夏は嫌いだ。汗でべたつくし、やたら人の目が気になる。
目立たず生きていきたい。
それだけが、俺—成瀬(なるせ) (あおい)—の高校生活のささやかな願いだった。
……なのに、なぜよりによって学年一の陽キャに絡まれるんだ。

「成瀬、はじめまして。一ノ瀬です。ね、オレと帰ろうよ」

机の上にとん、と置かれた骨ばった手に顔をあげると、そいつ―一ノ瀬(いちのせ) 翔真(しょうま)―は白い歯をみせて笑っている。俺の口角がピクリとひくつく。——爆弾が来たぞ、と。
茶色い髪が、夏の光を反射してやけに目立つ。
固まっている俺を不思議に思ったのか一ノ瀬が首をかしげると、近くにいた女子たちから軽く悲鳴があがった。ほんの数秒で注目の的だ。
「……いい。俺、ひとりで帰る」
その視線を一緒に浴びたくなくて、俺はそそくさとカバンに教科書を詰める。三十六計逃げるに如かず。
そもそも隣のクラスの陽キャイケメン一ノ瀬がどうして地味で平凡な俺なんかを誘うんだ。なにかの間違いじゃないのか。声をかけられる理由がわからない。
一ノ瀬との接点って、何かあったか?——
窓の外の蝉の声がけたたましく耳に響く。

「? なんで? あ、最寄り駅同じだよ? 町田駅」
「……そうだけど、」
結構食い下がってくるな。ていうか、なぜ俺が町田駅だって知ってるんだよ。見られていたのか。それとも———廊下側の席にいるクラスメイトの青木を横目でみると、肩をすくませて両手を合わせている。
……アイツか、情報を流したのは。じろりと青木をにらみつける。

「ねえ、聞いてる?」
ふいに声が近くなって、顔をあげる。いつのまにか一ノ瀬が身を乗り出していた。
頬が少し赤くて、汗が光っている。真夏の空気にまぎれて、妙に鮮やかに見えた。
形の良い唇が小さく震え、甘いテノールが耳をなでる。

「……オレは成瀬と仲良くなりたい」
熱いまなざしに射抜かれ、心臓が掴まれたみたいに動けなくなる。
———なんで、そんな顔で俺を見るんだ。

俺たちの間を、生ぬるい夏の風が吹き抜けていった。


「じゃあ、オレのくつ箱あっちだから、すぐ履き替えてくる」
一ノ瀬はひらりと手を振って、少し離れた列へ向かっていった。
俺はその背中を何となく目で追ってしまう。

学校一の陽キャと一緒に帰ることになってしまった……
手に変な汗がとまらない。目立ちたくないのに、どうやっても目立ちそうだ。

目線の先の一ノ瀬が、バスケ部の先輩らしき二人に話しかけている。
「一ノ瀬! この前の試合、マジ助かった! 次も出てくれよ」
「いいっすよ。日程教えてください」
一ノ瀬の笑顔に、周囲の空気が一気に明るくなる。

バスケ部の助っ人をしてるのか。しかも、あの様子だとかなりできるみたいだ。
スポーツ万能イケメン。
……やっぱり、俺が隣に並ぶのは場違いだろ。 

「お待たせ。帰ろう」

一ノ瀬が軽やかに声をかけてくる。
隣に並ぶと急に視線が集まるのがわかる。
女子たちの囁き、男子の好奇の目、校門のざわめき——全部、自分に向かっているようで、胸がざわついた。

「……あ、ああ」
思わず返事が小さくなる。靴の裏をこすり合わせるようにして歩き出す。
一ノ瀬は気にする様子もなく、自然に笑いながら話しかけてくる。
けど、その笑顔が余計に自分の居心地の悪さを引き立てている気がした。

歩くごとに一ノ瀬はバスケ部の後輩に声をかけられている。
「一ノ瀬先輩、また来てください!」
「了解! そっちもがんばってね」
明るく応える一ノ瀬の声に、周囲の空気が一気に軽くなる。
俺は、ただ横で小さく肩をすくめるしかなかった。

……やっぱり、俺が隣に並ぶのは、だいぶ浮いてる気がする。
好奇の視線がちらほら集まる。
変なやっかみとかもらわずに、平穏に過ごしたいのに。


校門を出ると、白っぽい光が町全体を包んでいた。
蝉の声が途切れなく響き、アスファルトはじわじわと熱を返してくる。
シャツにまとわりつく汗が不快なのに、隣を歩く一ノ瀬の存在のせいで、さらに心臓が落ち着かない。

“仲良くなりたい”
そう言った一ノ瀬の真剣な顔が頭にちらつく。
——なんでだ。
スポーツ万能で、みんなに囲まれて笑ってるようなやつが———よりによって俺なんかに。
他にいくらでも一緒に帰る相手がいるはずなのに。
横を歩く足音がやけに大きく聞こえて、胸の奥がざわつく。

ちら、と一ノ瀬がこっちを見る。
「暑いなー」とか「課題とかでた?」とか、思いついたことをぽつぽつ投げかけてくる。
会話を途切れさせたくないんだろう。
その気持ちは伝わってくるのに、なんで俺なのか、やっぱりわからない。

「……ねえ成瀬、帰り道ってさ、いつも一人?」
「え?……まあ」
「ふーん。じゃあさ、今日から二人ってことで!」
軽く言うくせに、横目でこちらの反応を気にしているのがわかる。
そんなふうに見られると、余計に理由を知りたくなってしまう。
本当に、なんで俺なんだ。

「俺と帰っても面白いことはないと思うけど」
つい、卑屈なことを口にしてしまった。
「オレは楽しいよ」
一ノ瀬は即答だった。迷いのかけらもなく。

……何なんだ、こいつ。

胸の奥が、不意に熱くなる。
からかわれているわけじゃないのはわかる。
本気で言ってる顔だったからこそ、余計に信じられない。
俺みたいなのと一緒にいて、楽しいなんて。
その言葉が、妙に重たく響いた。

隣から聞こえていた足音が、ふっと途切れる。
不審に思って振り向くと、一ノ瀬が立ち止まっていた。
「……一ノ瀬?」
呼びかけると、あごに手を添えて、なぜか真剣な顔で唸っている。
「……やっぱり、そうだな」
ぽつりとつぶやいた後、視線がまっすぐ俺に向けられる。

「オレは成瀬を楽しませたい」

逆光で輪郭が浮き上がり、一ノ瀬の長い影が揺れる。
一瞬、意味が分からなかった。
俺を楽しませたい? なぜ? ……俺はそう思ってもらえるようなこと、何もしていないはずだ。
眩しさに目がくらんで、足元に視線を落とす。

「……あのさ、ほぼ初対面の俺になんでそこまで?」
声が震える。期待なんてしたくないのに。
「ん?」
「……俺は、一ノ瀬みたいに人気者でもないし…」

言いながら、胸の奥が少しざわついた。
一ノ瀬と自分を比べたって仕方ないのに、口から出てしまう。

「人気とか関係ないよ」
一ノ瀬は即座に切り返す。

「成瀬はさ、」
不意に名前を呼ばれて、思わず顔を上げる。
一ノ瀬は、まっすぐこっちを見ていた。

「知らないうちに誰かを助けてるんだよ」

「……何だそれ、」
否定しようとしたのに、喉の奥で言葉が止まった。
自分にそんな力があるなんて、考えたこともない。

「それはさ、一ノ瀬は俺に助けられたってこと?」

一ノ瀬はふっと笑って頷いた。
「気づいてないと思うけど」
「いつ?」
「一週間くらい前」
そう言われて記憶をたどっても、一ノ瀬と話したのは今日がはじめてなはずだ。
――まあ、存在自体は入学時から知っていたが。
ぴんと来てない俺に、一ノ瀬は軽く微笑む。
「掃除の時間、理科室で青木君と話してたでしょ。そのときオレ、裏庭にいたんだ」

確かに俺は掃除の時間、毎回青木とはとりとめのないことをだべっている。
古典の先生の声は異常に眠気を誘うとか、プール後の数学は拷問だとか、陰キャに体育はきついとか。けど、それが取り立てて一ノ瀬の興味を引くようなことだとは思えない。

余計分からなくて、首をかしげる。
隣の一ノ瀬は大きく伸びをしてから、言った。
「オレさ、あの日掃除さぼってそこで隠れてたんだ。一人になりたくて」

「一ノ瀬が……、」
思わず声に出かけたけど、途中で飲み込んだ。
誰にだって一人になりたいときはある。けど———一ノ瀬が?
俺の目に映る彼は、いつも人に囲まれていて、笑顔の中心にいる存在だった。
……そんなやつが「一人になりたい」と思うことがあるなんて。

俺が言葉を紡げずにいると、一ノ瀬は静かに頷いた。
「あのときちょうど助っ人を引き受けたバスケ部の試合前日だったんだけど、なんか急にみんなの期待に応えられる自信なくなっちゃってさ……気持ち立て直したくて、裏庭に行ったんだ。掃除の時間は、誰もいないから」

「……期待に、応えられない?」
意外な言葉に驚きが声ににじんでしまう。

一ノ瀬は小さく笑って続ける。
「校舎の壁にしゃがみ込んでもたれてたら、理科室に成瀬たちが来たんだ」

記憶をたぐってみる。その日も間違いなく青木と馬鹿みたいにくだらない話をしていた。まさか一ノ瀬に聞かれていたなんて。

「そこで、成瀬が言ったんだ。“期待されないって楽でいいけどな”、って」

「……あぁ」
思い出して、顔が熱くなる。
ほんの気まぐれで口にした言葉が、そんなふうに拾われていたなんて。

「オレ、期待されないでいい世界があるなんて思ってもみなくてさ。一度でも裏切ったら終わりだと思ってたから」

一ノ瀬は笑った。
いつも遠くから目にする弾けるような笑顔じゃなく、どこか輪郭が薄れていくような、はかなげな笑みだった。
その瞬間、俺の目には、一ノ瀬が少し小さく、頼りなく見えた。
まるで声を立てれば消えてしまう影のように。

俺は思わず息をのんだ。
辺りにはただ蝉の声だけが、途切れなく響いていた。

いつの間にか着いた駅の構内は、人混みでざわついていた。
電車が滑り込む音とアナウンス、制服姿の群れ。
肩が何度もぶつかるのに、一ノ瀬の声だけが不思議と耳に届く。

「じゃ、また明日な」

そう言って改札を抜けていく背中を、人波がすぐにさらっていった。
雑踏の中にひとり取り残され、胸の奥がざわめいたまま、俺はその場に立ち尽くした。