あの日、プールサイドで蝉が遠く鳴いているのを聞いていた。
けれどその声よりも、胸の鼓動の余韻のほうがまだ大きかった。
一ノ瀬の笑顔も、耳元で響いた声も、何度も思い出してしまう。

……そんな浮ついた気分のまま期末を迎え、気づけばテスト返却の日になっていた。

青木が蒼ざめた顔で言った。

「……期末どうだった?」
「数学が死んだ」
「お疲れ様です」

両手を合わせて成仏してくださいと言わんばかりのしぐさに、ぷっと噴き出す。

「何してんだよ」
「なんかこうしなきゃいけない気がして」

「なんでだよ」
「まあまあ。というか明日から夏休みだけど、成瀬はどうするの?」

青木の問いかけに、ふっと顎に手を当てて考える。

青木の問いに、少し考える。
――夏休みか。どうせいつも通り、映画を一本観て、あとはクーラーの効いた部屋でだらけるくらい。代わり映えのしない過ごし方しか浮かばない。

「特に、なにも」

俺の回答を聞いた途端、青木が大げさに机をバンと叩いた。

「えー! 君は高校生だよ? 青春の営みは? 海とか! 祭りとか! 浴衣とか!」
「なんだよそれ、カタログか」
「成瀬に足りないのはアクティブさだよ! あーあ、せっかくの夏休みが泣いてるね」
「泣かせておけ」

そうツッコんだところで、教室の戸がガラガラと開いた。

「成瀬!」

ひまわりの咲くような笑顔の一ノ瀬が立っていた。
教室の隅から、また小さな悲鳴とざわめき。慣れたくはないが、もう慣れつつある。

「夏休み史上、最高に笑ってそうな人が来たね。君を迎えに」
「そうだな」
俺が肩をすくめて答えると、横の青木が笑う。
そんな青木の顔を見てつられて俺も笑ってしまった。

そのまま一ノ瀬に視線を戻すと、一ノ瀬の笑顔が一瞬途切れたように見えた。
——勘違いか?

一ノ瀬が俺の方に近づいてくる。

「さ、成瀬、帰ろう!」

声は明るいのに、手のひらはいつもより強く俺をつかむ。引かれる力に合わせて立ち上がると、掌の熱がじんわり伝わってきた。

振り返れば、青木が手を振っている。
だが一ノ瀬は、ほんの少しだけ急くように俺の腕を引いた。
青木に手を振り返す一ノ瀬はいつもの笑顔のままなのに、その横顔にはどこか焦りがにじんでいた。

昇降口へと続く廊下は、いつもより人が少なくて静かだった。
蝉の声だけが窓の向こうから押し寄せてきて、足音と混ざり合う。

「……ねえ、」
横を歩く一ノ瀬が、不意に口を開いた。

「成瀬ってさ、夏休み予定ある?」
「いや、別に何も」
「いつも何してるの?」
「映画見たり?」
「外には? 出ないの? 海とか」
「……人ごみが苦手なんだよ」
「やっぱり!」

声を上げて笑ったかと思えば、すぐに視線をこちらへ向けてくる。
いたずらっぽいのに、どこか真剣さをにじませた目だった。

「じゃあ――成瀬の家、遊びに行ってもいい?」

あまりにあっさり投げられた言葉に、思わず足が止まった。
一ノ瀬も立ち止まって、首をかしげる。

「だめ?」

夏の光に照らされた横顔は、ほんの少しだけ不安げで。
その表情に、返事を急がせるような力があった。

――今年の夏休みは、たぶんいつもとは違うものになる
そんな予感に胸を煽られる。
どうなるかなんて全く予想ができない。

「……いいよ」
高鳴る鼓動を抑えながら、答えた声は少し震えていた。

***

——とはいえ、俺の家なんて、何も面白みはないけど……

「ただいま」

家に帰っても、玄関は静かだった。
食卓に置かれた夕飯の皿は、冷めたままラップがかけられている。

夜遅くまで働きづめの母に感謝しつつ、夕飯をレンジで温める。
カウントダウンが一秒ごとに減っていくのを見て、胸がむずがゆくなる。

——明日の昼には、一ノ瀬が家に来る
どうもてなしたらいいんだろうか。俺とは違ってスポーツとか外遊びが好きなタイプだ。
インドア派の俺の趣味に付き合わせて、一ノ瀬は楽しんでくれるだろうか。

幸い、趣味で集めた映画はたくさんある。
——これで勝負するしか。

「いや、勝負って何だよ」

セルフツッコミを入れたところで、ピーっと、レンジが鳴る。

夕飯を済ませて、二階の自分の部屋に戻る。

ドアを閉めると、やっと一息つけた気がした。
ベッドに腰かけて膝を抱え、天井をぼんやり見つめる。

――なんでこんなに緊張してるんだ、俺。
一ノ瀬が遊びに来るだけ、だろ。

前に青木が一回だけ遊びに来たことがあった。
けど、別にこんな風に緊張したりしなかった。

まぶたを閉じれば、浮かぶのは一ノ瀬の笑顔。
シトラスの香りがふわっと香ってきたような気がした。

「なんか重症な気がする」

そう独りつぶやいて、眠りに落ちた。

***

夏の陽射しがまだ強い時間。
ついに玄関のチャイムが鳴った。
扉を開けると、一ノ瀬が立っている。

「こんにちは、成瀬!」
軽い声とともに、太陽みたいな笑顔。
その後ろで蝉の声がじりじりと響いて、夏の熱気ごと押し寄せてくる気がした。

「……よ、よう」
声が裏返らなかったのは奇跡だと思う。

一ノ瀬は片手にコンビニの袋をぶら下げていて、楽しそうに掲げた。
「アイス買ってきた。一緒に食べよう?」

――やっぱり、いつもの一ノ瀬だ。
けど、俺の心臓だけは“いつも通り”じゃなくて、速すぎて苦しいくらい。

「おじゃましまーす」
靴を脱ぎながら、無邪気にあたりを見回す。
慣れているはずの我が家が、急に別の場所みたいに感じられて落ち着かない。

「へぇ、成瀬の家って静かだね。落ち着く」
「……そうか?」
「うん。なんか、成瀬っぽい」

——「成瀬っぽい」って何なんだ。俺はどう見えてるんだ?
疑問が沸き上がる。
一ノ瀬の何気ない一言が気になって仕方ない。

俺の部屋に入った一ノ瀬は、さっそく棚の上を眺めて口笛を鳴らした。
「映画のDVD、いっぱいある! ……あ、『パルプ・フィクション』? 渋いなあ」
「そうか?」
「こっちは……ちいさくてかわいい感じのアニメ映画? なんか意外」
「うるさい」

いちいち大げさに反応するから、俺まで妙に恥ずかしくなる。
クローゼットを開けられたら死ぬな、なんて余計な心配までしてしまった。

「で、今日はどれ見る?」
振り返った一ノ瀬が、子供みたいに期待の目を向けてくる。

迷った末に、一ノ瀬が見たことないコメディ映画を選んでベッドの上に腰を下ろした。

最初はちゃんと画面を追っていた。
でも十分も経たないうちに、隣の気配のほうが気になって仕方なくなる。

笑い声が近い。
肘がふと当たるたび、皮膚が熱を帯びる。
ベッドが沈む感覚が伝わってきて、「近すぎる」と文句を言いたいのに、声が出ない。

「成瀬、これ面白いね!」
肩越しに笑いかけてくる顔があまりにも近くて、心臓が飛び出しそうになる。

俺は慌てて目を逸らし、ポテチの袋を開けた。
「…コンソメ味だけど食べるか?」
「え、くれるの? ありがと」

にこっと笑った一ノ瀬が、当たり前みたいに俺の手から一枚つまんでいった。
その指がかすかに触れた瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。

映画は最後まで流れていたはずだけど、内容はほとんど覚えていない。
耳に残っているのは、一ノ瀬の笑い声と、やけに近い呼吸の音ばかりだった。

映画が終わり、画面にはエンドロールが流れていた。

「……成瀬」
「ん?」
「なんでそんな端っこに座ってるの?」

気づけば、俺はベッドの端っこに寄っていて、一ノ瀬との間に枕ひとつ分の隙間を作っていた。
自分でも無意識だった。だって近いと、心臓が……。

「別に。暑いだろ」
「クーラー効いてるよ?」
「……」
「オレが嫌?」

言葉よりも、少し眉を下げた顔のほうが効いた。
笑顔とはちがった破壊力がある。

「ち、違う」
「じゃあ、もっと近く座ればいいのに」

手でポンポンと隣を示す一ノ瀬。
俺がためらっていると、はあっとため息が耳に届いた。

「成瀬に避けられるの、オレさみしいな」

唇を尖らせて、上目づかいにこちらをのぞき込む。一瞬だけ本気でしょんぼりした子犬みたいな顔になって、胸がぐらりと揺れる。

……ずるい。

「避けてない。ただ……」
「ただ?」
「……落ち着かないんだよ」

正直に言った途端、一ノ瀬の顔がぱっと明るくなる。
「なにそれ、成瀬かわいいね!」
「かわいくない!」
「いや、かわいいよ。……あ、顔赤い」
「うるさい」

少しの沈黙。ぷっ吹き出して二人で肩を揺らして笑う。

笑いの余韻が静かに落ち着いたころ、一ノ瀬が不意に言う。
「……ねえ。また遊びに来てもいい?」

視線がまっすぐで、断りようもないほど自然だった。
胸の奥がじんわり熱くなりながら、俺はうなずいた。

夏休みの始まりが、ゆっくりと形を変えていく気がした。