あれから、一ノ瀬に会えていない日が続いていた。
一ノ瀬が家族旅行で北海道に行っているからだ。
連日、カニやアザラシや海鮮丼の写真が送られてきている。
俺はベッドの上で、一ノ瀬が行った店や観光地を調べては、北海道に詳しくなっていた。
いま北海道の観光地クイズ大会にでれば、良い線いくかもしれない。

当の一ノ瀬は、一応、昨日こっちに帰ってきてはいるらしいが……
スマホを手にしてはメッセージを打ちかけ、けれど送信せずに消す、そんな日々。

夏祭りの夜の「特別」という言葉が、胸の奥で何度も反芻されている。
——もし一ノ瀬が俺のことを、
そんな期待が、どうしても膨らんでしまう。

そんなとき、ピロン、とメッセージが届いた。
表示をみると、一ノ瀬の名前。

「図書館で宿題やらない?」

思わず声が漏れる。
——会える

***

高校の図書館は冷房が効いていて、夏の午後の熱気が嘘のように静かだった。
窓の外からは蝉の声が遠くに聞こえてくる。

一ノ瀬はノートを広げ、ペンを走らせながら横目で笑った。
「成瀬、集中してるね」
「……この課題、俺には難しすぎる」
実際、集中なんてできてなかった。
心の奥ではただ「隣に一ノ瀬がいる」という事実が嬉しくてたまらない。
「はは! 教えようか?」
「頼む……」

一ノ瀬の言葉に甘える。
隣に座ってくる一ノ瀬から爽やかなシトラスの香りがして、胸が落ち着かない。
——好きだ
そうしみじみ思った。

しばらく二人で課題をしていると、一ノ瀬が立ち上がる。
「ちょっと飲み物買ってくる。何かいる?」
「いや、大丈夫」
「オッケー。すぐ戻るね」

その背中を見送って、再び机に視線を落とした。
でも、数分経っても戻ってこない。
自販機ってすぐそこのはずなのに、何かあったんだろうか。
ページの文字が頭に入らず、落ち着かない。

——ちょっと、見に行ってみるか

立ち上がって廊下に出ると、自販機の前で一ノ瀬の姿を見つけた。
誰かと話している。

女子生徒だった。容姿が整っていて、キレイな子だ。
肩まである髪をさらりと揺らしながら、一ノ瀬に何かを訴えるように言葉を重ねている。
一ノ瀬は困ったように笑って、何度か首を横に振った。

——また、断るんだろうな

そう思った次の瞬間。
女子が一ノ瀬に抱きついた。
それだけじゃなく、一ノ瀬も、その肩を抱き返していた。
その光景はまるで映画にでてくるワンシーンだった。
美しいヒーローとヒロイン、誰が見てもお似合いだった。

「……!」

衝撃で息が詰まる。
反射的に足が止まった。

頭の中が真っ白になる。

音も、匂いも、全部が遠のいて。
ただその光景だけが、鋭く胸に突き刺さった。

——一ノ瀬……?

胸の奥で小さく呼んだ名前は、もちろん届かない。

——“特別”、だなんて、
俺が勝手に思い上がってただけか。

その場から一歩、二歩と後ずさった。
視界がにじんで、何を見ているのかもわからなくなっていく。

——やっぱり俺なんかじゃ、届かない

そう思った瞬間、足が勝手に、図書館の方へ戻っていた。

席に戻ってノートに目を落とす。
並んだ文字が全部かすれて見える。

——課題に集中しよう。さっきのは忘れて

気を取り直そうと、シャーペンを握っても、手が震えて線にならない。

数分後、一ノ瀬がペットボトルを持って戻ってきた。
「ただいまー。ごめん、ちょっと話してて遅くなっちゃった!」
息が少し乱れていて、笑顔がどこかぎこちない。

「はい、レモンティー買ってきた。好きだったよね?」

机に置かれたペットボトルが、やけに遠くに感じる。
目をそらしたまま、俺は小さく「……ありがとう」とだけ答えた。

沈黙が落ちる。
いつもなら気まずさなんて感じないのに、今日は空気が重くのしかかる。

「成瀬?」
「……」
「どうしたの?」

心臓が跳ねた。
顔を上げると、一ノ瀬が真剣な目でこちらを見ている。

——聞きたい
でも、聞いたら、答えを知ったら、もう戻れない。

飲み込もうとした言葉は、胸の奥で破裂した。

「……さっき、見た」

一ノ瀬の表情が一瞬固まる。
俺は続けずにいられなかった。

「女の子に、抱きつかれて……お前も、抱き返してただろ」

空気がピンと張りつめる。
自分でも声が震えているのがわかった。

「付き合ってる子がいるなら、言ってくれよ」
「え?」

言うべきじゃないと思うのに、もう言葉が止まらない。

「俺……お前にとって“特別”なんだと思ってた。勝手に。思い上がりだったんだな」

そう言った瞬間、喉が詰まって声が出なくなった。
一ノ瀬は驚いた顔をして、それから苦笑とも寂しさともつかない顔になった。

「……成瀬」
「もういい。忘れて。俺、今日は帰るから」

立ち上がろうとした腕を、一ノ瀬の手がつかんだ。
強くも弱くもない、ただ離したくないっていう力だった。

「違うんだ」
「なにが」
「……そういうのじゃない」

一ノ瀬は必死に言葉を探しているように見えた。
額に汗が滲み、声が少し震えていた。

「あの子は、中学のときからの知り合いでさ、今日偶然会って……部活うまくいってなくて泣いてて。だから落ち着かせようとしただけで」

一ノ瀬は目を逸らさず、真剣に俺を見ていた。

「成瀬にだけは、誤解されたくない」

胸が揺れる。
けれど、疑いと期待が入り混じって、言葉を返せない。

一ノ瀬の手が、少しだけ力を込めて俺の手を握った。

「オレにとっての“特別”は——」

まっすぐな眼差しが、俺を射抜く。

「成瀬だよ」

一ノ瀬の頬が赤い。
つられるように、頬が熱を帯びる。

「オレがいつも傍にいてほしいのは、成瀬だ。もっと、知りたいと思うのも」

その声は切実な響きで、俺の胸の奥を揺さぶる。
一ノ瀬が眉を下げて、伺うようにこちらを覗き込む。

「……成瀬は?」

震える問いかけに、胸の奥が一気に波立つ。

「俺だって——」
深呼吸して、震えを押さえ込む。
「一ノ瀬と一緒にいたいし、もっと知りたい」

俺の告白を聞いた一ノ瀬が、手をそっと俺のに重ねる。
するり、と手の甲を親指で撫でられる。甘いくすぐったさが走った。
二人分の熱さで体温がさらに上がる。
一ノ瀬のはちみつ色の瞳が俺を包んで溶けた。

「ふふ、両想いだ」

窓の外では、夏の空がゆっくりと群青に染まっていく。
その色に包まれるように、俺たちはしばらく何も言わず、ただ見つめあっていた。



図書館を出ると、空はすっかり夕焼けに染まっていた。
赤から群青へ、夏の色がゆっくりと変わっていく。
遠くで花火の音が響き、弱まった蝉の声がそれに重なる。

肩が触れ合う距離で並んで歩きながら、一ノ瀬が口を開く。

「ねえ、成瀬」
「名前で、呼んでもいい……かな?」
「……ああ」
突然の提案に、胸をドキッとする。
——そうか、両想いだもんな
そわそわして、一ノ瀬が俺を呼ぶのを待つ。
隣で息を軽く吸い込む音が耳に届いた。

「葵」

一瞬、足が止まりそうになる。
でも、その響きは不思議と自然で、胸の奥に温かく広がった。
思わず口元がゆるむのを感じて、ばっと手で隠す。
返事のない俺に、一ノ瀬が負けじと名前を呼ぶ。

「葵! 葵、葵ー!」
「っ……はいはい」

照れ隠しに、しぶしぶ返事をする。
返事した俺に満足げな一ノ瀬。鼻歌をうたい出した。
しばらくご機嫌な一ノ瀬だったが、はっと何かに気づいたように、眉を寄せてこちらをじっと見てくる。

「オレの名前も呼んで?」

目が真剣だ。
ここは照れてる場合じゃないと、素直に名前を呼んだ。
「……翔真」

俺に名前を呼ばれて、一ノ瀬が嬉しそうに笑った。
その太陽みたいな笑顔を見ただけで、胸の奥がじんわり熱くなる。

夜風が二人の間を抜けていく。
肩と肩がかすかに触れたまま、一ノ瀬が言った。

「夏休みが終わってもさ、一緒にいてね」

「なんだそれ、当たり前だろ」

——俺は夏が嫌いだった。べたつくし、人目が気になる。
でも、今は。

子供みたいに笑う一ノ瀬に、ふっと口元がゆるむ。

夜の気配が濃くなる空の下、俺たちは肩を並べて歩き続けた。