翌朝、教室のざわめきの中で机に突っ伏していても、昨日の帰り道の光景が何度も頭をよぎった。
あの横顔、あの笑顔。
胸の奥にまだ残っている温かさに、落ち着かない。
「今日の水泳の授業は二組と合同らしいね!」
青木が着替えながら、楽しそうに話しかけてくる。
「らしいな」
「ということは、一ノ瀬君と一緒だね! 最近仲いいでしょ? 良かったね!」
「うざい。はしゃぐな、青木」
軽口を叩くものの、心は晴れなかった。
合同授業ということは、ほぼ確実にクラス対抗のリレーやタイム競争がある。
そうなれば、一ノ瀬はまた皆の期待を一身に背負うことになるだろう。
そして俺は――その光景をただ眺めるしかない。
着替えを終えた男子たちのざわめきと共に、むっとした湿気が漂うプールへと移動していく。
蒼く広がる水面に反射する陽光が、目に痛いほどきらめいていた。
プールサイドに整列すると、先生がクリップボードを手に声を張った。
「今日は二組と合同で、リレーをやる。チームはこちらで決めたから、呼ばれた人は同じチームで並ぶように」
名前が呼ばれるたびに、生徒たちがざわざわと動いていく。
「――成瀬」
促されるように列へ移動した直後、続けて響いた名前に足が止まる。
「――一ノ瀬」
水滴のついた髪を払いながら歩いてきた一ノ瀬が、自然に俺の隣へ立った。
距離が近すぎて、肩が触れそうになる。
「成瀬、同じチームだね」
「あ、ああ」
それだけのやりとりなのに、妙に胸がざわついた。
授業中にこうして並んで言葉を交わすのは初めてで、変に意識してしまう。
その一方で、周囲から「一ノ瀬がいるなら勝ちだな!」「余裕だろ!」と声が飛ぶたび、胸の奥が重たくなる。
一ノ瀬は、きっとまた大きな期待を背負うことになる。
笛の音が響き、水しぶきが立つ。リレーが始まった。
俺の番は三番手。水に飛び込む瞬間、胸の鼓動がうるさいほどに響く。必死に腕を掻くが、息継ぎは下手で、肺が焼けるように苦しい。水を飲み込みそうになりながら、なんとか壁を蹴った。
四番手――一ノ瀬の番になると、空気が変わった。
彼の泳ぎは、水を切り裂くように速くて、フォームも美しい。歓声が一気に大きくなる。
「やっぱ翔真だ!」「いけるいける!」
一ノ瀬は、背負わされた期待をまっすぐに押し切るみたいにゴールへ突き進む。
その姿を見ていると、胸の奥が熱くなる。
期待なんかしたら一ノ瀬に悪い――そう思っているのに、気づけば俺も周囲と同じように願っていた。
――勝ってくれ、一ノ瀬。
願った瞬間、自分に驚いた。
俺はみんなと同じだ。
あいつにまた重たいものを背負わせて、それでも笑ってくれるのを期待してる。
ゴールの瞬間、プールサイドが歓声に包まれた。チームは勝利。一ノ瀬は肩で息をしながら水から上がり、背中を叩かれて笑っている。
けれど、その笑顔の奥に一瞬だけ、影のような不安がよぎった気がした。
その影を見てしまったからこそ、胸の奥に小さな自己嫌悪がじわりと広がる。
――俺も、みんなと同じじゃないか。
一ノ瀬に「勝ってほしい」と願ってしまった。
周りからの期待に押しつぶされそうな、一ノ瀬に。
ひんやりした水滴が背中をゆっくり伝い落ちる。
茫然と一ノ瀬の姿を目で追っていると、ふいに一ノ瀬がこちらを振り返った。
目が合った瞬間、心臓が跳ねる。
一ノ瀬は、にこっと口角を上げて、軽くピースサインを作った。
いつも通りの明るい笑顔。屈託のない、純粋に勝利を祝う顔。
手を上げてピースを返そうとしたけれど、その手は中途半端な位置で止まった。
俺には、その笑顔が眩しすぎた。
さっきまで「勝ってほしい」と願ってしまった自分が、急に恥ずかしくなって、罪悪感が胸の奥で膨らむ。
俺は耐えきれず、一ノ瀬からふいと視線を逸らした。
濡れた髪の水滴が首筋を伝って落ちていく感触だけが、やけに鮮明に残った。
授業が終わり、解散の声が響く。
更衣室へ戻ろうとした俺の肩を、不意に誰かが軽く叩いた。
「……成瀬」
振り返ると、一ノ瀬がまだ濡れた髪をタオルで拭きながら立っていた。
周りのざわめきが遠くに引いていく。
「さっき、どうしたの? なんか元気なかったよね?」
視線を向けられると、胸がざわつく。
誤魔化すこともできたけど、妙に真剣な瞳を前にして、口が勝手に動いていた。
「……ごめん。俺さ、一ノ瀬に“勝ってほしい”って思った。みんなと同じだよな。期待して、背負わせて……」
言葉にした瞬間、ひどく情けなくなる。
だけど、一ノ瀬は少し目を丸くしたあと、不意に笑った。
「何それ。むしろ嬉しいよ」
「え……?」
「成瀬がいたから、心強かった。
それに――聞こえたよ、『一ノ瀬いけー!』って」
一気に顔が熱くなる。
まさか無意識に口走っていたのか。
「はっ、そんなこと……!」
慌てて否定しかけた俺に一ノ瀬は微笑みながら、俺の肩をぽんぽんと叩く。
「ありがとう。成瀬の応援、ちゃんと力になったよ」
そう言われると、胸の奥の罪悪感が少しずつほどけていく。
けれど同時に、さっきよりもずっと強く鼓動が鳴っているのを誤魔化せなくて、俺は視線を逸らすしかなかった。
「そっか」
熱くなった頬をひんやりした風が撫でる。
一ノ瀬の軽やかな笑い声が耳に届く。
「次の授業、寝ないようにしないとね!」
「ああ、全力で泳いだからな。アレでも」
「え、成瀬、結構速かったよ?」
「は? ……うるさい」
急に押し黙った俺の顔を、一ノ瀬が覗き込んでくる。
濡れて陽光に透けた茶髪がきらめく。
好奇心に揺れるはちみつ色の瞳が近づく。
「もしかして、照れてるの?」
覗き込むような一ノ瀬の瞳が、近すぎて心臓に悪い。
「ち、違う!」
慌てて声を荒げると、一ノ瀬は肩を揺らして笑った。
「そっか。――でも、照れてる成瀬、ちょっと面白い」
軽口に聞こえるのに、不思議と胸があたたかくなる。
その瞬間、青木が更衣室の扉を勢いよく開けて叫んだ。
「おーい、二人とも! 早くしないと次の授業始まるよー!」
思わず跳ねるように距離を取った俺を見て、一ノ瀬が声を立てて笑った。
その笑顔を見ながら、心の奥で自覚する。
――俺は、もう一ノ瀬から目を離せない
蝉が遠く鳴いているのを聞いていた。

