——“特別”
その言葉に深い意味はないのかもしれない。
けど、知りたい。
……一ノ瀬が俺のことをどう思ってるのか、を。
あれから数日後。
クーラーの風がひんやり肌をなでる。
ベッドシーツに潜り込んで、悶々としていた。
あの日の帰り道。二人で食べた、ハーゲンダッツの味がまだ舌に残っているような気がする。
一ノ瀬がバニラで、俺が抹茶。
バニラ味を食べたことがない、と言った俺の口元に、スプーンを運ぶ一ノ瀬。
「成瀬、あーん」
その光景が頭の中でリピートしている。
ピロン、とスマホが鳴る。
画面を見れば、久しぶりに青木からのメッセージだった。
「成瀬、夏祭りあるの知ってる?」
「いつ?」
「明後日」
「へえ」
「その反応だと、はじめて知ったっぽいね」
「まあ」
「行かないの? 一ノ瀬君と」
「?」
「?じゃなくて」
「誘われてない」
「いやいや、成瀬から誘えばいいじゃん」
「……」
「おっと、これは審議入ったな」
「審議ってなんだよ」
スマホを持つ指先が、じんわり熱くなる。
誘うなんて、そんな簡単に言うけど。
……断られたら、どうするんだ。
「ていうか、一ノ瀬君、絶対喜ぶと思うけど?」
青木の追加メッセージが追い打ちのように届く。
画面を見つめながら、喉がからからになる。
祭りの人混み、夜空に咲く花火。
一ノ瀬と一緒に歩く姿が、不意に頭に浮かんでしまった。
胸の奥がざわざわと落ち着かなくて、ため息が漏れる。
——俺から、誘う?
スマホを握りしめたまま、打ちかけては消す。
「一ノ瀬は夏祭り、誰かと行くのか?」
——いや、なんか探りを入れてる感すごい。ダメだ。
「青木から聞いたんだけど、祭りあるらしい」
——他人任せ感が出すぎる。消去。
「……」
結局、入力欄には何も残らないまま。
親指が震えて、送信ボタンがやけに遠く見える。
こんなことで悩むなんて、自分でもおかしい。
でも、返事が「ごめん」だったら?
一ノ瀬は部活や用事で忙しいかもしれない。
期待して、裏切られるのが一番怖い。
ため息をついてベッドに倒れ込む。
暗い天井を見ながら、胸の奥で声がした。
——一緒に行きたいんだろ
消せなかった最後の文字列を見つめる。
「夏祭り、行かないか?」
指が勝手に動いて、送信ボタンに触れた。
ピロン、と短い送信音。
すぐに既読がつく。
心臓の鼓動が、耳の奥でやかましいくらい鳴り響いた。
画面を見つめる。
既読がついて——すぐに返信が返ってきた。
「いいね! 一緒に行こう!」
文字だけでも、はじける笑顔が浮かんでくる。
続けて、もう一メッセージ。
「でも成瀬、人混み苦手って言ってたよね。大丈夫?」
胸の奥がじんわり熱くなる。
ただ「行こう」って答えるだけじゃなくて、俺のことを覚えて、心配までしてくれている。
——どうして、こんなに
指先が震えて、しばらく返信が打てなかった。
「たぶん平気だ」
打ち込んで、送信するまでにまたずいぶん時間がかかった。
けれど一度送ってしまえば、胸の奥にふっと涼しい風が吹き抜けた気がした。
***
お祭り当日。
夕方、蝉の声がしだいに弱まっていく。
待ち合わせ場所の駅前は、祭りに向かう人たちでにぎわっていた。
浴衣姿の子どもや屋台の匂いに、気持ちがそわそわ落ち着かない。
——俺は普段着でよかったんだろうか
周りの華やかさに、白いシャツとジーンズ姿がやけに地味に思えてくる。
「成瀬!」
声に振り向くと、一ノ瀬が手を振りながら走ってくる。
浴衣じゃなくて、いつものラフなTシャツにハーフパンツ。
でもそれだけで妙に眩しくて、胸がきゅっとなる。
「よかった、すぐ見つけられた」
「……なんだよ」
「人多いけど、大丈夫? 無理そうなら、ちょっと外れの道から行こう」
気遣う声が自然すぎて、思わず笑ってしまった。
「平気。……まあ、一ノ瀬がいるし」
口にしてから、自分でも顔が熱くなる。
一ノ瀬は一瞬目を丸くして、次にふわっと笑った。
「そっか。じゃあ、行こっか」
肩が、そっと並ぶ。
夏の夕暮れに混じるざわめきと、すぐ横の体温。
ただそれだけで、鼓動がやけにうるさく聞こえた。
人の流れに乗って歩くと、すぐに屋台が立ち並ぶ通りに出た。
焼きそばのソースの匂い、金魚すくいの水音、カラフルなヨーヨー。
夏祭りらしい光景に、自然と心が浮き立つ。
「わ、見て、成瀬、すごい……!」
一ノ瀬は子どもみたいに目を輝かせている。
「一ノ瀬は、祭り慣れてるのかと思った」
「全然。バスケの練習ばっかで来たことなかったんだ」
「そうなのか」
「うん。だから今日、成瀬と来れて、すごい嬉しい」
さらっと言われて、思わず視線を逸らす。
こういうとこ、ずるいんだよな。
「ねえ、射的やろうよ」
「子どもかよ」
「いいじゃん。成瀬も一緒に!」
結局断りきれずに並んで、木製の銃を渡される。
一ノ瀬は狙いを定めて——外した。
「……オレ、昔からこういうの下手なんだ」
肩をすくめて笑うけど、声はどこか子どもみたいで。
そんな表情を見られるのは、きっと俺だけなんだと思った。
思わず俺は口にした。
「別に下手でもいいじゃん。楽しめれば」
その一言に、一ノ瀬の表情がふっと和らぐ。
「……そっか。成瀬に言われると安心する」
俺はなんとか一発でお菓子を落とした。
「うわっ! 成瀬すごい!」
「……まぐれだろ。はい、コレ」
「でもこれ、成瀬がとったやつだし」
「いいから」
「ん、ありがと!」
嬉しそうに大事そうにお菓子を抱える一ノ瀬を見て、胸がじんわり温かくなる。
たかが駄菓子ひとつなのに、どうしてこんなに嬉しそうにするんだよ。
「次、りんご飴食べよう!」
一ノ瀬は俺の腕を引っ張りながら、赤い飴の並んだ屋台を指さす。
「いいけど、一個丸ごとは多いな」
一個五百円とあって、かなりの大玉ばかりだ。
「じゃあさ、……半分こしない?」
一ノ瀬の顔が赤い提灯の灯りに照らされて、やけに近く感じる。
反射光がその瞳で甘く揺らめくのを見ながら、ゆっくり頷いた。
断る理由が、俺には、なかった。
屋台通りをひととおり歩いたあと、川沿いの道に抜けると、人がぐっと減った。
提灯の灯りも届かなくて、代わりに水面に夜風が揺れている。
「……だいぶ静かになったな」
「人混み、大丈夫だった?」
一ノ瀬が気遣うように覗き込んでくる。
「まあ、平気」
「ほんと?」
「……ちょっと疲れたけど」
「やっぱり」
一ノ瀬は小さく笑って、手に持っていたラムネの瓶を差し出してきた。
「ほら。冷たいの持ってると少し楽になるって」
瓶のひんやりした感触が掌に伝わってくる。
思わず目を瞬かせると、一ノ瀬は満足そうに笑った。
「オレさ、成瀬のことちゃんと見てるから」
「は?」
「成瀬がムリしてるの、見逃したくないんだ」
不意を突かれて言葉を失う。
そんなに見られてたなんて。
「だからさ、疲れたら気軽に言って。オレといる時くらい」
その声音は真剣で、子犬みたいな笑顔とは違っていた。
胸の奥がじわりと熱くなる。
ちょうどその時、空に大きな音が響いた。
——ドンッ!
夜空に花火が咲き、川面に鮮やかな色が映し出される。
ふたりの間の沈黙を、花火の光が満たした。
一ノ瀬が見上げる横顔を盗み見る。
頬に光が映って、まるで映画のワンシーンみたいで。
息が詰まる。
この夏の夜を、ずっと覚えていたいと思った。
花火が次々と夜空に咲いては散っていく。
光に照らされる一ノ瀬の横顔が、やけに近い。
「……きれいだね」
一ノ瀬がぽつりと言った。
優しいテノールが鼓膜をくすぐる。
胸の奥がざわついて、言葉が出ない。
ふいに、肩と肩が触れた。
最初は偶然かと思った。
けれど、一ノ瀬は離れようとしない。
むしろ少しだけ重ねるようにして、落ち着いた吐息をこぼす。
「……来年も、一緒に来ようね」
小さな声が耳に届いて、心臓が跳ね上がる。
花火の音にかき消されそうなのに、はっきり聞こえた。
「ああ」
なるべく抑えたトーンで返したけど、少し震えてたの、気づかれてないだろうか。
横を見れば、一ノ瀬も花火ではなく俺の方をちらりと見ていた。
視線が絡んで、慌てて空を仰ぐ。
夜空に大輪の花が広がるたびに、胸の奥も破裂しそうになる。
肩に伝わるぬくもりから逃げられず、ただ花火の光に紛れて、熱くなった頬を隠すしかなかった。
***
花火が終わって、星空が広がる。
祭りのざわめきを背に、二人で並んで歩き出す。
夜風がようやく火照った頬を冷ましてくれる。
「いやー、花火すごかったね」
一ノ瀬が笑う。その声がまだ胸の奥に響いている。
「……そうだな」
相槌を打つだけで精一杯だ。
肩に残るぬくもりを思い出しては、心臓が暴れる。
——一ノ瀬は俺のことを、どう思ってるんだ?
ずっと頭の中で繰り返している問いが、また浮かぶ。
答えなんて怖くて聞けない。けれど、知りたい。
沈黙が続いたとき、一ノ瀬がふっと口を開いた。
「人混み苦手なのに、ありがとうね。……オレ、成瀬と一緒だとやっぱ楽しい」
視線を横にやれば、一ノ瀬はまっすぐ前を向いている。
いつもの無邪気な笑みなのに、その言葉には妙な重さがあった。
「誘われてグループで行く祭りも楽しいけどさ。成瀬といると、違うんだよね」
「……違う?」
思わず聞き返してしまう。
「うん。オレ、気楽とか安心とか、そういうの。成瀬じゃないと感じられないんだ」
さらりと言われて、胸の奥が一気に熱くなる。
花火の残り火みたいに、言葉がじんわりと広がっていく。
——他とは違う、か
それはつまり、俺はそういう意味で特別ってことなのか?
問いに対する答えは、まだはっきりした形では返ってこない。
けれど確かに、今の言葉の中に「答えの欠片」を見た気がした。
俺は俯いて、小さく返す。
「……俺も、楽しかった」
並んで歩く影が、夜の川面にゆらゆら揺れていた。
***
他愛のない話をしていれば、俺の家の前に着いていた。
いつも通っている道なのに、今夜は不思議なくらい短く感じた。
「……着いたな」
「なんか、早かったね?」
「いつまでも着かないのも困るけどな」
そう言うと、一ノ瀬がふっと笑った。
俺もつられて笑った。
一ノ瀬が唇を尖らせてわざとらしく言う。
「あーあ。もっと一緒に歩きたかったなー」
その甘えるようなしぐさに、一瞬、息が詰まる。
夏の夜気よりも熱いものが、胸の奥に広がっていく。
「……また、すぐ会えるだろ」
精一杯、平静を装って返す。
「だね、……でも今日は特別だったからさ」
そう言って、一ノ瀬が俺の方をじっと見た。
街灯の下、その瞳が真剣なのに子犬みたいにきらきらしていて、思わず目を逸らす。
「成瀬。オレさ、もっと成瀬といたい。だから……また、誘っていい?」
その言葉に、胸の奥の問いがじんわり溶けていくのを感じた。
まだ答えは形にならない。けど、「特別」って確信に変わり始めている。
「……ああ」
小さくうなずくと、一ノ瀬は満足そうに笑った。
「じゃ、またね!」
軽く手を振って、夜の街へと駆けていく背中。
その影が角を曲がるまで、俺はただ見送っていた。
頬に残る熱が、なかなか消えてくれなかった。

