シャワーを浴びていると熱くなった思考がだんだんと落ち着いていく。
 体は熱くなっていくのに思考は冷めていく不思議な感覚だ。

 ふと曇り扉の向こうに人影が見える。
 曇り扉越しに見る人影は陽炎のように揺らいで見えた。

「藍さん?」

「だれ、その女?いつの間に浮気したのアキ?」

 紛れもなくさっきまでと同じ声なのに、俺はもう涙をこらえることができない。

「……俺が浮気なんてするわけないだろ。葵」

 この扉の向こうに間違いなく彼女はいる。
 この1年間片時も忘れることのなかった、生きている限り決して忘れることのできないとまで思った最愛の人。

 俺はシャワーを止めることも忘れて急いで扉を開けようとする。
 しかし、まるで予想していたかのようにその行動は止められた。

「待って、まだ開けちゃダメ」

「どうして」

「どうしても。お願い、まだダメなの」

「わかったよ」

 久しぶりに聞いた恋人の声に、願いに抗ってまで自分の意思を通そうとは今の俺には思えなかった。

「聞きたいことはいろいろとあると思うけど、まずは私の話を聞いてほしい」

 俺は無言で続きを促すほかなかった。

暁 明(あかつき あき)の恋人、南空 葵(みそら あおい) はあのとき確かに死んだ」

 いきなりの発言に俺は理解が及ばない。では今喋っているのは一体だれなのか。
 また葵と話せているという感動と状況の理解のために涙を流しながら脳が思考を始める。

「でも、私の一部は死んでなかったの」

「アキも持ってたでしょ?臓器提供意思表示カード」

「ああ、二人で映画見て感動して持つようになってたな」

 葵の問いに辛うじて反応する。

「そうあれ、あれのおかげで私とこの子は助かった」

 確かに聞いたことはある。

 心臓移植を受けた相手に移植側の好みや嗜好が似ることがあるという話だ。
 しかし、俺が間違えるはずはない。この声は間違いなく葵の声だ。

「この子は生まれて間もないときから意識がなかったそうなの」

 俺の反応がないことを確認して葵は話を続ける。

「でも、色んなしがらみや大人の体裁とかたくさんのことが絡み合った結果、完全な医療体制の下この年まで生かされていたそうよ」

 なんとも気分の悪い話だ。

 というか、そもそもそんなことがあり得るのだろうか。
 俺は一般家庭の生まれだし、そういう大人のしがらみや事情が子供にまでかかる様な世界のことは知らない。だからそれは理解するとしても……。

 1つ確実に説明できないことがある。だんだんと意識が思考の海に沈んでいく。

「ちょっと、アキ聞いてるの?というか私の方こそ聞きたいことがたくさんある!」

 どうして、藍さんの容姿は葵に酷似しているのか。
 葵の話によれば、藍さんは意識のない中、完全な体制の下で生きてきていたということだったはず。
 確かに、この世には自分と同じ顔の人間が自分以外に3人いるという話はよく聞く話ではあるし、そう言った人に実際あったことがあるわけじゃないからこの説が嘘であると確証は持てない。

 でも明らかに偶然が重なりすぎている。
 出身、年代、声や体に至るまで。
 ここまで似ている、いや同じということがあるだろうか。

 また、初めて見たときのあの感覚は……。

「ねぇ!ちょっと!」

 そこまで思考を深めたところで、俺の思考は停止せざるを得ない状態に陥る羽目になった。

 見覚えのある肌の質感。

 風呂上がりで少し水分を残し、艶のある明るめの髪。 

 吸い寄せられるような瞳。

 間違いない。これは、出会い頭に藍と名乗った目の前の女性は、葵だ。

 体がもう放すまいと言わんばかりに葵を抱きしめる。

 恥も外聞も関係なく、俺は子供のように泣きじゃくった。

「おいおい、アキくん。いつの間にこんな甘えたさんになっちゃったの?」

 少し怒気を帯びた最初の雰囲気とは打って変わって、今の葵はもたれ合いながら生きていたあの頃のようだった。

 そして、今度こそしっかりと聞かせるように話し始める。

「アキのスーツ姿、やっぱりかっこよかった」

 改めて見る機会はなかったからね。

「でもなんか、知らない雰囲気だった。ちょっと嫌だった」

 一緒に居なかったのはまだ一年くらいなのに変わっちゃって……。

「というか、アキラって誰よ。言い慣れてる雰囲気だったし、そうやって女の子をだましてたんじゃないでしょうね?」

 言うこと一つ一つに深い感情が込められているように感じられた。

「あんな妙な状況に何回も遭遇してたまるかよ」

 ようやく少し落ち着きを取り戻して返事をする。

「あ、ようやく喋った。で、アキラってなんなの?」

「それより、いったい何がどうして葵がいるんだ?」

 聞かれた質問には答えず、質問を返す。

「そうやって話したくないことになると、質問で返すところは変わってないね」
 そう言うと葵は少しうれしそうにはにかんだ。

 そうした後、「あとで絶対聞かせてもらうから」と言ってから俺の質問に答える。

「この子、私の双子の妹だったらしいの」

「は?確か葵、兄妹はいなかったよな?」

「うん。だからさっき話したでしょ。色んな事情があって意識のないまま生かされてたって」

「ああ、それはさっき聞いたが」
 あ、やっぱりちゃんと聞いてはいるんだよね。そうこぼしながら葵は話を続ける。

「正直私もよく理解できないんだけど、あの家なら全く空っぽな人間を生み出してここまで成長させる技術があっても納得できる。それでも、人工的な技術だけで人間の維持を続けるのには無理があったみたい」

 葵の家……確か精密機器の工場ではなかったか?

「そこで、ちょうど私が死にかけだって情報が伝わった」

「それで葵の臓器が移植されたと?」

「そういうことみたい」

「いや、でもなんで葵がいるんだ?」

「それは私にもわからない。そもそもここまで私がはっきりしたのもついさっきだしね」

「どういうことだ?」

「目が覚めてから、ずっと意識がはっきりとしなかった。でも漠然とあの家からは出ないとって思ってた。あの家のやつらも必要だったのは《《藍》》みたいな意識のないまま成長を続ける人だったみたいだから、移植後の私に意識があることが分かった後は1年間いろんな実験に付き合うだけで解放されたの」

 全く理解できないが納得した。

「はっきりしたのがついさっきっていうのはどういうこと?」

「アキに会うまで、なんだかずっとぼうっとしてたの」

「でもなんとなく、今日はあそこに行かないといけない気がして。そしたらアキが来て、アキの顔見てはっきりした。私は藍じゃなくて葵だって」

「つまり空っぽな人間に葵の意識が宿ったってこと?」

「まあ、多分だけど。正直私も戸惑ってる」

「体に違和感はないのか?」

「ないとは言い切れないけど、双子だからかな?さっき鏡で自分の体をみたけど全然違わないように見えたし」

 まあ、たしかに。俺にも違いという違いは全く見当たらない。
 もう一度葵の姿をよく確認してそう思う。

 ……。

「ねぇ……見すぎ。確かに何も言わず裸で入った私も悪いけど、アキがほかの人のこと見てると思うとイヤ」

「他の人って言われても、葵だろ」

「それはそうだけど、複雑なの!もういいでしょ?いつまでもこんな格好で話してるとか、よく考えればすごくバカみたい」

 別にバカということはないんじゃないだろうか。
 もともと同棲していた仲ではあるし、というか俺は文字通りシャワーを浴びていただけで、まだ体も洗えてないから出たくない。

「まあ待て、俺はまだ髪すら洗えてない。続きは後でゆっくり聞くから待っててくれ」

「……じゃあ私もいる」

 そう言ってお湯を張っていない湯船に足を入れ浴槽のふちに腰を掛けた。
 どうやら今回は羞恥心より、他の感情が勝ったみたいだ。

「こんな格好で話すのはバカなんじゃなかったのか?」

 裸突撃のお返しに少しからかってみる。

「いるだけだもん」

「屁理屈かよ」

「……もう離れたくないだけ。走馬灯ってね、ほんとにあるんだよ。私が死ぬ直前、アキとのことたくさん思い出したし、最後にはあの日にいるはずのなかったアキの幻まで見えたんだから」

 落ち着きかけていた感情がまた膨れ上がる。
 俺は間に合っていたようだ。かつての絶望に一欠片の希望が咲き、今日まで広がる闇を照らす一筋の光になったような感覚を覚えた。
 目頭が熱くなるのを抑えきれず、とっさに顔をシャワーへ向ける。

「ちょっと!いきなり何してるの?」

 俺の突然の行動に驚きながらも葵が笑っている。
 ああ……本当に……。

「おかえり、葵」

 顔を伝う雫はシャワーなのか、涙なのか、もう今更どちらでも構わない。

「ただいま、明」
 あの日失った熱が唇を通して全身に広がっていった。