——ゲーセンで見た、一ノ瀬の子供っぽい笑顔。
あれから数日がたち、気づけばもうすっかり日常に戻っていた。
いつもの放課後、帰ろうと席を立ったときのことだった。
「一ノ瀬君! ちょっと一緒に来てほしいんだけど……」
見知らぬ女子の声に、一ノ瀬が呼び止められた。
「ん、何かな?」
「えっと……聞いてほしいことがあるの。お願い!」
小柄な彼女の髪はゆるふわと巻かれていて、可憐な印象で、スカートの前で指の先を握って、言いづらそうにしている様子は、可愛らしく、周囲の男子数人の目を引いている。
一ノ瀬は少し眉を下げながら、こちらを振り返る。
「成瀬、ちょっと行ってくる。遅かったら待たなくてもいいよ」
「わかった」
二人が教室から出ていくのを見送った後、青木がひょこっと顔を出した。
「一ノ瀬君はモテるね」
「モテる?……ああ、今の、そういうことか」
「ふふ、成瀬はこういうの疎いよね」
「うるさい。ふつう委員会とかの連絡だと思うだろ」
「えー、だったらあんな風にわざわざ呼び出さないよ。……さっきの子、三組の桜井さんでしょ。上級生にも狙ってる人多いって聞くけど、そっか、一ノ瀬君かあ」
確かに一ノ瀬はモテる。
先週も昼休みに告白されているのを偶然見かけた。
相手はたぶん上級生で、胸元のリボンの色がちがっていた。
一ノ瀬が深く頭を下げたあと、涙を浮かべたその子が駆け出していったのを見て、きっと断ったんだろうと分かった。
——でも、今回はどうだろう。
あの可愛らしい桜井さんの告白を、もしかしたら受け入れるのかもしれない。
学年一のイケメンと美女だ、並ぶと絵になるし、断る理由がない。
そうなれば、一ノ瀬はもう俺と帰ることなんてしなくなるのかもしれない。
……いや待てよ。
そもそも、一ノ瀬と帰るのが当たり前になってきてる今がおかしいんだ。
俺が一ノ瀬の隣に並んで歩いてると、周りから首を傾げられるんだから、不釣り合い極まりない。
悪目立ちから解放されて元の平穏な生活に戻れるなら、万々歳のはずなのに。
胸の奥に沈むこの感情が、何なのか分からなかった。
「まあ、お似合いだよな……」
俺のつぶやきなんて聞いちゃいない青木が急にこぶしを胸の前でぐっと握る。
「くぅ~、うらやましい。僕も人生で一度はあんな風にモテてみたい!」
何言ってるんだとツッコもうとした瞬間、背後からプッと噴き出す笑い声が聞こえてきた。
振り返ると、クラスの一軍女子の、長谷川さんが立っている。
長谷川さんは片手に持っているピンクのスマホから視線をこちらに向けて言った。
「青木みたいな陰キャがモテてみたいなんてウケるんですけど~」
完全に格下を目にする態度で、教室の空気が一瞬凍った。
教室には俺たちの他にもまだ数人残っていたが、みんなが息をひそめて成り行きを見守っている。
「ははは、長谷川さん……ははっ、そうですよね! 僕なんかがおこがましいですよね!」
青木は俯き、後頭部に手を当てながら、申し訳なさそうに笑顔をつくっている。
場を丸く収めようとしているのが目に見えて分かった。
そんな青木の姿に胸の奥がじくりと痛む。
同時に、長谷川さんに対して言いようのない怒りが沸き起こってきた。
下手に言い返して波風を立たせない方が良いのかもしれない。
相手はクラスカースト上位者だ。気に入らないことがあれば、明日にでも言いふらされるだろう。
目立たないようにするには、黙ってこの場を受け流すのが一番だ。そんなのわかってる。
——それでも、俺は
だからといって、友人のことを馬鹿にされては黙ってはいられない。
「青木のこと、そんな風に言うなよ」
思わず口をついて出た言葉に、自分で驚く。
長谷川さんがぴたりと笑みを止め、細い眉をわずかに上げた。
「……なに、成瀬? かばってるの?」
「かばうとかじゃない。ただ……青木は、俺の友達だから」
——ああ、俺はクソ寒いやつかもしれない
教室の空気がひやりと張りつめる。
長谷川さんの取り巻きたちが顔を見合わせ、青木は慌てて手を振った。
「ちょ、ちょっと成瀬! 大丈夫、大丈夫だから!」
「……」
「本当に平気! ね、長谷川さん、僕が調子に乗っただけだから」
必死に取り繕う青木の声が震えているのに気づき、胸の奥がざわつく。
長谷川さんは「ふーん」とだけ言って肩をすくめると、取り巻きたちを引き連れて教室を出ていった。
残された俺と青木の間に、重たい沈黙が落ちる。
「……成瀬」
「なんだよ」
「ありがと。でも、ほんと危ないからさ。ああいう子に逆らうと、君までめんどくさいことになる」
「……そうだな、ごめん」
どうせならもっと上手く場を収められればよかった。あれじゃただのクソ寒いやつだ。
そう思ったとき、教室の扉がガラリと開いた。
「……あ、まだいた!」
息を切らせた一ノ瀬が立っていた。
額の汗を手の甲でぬぐいながら、安堵したように笑う。
「成瀬、先に帰っちゃったかと思った」
「まあ一応、待ってた」
「そっか!」
はじけるような笑顔に、さっきまでの重苦しいざわめきが解け、肩の力が抜ける。
一ノ瀬の登場に、教室の空気までも明るくなった気がした。
一ノ瀬がぐんぐん近づき、ふと手を取った。
「帰ろう、成瀬!」
シトラスの香りがふっと鼻をかすめる。
返事をするより早く、一ノ瀬は俺の手を取った。
「青木君、じゃあね!」
「お、おい!」
腕を引かれて教室を出るとき、背中越しに青木の「じゃあね~」という間の抜けた声が聞こえた。
夕暮れの道に、長い影がふたつ並んで揺れる。
「……あのさ成瀬、さっき教室でさ、」
一ノ瀬が不意に切り出した。
「え?」
「青木君をかばってたよね。ああいうの、すごく良かった」
心臓が一瞬止まった気がした。
「見てたのか……」
「うん。廊下にいて、ちょうど聞こえちゃった」
「……あれは、ただ空気を悪くしただけだ。青木に余計な気を遣わせたし、寒かっただろ」
自嘲するように言うと、一ノ瀬は首を横に振る。
「そんなことない。ああいうとき、言える人ってなかなかいないよ。オレ、格好良かったと思った」
その言葉に、不意に胸の奥が熱くなる。
夕日の光が揺れる道で、一ノ瀬はいつもの調子で笑っていた。
でも、その笑顔が妙にまぶしく見えて、視線を合わせるのが難しかった。
俺はふと足を止めた。
「……あのさ、俺と帰って良いわけ?」
「え? どういう意味?」
「いや、ほら、その……」
歯切れの悪い俺を、一ノ瀬はじっと見て目を細めた。
「……もしかして、呼び出しのこと?」
図星をつかれて、気まずさで視線が泳ぐ。
「まあ、うん」
「心配いらないよ。断ったから」
「え?」
「オレはさ、なんていうか……成瀬と一緒に帰る方が楽しいから」
あっけらかんとした声なのに、妙に胸に残る言葉だった。
「一ノ瀬はそればっかだな……」
「ほんとだから」
沈黙が少し流れて、ふいに一ノ瀬が笑った。
「そういえばさ、成瀬って青木君と仲良いよね」
「青木? アイツはまあ、腐れ縁ってやつ」
「へえ、いつから?」
「中学からだな。一年のとき、隣の席の青木が消しゴム忘れてて、貸してやったのが最初。それから委員会も一緒で、なんやかんやで今もこうだ」
「ふうん……」
一ノ瀬が少しだけ歩幅を落とす。横顔が夕日に染まって、影の中に揺れた。
「じゃあ、青木君とは色んな思い出があるんだ」
「まあ、そりゃな」
「……でもさ」
一ノ瀬がちらりとこちらを見る。
「オレ、青木君に負けないくらい、いや、それ以上に……成瀬と仲良くなるつもりだから」
言葉の端に、笑顔に隠しきれない強さがにじんでいた。
心臓がひときわ大きく鳴った。
「……そんなこと、わざわざ言うやついるかよ」
口ではぶっきらぼうに返しながら、胸の奥がじんわり熱くなるのを止められない。
一ノ瀬は当たり前みたいに笑って、俺の横を歩いている。
その肩越しに見える空は、いつもより少しだけ鮮やかだった。
――青木とも、クラスの誰とも違う。
一ノ瀬といる時間は、なんだか特別だ。
そう思ってしまった自分に気づき、胸がまたひとつ騒ぎ出した。
目立つことへの抵抗感より、一ノ瀬の隣にいる心地よさが勝ち始めていた。
今日の帰り道に一ノ瀬がいなければ、たぶん長谷川さんに逆らったことを一人で何度も思い返して苦い気持ちになっていたかもしれない。
でも、俺の言葉を「格好いい」と笑ってくれた一ノ瀬が隣にいるだけで、さっきの俺の行動を肯定される気がした。
あたたかな思いが胸の奥に広がっていく。
隣を歩く一ノ瀬は、どこか楽しげに鼻歌を口ずさんでいる。
その横顔には、あの日見えた苦しげな影はない。
――なら、今度は俺が。
一ノ瀬の心を少しでも軽くできる存在になりたい。
夕日に長く伸びた影が、ふたり分、並んで揺れるのを眺めていた。

