あれから数日。
一ノ瀬とメッセージをやりとりしている。
話題は、宿題とか見た映画のこととか至って平凡だった。

「わからん……」
目の前の宿題に頭を抱えていると、ピロン、とスマホが鳴る。

——一ノ瀬からだ

「土曜日にバスケの試合があるから見に来てほしい……か」

試合、か。

はじめて一緒に帰った日に、バスケ部の先輩に約束していた助っ人か。
相手の様子からじゃ、前回大活躍したのだろう。
一ノ瀬のことだ、当然か。

——でも

あの水泳の授業のチーム対抗リレーを思い出す。
一ノ瀬の表情に一瞬、小さく差した影。

期待は、まるで呪いみたいだ。
どれほど重さで一ノ瀬の肩にのしかかっているのか。
平凡な俺では想像するしかない。


俺が期待してしまったと白状したとき、一ノ瀬はあっさり言った。

「何それ。むしろ嬉しいよ」

あの時は許されたことに胸をなでおろしていたけど、今さらその意味を考えてしまう。
一ノ瀬は期待されるのがしんどいはずなのに。
俺からは期待されても、嬉しい、なんて。

——まるで俺が特別、みたいな

一ノ瀬の笑顔が浮かんで、体温が上がる。

いやいや、別に深い意味はないはず。お世辞に決まってる。
俺からは期待されようが、俺を見たら「期待されない世界」だって楽でいい、ってことを思い出せるからだ。だぶんそれだけのこと。

——今回だって、特別な意味なんか、ない

ウンウン悩んでいると、既読をつけてから数分経ってしまっている。
指で素早くフリックして返信した。

「了解」

カタン、とスマホを机に置いて、後ろに倒れた。
背中にかたい床が当たるのを感じながら、天井をぼんやり眺める。
見慣れた天井が、やけに遠くに感じた。

***

土曜日の朝。
夏の光がすでにまぶしくて、家を出る前から汗ばむ。

一ノ瀬に短くメッセージを送る。「いま家出た」

数秒して、スタンプが返ってきて、口角が自然と上がる。

駅に着くころには、Tシャツが汗で貼りついていた。

——これだから、夏に外出るのは苦手なんだ
心の中で悪態をつきつつ、一ノ瀬の誘いでまんまと出てきた自分に矛盾を感じる。
これが青木の誘いなら断っていた。(ごめん青木)
やっぱり一ノ瀬のことになると俺は何かおかしくなる。

電車に乗り込むと、ひんやりしたクーラーに迎えられて、一息つけた。
動き始めた電車に揺られながら、窓の外をぼんやり眺める。
ふいに車両の向こうから、数人の声が聞こえてきた。

「……あー、だりぃ」
「でも今日は勝つっしょ」
「相手、あの一ノ瀬ってやつ来るんだろ? 余裕余裕」

振り返らなくてもわかる。声の調子も、笑い方も、なんとなく人を小馬鹿にした空気だ。
ちらりと視線を向ければ、制服のボタンを外し、髪を明るく染めた連中が座席を占領している。

大きな声で笑い合いながら、バスケの話をしていた。
耳に入った「一ノ瀬」という名前に、心臓がドキリと跳ねる。

——こいつら、対戦相手か。

ふざけ合っているようで、目だけは鋭い。
「勝つ」とか「余裕」とか、そんな軽口の裏に、競う相手を狙い定めるような雰囲気が滲んでいた。

思わず目を逸らす。
ただ試合を見に行くだけの俺が、ここで関わることじゃない。
でも——胸の奥に、ざらついた不安が残った。

一ノ瀬、平気だろうか。
いや、きっと大丈夫だ。
いつも通り笑って、いつも通り全力で走って、誰よりも眩しい姿を見せてくれるに決まってる。

……そう思いながらも、俺の掌はいつの間にか汗ばんでいた。

***

会場に入ると、汗と熱気がすでに充満していた。
声を張り上げる応援、響くバッシュの音、笛の甲高い音色。
夏の体育館は、外の暑さとは別の熱を持っていた。

観客席に腰を下ろすと、床を打つリズムが胸にまで響いてくる。
目の前のコートでは、まだ別の学校同士の試合が続いていた。
だが俺の視線は、自然と入口の方を探してしまう。

やがて扉が開き、青と白のユニフォーム姿が現れた。
一ノ瀬だ。

スポットライトでも当たっているんじゃないかと思うくらい、すぐに見つけられた。
仲間と軽口を交わしながらも、歩く姿はどこか引き締まっていて。
顔つきは、俺の知っている教室の一ノ瀬とは少し違っていた。

「……かっこいいじゃん」

小さくつぶやいてしまい、慌てて視線をそらす。
隣に誰もいないのが救いだった。

コート脇で一ノ瀬がシュート練習を始める。
軽やかに跳び、リングを正確に射抜くボール。
そのたびに歓声が上がり、会場の空気が一気に熱を帯びていく。

観客席に座っているだけの俺ですら鼓動が早くなる。
あの電車で見かけた連中の姿も、相手チームのユニフォームの中にあった。
彼らの視線が、一ノ瀬へと鋭く向けられているのを見てしまう。

胸の奥で、また不安がざらりと広がった。

——どうか無事に終わってくれ

ついに試合開始の笛の音が体育館に鋭く響く。
ボールが宙に放られ、ジャンプした選手の手が弾き飛ばす。
歓声が一斉に上がり、試合が始まった。

序盤から一ノ瀬はコートを駆け抜ける。
ドリブルは弾むように軽快で、ディフェンスをすり抜ける姿はまるで風みたいだ。
味方にパスを回し、自分でも切り込んでいく。
観客席のあちこちから「一ノ瀬!」と声が飛ぶ。

——やっぱりすごい
ただ見ているだけなのに、胸が高鳴る。

けれど、コート上で気になることがあった。
相手チーム——電車で見かけた連中だ。
体格が恵まれている上に、動きは荒く、ディフェンスはとにかく手が出る。
さっきからユニフォームをつかむような動きや、肩で強くぶつかる場面が目につく。

「っ……今のファウルだろ!」
思わず声が漏れるが、審判の笛は鳴らない。

相手チームのガタイの良い選手が一ノ瀬を執拗にマークする。
その視線にはただのライバル校の選手に対する以上の敵意が宿っているように思えた。
まるで「潰してやる」と言わんばかりに。

一ノ瀬は、そんな視線を気にする様子もなく走り続ける。
その姿は無敵のエースといった感じで、会場のボルテージも一段と上がる。
割れんばかりの歓声が巻き起こる。

だが、ほんの一瞬だけ、俺は見逃さなかった。
リバウンドを取ったあと、相手に強く当てられた瞬間。
彼の笑顔がわずかに引きつり、呼吸が荒くなった。

観客席から見ているだけの俺には、声をかけることもできない。
ただ両手を握りしめ、願うしかなかった。

点差はほとんどつかないまま、試合は激しさを増していた。
観客席から見ていても、相手の動きはますます荒くなっているのがわかる。

「クソ……」
小さくつぶやいた瞬間だった。

一ノ瀬がドリブルで切り込んだところを、相手の大柄な選手が横から体をぶつけてきた。
衝撃でバランスを崩し、コートに大きな音を立てて倒れ込む。

——ドンッ!

体育館が一瞬、静まり返った。

「一ノ瀬!」
チームメイトが駆け寄る声が響く。

胸が締めつけられる。
席から立ち上がりそうになる足を必死に抑え、ただ見守ることしかできなかった。

床に手をつき、苦しげに顔を歪める一ノ瀬。
けれど、ほんの数秒後には「大丈夫」と笑って立ち上がった。
観客席からは大きな拍手と安堵の声が沸き起こる。

——でも、その笑顔はどこかぎこちない。
痛みを隠しているのが、わかってしまった。

再び走り出す一ノ瀬を目で追いながら、胸の奥が熱くなる。
心配でたまらないのに、それ以上に——その姿が眩しくて、どうしようもなかった。

残り時間はわずか。
スコアボードは同点を示していた。

「ラスト一本だ!」
観客席から飛ぶ声援に、体育館の空気が張り詰める。

一ノ瀬はまだ走っている。
先ほどの転倒で膝をかばっているように見えるけれど、その姿勢は崩さない。
歯を食いしばり、仲間に声をかけながら必死にボールを追う。

——期待に応えようとする背中。
——痛みを押し殺す横顔。

胸が締めつけられる。

最後の攻防。
相手のシュートを味方がブロックし、こぼれ球が一ノ瀬の手に収まる。
観客席が一斉にざわめいた。

「一ノ瀬! いけーっ!」

思わず声が出た。
次の瞬間、一ノ瀬は迷いなくゴールへと駆け抜け、ジャンプシュートを放った。

——ボールが弧を描き、リングを揺らす。

ブザーが鳴り響いた。
歓声が爆発する。
一ノ瀬は両手を高く掲げ、仲間に抱き寄せられた。

——勝ったんだ

拍手の中で、俺は立ち上がれずにいた。
ただ、視線だけはコートに釘付けだった。

——一ノ瀬は、俺なんかとはちがう
そう思うのに、どうしようもなく目が離せない。

一ノ瀬が、観客席を探すみたいに顔を上げ、俺を見つけて笑った。

その笑顔は——勝利の喜びだけじゃなくて。
まっすぐ俺に向けられたものだった。

胸が熱くなる。
逃げ場が、どこにもなかった。

***

体育館の外は、人の波でごった返していた。
部員や観客が行き交う中、俺は壁際に立ち尽くしていた。

「……成瀬!」

声に振り向くと、一ノ瀬が駆け寄ってくる。
額にまだ汗が光っているのに、さっきのプレーの余韻を残した笑顔は眩しかった。

「来てくれてありがとう! ちゃんと見てくれてた?」
「……ああ」

喉が渇いて、声がかすれる。
それでも必死に返した。

一ノ瀬は満足そうに頷いたけど、ふと足をかばうように立ち止まる。
膝に手をついて、ほんの一瞬だけ顔を歪めた。

「……足首、痛いんだろ」
思わず口をついて出た。

一ノ瀬の肩がびくりと揺れる。
けれどすぐに笑顔をつくってみせた。
「バレた? ちょっと捻っただけ」

「無理するなよ」
「大丈夫だって。……というか、気づいたの成瀬だけだよ」

からかうような声色なのに、視線はどこか照れている。
周りのざわめきから切り離されたみたいに、ふたりの間だけが静かだった。

俺は言葉を返せなくて、ただ一ノ瀬を見つめた。
今は、痛みを隠して笑う、姿を。
忘れてはいけない、と。網膜に焼き付けるように。

夕方の空気はむっとする熱気をまだ残していた。
胸の奥にようやく落ち着きが戻ってくる。

「送ってくよ」
一ノ瀬が当然のように言って、俺の隣に並んだ。

「……お前が送る側かよ。今日動きすぎただろ」
「平気平気。むしろ歩いてたほうがクールダウンになるし」

軽口を叩きながらも、歩調は俺に合わせてくれている。
ほんの少し足首をかばうような仕草を見て、胸の奥がまたざわついた。

何か言わないと、と思ったけど、うまい言葉が見つからない。
代わりに、二人の足音だけが並んで響く。

ふいに一ノ瀬が横を見て、にっと笑った。
「成瀬って、黙ってても隣にいるだけで安心するんだよね」

「は?」
「今日もさ、試合中ちょっとやばいなって思った瞬間あったけど……観客席に成瀬がいるの見たら、落ち着いた」

足が一瞬止まりそうになった。
けど、なんとか歩を合わせる。

「……俺なんか見て、安心できるのかよ」
「できるって。だって特別だもん」

さらりと放たれた言葉が、夕暮れよりも熱く胸に響く。

——“特別”
望んでいた言葉。その意味を、つい深読みしてしまいそうだ。
一ノ瀬は、俺のことを、どう思ってるんだ?

目を細めてはにかむ一ノ瀬の頬が赤く見えるのは、夕陽のせいか、それとも……
浮ついた心を振り払うように、言葉を絞り出す。
「……何言ってんだよ」

照れ隠しに視線を逸らすと、ちょうど並んだ影が、夕焼けのアスファルトに長く伸びていた。
俺たちの影が、自然に重なって揺れている。

「一ノ瀬、今日勝ったお祝いに奢る。何がいい?」
「うーん、ハーゲンダッツで」
「はは、了解。何味にするか決めといて」
「はーい!」

歩きながらのたわいない会話が、やけに心地いい。
ふと横を見れば、一ノ瀬はさっきまでの真剣なプレイヤーじゃなく、俺のよく知ってる笑顔を浮かべていた。

——“特別”
その言葉が、何度も胸の奥で反芻される。

けど、結局はうまく言葉にできず、アイスの話や他愛もないことで笑い合った。
この時間が、ずっと続けばいいのにと思いながら。