(マージーでサイアク、この変態野郎が!人の尻触ってんじゃねぇよクソッ、あぁ~イライラするっ…)
ぎゅうぎゅうの満員電車の中、逢坂凪(おうさかなぎ)ははらわた煮えくりかえっていた。乗車早々尻に異物感があると思えば、揺れた拍子にソレがぞわりと意思を持って動き出す。バッグやリュックといった物とは違う。人の手だ。それも、男の。
(クソッ。今日という今日は絶対にとっつかまえてやる!)
凪は盛大にしかめっつらをした。これは痴漢だ。どうしてすぐにわかったかというと、凪はどうやら痴漢されやすい体質で――凪自身も男なのになぜか男に好かれるのだ――、中学時代の3年間は満員電車に乗れば数回に一回は必ず体を触られた。最悪すぎる。そして高校入学を迎える今日この日もまた、悲しきかな尻を揉まれている。無理すぎる。
(駅ついて扉が開いたら、こいつの腕つかんで引きずり出してやる!)
これまでも相手を捕まえようと試みてはきた。だが寿司詰め状態の車内ではみじろぎ一つ取るのさえ困難で、できたとしても周りの乗客から「なんだこいつ」と白い目で見られてしまう。え?声を上げたらいいじゃないかって?おいおい考えてみてくれよ、男が男に痴漢されましただなんて恥ずかしくて言えるわけないだろう!
ガタン、と電車が揺れ、手すりに掴まるようアナウンスが入った。その時だ。
「かわいいねぇ。きみ」
うなじに生暖かいものがむわっとかかって、全身鳥肌が立った。犯人が凪の耳元で囁いたのだ。き、き、きもい。
「きみだって、楽しんでるんだろう?」
「っ…」
誰が好き好んで尻なんて揉まれるかコノヤローッ!楽しいわけあるか!はったおしたろかアァ?
あまりの気色悪さにうっと体が丸まった。すると男は凪が怯えていると勘違いしたのか、囁きがエスカレートしてくるではないか。
「うなじがとってもきれいだね。肌もすべすべだ。今のきみもかわいいけれど、大人になったらもっときれいな美人に育つだろうね。あぁ」
――きれいだ。
――かわいい。
――ぼくの天使。
――ぼくの…、ぼくの…、
いや、あの、きもすぎてむりです、はい。
立て続けにこんなことを言われて、凪はとうとう参ってしまった。今にも吐きそうだ。電車の揺れがつらい。早く降りたい。あれだけこいつを捕まえようと息巻いていたのに、もはや一刻も早く解放されたいと思っている。
ようやく電車がホームに着き扉が開くと、凪は人の波に流されるがままぽーんとホームに押し出された。へろへろだ。顔をあげてあたりをにらみ回すけれど、捕まえたかった男の影は見当たらない。
(クソッ…なんで俺がこんな目に)
ぎりぎりと歯を食いしばりながら、鞄を肩にかけ直し、凪は超絶不機嫌で駅を後にした。向かうは高校三年間を過ごすことになる私立の全寮制男子校。凪にとっては入学日である今日を最後にしばらく電車通学しなくて済むというのがせめてもの救いである。と、いうより、それが狙いで全寮制の学校に絞って受験をしたのだ。
(父さん母さんありがとう。決して裕福な家庭じゃないのに、俺の無理を聞いてくれて。おかげで明日からはめくるめくノン痴漢ライフを送ることができるよ)
一つ深呼吸をし、思考を切り替える。駅からゆるく続く坂の上には数メートルの高さに及ぶ荘厳な正門があった。その向こうには豊かな緑と、それを突き抜けるように建つレンガ造りの校舎が見える。
全寮制男子高等学校――私立・花ノ宮学園。150年ほど前に創立された由緒正しき名門校だ。
いよいよか、と思う。
進行方向には同じ制服に身を包んだ新入生らしき人影が集まりつつあった。みなどこか足取りが軽い。凪だって、本当はこれから始まる学園生活に胸を踊らせていた。
(楽しみだな。なんだかんだあったけど)
よし、と頷いて、凪は広大な構内へと足を踏み入れた。

「――この学園の生徒である自覚と誇りを持ち、これからの三年間を精一杯有意義なものとしていきたいと思います。令和7年、4月8日。新入生代表、伊坂頼(いさかより)
洋と和とをかけあわせたような建築デザインのアセンブリホールで、花ノ宮学園の入学式が行われていた。壇上の生徒は代表挨拶を終えると一礼し、颯爽と階段を降りていく。名前は伊坂頼というらしい。なんというか爽やかすぎて眩しいやつだ。
(天は二物を与えずって言うけど、嘘だよな)
制服をぱりりと見事に着こなす頼の姿を眺めながら、凪は腕組みしたい気分になった。かっこいいのだ、頼が。
背が高く手足がすらりとしていて、スポーツが得意そうに見える。髪は長すぎず短すぎず清潔感に溢れているし、顔の造作は芸能人並みに整っているときた。これは女子がいたら迷わずきゃーきゃー言って群がるだろうなぁ。そのうえ代表挨拶を務めるってことは頭もいいわけで、もっと言えばこの学園に入学する時点で超裕福な家庭の子と相場が決まっている。
(あれ、待てよ。伊坂ってことは、俺が逢坂だから…)
寮の部屋割りが名前順ならば、同じ部屋になるのかもしれない。
式が終わると、凪はそんなことを考えながら、指定された寮の部屋へと向かった。寮はアセンブリホールから歩いて10分ほどのところにあり、講義棟と隣接している。「歩いて10分ってどんだけだよ」とツッコむくらいには、花ノ宮学園はかなりの敷地面積を保有していた。
構内には寮や講義棟をはじめ、食堂、グラウンド、屋内体育館、図書館、芸術館、アセンブリホール、礼拝堂といった様々な施設が雑木林や小川の間を縫うように点在している。そう、雑木林や小川があるのだ。もう少し離れたところに行けば小さな湖まであって、ボート部の練習場所となっている。     
「わぁ、きみもここの部屋?」
凪が寮の部屋に着くと、明るい声が飛んできてびっくりした。
「あ、驚かせてごめんよ。僕、柿下倫太郎っていいます、よろしくね。で、こっちが」
「宇田川大輔だ。よろしく」
部屋の中にはすでに二人のルームメイトがいた。花ノ宮学園では一年生が四人部屋を使う決まりになっている。二年生になると相部屋となり、個室が与えられるのは最上級の三年生だけだ。
凪は差し出された二人の手を順に握り返しながら、名乗った。
「よろしく。俺は逢坂凪。二人は顔見知り?」
「そうだよ。小学校からの幼なじみなんだ」
にっこり笑った柿下はくるくるとした巻き毛に童顔で、鼻のまわりにはそばかすが散っている。口調も相まってとにかく人懐っこい印象だ。
一方の宇田川は無骨な雰囲気で、涼しげな目鼻立ちが目を引いた。少し怖い感じもするが、柿下の後ろで相づちを打っているから悪いやつではなさそうだ。
「ねぇ、逢坂くんは芸能人だったりするの?すんごいキレイな顔してるよね!」
「え…いや、違うけど」
「アセンブリホールできみを見た時、口があんぐり開いちゃったよ。髪の毛だってさらさらのツヤツヤだし、男の子なのにまつ毛すっごく長いし。まるで外国の人形みたいだよね!」
「ど…どうかな」
晴れ晴れと言い切られるのを聞いて、凪はにわかに胃が重たくなるのを感じた。
確かに自分は日本人離れした容姿をしている。指通りのよい髪の毛にアーモンド型の色素の薄い瞳。鼻や唇は小作りで、あごがきれいにとがっている。その下にはほっそりとした首、肩、腕。美人と言われる母親の美貌をそのまま受け継いだのだ。
だがこの線の細さが嫌で、中学からは毎日筋トレを続けてきた。それなのにいまだ体はアスパラガスのように細いまま。まったく世の中どうなっているのか。だから中性的な容姿が好きな人間からすれば、凪は好ましいのだろう。そしてそのことで被る災難というものもある。例えばそう、今朝のことだ。
――きれいだ。
――かわいい。
――ぼくの天使。
――ぼくの…、ぼくの…、
(うげ、思い出すだけで反吐が出る…)
気にするな、と自分に言い聞かせた。別に柿下は悪気があって言っているわけじゃない。こっちの事情なんて知らないし、伝えるつもりもない。ただとりあえずは、
「あのさ、悪いけど俺、あんまり容姿のこと言われるのは――」
好きじゃないんだよね。そう柿下に告げようとした時だった。
「ええと、取り込み中?入ってもいい?」
部屋の入り口に人影が現れたと思えば、それは頼だった。柿下がはしゃぐ。
「すごいすごい!さっき代表挨拶してた人だよね?伊坂くん、だっけ」
「ああ。名前を覚えていてくれたんだ。ありがとう。きみは?」
「僕、柿下倫太郎っていいます。で、こっちが幼なじみの」
「宇田川大輔だ。よろしく」
先ほどと同様、にこやかに握手が交わされた。近くで見ても頼は制服が似合っていて、同級のはずなのにどこか大人びている。非の打ち所のない爽やかスマイルだ。頼が二人に向かって、
「あらためまして、俺は伊坂頼。気軽に呼んでくれ。これから一年間よろしく」
と笑うと、白い歯がキラリと光った。マジで眩しいやつだな。
(でもなんだかこいつ、腹の底がわかんねぇのな。絶賛よそ行きの笑顔貼り付けてますって感じだし)
柿下と宇田川は気にならないみたいだが、凪は違和感を覚えた。そんな凪のほうをくるりと向くと、頼が手を差し出してくる。
「きみもどうぞよろしく。俺は伊坂頼」
「ああ。俺は逢坂凪。こちらこそこれからよろしく。……え?俺の顔になんかついてる?」
「い、いや…」
なぜか頼が目を丸くしてフリーズしている。凪は小首をかしげた。すかさず柿下から「あー!わかる、わかるよ伊坂くん!」と声が上がった。
「びっくりするよねぇ!ルームメイトにこんな人いたらさ、見惚れちゃうよねぇ!」
今度は凪がフリーズする番だった。
「そうだな、見惚れるというか……、ああ。見惚れてたのか。あまりに綺麗な顔だから、つい」
げぇ、と思う。
しみじみと告げられたそれに、たまらず全身鳥肌が立った。お前もか。勘弁してくれ。そもそも初対面で人のことあれこれ言ってくるこいつら一体なんなんだ!
「やめてくれ。俺は容姿がどうのとかそういう系のこと言われたくないんだ」
「謙遜するなよ。美形なのは事実だろ」
「マジでやめてくれって……」
頼むよ、本当に。そう付け加えたがだめだった。頼に悪意はなかったのだろう。振られた話題に乗っただけだ。頭では凪もわかっている。それでも、頼が、
「なんていうか中性的だよな。俺、中学はインターに通っていたけど、ここまで綺麗な人間は男女あわせても見たことがない」
と言うのを聞いた途端、凪は感情を上手くコントロールできなくなってしまった。自分よりも背が高く大人びた頼に嫉妬していたのもある。
「……じゃねぇよ」
「え?」
「変な顔して笑ってんじゃねぇよ!」
一瞬の静寂が訪れた。
のち、部屋の空気が凍りついたかと思うと、頼が「は?」と声を低く荒げた。凪はなおも留まることができない。
「俺の顔に見惚れてたのか?ハッ。めでたいやつだな。生憎俺はお前の顔が嫌いだ。奇妙な愛想笑いばかりくっつけて、窮屈そうじゃないか。楽しいのか、それ」
「なんだと……っ」
頼の頬にさっと朱が差す。一気に年相応の表情になった。今までこんなふうに喧嘩を売られた経験なんてないのだろう。プライドが傷つけられ、気分を害したのが手に取るようにわかる。頼の黒い瞳がきつくこちらを睨みあげ、そして鋭く放った。
「変な顔で悪かったな!だが安心しろ!お前になんて二度と笑ってたまるか、逢坂凪っ……!」
それからどのくらいの期間だろうか。事あるごとに二人は衝突した。凪の強気な言動に頼が突っかかり、凪が言い返し、頼が返す。さらに凪が食い下がれば頼が倍返しにし、凪が、頼が、凪が、頼が……。
ひどい時は互いを言い負かすことにこだわりすぎて、目玉焼きに何をかけるかで三日三晩言い争ったこともあった。別の日には凪の筋トレを頼が真似てきて、腹筋対決やプランク耐久など途方もない勝負をした。4月が終わる頃には柿下も宇田川も呆れかえってしまい、
「きみたちも懲りないねぇ……」
とため息をこぼされたのを覚えている。


「――というわけで、そろそろ中間試験が見えてきた。すでに多くの者が勉強し始めていると思うが、もう一段ギアを上げて集中するように」
それは5月のとある授業でのことだった。
「このクラスは勤勉な生徒が多いが、とくに優秀な生徒は2人だ。伊坂と逢坂。期待しているぞ。ぜひ頑張ってほしい」
「坂坂コンビじゃん」
どっと笑いが起きた。凪と頼の関係性はクラス中ですっかり話題となっていて、その仲の悪さたるやみんなが知っている。そして仲は悪いのに、どちらの名前にも坂の字が入っているものだから、それを文字って誰かが自然と呼び始めた。
「おい、待てよ伊坂」
「なんだよ」
休み時間になると、教室を出て行こうとする頼を凪が呼び止めた。
「勝負だ」
「はぁ?」
「いいかげん俺たちの関係にも決着をつけよう。これまでなあなあに勝ったり負けたりしてきたが、今度の中間試験で総合成績が上のほうが正式な勝ちだ」
「ハッ」
頼が鼻で笑う。器用に片方の眉尻だけを上げ、「つまらない勝負だな」と言った。
「今しがた褒められたからって調子に乗るなよ逢坂。首席入学は俺だぞ?その意味がわかるか。この学年で俺が一番の成績を取ったってことだ」
「そんなん1ヶ月も前の話だ」
「あぁ?」
バチバチと火花が飛び交った。両者譲らず睨み合う。凪はくいと口角を持ち上げた。
「どうだ。この勝負に負けたほうは勝ったほうの言うことをなんでも1つ聞くっていうのは」
「……へぇ。なんでも言うことを聞くねぇ」
頼が面白そうに笑う。
「いいのかお前。負けて取り返しのつかないことになっても知らねぇぞ」
「うっせーな。やんのかやんねーのか聞いてんだよ。日和ってんのか?」
「んなわけ」
乗った――と頼が確かに言うのを聞いて凪はほくそえんだ。見てろ伊坂頼。成績発表後に地べたを這いつくばって悔しさに泣くがいい。取り返しのつかないことになるのはお前のほう――、
「嫌だぁぁ!ちくしょーーーっ!こんなん認めねぇぞぉぉぉ!」
果たして叫んでいたのは凪だった。
5月中旬に行われた中間試験の結果が貼り出されると、頼が1位、凪が2位だった。しかもまさかの1点差。
悔しさにのたうち回る凪は一人、寮の部屋のベッドに埋もれてぽすぽすと枕やシーツを殴っていた。悔しい。悔しすぎる。細胞一つ一つが悔しさにうち震えている感覚がする。くそっ、あいつめ、こんにゃろこんにゃろこんにゃろ、ぽすっ、ぽすっ、ぽすっ、ぽすっ…。
「はっ!」
凪はあることに思い至って頭をガバリと上げた。
「まさか、あいつ、俺に坊主にしろとか言ってくるんじゃ……それとも腹踊りか?一発芸か?いやまだそれなら可愛いほうだ。最悪、変なバイトに連れてかれて闇労働でもさせられるんじゃ……?ありえる、伊坂ならありえるぞ」
「ありえねぇよ」
ぺちっと頭をはたかれた。
「い、伊坂!何しに来た!俺を海外に輸出する気か!」
「俺をなんだと思ってる」
部屋に現れた頼はどかっと隣のベッドに座ると、「お前にやってもらうことができたぞ」と言って凪の目の前にA4ほどの紙を出した。
「く、くそ……ついにこの時が来たか。父さん母さんごめん、息子は違法闇労働で逮捕されます」
「だから違ぇって。見ろよこれ、体育祭」
「え、息が臭い?」
「た、い、い、く、さ、い!ふざけんなこの節穴!」
「いてっ、デコピンは地味に痛ぇんだぞ!」
いつもどおり始まったぎゃあぎゃあの傍ら、凪は頼の思惑を理解した。どうも来月開催される体育祭のとある種目――仮装リレーに出場してほしいらしいのだ。頼は体育委員なのだが、この種目だけなかなか人が集まらず、人数調整に手間取っていることは凪も知っている。つまり頼は、凪を都合のいい駒として使ったわけだ。
「覚えとけよ伊坂ァ……俺をこんな扱いしたこと、必ず後悔させてやるゥ」
「へいへいそれは学年一位とってから言えよな。まぁ無理だろうけど」
「ぎぃぃ!」
「うわっ、のしかかってくんなっ」
凪は決めた。
(仮装リレーだろうが結局はリレー。リレーは点数が高い。俺がクラスを1位に導いて、英雄的ポジションになり、こいつにぎゃふんと言わせてやるっ)
かくして体育祭当日、凪は脳内効果音「ドーン!」を背景に、完璧なメイド服姿でグラウンドに立っていた。 
「なぎこちゃぁーーん」
「似合ってるよ~!」
「こっち向いてくれーー」
「うぉぉ、可愛いぃぃぃ」
野郎どもの雄叫びが響き渡る。
なぜメイド姿なのかというと、三日前に頼から衣装が決まったと渡されたのが黒地に白エプロンの王道メイド服ならびにツインテールのかつら、黒のパンプスだったのだ。絶句した。そして今もなお四方八方から「可愛い」だの「似合っている」だの飛んでくるものだから、凪のイライラメーターは振り切れ寸前だった。ピキリと青筋を立てながら、伊坂頼許すまじエンジンをブンブン吹かす。
(はぁ。しっかしどこのクラスもようやるぜ)
凪のクラスは出場者全員メイド服だ。隣のクラスはスーパーヤサイ人とかいう走りにくそうな着ぐるみチームで、さらには上裸に下半身黒ストッキングというコンプラ的に大丈夫なんですか集団も参加している。
「凪子ちゃん写真撮るから視線ください!」
スタート地点に全チーム集合すると、広報という腕輪をつけた上級生の体育委員がカメラを構えていた。気づけば凪はクラスも学年も関係なく「凪子ちゃん」と呼ばれてわーきゃー騒がれている。それだけこの女装がハマってしまったということだろうか、あゝ無情。
と、その時。
「な、ぎ、こ。頑張れ」
けして大きな声ではなかったのに、凪の耳はそれを拾った。発生源を辿れば、本部テントの下で涼しい顔をした頼がこちらを見てニヤニヤしている。こいつだ。凪は吠えた。
「伊坂っ、マジ、覚えてろォ」
「あーこわ。ほら集中集中。凪子ちゃんファイトだよ!」
ファーーーーック!
凪は大地を蹴り本部とは反対側のバトン受け渡しゾーンへと行った。凪はアンカーだ。ムカつきすぎていたがゆえに気がつけばスタートのピストルが鳴っており、どんどんチームメイトが減っていく。あっという間に凪の番が来る。
ラインに立つと、風が頬をくすぐった。アンカーを示すたすきがたなびく。順位は現在2位。1位は某魔法学校のローブと制服をまとい、ほうきを股に挟みながら爆走しているチームだった。
一つ前の走者がカーブを曲がった。凪は助走分を計算し、完璧なタイミングで走り出す。運動は苦手ではない。むしろ好きだ。バトンをしかと受け取った凪はぐんぐんスピードに乗っていった。アナウンス部の生徒が「すごい、すごいぞメイドチーム! 走りにくいであろうパンプスをもろともせず、魔法学校チームに猛追しています!」と大興奮している。
問題はここからだ。仮装リレーという名前のくせして、その実は障害物競走の側面もある。まったくなんでもアリな種目なのだ。
まずは前方につり下げられたあんぱん。凪は軽快にジャンプをし、口でキャッチをした。食べなくてはいけないルールはないので、トラックの外側にいた柿下と宇田川を見つけると「やる!」と言ってぽーんと投げ渡した。
「凪子ちゃんのあんぱんほしいっ」
そう言ってむらがる野郎どもによって二人がもみくちゃにされたことはいったん置いておく。
その後はハードルを3つ飛んで、麻袋に入ってジャンプで進み、風船を尻で割り、ネットをほふく前進でかいくぐる。これで最後だ、と辿り着いた先にはお題箱が用意されていた。思い切り手を突っ込む。選んでいる暇などない。現在順位は1位に凪が接近し、数秒の差と言えるところまできた。
「さぁ、メイドチームは何を引き当てたのでしょうか?おっと、猛烈に走り出しました。向かった先は……本部テント!?」
ついている、と思わざるをえなかった。凪が引いたのはなんと、
『最近一番ムカついた人と一緒にゴール』
だったのだ。もはやあいつ以外ありえない。
「ゴルァ伊坂ァちょっと面貸せやァ」
「い、いきなりなんだよ」
腕をむんずと掴み引きずり出す。あまりの剣幕だったのか、頼の顔は引きつっていた。
「いいから走れ!」
「引っ張んな!」
「うるさいこれで負けたらお前のせいだからなっ」
問答無用で頼を黙らせ、凪は全速力で走った。気を抜いていた頼も途中からは本気で走り出したらしい。速い。ますます凪はムカついた。ゴールテープは近い。魔法学校を抜いた。もはや一位は決定だ。だがこいつには負けたくない。先にゴールしてやる……っ!
「うぉぉぉ!」
歓声がひときわ大きくなる。凪と頼は二人同時にゴールテープを切った。勢い余ってトラック外の芝生へとごろごろ転がる。
「いってぇな!なんなんだよ逢坂」
「お前こそ重いっ!どけっ!」
「暴れんな!お前が俺の腕巻きこんでんだろーがっ」
「気合いでなんとかしろっ」
ぜぇはぁしながら互いの腕や足を引き抜くと、頼が「ってか何引いたんだよ」と聞いてきた。凪はにやりと笑う。
「え?これか?」
ポケットから出したお題のメモを見せた。頼が一瞬固まる。凪は肩すくめた。
「お題通りの完璧な人選だぜ。まったくお前にはムカつきっぱなしだったからな、伊坂くんや」
「言ってくれるじゃねぇか。俺だってお前にムカついてるわ。むしろ俺のほうがムカついてるわ!」
「はぁ?絶っっっ対俺のほうが先にムカついてるね」
「ほざけ。俺なんて入学初日から頭きてんだぞっ」
「それは俺だって――」
言い返そうとした瞬間、わーっとクラスメイトたちが駆け寄ってきた。
「お前らでかした!」
「めっちゃ点数入るじゃん!もしかしたら優勝かもよ」
「二人とも走るの速すぎな」
「でもまたケンカしてるわけ?ほんとラブラブかよ」
「「ラブラブじゃねぇよ!」」
被った。
「「真似すんな!」」
また被った。
「「お前ふざけんなよっ!」」
……もうダメかもしれない。
どっと爆笑が起こり、「坂坂コンビ最高!」と拍手までされる始末だった。凪が苦虫をかみつぶしたような気持ちで頼を流し見ると、多分、向こうも同じ顔をしていた。そこに例の広報の生徒が現れる。
「メイドチームとクラスのみなさぁん、写真撮りますよ!カメラ見てくださーーい!」
「おお、いいねぇ!お願いしまぁす」
誰かが楽しそうに応える。みんなが笑っていた。クラス全体が凪と頼めがけてぎゅうっと集まってくるから、おのずと凪は頼にべったりくっつくはめになった。ちくしょう。だが周りの笑い声を聞いているうちにカリカリ怒っていることがなんだか馬鹿らしく思えてきて脱力した。
「伊坂と並んで写るなんてしゃくだが、しゃーねーな。撮られてやろう」
「は?そんなん倍にして返すわ」
ぱしゃりと閃光が飛ぶ。
凪子凪子とさんざん冷やかされたけれど、頼は相変わらずムカつくやつだけれど、走りきった今は気分が晴れやかだ。見上げた空がとてつもなく青い。風が気持ちいい。なんというか、花ノ宮学園での高校生活も――
「悪くないな」
気づけば凪はそう口にしていた。