一ノ瀬のことを、何も知らない。
けど、知らないままでいられる気がしなかった。

教室のざわめきを耳に、空いている席に座って目の前の青木に言った。
「お前、俺のこと売ったな」
「ごめんって。一ノ瀬君の陽キャパワーに負けちゃった。ていうか僕だってびっくりしたよ。まさかあの有名な一ノ瀬君から突然声をかけられるなんて!」
「購買の一日七個限定焼きそばパン奢りな」
「そ、そんな……! 体育会系部活から虎視眈々と狙われている、あの焼きそばパンを? あんな熾烈な抗争に巻き込まれたらひとたまりもない! 僕は帰宅部だぞ! 穏やかに暮らしたい!」
「ふん。関係ないね、青木だって俺の平穏を乱したんだから」
「ぐう、本当にすまん。でも、あ、これ言い訳になるかもしれんが、聞いてくれ」
「? なんだよ」
「……一ノ瀬君が丁寧に頭下げて僕にお願いしてきたんだ。成瀬には恩があるからって。事情は深く知らないけど、恩返しがしたいなんて聞いたら、協力したいと思うだろ?」

一ノ瀬がそんなことを……? からかわれているわけじゃないのは昨日の態度からわかったが、そこまで真剣に考えての行動だったとは……

「まあ、僕は君の友人だし? なんだか鼻が高かったよ」
「……」

ふいに俯いて黙り込んだ俺の顔を、青木が慌ててのぞき込む。
「成瀬、やっぱり怒った? 相手があの一ノ瀬君でいくら君に恩義を感じているとはいえ、勝手に最寄り駅とかバラしたの、ふつうにダメだったよな! ホントごめんッ!」
「……」
本当だったら今のご時世的に、この愚かなる友人にお灸をすえて、二度と個人情報が本人の許可なく流されることがないよう釘を刺しておくべきだ。
……べきなのだが、
「……別に、怒ってない」
口から出てきた言葉は許すことを意味するものだった。

今度は青木が目を丸くする。
「成瀬、なにか悪いものでも食べた?」
「それどういう意味だよ」
「なんか変な調子だから……。いつもの成瀬だったら、いまどき危機管理がどうのとか説教してくるのに」
「お望みならしてあげようか」
「遠慮します。すみませんでした」

軽口を言い合っているとチャイムが鳴った。
俺は窓側の自分の席に戻ると、机の中から一限目の国語の教科書を引っ張り出しながら、さっきのことをぼんやり考えていた。

……青木の言うとおりだ。
なぜ、青木を許したんだろう。
俺の高校生活の平穏を破るきっかけを作ったのに。

ふと窓の外が騒がしいのに気づいた。
見下ろしたグラウンドでは、体育の授業らしくクラスごとに集まって、じゃんけんでチーム分けをしている。

その輪の真ん中に、一ノ瀬の姿があった。
他の生徒より背が高く、茶色い髪が陽に反射してすぐに見つかる。
じゃんけんに勝ったらしく、同じチームになった生徒たちが一ノ瀬の肩に腕を回し、歓声を上げている。
反対に、別のチームになった生徒たちは露骨に肩を落としていた。

ただの組み分けにすぎないのに。
勝てば「やった!」と喜ばれ、負ければ「残念」と落胆される。
一ノ瀬がそこにいるだけで、周囲の空気が変わるのがはっきりわかった。

——こうやって、いつも期待を背負ってるのかもしれない。
昨日「楽しませたい」なんて言ったのも、そういうことと無関係じゃない気がした。

一ノ瀬の言葉が脳で何度も響く。
「オレは成瀬と仲良くなりたい」
真顔でそう言われて——。

その一ノ瀬が今はグラウンドの中心にいて、みんなから「頼りにされる存在」みたいに扱われている。

——もしかして俺は、そんな一ノ瀬から救世主みたいに持ち上げられて、気持ちよくなってるだけなんじゃないか。

胸の奥が、ひやりと冷える。
冗談じゃない。
俺はただ、目立たず暮らしたいだけだ。
一ノ瀬は目立つ存在だから、仲良くなれば俺も当然周りから注目を浴びるだろう。そんなの耐えられない。絶対避けるべきだと俺の理性が言ってる。

……なのに、昨日の一ノ瀬の顔が頭から離れない。
あの、儚げに笑うあの顔が——

「はい、教科書三十ページ。じゃあ、成瀬、音読してくれるか」

不意に名前を呼ばれ、心臓が跳ねた。
気づけば教室の視線が自分に向いていて、慌てて机の上の教科書を開いた。
現実に引き戻されたはずなのに、胸のざわつきは、まだ収まらなかった。

読み終えた後も、一ノ瀬が気になって、窓の外を横目で見てしまっている。
サッカーをしていて、いまは成瀬がボールをゴールの方に推し進めている。
何人にもマークされながら、華麗に抜けていく様子はさすがとしか言いようがない。
ついにシュートを決めた。
同じチームの仲間が一斉に一ノ瀬のもとに駆け寄る。一通り、喜びを分かち合った後、体操着の肩口のあたりで頬の汗を拭っている一ノ瀬がふいに顔を上げた。

——ばちっ、と目が合った気がした。

俺が動けず固まっていると、一ノ瀬はふわりと笑い、抜けるような青い空に片手をぐっと突き上げてピースしてきた。
チームメイトが一ノ瀬の視線の先——つまりこちらに集まり始めて、俺は慌てて国語の教科書に目を移した。

背中にじわりと汗が伝う。ペンを持つ手が情けなく震えて、自分が一ノ瀬を意識してしまっていることを嫌でも自覚した。

***

下校時刻のチャイムが鳴り響く。
放課後で一気ににぎやかになる教室に、その男はまた現れた。
「成瀬、もう帰る?」
女子たちの視線はまたもや釘付け。「かっこいい~」っていう黄色い声も聞こえてくる。
「帰るけど……」
女子たちの「なんで成瀬?」という視線が四方八方から絡みつくのを感じるが、それよりも俺はこっそり一ノ瀬を見ていたのがバレたことの方が居たたまれず、さっきから一ノ瀬の顔を見れないでいる。

「よかった! じゃあ、駅まで一緒に帰ろう」
ぱあっと明るくなる。教室にひまわりが咲いた。

女子の悲鳴にかき消されるほど弱い声でせめてもの反抗をする。
「あーでもさ、昨日帰ったし、今日はいいんじゃ……」
「あ、青木君。成瀬借りるね!」

「どうぞどうぞ! 僕は帰りは反対方向ですし!」

「え。ちょっと、おい、待てって!」
俺は一ノ瀬に腕を引っ張られて、ぐいぐい教室の出口に連行された。
振り返ると青木が「ばいば~い」と手を振っている。
アイツめ……!

***

隣を歩く一ノ瀬の存在にまだ違和感が抜けない。
身体の左側半分だけ妙にむずがゆい。
授業中のことをなかったことにするための言い訳を頭でぐるぐる考えるが、良いアイデアがなにも浮かんでくれない。グラウンドの整備具合を見ていた、とかは……さすがに無理があるか。俺はグラウンドマニアじゃない。
気まずさの中、アスファルトの上に目をさまよわせていたら、ついに声がかかった。

「成瀬さ、」
名前を呼ばれて、ドクン、と心臓が跳ねる。

「……一限目の体育の時間、オレのこと見てたでしょ?」

はい、来た。死刑宣告。ばっちり目があってたもんな。もういっそ殺してほしい。
でも、素直に認めるにはいかない。今後の学生生活がかかってる。(気がする)
——まだ負けない

「い、いや……別に」
「うそ。だって目、合ったもん」
「偶然だろ」
「偶然でも、オレに気づいたってことは見てたんだよね?」

ぐい、と顔を近づけられる。
電車のホームに向かう道すがら、夕陽が差し込む。背の高い影がかぶさるみたいで、心臓が変なリズムを刻んだ。

「……なんでそんなこと聞くんだよ」
「気になったから。成瀬って、他のやつが何してても興味なさそうなのに……オレのことはちゃんと見るんだなって」
「み、見てない」
「じゃあ、なんで顔赤いの」

ちくしょう、図星だ。
ごまかそうと下を向くと、すれ違った女子高生たちが「今の人イケメンだよね~」と一ノ瀬の背中を見送りながらひそひそ話している。
当たり前みたいに注目を集めるその存在感と、俺に向けてくる真っ直ぐな視線。どうしたって落ち着けるはずがない。

「……あんまり人のことからかうなよ」
「からかってない。オレ、本気でうれしかったんだ」
「え……」

歩調を合わせて横に並んできた一ノ瀬の笑顔は、グラウンドの中心に立っていたときの眩しさとは違って、どこか柔らかい。
その笑顔にまた心臓が跳ねた。

「オレ、成瀬に見てもらえると安心する。もし、みんなの期待に沿えなくても世界が終わるわけじゃないって思えるから」

その言葉を聞いたら、見てたことを知られると気恥ずかしいと張ってた意地が胸からすっと消えた。

それどころか、気づいたら一ノ瀬の手をとって歩き出していた。
「ちょっと、成瀬!」
「一ノ瀬は、隣駅のゲーセン行ったことある?」
「え? ないかもだけど……」
「行こう」
「今から?! いや、いいけどさ!」
長い影がくっついて、ゆらめく。

改札を抜けて電車に乗ると、帰宅ラッシュにはまだ早い時間なのにそこそこ混んでいた。
俺はドア際のポールにつかまる。一ノ瀬が同じポールに掴まり、俺のすぐ前に向かい合って立つ。
「成瀬はゲーセン好きなの?」
「まあね。あのワンコインで楽しめる遊園地感がいい」
「なるほどね」
「それにさ、隣駅の裏口にあるゲーセンは穴場だから、うちの高校の生徒はあんまり来ない」
「そっか……じゃあさ、ふたりでプリクラとか撮ってみたくない?」
「はぁ!? なんでそうなる!」
「いいじゃん。オレたちがはじめて遊びに行った記念にしたい!」
「なんだそれ……まあ、考えておく」
そうやってるうちに電車は隣駅に着いた。

ゲーセンに入ると、電子音と眩しい光が一気に押し寄せる。
「うわ、すご……。あ、●滅の刃のフィギュアある」
「ほんとだな。ひとまず一ノ瀬は何やりたい?」
「うーん。じゃあ、あれやりたい!」
一ノ瀬が指さしたのは、ドン、と太鼓が鎮座するあのゲーム。
太鼓の達人。

曲を選ぶ画面に二人で顔を突き合わせる。
「どれがいい?」
「どれでも」
「えー、じゃあオレが決める!」
画面に映るポップな曲を選んで、カウントダウンが始まる。

横並びで太鼓を構える。
スタートの音が鳴った瞬間、太鼓の表面をドン、と叩いた。

太鼓の画面が派手に光って、電子音が弾ける。
スティックを握る一ノ瀬は、やっぱり様になっていた。フォームもきれいだし、リズム感もいい。次々と「良」が並んで、後ろから「すげー!」なんて知らない中学生の声が飛ぶ。

「成瀬どう? オレ、結構いけるでしょ?」
間奏の合間に笑いかけてくるその顔は、いつも通り明るい。
けど俺にはわかってしまった。それは俺の反応を気にしてる顔だ。
まるで、ここでも“期待に応えよう”としているみたいで――胸がちくりと痛んだ。

「……別にさ、」
口をついて出た声に、一ノ瀬が瞬く。

「上手いとか下手とか、俺はどうでもいい」
言葉にしてみたら、意外と簡単だった。
「俺は……一ノ瀬が楽しめたらいいと思ってる」

一ノ瀬がスティックを握ったまま黙り込む。
ネオンの光が横顔を照らして、ほんの少し崩れた笑みが見えた。
いつもとは違い、夕暮れの路地に落ちる柔らかい光の中の、ひそやかな笑みみたいな。
これまで見たことがない一ノ瀬の表情に、胸の奥が少しざわつく。

「……そういうこと、言ってくれるの、成瀬だけだ」
小さく笑う声が、電子音の隙間に溶けていく。
「オレが成瀬を楽しませたいのに。逆に励まされてばかりだ」

「……ほら、この後プリクラ撮るんだろ。まずは残りを叩ききるぞ」
俺の言葉に、一ノ瀬は目を丸くした後、曇りのない笑顔で頷いた。
「うん!」

押し込められたプリクラ機の中は男子高校生二人には狭い。
「一ノ瀬、ちょっとそっち寄れないか」
「うーん、むしろもっとくっつかないと枠に入らないんじゃないかな?」
まごついていると、「じゃあ、撮るよー!」と元気な機械音が聞こえてくる。
「成瀬、こっち」
たくましい腕でぐっと肩を引き寄せられる。
一ノ瀬の整った顔がすぐ隣にあって、俺の心臓が一瞬で音を早めた。口角がひきつる。
「ほらほら、笑って!」
プリクラ機のフラッシュがぱっと光って、画面に映った俺の顔は思いきり引きつっていた。
「ぷっ……成瀬、めっちゃ硬い顔」
「仕方ないだろ、いきなり近すぎるんだよ」
「近いほうがいいんだって。ほら、もう一枚」
「え、ちょ、待——」

またシャッター。
今度は一ノ瀬がわざとピースして俺のほうに顔を寄せる。
思わずのけぞるが、結局カメラには俺の真っ赤な顔がばっちり収まった。
「くそ、今の絶対変な顔してたぞ」
恥ずかしさで握りしめるこぶしがふるふる震える。
撮影が終わって画面に並んだ写真を見て、一ノ瀬が目を細める。
「……いいじゃん。成瀬のこういう顔、オレ、好きだな」
「なっ……!何言って」
「オレ、大事にするから」
真顔で言われて、冗談だと笑い飛ばす余地がなくなる。

「お、お前なぁ……」
「だって本当だし。オレにとっては、宝物」

軽口みたいに聞こえるのに、笑みの奥の瞳があまりにも真剣で。
プリクラ機の狭さ以上に、胸の内がいっぱいになるのを感じた。

「うーん、生徒手帳に貼っちゃおうかな」
「もう、好きにしてくれ」
「うん! ……ん? この隅っこのラクガキ、成瀬、何描いたの?」
「……どうみてもネコだろ」
「え……あっはは」
「な、何がおかしいんだ!」
「いや、かわいいなって、ふふ」

目に涙をうかべながら、ぷるぷると肩を震わせている一ノ瀬。
——そんなにおもしろいか
渾身のネコを笑われて納得がいかないものの、見たことないくらい楽しそうな一ノ瀬の姿を見て、胸の奥で何かがほどけていく。

「……もう好きに笑えよ」
「ごめん。成瀬、笑ってごめんって!」

口から出たつぶやきは、ずいぶん柔らかい音色だったが、
一ノ瀬は俺が怒ったと思ったらしく、眉を下げてあわあわと慌てている。
必死に弁解するその仕草が、子供みたいで妙に可笑しくて。

——こんな一ノ瀬、きっとクラスの誰も知らない

知らない顔をまたひとつ見てしまった気がして、胸の奥がじんわり熱くなる。
その熱を抱えたまま、俺たちはプリクラ機のカーテンを押し分けて外へ出た。


ゲーセンを出ると、夕暮れのざわめきが戻ってくる。
ネオンの残像がまだ瞼にちらついていた。

「ねえ、成瀬」
「ん?」
「……オレ楽しかったよ、誘ってくれてありがとう」
「そうかよ」
「またオレと遊んでほしい」
「ん。考えとく」
「……そのときはプリクラも撮ろうね」
「プリクラ好きだな、お前」
「なんか形に残るものって良くない? 特にプリクラはどこにでも貼れて、いつでも見れるし」

一ノ瀬はそう言いながら、ちらりと俺の方を見て、少しはにかんだ。
その笑顔に、不意に胸が跳ねる。
夕焼けの赤が頬を染めているように見えて、目を逸らせなくなった。

「……なるほどな、でも頼むから変なとこには貼るなよ」
「はは、わかったって」
並んで歩く俺たちの影が、地面に長く伸びて重なる。
その重なりを見つめながら、心のどこかで思う。

——一ノ瀬のことを、もっと、知っていけたらいい、と。