやっとした。嫌だ。知られたくない。男なのに痴漢にあっているだなんてこと、こいつにだけは知られたくない。
凪はどうにか「大丈夫、ちょっと疲れてぼうっとしてただけ」と答えた。痴漢もそれを聞いていたんだと思う。まるでやめようとしない。息が首元にかかるのがわかった。凪は絶望的な気分でぎゅっと目を閉じた。
(また変なことを言われるのだろうか……かわいいとか、天使だとか、前にきっしょい痴漢に言われたみたいに)
「おい」
えてして、降ってきた言葉は想像とは違うものだった。
「俺の連れになんか用かよ」
「えっ、ヒッ、いや…」
見上げれば、すさまじく鋭い眼光で頼が男を睨んでいた。これまで見た表情の中でも群を抜いて恐ろしい。そして凪を守るように、頼はその手を凪の肩に回していた。ガタン、と電車が揺れる。頼が凪を引き寄せる。脂汗を浮かべた男は電車が停まって扉が開いたと同時に、ものすごい速さで電車を降りていった。凪と頼もまた追いかけるように降車した。
「くそっ……逃げたか……! ごめん、凪。大丈夫か?」
凪は恥ずかしくて顔を上げられなかった。
「気づくのが遅れて悪かった」
「あー、いや……」
やばい、どうしよう。
(無理だ……、穴があったら入りたい……)
絶対バレたよな、と思う。きっと頼の目には、男なのに痴漢をされた挙げ句なんの抵抗もできなかった意気地なしくらいに映っていることだろう。
凪はへなへなとホームのベンチに腰を下ろした。
「滑稽だろ。笑いたかったら笑えよ」
「笑わねぇよ」
「めっちゃかっこ悪いじゃんね、俺」
「かっこ悪くねぇよ」
「っ……変に優しくされてもみじめなだけなんだよバカヤロー!」
「……ちょっと飲み物でも買ってくるわ」
凪は両手に顔を埋めた。自己嫌悪で死にそうになった。完全に八つ当たりだ。頼は凪のことを助けてくれたのに、どうしてありがとうの一つも言えないんだろうか。
(さすがに呆れられて、距離取られちゃったな……)
落ち込んでいたら、思ったより頼は早く戻ってきた。
「ミルクティーでよかったか? お前、好きだよな」
ぱっと顔を上げる。頼の息は軽く上がっていた。わざわざ自動販売機まで走って買ってきてくれたのだ。ホットの缶を受け取った瞬間、その温かさに、頼の温かさに、凪を取り巻くすべてのこわばりがほどけて溶けていくような気がした。
「お、お、俺……」
「うん」
「その…さ」
「うん。聞いてるよ」
頼が凪の目の前に回り、膝を折る。目線を合わせてくれた。黒の瞳は優しかった。凪はゆっくりと打ち明けた。
中学時代からずっと、満員電車に乗れば高確率で痴漢に遭ってきたこと。男の自分が痴漢に遭っていることが恥ずかしくて誰にも言えなかったこと。入学初日も痴漢に遭い、気持ちの悪いことを言われたこと。それが理由で虫の居所が悪く、初対面の頼に失礼なことを言ってしまったこと。
「そっか。話してくれて、ありがとうな」
すべてを打ち明け終わると、不覚にも泣きそうになった。そうか、自分は、ずっと誰かに聞いてもらいたかったのだ。気持ち悪さややるせなさを怒りで上書きしていただけで、本当は全然大丈夫ではなかった。
「大変だったな」
一言一言が沁みる。頼は凪の頭をなでようとして、やめた。なんだ、なでてくれないのか。別にいい。頼ならいい。
凪はぱっと頼の手を取って、自分の頭の上に置いた。
「やめんな。なでろ」
「…いいのか、俺が触っても」
「いい。お前は特別だ。だから早くなでろ。俺を労れ」
わしゃわしゃと凪の頭がなでられる。頼の手は大きくて温かい。しばらくそうされていると、不思議なことに萎んでいた心が復活してくるのがわかった。凪はようやく感謝の言葉を口にすることができた。
「聞いてくれて、俺のほうこそありがとな。なんか心が一気に軽くなったわ」
「ほんとか?」
「おう。お前が隣にいてくれてよかったよ。マジで助かった」
「逃がしちまったけどな」
鼻をすすり、「もういいよ」と無理して笑う。心配させたくなかった。
するとそれを見た頼がおもむろに「よくねぇよ」と言って立ち上がった。体を折って膝に手をつき、「ぜんっぜんよくねぇ…」とかなにやら低い声で唸りだす。なんだ、いったいどうしたんだ。
「あ~~~っ」
「よ、頼?」
「くっそイライラする!とりあえずさっきの男、探し出してぶち●してきていい?」
「うぇっ」
笑顔だが、目がマジなやつだ。めちゃくちゃ怖い。頼がキレている。
「いいやぶち●すんじゃ足りねぇなぁ。二度と外歩けないよう社会的に抹●してやろうか。首から提げてた通行証の会社名、ウチと取引してるところだったしなぁ。実家の権力はこういうところで使わねぇとなぁ、ハハハ」
「よ、頼落ち着けよ。ほんとにもう大丈夫だって」
「落ち着いてられっかよ。今まで凪に近づいたやつ全員とっ捕まえて〔自主規制〕にしてやる!そして〔自主規制〕からの〔自主規制〕で最後、泣いて許しを請うたって完全に地獄に落とす」
「お、オゥ……」
天晴れなほどのブラックモードだ。背後にはもはやメラメラと燃え上がる黒炎の幻影が見えた。だがこうやって頼がキレ散らかしてくれたおかげで、凪の心からは自分でも驚くくらいすんと嫌な気持ちが引いていったのがわかった。嬉しかった。凪のことで頼が、凪以上に怒ってくれているから。
「まぁ、ぶち●すは無理だとしても、駅員には通報しとこうな」
一通り爆発し終えた頼が髪をかき上げながら息を吐く。
「他人に話すのは嫌かもしれないけど。じゃないとああいう輩は再犯するし、未来の犠牲者を救ってやりたいだろ?」
「うん、まぁ、そうだな……」
淀みなく言いきった頼は、凪の分まで荷物を拾い上げて歩き出した。一歩先をゆく背中がひどく頼もしい。唐突に、ぴったりだな、と思った。
(頼には頼という名前がぴったりだ。こんなにも頼もしいやつなんだから)
それに気づいた凪は思わずふっと笑い、頼の真横に追いついた。「自分の荷物は自分で持つよ」と頼の肩から受け取る。後ろは嫌だ。
凪はいつでも、頼と肩を並べていたかった。
「お帰りなさいませご主人さまー。席はコチラですー。お飲み物はなにをお持ちしましょーかー」
「わ、すごく棒読み」
「でもかわいい」
「うん。かわいい」
あっという間に11月が来て、花ノ宮学園は文化祭期間を迎えた。クラスの出し物である『カフェ・ド・ナギコ』は連日大盛況だ。え、なんだその名前って?知らん。気づいたらクラスのやつがそう名付けていた。
ナギコの名を冠していては当然凪が看板娘になるわけで、なかなかに忙しい。3日間の開催となる文化祭も今日で最終日なのだが、凪子を一目見ようとする人で長蛇の列ができる始末だった。なんでも、花ノ宮祭には超絶塩対応してくる美少女メイドがいるらしいという噂がSNS上でバズったかららしい。
「あの、ヨリ様、写真を一緒にとってもらってもいいですか?」
引っ張りだこなのはなにも凪だけではない。近くで給仕をしている執事姿の頼の周りにも絶えず人が集まっている。やれ写真を撮ってくれだのやれ握手をしてくれだの、今をときめくアイドルのファンミーティングのようだ。感心すべきは悪い顔ひとつせず終始爽やかに対応している頼だろう。
そんな頼――もといヨリ様の姿を自分の仕事そっちのけで眺めていたら、午後1時を知らせるチャイムが鳴った。もういい時間だ。
(ああ、水、水がのみたい……)
喉はからから腹はぺこぺこ足下はふらふらの三重苦で、凪は今すぐにでも床で大の字になりたい気分だった。なんせオープン直前の午前9時ごろに水を飲んだきり何も口にできていない。さすがに休憩を取らないとやばいと思った時だった。
ふらり。
足がもつれ、視界が傾く。踏んばろうとしてもうまく力が入らない。あ、これ転ぶなぁ――そう悟ってぎゅっと目をつぶった。
「っ…ぶねぇ。大丈夫か、凪」
「あ、あれ?痛くない」
痛くないどころか優しくキャッチされていた。頼だ。周りから「きゃーっ」と黄色い声が上がる。きゃーじゃねぇんだわ、きゃーじゃ。
頼はお姫様だっこスタイルのまま、バックヤードに向かって叫んだ。
「悪ぃ、俺たち抜けるわ!さすがに長時間労働が過ぎる」
ひょっこりとクラスメイトたちが顔を出す。その中に柿下と宇田川がいた。衣装担当の彼らの手には無数の絆創膏が巻かれ、針と糸が握られている。
「わっ、逢坂くんすごい顔色!もう早く休憩行って行って!委員には僕から伝えとくから」
「サンキュ!」
こうして半ば強引に頼に連れ出され、凪はようやく自由になることができた。真っ先に向かったのは中庭で、お祭りの屋台のように食べ物や飲み物がブースごとに売られている。凪はそこでビンに入ったコーラを、頼はサイダーを買い、一気飲みした。
「かぁァァ、生き返るぅゥゥゥ」
爽やかな青空の下で飲むコーラのなんと美味なことか!もし凪が俳人ならここで一句吟じてしまうところだ。ああコーラ、どうしてきみは、コーラなの。
「あほか」
口から出ていたらしいが気にしない。
コーラが秒でなくなってしまったので、凪は頼のほうをチラと見た。頼は苦笑いをしながら「飲むか?」といってサイダーを渡してくれた。半分ほどに減っていたそれを凪はありがたく頂戴する。遠慮なんてものは凪の辞書にはない。
「っかぁ~、こっちもうめぇ~。疲れたときはやっぱ炭酸だよなぁ」
「オヤジくせぇな」
「やだぁひっど~い、なぎこショックぅ~」
「キャラ崩壊してんぞ」
「サイダーほとんどなくなっちまったな。あとでなんか奢るわ」
「おうよ」
だいぶ減ったサイダーのビンをしばらく見つめたのち、やがて頼は残りを飲み干した。回収ボックスに空きビンを返したあと、今度は食べ物を求めて移動し始める。
「うっひょ~!うまそぉ~!」
中庭のブースで熱々のやきそばを食らい、ベビーカステラを食らい、それでも足りなかった二人はカフェテリアに行ってカレーを平らげた。頼も相当お腹が空いていたのだろう、ライスを大盛りにしていた。
「あの、ナギコさんとヨリ様ですよね? お写真撮らせていただいてもいいですか?」
「あー……」
頬を染めた女性グループ近づいてきて、聞いてきた。凪は「どうぞ」と肩をすくめて答える。カシャ、カシャ、とシャッター音が聞こえ、機嫌の良かった凪はサービスでウィンクしてあげた。黄色い歓声が上がる。
満足した彼女たちを見送ると、頼が心配そうな顔をしていた。
「大丈夫か」
「ん?なにが」
「その格好だと、その……可愛い系の褒め言葉を浴びるように言われるだろ」
「ああ、言われるな。衣装がグレードアップしたおかげで、言われる率が体感3割増しくらいになったぜ。やれやれ」
そう、凪のメイド服は体育祭の時よりもレベルが上がっているのだ。白いエプロンにはフリルがふんだんに足され、ピンクのリボンがアクセントのように付いている。ツインテールのかつらは黄金比で毛先が巻かれているし、ニーハイタイツをはくことにより太ももには絶対領域が誕生していた。
頼の衣装だってすごい。パリッとしたタキシードスタイルで袖口やベストには金の装飾ボタン。細身のズボンはすらりとした頼の体型によく似合っていた。格式高い英国名家に給仕する敏腕執事さながらの佇まいだ。
「嫌な気分になったりしてないか?まぁ、元はといえば体育祭でお前を仮装リレーに配置した俺の落ち度だが」
「そんなん過ぎた話だろ。可愛い系のこと言われるのも、もうどうでもいいというか。あの日、お前に話を聞いてもらってから、妙に吹っ切れたんだ」
凪はそう言うと、まっすぐ頼の目を見てにかっと笑った。
「だから気にすんなよ。心配してくれてありがとうな、さすが俺の相棒」
「お、おう」
頼がさっと凪から視線を外した。耳の先が赤い。多分、照れている。凪はオヤジ臭くお腹をぽんと叩き、「さて」と立ち上がった。
「腹ごしらえも済んだところだし、いっちょ回りますか!文化祭約束してたのに全然回れてないもんな俺たち」
「そうだな。シフトの量がえぐすぎたわ」
「この半日で全部取り返すぞ!片っ端から行くぜっ」
「りょーかい」
二人はまず、講義棟に戻って教室を1つ1つ回っていった。まじめ系だったり遊び系だったりクラスによって様々だ。入り口が色とりどりの風船で飾られた教室は、それこそ縁日のちょっとした遊びが楽しめるところだった。凪はさっそく頼に射的対決を申し込む……のだが。
「ハァッ、ふざけんな!それは俺が狙ってた景品だ!」
「凪のエイムが悪すぎんだよ。ちゃんと見てんの?その目って節穴?」
「きぃぃぃっ」
相変わらずである。
「次は輪投げで勝負だ!こてんぱんにしてやるっ」
「さっきよりいい勝負になるといいけどな」
「ちょっ……おま、お前ぇぇぇ」
同時に二人とも投げるという奇跡的事故が起こり、凪の輪が弾かれて頼のだけがターゲットにかかった。凪は悔しさのあまり頼の頭に輪をはめてやろうとしたが猛抵抗された。
「スーパーボール掬いならどうだ!頼むからフェアにやってくれよな!」
「いつだってフェアだろ。凪に縁日のセンスが皆無なだけで」
「ぎぃぃぃぃぃ!」
鬼の形相でスーパーポールを掬った自覚がある。結果3個差で頼に勝てたので喜びのガッツポースを取った。一連のやりとりを見ていたスーパーボール担当の寮生は凪の奇行にすっかり恐れおののいて身を引いている。ちょっと悪いなと思った直後、頼が「はいはいヨカッタデスね~、なぎちゃん行きましょうネ~」と言うもんだからやっぱりカチンときた。
「あ、これ何?面白そう」
縁日には凪の好みで寄ったので、次は頼のチョイスで別の教室へと入った。飛び込んできた光景にはびっくりだ。教室内が迷路のようになっていて、針金のようなものがそこらじゅうに張り巡らされている。よく見れば針金は平行に2本並んでおり、細い道ができあがっていた。
「ナ、ナギコさんとヨリさん……っ。こ、こちらのイライラ棒をお持ちください!」
入り口のスタッフに「イライラ棒」もといお尻に豆電球がぶらさがった金属の棒を渡された。説明によると、平行に並んだ2本の道の間にイライラ棒を通し、棒と針金を接触させないようにしてゴールを目指すのだという。もし接触してしまうと豆電球が光り、棒を持つ手にもぴりりと電流が流れるらしい。
「よっしゃレッツゴー!」
イライラ棒を受け取った二人はさっそくスタートした。凪はすいすいと行く。頼は慎重だ。
「そんなスピードじゃ俺の圧勝だな!ガハハ」
声をかけ、凪はさらに加速した。それがいけなかった。
「アガッ……」
棒が針金に触れ、想像以上にぴりりくる。変な声が出た。
「おーい大丈夫か?」
後方から半分笑っているような声が聞こえてきてムカつく。なにくそ、と再度進み始めると、コースの難関ポイントにたどり着いてガ、ガ、ガ、ガ、ガ、と擦れるように棒が引っかかった。
「ウグッ、はぁッ、ンンッ、アぎゃッ、オゥ…!」
やっとの思いでゴールした時、凪ははぁはぁと肩で息をしていた。額の汗をぬぐい、顔を上げる。目にしたものに絶句した。
「おま、おまおまおま、なんでっ」
涼しい顔をした頼が出口で凪のことを待っていたのだ。聞けば、序盤で現れた五叉路の中で選んだものが、おそらくショートカットであろう道だったというのだ。凪が10分かかったところを、5分もかからず終わったのだという。凪は衝撃のあまり膝をついた。
「なぁ機嫌直せって」
「いやだ」
「次はホールのほうにでも行ってみようぜ」
「おれはもうだめだ」
「気分転換になるだろ」
「石になりたい」
「なぁ凪」
「来世は道ばたに落ちてる石になりたい……」
「凪」
いい加減曲げたへそを直してくれよ、と言って頼が凪の手を取った。ぐん、と引かれ、大きな一歩が出る。そのまま外へ出た。
外は風が気持ちいい。構内の木々がゆったりと揺れている。たしかに、新鮮な空気を吸うと気分が軽やかになった。来世で石になるのはやめよう。
ゆっくり歩いてアセンブリホールへと行くと、オーケストラ部による文化祭公演が行われていた。シートに腰掛けて演奏を聴く。凪はあまりクラシックに詳しくないけれど、頼は「お、なかなか渋い選曲だな」とか言って楽しんでいる。こいつ、クラシックにも精通してるのかよ。
公演が終わりホールを出ると、また数分かけてグラウンドへと赴いた。体育祭が行われた思い出の場所だ。トラックや芝生、併設のコートなどを利用して各運動部が親善試合や体験会を開催していた。頼の所属する弓道部もまた、誰でも簡単に弓が引ける体験会を実施している。頼は初日と二日目が担当だったそうだ。ちなみに凪の所属するなんちゃってバドミントン部は例年特になにもない。
「弓、引いてみるか?」
頼が誘ってくれたので、弓道場に行くことにした。木造建築の古めかしい弓道場は独特の匂いがする。二人は入り口で靴を脱いだ。中を進むとシュパッ……コンッ、という小気味よい音があちこちから聞こえてきた。
「意外と的って遠いんだなぁ」
「あーね。俺も最初はそう思った」
体験中のお客さんたちに交ざって並ぶと、十数メートル先に的が見えた。果たしてあそこまで矢を飛ばすことはできるのだろうか。
頼に手伝ってもらいながら特製の手袋をはめ、弓の持ち方や矢の扱い方を学ぶ。教えてもらったことを頭にたたき込むと、凪は的を見据え、地面をしっかり踏みしめた。そして構える。
「凪、ここはもっと力入れて。こっちは抜いて。そう、良い感じ」
頼が密着してきた。体の使い方や腕の角度などを直される。ふといい匂いが漂った。
(イケメンは匂いまでいいんだな……っていかんいかん。集中)
シュパッと矢が放たれ、的に向かって飛んでいった。コンッという気持ちのいい音と共に的に刺さる。中心からは外れたところだったが、その爽快感ったらない。
「すげぇ、弓って面白いな!」
満面の笑みで頼に伝える。頼もまた嬉しそうだった。その時だ。
「あっ!ここにいた!やっと見つけた!」
弓道場の入り口がにわかにざわついた。複数の人がわらわらと入ってきて、頼の姿を見つけてはひどく興奮している。
「カフェのほう行っても頼がいないから、すっごい探したんだよ~」
「お前ら来てたのか」
どうやら知り合いのようだ。頼は凪に「悪い、同じ中学だったやつらが遊びにきたらしい。ここじゃ邪魔になるから、ちょっと行ってくる」と断りを入れ、連れだって弓場道の外に出て行った。
仕方がないので、頼が戻るまで一人黙々と弓を射ることにする。すると、
「あのう、はじめまして。頼のクラスメイトさんですよね」
知らない女子に話しかけられた。
「え、そうですけど…」
「わたし、近藤千夏っていいます」
「はぁ、逢坂凪です」
「私と頼、同じインターに通ってたんですが、ちょっと聞きたいことがあって」
「聞きたいこと? 俺に?」
「うん。あの……頼に今、彼女がいるか、知ってたりします?」
「カノジョ」
いきなりそんなことを聞かれてびっくりしつつも、凪は「多分いないと思います」と返した。
「じゃあ気になってる子がいるとか、そういうのって……?」
「えぇ、どうだろ。恋愛の話自体はあんまりしないけど、気になる子がいる的なことは聞いたことないなぁ」
「そっかぁ、よかった」
目の前の少女が両手をきゅっとし、頬を赤らめる。その姿を見て、凪は悟った。
(……好きなんだ)
この子、頼のことが好きなんだ。
「悪い、凪、お待たせ」
「あっ」
ちょうど張本人の頼が戻ってきて、凪のそばにいる千夏の存在に気づいた。「おう、久しぶりだな。元気か」なんて気さくに話しかけていた。千夏は恥ずかしそうに、だけど嬉しそうに、「元気だよ。頼に会えてうれしい」と笑っている。
突然、凪は胸が痛くなった。
(え、なに、なんだこれ)
ぎゅっと自分の胸元を掴む。きしきしのような、ちくちくのような、表現しにくい何かが胸の中を這いずり回っているようだ。だけれどもそれがなんなのかがわからない。胸が苦しい。
得体の知れない感覚に、凪はひとり戸惑っていた。
「ああーー、もう、動けましぇーーーん」
バタリ。
文化祭は無事閉幕した。片付けは明日丸一日を使ってすればいいので、風呂も入らずにベッドに倒れ込む者や夕食の途中で寝落ちてしまう者などで寮は溢れかえっていた。
凪と頼の二人も相当な疲労感を覚えていたが、なんとか着替えと夕食を終えた。その後、1年生が風呂に入れる時間まで少しあるということで、寝落ちないよう散歩をすることにした。11月の夜8時は真っ暗だ。二人は部屋からLEDランタンを持ってきた。
どちらともなく秘密のベンチに向かう。到着すると木製ベンチにどしりと腰掛けた。
「おい、凪、起きてるか……」
「んー……。お前こそ、生きてるか……」
「……ん、半分……くらいは……」
半分くらいってなんだよ。
突っ込みたいがもう体力がない。凪はゆーっくりと喋った。
「なぁ頼ィ~?」
「ん」
「なんだかんだでさぁ」
「ん」
「たのしかったよ、なぁ」
「そう、だな」
しばしの沈黙が落ちた。見上げれば満点の星空が視界いっぱいに広がっている。凪はランタンを消した。頼も無言で消した。
(ああ、星が綺麗だ)
心洗われるような感覚の中、凪の脳内に今日1日の出来事が次々と再生されていく。いろんなことをした。カフェ・ド・ナギコで働いて、美味しいものを食べ、くだらない競争をして、クラシックを聞いて、弓の体験をした。忙しかったし、疲れたけれど、頼と回った文化祭は楽しかった。
(弓の引き方、もっとちゃんと教えてもらいたかったな……あっ)
思い出した。弓道場で弓の体験をしているとき、凪に話しかけてきた人がいたのだ。凪はガバリと姿勢を正して横を向いた。
「おい、頼。お前、今、彼女いないよな」
「彼女?」
「そう、カ、ノ、ジョ!」
いねぇよ、とあっさりした答えが返ってきて凪はほっと息を吐く。質問を続けた。
「じゃあさじゃあさ、誰か今、気になってる人はいたりすんの? 好きな子……とか」
――聞いてどうするんだろう。
冷静な部分の自分がそう問いかけた。だけれども感情的な部分が知りたいと訴えている。凪は知りたいのだ、頼に特別な相手がいるのかどうか。そして頼自身の口からそんな人はいないという答えが聞きたかったんだと思う。だからびっくりした。
「いるよ」
「えっ……」
それは雷に打たれたかのような感覚だった。頼には好きな子がいる――でも、それっていったいどういうことだ?だから、頼には好きな子がいるんだって。いやだから、好きな子がいるっていうのはどういうことなんだ?だーかーらぁ、
(こ、こ、こいつ、好きな子がいたのか……っ!)
思考が追いついた途端、急激な焦りが生まれた。両手がわなわなと震えだす。
「おいっ!寝てんじゃねぇよ起きろ頼!そんなん聞いてねぇぞ、好きな子がいるだなんて!」
「は……?」
寝ぼけ眼の頼の襟首を掴まえて、凪は思い切り揺さぶった。
「どこの誰だ!告白するのか?いつから好きなんだ!答えろ頼、ふざけんなっ」
「けほっ、けほっ、おいっ、やめろ」
頼は凪の手を掴んで「殺す気か!」と吠えた。眠気は引っ込んだようだ。
「俺たちせっかく仲良くなったんだぞ?柿下も宇田川も、皆あわせていわゆるイツメンってやつだろ!それがなんだ、お前に彼女なんてできちまったら、俺たちとの付き合いが悪くなるって相場は決まってんだよっ。俺らとその子、どっちを取るんだ!」
「お、おい、落ち着けよ凪」
「落ち着いてられっか!」
凪は勢いよく立ち上がり頼の目の前に回ると、両手で肩を掴んで訴えた。
「その子に頼が取られちまうなんて嫌だ!俺よりその子は可愛いのか?なぁ?お前、この前は凪子のこと可愛いって言っただろ?好みなんだろ?凪子を捨ててその子を彼女にするのかよぉっ!」
「っ……」
頼の目が見開かれた。なんだかとんでもないことを言っている気がするが、あまりの衝撃に凪はハイになってしまっている。
「どこの子だ?今日来てた友達の誰かか?それとも部活の大会とかで出会った他校生か?なぁ、俺はその子に頼を取られちゃうのか?なぁなぁなぁっ」
「いや、あのな、凪」
「なんだよっ」
「俺の好きな人は、女子じゃない」
「……女子じゃない?」
「ああ。この学園の生徒だよ」
まっすぐ目を見て頼が言う。凪は再びの衝撃に飛び上がりそうになった。
「お、お、お、お、男? お前、男が好きだったのかッ!」
「いや、厳密には違う」
「ハァン?」
頼は少し迷ったような顔をしてから、話してくれた。恋愛対象はあくまで女性だと。
「今まで付き合った相手も全員女子だったよ。今だって男を見て食指が動くわけじゃない。そいつだけ特別なんだ。俺だって驚いたよ。でも気づいたらすごく惹かれてた。いつの間にか好きになってた。それがたまたま同性だったってだけの話だ」
「……なんだよそれ。そんなのって」
恋愛において、最もロマンチックではなかろうか。性別なんて超越して、その人だから好きになったというのは。
(ウッ……また、胸が苦しい)
あの痛みが再来した。凪は思わず胸を押さえた。千夏といた時はちくちくきしきしくらいだったのが、じくじくぎしぎしに変わっている。自然と眉に力が入る。凪はおそるおそる聞いた。
「告白、するのか……?」
「……どうかな」
いやだ。
告白なんてしないでくれ。
凪はどうにかして頼を取られまいと必死だった。力強く「ダメだ!」と言い切る。
「告白なんてしたら許さない!お前レベルなら相手がどんなやつだろうと叶っちまうに決まってる!俺はお前をみすみすそいつに奪われる気なんてさらさらないぞ!お前に一番近いのはな、俺なんだから、俺に決定権があるんだぁぁぁぁっ」
凪は感情任せにビシィッと頼を指さし、叫んだ。
「親友特権発動!お前に彼氏は作らせないっ!」
目を覚ますと他には誰もいない。部屋の隅にある洗面台へと顔を洗いにいく。鏡に映った自分の姿にはセルフつっこみを入れざるをえなかった。なんじゃこの寝癖は。まるで鳥の巣だ。
そこに部活の午前練習を終えた頼が帰ってきた。弓道部の道着を身につけ、右肩にはカバーに入った長い弓をかけている。
「おう、凪。今起きたのか?」
「ああ。おはよ。おつかれ」
「すげぇ頭だな」
そのすげぇ頭をわしゃわしゃとかき回され、さらにひどい有様にされた。やめろよと言って腹パンする。
「今からウルトラスーパースタイリッシュ俺になるんだからよ」
頭に水をざぶーんとかけ、ドライヤーと手ぐしでなんとか整えた。
髪が乾ききる頃には頼も普段着へと着替え終わっていた。1年生だが大会に出ることもあるらしい頼は忙しい。それなのに頼が練習を午前で切り上げて戻ってきたのには理由がある。二人には今日、やるべき任務があるのだ。
『次は、△△駅~、△△駅~。お降りの際はお忘れ物にご注意ください』
ガタンゴトンと電車に揺られて目的の駅まで行くと――ちなみに二人とも、ショルダーバッグには凪が遊園地でゲットしたブサカワなぬいぐるみをぶら下げている――、ショッピングセンターへと歩いて向かった。任務とはズバリ、買い出しである。11月に開催される花ノ宮学園の文化祭のためだ。
(あーあ、またあの格好するのかぁ。だりぃなぁ)
凪は髪をがしがしかきながらため息をついた。クラスの出し物がメイド&執事カフェに決まった時、クラスはまた凪子が見れるとボルテージマックスになっていた。凪もすかさず「俺だって執事がいい!」と訴えたのだが、民主主義の力の前に却下された。はぁ。
そんなこんなでカフェをやるのに使うものの調達はクラス全員が協力しあって持ち回りで出向いている。今日は凪と頼の番だった。幸いにも買い物自体は順調に終わった。
「なぁ頼、そろそろ今回のアレ、教えろよ」
「今回のアレ?」
いくばくかの疲労感を覚えた二人は、休憩するためフードコートに寄った。凪はミルクティー、頼はカフェオレをそれぞれ購入し、テーブル席につく。荷物は足下のかごに入れた。大きくて運べないようなものは全て学園宛てに配達を頼んだのでかなり楽だ。さすがは私立、こういうところは融通が利くからいい。
「忘れたのかよ。勝ったほうが負けたほうに言うこと聞かすアレ。お前少し考えたいとかもったいぶったきり全然言ってこねぇし」
「ああ、そうだったな」
凪が言っているのは少し前に行われた2学期中間試験の結果についてだ。頼が1位、凪が2位だった。猛烈に勉強机にかじりついたのだが5点差で負けてしまった。凪は肩をすくめた。
「そんな悩むことでもないだろ。思いつかないならナシでいいんだぜ?」
「残念。いろいろ迷ったけど、もう決めてある」
「チッ。しかたねぇな。聞いてやるさ。言うがいい」
からん、と氷がグラスの中で鳴った。凪が前傾姿勢で頬杖をついているのを真似するかのように、頼もまた頬杖をつき、まっすぐに凪のことを見つめてくる。自然と顔と顔の距離が縮まった。
「文化祭、俺と回ってよ」
しばし考える。
なんだそんな簡単なことでいいのかとほっとする反面、なんで?と不思議に思うことがあった。
「なんで、俺?別にいいけど……わざわざ約束を取り付けるほどのことなのか?」
「ああ。わざわざ約束を取り付けるほどのことなんだよ。わかんない?」
「はぁ?わかんね」
「わかんないか。無自覚だもんね」
「おいコラなんかけなされたことはわかったぞ」
頼は「はは、冗談だよ」と笑った。凪は頼を睨みながらストローでミルクティーを飲んでから、「うーむ、やっぱり納得いかねぇ。なんか匂うぞ」と腕組みをして考えた。以前は体育祭で都合の良い人数調整に使われ、女装までさせられたのだ。それに比べて今回の願いがあまりに簡単すぎる。裏がないはずがない。よく考えろ。文化祭当日、凪は凪子として女装して一日をすごす。その凪と回るということは……、
「わかった! お前、さては俺を笑いのネタにして見世物にする気だな?」
「なんでそうなる」
頼もまた女装メイドだったら凪も噛みつかないが、こいつは執事なのだ。きっとハマり役だろう。凪とは大違いだ。
「凪のことを見世物にする気はないよ。ただ純粋に、凪と回るのが一番楽しそうだなって。思い出に残るだろうし」
「マジ、ほんとにそんな理由?」
「ほんとにそんな理由。信じろよな。ま、見世物にする気はさらさらないけど、もう一度会いたいのは確かだよ」
「誰に」
「なぎこ」
「なんで」
「かわいいじゃん。わりとタイプ」
「おまっ……なんでもできるクセして、女子の趣味は悪いのな」
まじまじと頼を見つめて言うと、頼は苦笑いをしていた。
帰りの電車は帰宅ラッシュの時間帯にさしかかっており、だんだんと混み始めていた。二人は座席には座らず、並んで通路に立っている。なんの気なしに頭上のモニターから流れる広告を見ていると、最近中高生を中心に人気を博している女子アイドルグループが映った。「へぇ。新曲出たんだ」と凪が呟くと、頼が意外そうな声を出した。
「凪、こういうアイドル好きなの?」
「ん? あ、違う違う。妹がさ、ファンなんだよ」
「妹いんのか」
そういえば話してなかったな、と家族構成を説明する。温厚な父としっかり者の母のもとに生まれたのが長男である凪、今年中学1年生になるおてんば娘の妹、そして自称宇宙人と交信できる小学3年生の弟だ。
「驚きだな。一人っ子か末っ子だと思ってた。まさか長男だとは」
「どういう意味だよ」
小突いてやった。
その後、画面が別の広告に変わった。寮生活を始めてからテレビとは縁遠い生活をしているため、どんな内容でも興味が湧く。凪はしばらく食い入るように視聴していた――その時だ。
(うわっ。ちょっと待て……嘘だろ)
尻に違和感があった。すぐにわかった。痴漢だ。
だいぶぎゅうぎゅうな電車内で乗客同士の距離が近くなるのはわかる。だが凪の真後ろに立っている人物は故意に体をなすりつけてくるような動きをした。気持ち悪い。
(クッソ、油断していた……っ)
ぐっと下唇を噛む。頼に「どうかしたか」と聞かれてひやっとした。嫌だ。知られたくない。男なのに痴漢にあっているだなんてこと、こいつにだけは知られたくない。
凪はどうにか「大丈夫、ちょっと疲れてぼうっとしてただけ」と答えた。痴漢もそれを聞いていたんだと思う。まるでやめようとしない。息が首元にかかるのがわかった。凪は絶望的な気分でぎゅっと目を閉じた。
(また変なことを言われるのだろうか……かわいいとか、天使だとか、前にきっしょい痴漢に言われたみたいに)
「おい」
えてして、降ってきた言葉は想像とは違うものだった。
「俺の連れになんか用かよ」
「えっ、ヒッ、いや…」
見上げれば、すさまじく鋭い眼光で頼が男を睨んでいた。これまで見た表情の中でも群を抜いて恐ろしい。そして凪を守るように、頼はその手を凪の肩に回していた。ガタン、と電車が揺れる。頼が凪を引き寄せる。脂汗を浮かべた男は電車が停まって扉が開いたと同時に、ものすごい速さで電車を降りていった。凪と頼もまた追いかけるように降車した。
「くそっ……逃げたか……! ごめん、凪。大丈夫か?」
凪は恥ずかしくて顔を上げられなかった。
「気づくのが遅れて悪かった」
「あー、いや……」
やばい、どうしよう。
(無理だ……、穴があったら入りたい……)
絶対バレたよな、と思う。きっと頼の目には、男なのに痴漢をされた挙げ句なんの抵抗もできなかった意気地なしくらいに映っていることだろう。
凪はへなへなとホームのベンチに腰を下ろした。
「滑稽だろ。笑いたかったら笑えよ」
「笑わねぇよ」
「めっちゃかっこ悪いじゃんね、俺」
「かっこ悪くねぇよ」
「っ……変に優しくされてもみじめなだけなんだよバカヤロー!」
「……ちょっと飲み物でも買ってくるわ」
凪は両手に顔を埋めた。自己嫌悪で死にそうになった。完全に八つ当たりだ。頼は凪のことを助けてくれたのに、どうしてありがとうの一つも言えないんだろうか。
(さすがに呆れられて、距離取られちゃったな……)
落ち込んでいたら、思ったより頼は早く戻ってきた。
「ミルクティーでよかったか? お前、好きだよな」
ぱっと顔を上げる。頼の息は軽く上がっていた。わざわざ自動販売機まで走って買ってきてくれたのだ。ホットの缶を受け取った瞬間、その温かさに、頼の温かさに、凪を取り巻くすべてのこわばりがほどけて溶けていくような気がした。
「お、お、俺……」
「うん」
「その…さ」
「うん。聞いてるよ」
頼が凪の目の前に回り、膝を折る。目線を合わせてくれた。黒の瞳は優しかった。凪はゆっくりと打ち明けた。
中学時代からずっと、満員電車に乗れば高確率で痴漢に遭ってきたこと。男の自分が痴漢に遭っていることが恥ずかしくて誰にも言えなかったこと。入学初日も痴漢に遭い、気持ちの悪いことを言われたこと。それが理由で虫の居所が悪く、初対面の頼に失礼なことを言ってしまったこと。
「そっか。話してくれて、ありがとうな」
すべてを打ち明け終わると、不覚にも泣きそうになった。そうか、自分は、ずっと誰かに聞いてもらいたかったのだ。気持ち悪さややるせなさを怒りで上書きしていただけで、本当は全然大丈夫ではなかった。
「大変だったな」
一言一言が沁みる。頼は凪の頭をなでようとして、やめた。なんだ、なでてくれないのか。別にいい。頼ならいい。
凪はぱっと頼の手を取って、自分の頭の上に置いた。
「やめんな。なでろ」
「…いいのか、俺が触っても」
「いい。お前は特別だ。だから早くなでろ。俺を労れ」
わしゃわしゃと凪の頭がなでられる。頼の手は大きくて温かい。しばらくそうされていると、不思議なことに萎んでいた心が復活してくるのがわかった。凪はようやく感謝の言葉を口にすることができた。
「聞いてくれて、俺のほうこそありがとな。なんか心が一気に軽くなったわ」
「ほんとか?」
「おう。お前が隣にいてくれてよかったよ。マジで助かった」
「逃がしちまったけどな」
鼻をすすり、「もういいよ」と無理して笑う。心配させたくなかった。
するとそれを見た頼がおもむろに「よくねぇよ」と言って立ち上がった。体を折って膝に手をつき、「ぜんっぜんよくねぇ…」とかなにやら低い声で唸りだす。なんだ、いったいどうしたんだ。
「あ~~~っ」
「よ、頼?」
「くっそイライラする!とりあえずさっきの男、探し出してぶち●してきていい?」
「うぇっ」
笑顔だが、目がマジなやつだ。めちゃくちゃ怖い。頼がキレている。
「いいやぶち●すんじゃ足りねぇなぁ。二度と外歩けないよう社会的に抹●してやろうか。首から提げてた通行証の会社名、ウチと取引してるところだったしなぁ。実家の権力はこういうところで使わねぇとなぁ、ハハハ」
「よ、頼落ち着けよ。ほんとにもう大丈夫だって」
「落ち着いてられっかよ。今まで凪に近づいたやつ全員とっ捕まえて〔自主規制〕にしてやる!そして〔自主規制〕からの〔自主規制〕で最後、泣いて許しを請うたって完全に地獄に落とす」
「お、オゥ……」
天晴れなほどのブラックモードだ。背後にはもはやメラメラと燃え上がる黒炎の幻影が見えた。だがこうやって頼がキレ散らかしてくれたおかげで、凪の心からは自分でも驚くくらいすんと嫌な気持ちが引いていったのがわかった。嬉しかった。凪のことで頼が、凪以上に怒ってくれているから。
「まぁ、ぶち●すは無理だとしても、駅員には通報しとこうな」
一通り爆発し終えた頼が髪をかき上げながら息を吐く。
「他人に話すのは嫌かもしれないけど。じゃないとああいう輩は再犯するし、未来の犠牲者を救ってやりたいだろ?」
「うん、まぁ、そうだな……」
淀みなく言いきった頼は、凪の分まで荷物を拾い上げて歩き出した。一歩先をゆく背中がひどく頼もしい。唐突に、ぴったりだな、と思った。
(頼には頼という名前がぴったりだ。こんなにも頼もしいやつなんだから)
それに気づいた凪は思わずふっと笑い、頼の真横に追いついた。「自分の荷物は自分で持つよ」と頼の肩から受け取る。後ろは嫌だ。
凪はいつでも、頼と肩を並べていたかった。
「お帰りなさいませご主人さまー。席はコチラですー。お飲み物はなにをお持ちしましょーかー」
「わ、すごく棒読み」
「でもかわいい」
「うん。かわいい」
あっという間に11月が来て、花ノ宮学園は文化祭期間を迎えた。クラスの出し物である『カフェ・ド・ナギコ』は連日大盛況だ。え、なんだその名前って?知らん。気づいたらクラスのやつがそう名付けていた。
ナギコの名を冠していては当然凪が看板娘になるわけで、なかなかに忙しい。3日間の開催となる文化祭も今日で最終日なのだが、凪子を一目見ようとする人で長蛇の列ができる始末だった。なんでも、花ノ宮祭には超絶塩対応してくる美少女メイドがいるらしいという噂がSNS上でバズったかららしい。
「あの、ヨリ様、写真を一緒にとってもらってもいいですか?」
引っ張りだこなのはなにも凪だけではない。近くで給仕をしている執事姿の頼の周りにも絶えず人が集まっている。やれ写真を撮ってくれだのやれ握手をしてくれだの、今をときめくアイドルのファンミーティングのようだ。感心すべきは悪い顔ひとつせず終始爽やかに対応している頼だろう。
そんな頼――もといヨリ様の姿を自分の仕事そっちのけで眺めていたら、午後1時を知らせるチャイムが鳴った。もういい時間だ。
(ああ、水、水がのみたい……)
喉はからから腹はぺこぺこ足下はふらふらの三重苦で、凪は今すぐにでも床で大の字になりたい気分だった。なんせオープン直前の午前9時ごろに水を飲んだきり何も口にできていない。さすがに休憩を取らないとやばいと思った時だった。
ふらり。
足がもつれ、視界が傾く。踏んばろうとしてもうまく力が入らない。あ、これ転ぶなぁ――そう悟ってぎゅっと目をつぶった。
「っ…ぶねぇ。大丈夫か、凪」
「あ、あれ?痛くない」
痛くないどころか優しくキャッチされていた。頼だ。周りから「きゃーっ」と黄色い声が上がる。きゃーじゃねぇんだわ、きゃーじゃ。
頼はお姫様だっこスタイルのまま、バックヤードに向かって叫んだ。
「悪ぃ、俺たち抜けるわ!さすがに長時間労働が過ぎる」
ひょっこりとクラスメイトたちが顔を出す。その中に柿下と宇田川がいた。衣装担当の彼らの手には無数の絆創膏が巻かれ、針と糸が握られている。
「わっ、逢坂くんすごい顔色!もう早く休憩行って行って!委員には僕から伝えとくから」
「サンキュ!」
こうして半ば強引に頼に連れ出され、凪はようやく自由になることができた。真っ先に向かったのは中庭で、お祭りの屋台のように食べ物や飲み物がブースごとに売られている。凪はそこでビンに入ったコーラを、頼はサイダーを買い、一気飲みした。
「かぁァァ、生き返るぅゥゥゥ」
爽やかな青空の下で飲むコーラのなんと美味なことか!もし凪が俳人ならここで一句吟じてしまうところだ。ああコーラ、どうしてきみは、コーラなの。
「あほか」
口から出ていたらしいが気にしない。
コーラが秒でなくなってしまったので、凪は頼のほうをチラと見た。頼は苦笑いをしながら「飲むか?」といってサイダーを渡してくれた。半分ほどに減っていたそれを凪はありがたく頂戴する。遠慮なんてものは凪の辞書にはない。
「っかぁ~、こっちもうめぇ~。疲れたときはやっぱ炭酸だよなぁ」
「オヤジくせぇな」
「やだぁひっど~い、なぎこショックぅ~」
「キャラ崩壊してんぞ」
「サイダーほとんどなくなっちまったな。あとでなんか奢るわ」
「おうよ」
だいぶ減ったサイダーのビンをしばらく見つめたのち、やがて頼は残りを飲み干した。回収ボックスに空きビンを返したあと、今度は食べ物を求めて移動し始める。
「うっひょ~!うまそぉ~!」
中庭のブースで熱々のやきそばを食らい、ベビーカステラを食らい、それでも足りなかった二人はカフェテリアに行ってカレーを平らげた。頼も相当お腹が空いていたのだろう、ライスを大盛りにしていた。
「あの、ナギコさんとヨリ様ですよね? お写真撮らせていただいてもいいですか?」
「あー……」
頬を染めた女性グループ近づいてきて、聞いてきた。凪は「どうぞ」と肩をすくめて答える。カシャ、カシャ、とシャッター音が聞こえ、機嫌の良かった凪はサービスでウィンクしてあげた。黄色い歓声が上がる。
満足した彼女たちを見送ると、頼が心配そうな顔をしていた。
「大丈夫か」
「ん?なにが」
「その格好だと、その……可愛い系の褒め言葉を浴びるように言われるだろ」
「ああ、言われるな。衣装がグレードアップしたおかげで、言われる率が体感3割増しくらいになったぜ。やれやれ」
そう、凪のメイド服は体育祭の時よりもレベルが上がっているのだ。白いエプロンにはフリルがふんだんに足され、ピンクのリボンがアクセントのように付いている。ツインテールのかつらは黄金比で毛先が巻かれているし、ニーハイタイツをはくことにより太ももには絶対領域が誕生していた。
頼の衣装だってすごい。パリッとしたタキシードスタイルで袖口やベストには金の装飾ボタン。細身のズボンはすらりとした頼の体型によく似合っていた。格式高い英国名家に給仕する敏腕執事さながらの佇まいだ。
「嫌な気分になったりしてないか?まぁ、元はといえば体育祭でお前を仮装リレーに配置した俺の落ち度だが」
「そんなん過ぎた話だろ。可愛い系のこと言われるのも、もうどうでもいいというか。あの日、お前に話を聞いてもらってから、妙に吹っ切れたんだ」
凪はそう言うと、まっすぐ頼の目を見てにかっと笑った。
「だから気にすんなよ。心配してくれてありがとうな、さすが俺の相棒」
「お、おう」
頼がさっと凪から視線を外した。耳の先が赤い。多分、照れている。凪はオヤジ臭くお腹をぽんと叩き、「さて」と立ち上がった。
「腹ごしらえも済んだところだし、いっちょ回りますか!文化祭約束してたのに全然回れてないもんな俺たち」
「そうだな。シフトの量がえぐすぎたわ」
「この半日で全部取り返すぞ!片っ端から行くぜっ」
「りょーかい」
二人はまず、講義棟に戻って教室を1つ1つ回っていった。まじめ系だったり遊び系だったりクラスによって様々だ。入り口が色とりどりの風船で飾られた教室は、それこそ縁日のちょっとした遊びが楽しめるところだった。凪はさっそく頼に射的対決を申し込む……のだが。
「ハァッ、ふざけんな!それは俺が狙ってた景品だ!」
「凪のエイムが悪すぎんだよ。ちゃんと見てんの?その目って節穴?」
「きぃぃぃっ」
相変わらずである。
「次は輪投げで勝負だ!こてんぱんにしてやるっ」
「さっきよりいい勝負になるといいけどな」
「ちょっ……おま、お前ぇぇぇ」
同時に二人とも投げるという奇跡的事故が起こり、凪の輪が弾かれて頼のだけがターゲットにかかった。凪は悔しさのあまり頼の頭に輪をはめてやろうとしたが猛抵抗された。
「スーパーボール掬いならどうだ!頼むからフェアにやってくれよな!」
「いつだってフェアだろ。凪に縁日のセンスが皆無なだけで」
「ぎぃぃぃぃぃ!」
鬼の形相でスーパーポールを掬った自覚がある。結果3個差で頼に勝てたので喜びのガッツポースを取った。一連のやりとりを見ていたスーパーボール担当の寮生は凪の奇行にすっかり恐れおののいて身を引いている。ちょっと悪いなと思った直後、頼が「はいはいヨカッタデスね~、なぎちゃん行きましょうネ~」と言うもんだからやっぱりカチンときた。
「あ、これ何?面白そう」
縁日には凪の好みで寄ったので、次は頼のチョイスで別の教室へと入った。飛び込んできた光景にはびっくりだ。教室内が迷路のようになっていて、針金のようなものがそこらじゅうに張り巡らされている。よく見れば針金は平行に2本並んでおり、細い道ができあがっていた。
「ナ、ナギコさんとヨリさん……っ。こ、こちらのイライラ棒をお持ちください!」
入り口のスタッフに「イライラ棒」もといお尻に豆電球がぶらさがった金属の棒を渡された。説明によると、平行に並んだ2本の道の間にイライラ棒を通し、棒と針金を接触させないようにしてゴールを目指すのだという。もし接触してしまうと豆電球が光り、棒を持つ手にもぴりりと電流が流れるらしい。
「よっしゃレッツゴー!」
イライラ棒を受け取った二人はさっそくスタートした。凪はすいすいと行く。頼は慎重だ。
「そんなスピードじゃ俺の圧勝だな!ガハハ」
声をかけ、凪はさらに加速した。それがいけなかった。
「アガッ……」
棒が針金に触れ、想像以上にぴりりくる。変な声が出た。
「おーい大丈夫か?」
後方から半分笑っているような声が聞こえてきてムカつく。なにくそ、と再度進み始めると、コースの難関ポイントにたどり着いてガ、ガ、ガ、ガ、ガ、と擦れるように棒が引っかかった。
「ウグッ、はぁッ、ンンッ、アぎゃッ、オゥ…!」
やっとの思いでゴールした時、凪ははぁはぁと肩で息をしていた。額の汗をぬぐい、顔を上げる。目にしたものに絶句した。
「おま、おまおまおま、なんでっ」
涼しい顔をした頼が出口で凪のことを待っていたのだ。聞けば、序盤で現れた五叉路の中で選んだものが、おそらくショートカットであろう道だったというのだ。凪が10分かかったところを、5分もかからず終わったのだという。凪は衝撃のあまり膝をついた。
「なぁ機嫌直せって」
「いやだ」
「次はホールのほうにでも行ってみようぜ」
「おれはもうだめだ」
「気分転換になるだろ」
「石になりたい」
「なぁ凪」
「来世は道ばたに落ちてる石になりたい……」
「凪」
いい加減曲げたへそを直してくれよ、と言って頼が凪の手を取った。ぐん、と引かれ、大きな一歩が出る。そのまま外へ出た。
外は風が気持ちいい。構内の木々がゆったりと揺れている。たしかに、新鮮な空気を吸うと気分が軽やかになった。来世で石になるのはやめよう。
ゆっくり歩いてアセンブリホールへと行くと、オーケストラ部による文化祭公演が行われていた。シートに腰掛けて演奏を聴く。凪はあまりクラシックに詳しくないけれど、頼は「お、なかなか渋い選曲だな」とか言って楽しんでいる。こいつ、クラシックにも精通してるのかよ。
公演が終わりホールを出ると、また数分かけてグラウンドへと赴いた。体育祭が行われた思い出の場所だ。トラックや芝生、併設のコートなどを利用して各運動部が親善試合や体験会を開催していた。頼の所属する弓道部もまた、誰でも簡単に弓が引ける体験会を実施している。頼は初日と二日目が担当だったそうだ。ちなみに凪の所属するなんちゃってバドミントン部は例年特になにもない。
「弓、引いてみるか?」
頼が誘ってくれたので、弓道場に行くことにした。木造建築の古めかしい弓道場は独特の匂いがする。二人は入り口で靴を脱いだ。中を進むとシュパッ……コンッ、という小気味よい音があちこちから聞こえてきた。
「意外と的って遠いんだなぁ」
「あーね。俺も最初はそう思った」
体験中のお客さんたちに交ざって並ぶと、十数メートル先に的が見えた。果たしてあそこまで矢を飛ばすことはできるのだろうか。
頼に手伝ってもらいながら特製の手袋をはめ、弓の持ち方や矢の扱い方を学ぶ。教えてもらったことを頭にたたき込むと、凪は的を見据え、地面をしっかり踏みしめた。そして構える。
「凪、ここはもっと力入れて。こっちは抜いて。そう、良い感じ」
頼が密着してきた。体の使い方や腕の角度などを直される。ふといい匂いが漂った。
(イケメンは匂いまでいいんだな……っていかんいかん。集中)
シュパッと矢が放たれ、的に向かって飛んでいった。コンッという気持ちのいい音と共に的に刺さる。中心からは外れたところだったが、その爽快感ったらない。
「すげぇ、弓って面白いな!」
満面の笑みで頼に伝える。頼もまた嬉しそうだった。その時だ。
「あっ!ここにいた!やっと見つけた!」
弓道場の入り口がにわかにざわついた。複数の人がわらわらと入ってきて、頼の姿を見つけてはひどく興奮している。
「カフェのほう行っても頼がいないから、すっごい探したんだよ~」
「お前ら来てたのか」
どうやら知り合いのようだ。頼は凪に「悪い、同じ中学だったやつらが遊びにきたらしい。ここじゃ邪魔になるから、ちょっと行ってくる」と断りを入れ、連れだって弓場道の外に出て行った。
仕方がないので、頼が戻るまで一人黙々と弓を射ることにする。すると、
「あのう、はじめまして。頼のクラスメイトさんですよね」
知らない女子に話しかけられた。
「え、そうですけど…」
「わたし、近藤千夏っていいます」
「はぁ、逢坂凪です」
「私と頼、同じインターに通ってたんですが、ちょっと聞きたいことがあって」
「聞きたいこと? 俺に?」
「うん。あの……頼に今、彼女がいるか、知ってたりします?」
「カノジョ」
いきなりそんなことを聞かれてびっくりしつつも、凪は「多分いないと思います」と返した。
「じゃあ気になってる子がいるとか、そういうのって……?」
「えぇ、どうだろ。恋愛の話自体はあんまりしないけど、気になる子がいる的なことは聞いたことないなぁ」
「そっかぁ、よかった」
目の前の少女が両手をきゅっとし、頬を赤らめる。その姿を見て、凪は悟った。
(……好きなんだ)
この子、頼のことが好きなんだ。
「悪い、凪、お待たせ」
「あっ」
ちょうど張本人の頼が戻ってきて、凪のそばにいる千夏の存在に気づいた。「おう、久しぶりだな。元気か」なんて気さくに話しかけていた。千夏は恥ずかしそうに、だけど嬉しそうに、「元気だよ。頼に会えてうれしい」と笑っている。
突然、凪は胸が痛くなった。
(え、なに、なんだこれ)
ぎゅっと自分の胸元を掴む。きしきしのような、ちくちくのような、表現しにくい何かが胸の中を這いずり回っているようだ。だけれどもそれがなんなのかがわからない。胸が苦しい。
得体の知れない感覚に、凪はひとり戸惑っていた。
「ああーー、もう、動けましぇーーーん」
バタリ。
文化祭は無事閉幕した。片付けは明日丸一日を使ってすればいいので、風呂も入らずにベッドに倒れ込む者や夕食の途中で寝落ちてしまう者などで寮は溢れかえっていた。
凪と頼の二人も相当な疲労感を覚えていたが、なんとか着替えと夕食を終えた。その後、1年生が風呂に入れる時間まで少しあるということで、寝落ちないよう散歩をすることにした。11月の夜8時は真っ暗だ。二人は部屋からLEDランタンを持ってきた。
どちらともなく秘密のベンチに向かう。到着すると木製ベンチにどしりと腰掛けた。
「おい、凪、起きてるか……」
「んー……。お前こそ、生きてるか……」
「……ん、半分……くらいは……」
半分くらいってなんだよ。
突っ込みたいがもう体力がない。凪はゆーっくりと喋った。
「なぁ頼ィ~?」
「ん」
「なんだかんだでさぁ」
「ん」
「たのしかったよ、なぁ」
「そう、だな」
しばしの沈黙が落ちた。見上げれば満点の星空が視界いっぱいに広がっている。凪はランタンを消した。頼も無言で消した。
(ああ、星が綺麗だ)
心洗われるような感覚の中、凪の脳内に今日1日の出来事が次々と再生されていく。いろんなことをした。カフェ・ド・ナギコで働いて、美味しいものを食べ、くだらない競争をして、クラシックを聞いて、弓の体験をした。忙しかったし、疲れたけれど、頼と回った文化祭は楽しかった。
(弓の引き方、もっとちゃんと教えてもらいたかったな……あっ)
思い出した。弓道場で弓の体験をしているとき、凪に話しかけてきた人がいたのだ。凪はガバリと姿勢を正して横を向いた。
「おい、頼。お前、今、彼女いないよな」
「彼女?」
「そう、カ、ノ、ジョ!」
いねぇよ、とあっさりした答えが返ってきて凪はほっと息を吐く。質問を続けた。
「じゃあさじゃあさ、誰か今、気になってる人はいたりすんの? 好きな子……とか」
――聞いてどうするんだろう。
冷静な部分の自分がそう問いかけた。だけれども感情的な部分が知りたいと訴えている。凪は知りたいのだ、頼に特別な相手がいるのかどうか。そして頼自身の口からそんな人はいないという答えが聞きたかったんだと思う。だからびっくりした。
「いるよ」
「えっ……」
それは雷に打たれたかのような感覚だった。頼には好きな子がいる――でも、それっていったいどういうことだ?だから、頼には好きな子がいるんだって。いやだから、好きな子がいるっていうのはどういうことなんだ?だーかーらぁ、
(こ、こ、こいつ、好きな子がいたのか……っ!)
思考が追いついた途端、急激な焦りが生まれた。両手がわなわなと震えだす。
「おいっ!寝てんじゃねぇよ起きろ頼!そんなん聞いてねぇぞ、好きな子がいるだなんて!」
「は……?」
寝ぼけ眼の頼の襟首を掴まえて、凪は思い切り揺さぶった。
「どこの誰だ!告白するのか?いつから好きなんだ!答えろ頼、ふざけんなっ」
「けほっ、けほっ、おいっ、やめろ」
頼は凪の手を掴んで「殺す気か!」と吠えた。眠気は引っ込んだようだ。
「俺たちせっかく仲良くなったんだぞ?柿下も宇田川も、皆あわせていわゆるイツメンってやつだろ!それがなんだ、お前に彼女なんてできちまったら、俺たちとの付き合いが悪くなるって相場は決まってんだよっ。俺らとその子、どっちを取るんだ!」
「お、おい、落ち着けよ凪」
「落ち着いてられっか!」
凪は勢いよく立ち上がり頼の目の前に回ると、両手で肩を掴んで訴えた。
「その子に頼が取られちまうなんて嫌だ!俺よりその子は可愛いのか?なぁ?お前、この前は凪子のこと可愛いって言っただろ?好みなんだろ?凪子を捨ててその子を彼女にするのかよぉっ!」
「っ……」
頼の目が見開かれた。なんだかとんでもないことを言っている気がするが、あまりの衝撃に凪はハイになってしまっている。
「どこの子だ?今日来てた友達の誰かか?それとも部活の大会とかで出会った他校生か?なぁ、俺はその子に頼を取られちゃうのか?なぁなぁなぁっ」
「いや、あのな、凪」
「なんだよっ」
「俺の好きな人は、女子じゃない」
「……女子じゃない?」
「ああ。この学園の生徒だよ」
まっすぐ目を見て頼が言う。凪は再びの衝撃に飛び上がりそうになった。
「お、お、お、お、男? お前、男が好きだったのかッ!」
「いや、厳密には違う」
「ハァン?」
頼は少し迷ったような顔をしてから、話してくれた。恋愛対象はあくまで女性だと。
「今まで付き合った相手も全員女子だったよ。今だって男を見て食指が動くわけじゃない。そいつだけ特別なんだ。俺だって驚いたよ。でも気づいたらすごく惹かれてた。いつの間にか好きになってた。それがたまたま同性だったってだけの話だ」
「……なんだよそれ。そんなのって」
恋愛において、最もロマンチックではなかろうか。性別なんて超越して、その人だから好きになったというのは。
(ウッ……また、胸が苦しい)
あの痛みが再来した。凪は思わず胸を押さえた。千夏といた時はちくちくきしきしくらいだったのが、じくじくぎしぎしに変わっている。自然と眉に力が入る。凪はおそるおそる聞いた。
「告白、するのか……?」
「……どうかな」
いやだ。
告白なんてしないでくれ。
凪はどうにかして頼を取られまいと必死だった。力強く「ダメだ!」と言い切る。
「告白なんてしたら許さない!お前レベルなら相手がどんなやつだろうと叶っちまうに決まってる!俺はお前をみすみすそいつに奪われる気なんてさらさらないぞ!お前に一番近いのはな、俺なんだから、俺に決定権があるんだぁぁぁぁっ」
凪は感情任せにビシィッと頼を指さし、叫んだ。
「親友特権発動!お前に彼氏は作らせないっ!」
