〈6.〉
ヤマモトバーガーはちょっとした混沌に陥っていた。
というのも、店のセルフレジが故障によって停止してしまったのだ。復旧の目途が立たず、すべてのセルフレジの画面に「メンテナンス中」の張り紙が貼られ、少ない有人レジだけでなんとか対応している。
間の悪いことに新商品の発売日と重なってしまい、いつにも増して客が多いなか、スタッフは仕事に追われてんてこまいの状態だった。なかなか進まない列にあからさまに苛立ちを募らせている客もいる。
「先頭でお待ちのお客様、こちらへどうぞ!」
「あ、はいっ」
相馬とともに行列に並ぶことかれこれ十分、ようやく列の先頭まで来た仁木は、手を挙げているスタッフのレジへと向かった。
「店内でお召し上がりですか?」
「はい。ヤマモトバーガーセットで、ドリンクはコーラで──」
──放課後にヤマモトバーガーに来るのはこれで三度目だ。
城ヶ峰と鉢合わせてしまう可能性を考えると、エレファントバーガーには行けない。たぶん、城ヶ峰とはもう会わないほうがいい。それがいい。何も知らないふりをして会うことはできないし、記憶を抹消することもできないのだから。
「今日混んでるなぁー。先に席取っときゃよかったな」
「持ち帰りの人も多いだろうし、さすがに満席じゃないと思う。行ってみよう」
相馬と足を踏み出そうとしたときだった。順番を待つ人で溢れ返り、カオス状態のレジ前の一帯が、にわかにざわつき始めたのだ。
何事だろうと足を止めて振り返る。行列に痺れを切らした客がスタッフに文句を言ったり、はたまた他の客と喧嘩でも始めたのかと思いきや、どうもそうではないらしい。
見ると、入口から新たに客がひとり入って来たところのようだった。ざわめきの中心部にいるのがその人物で、周囲の客の注目を一身に集めているのだとわかる。仁木はその人の顔を見て──自分の目を疑った。
「──あれ、激メロ東陽山生じゃん」
隣に立った相馬がやってきた客を見て驚いたように言う。
仁木が最初に思ったことは「隠れないと」だった。店の出入り口はひとつしかない。逃げられない以上は隠れるしかない。しかし、突如現れたその名門校の制服を着た男子高校生は、仁木の焦りも色めきだつ周囲も一切省みることなくこちらへ向かってきた。
そうして仁木達の前まで来ると立ち止まった。
「仁木」
「な、なんで城ヶ峰さんがここに……」
数週間ぶりに見る城ヶ峰は、手に黒色の学校指定のコートを抱えている点を除けば、最後に見たときとまるで変わらない様相だった。──いや、少しだけ元気がなさそうにも見える。
今日はたしかに部活が休みの曜日で、エレファントバーガーなら居合わせてもおかしくはない。けれどここはヤマモトバーガーだ。東陽山学園からはエレファントバーガーよりもさらに距離がある。
偶然居合わせたとは考えにくい。そう思っていると、城ヶ峰は仁木の疑問に対する答えを淡々と口にした。
「エレファントバーガーに来てた三郷高生捕まえて聞いた」
「どこに行ってるかなんて話してないし、相馬以外は誰も知らないはず……」
「この辺で三郷第一の生徒がよく行く店って言えば、エレファントバーガーかヤマモトバーガーくらいだって教えれくれた」
見ず知らずの他校生に、どうしてそんなに親切に教えたんだと眩暈を覚える。──けれど、城ヶ峰を相手にしていると、その甘い言葉に誑かされてめろめろになっていく感覚に襲われることがままある。城ヶ峰にかかれば聞き出すのは案外簡単なことなのかもしれない。激メロ男の名をほしいままにしている男の本領発揮である。
込み入った事情があるのを察したのか、相馬は「先に席座っとくから」と一言言い残して立ち去った。
「今から話せるか?」
城ヶ峰の少し掠れた切実な声色に気持ちが揺らぐ。
「……俺、これから相馬と食べるつもりで……もう注文した後なので、今からはちょっと難しいです」
手にしたトレーを城ヶ峰によく見えるように差し出して言う。
そう言えば城ヶ峰も諦めて帰るかもしれないと期待したが、仁木の予想に反して男は「じゃあ食べ終わるまで外で待ってる」と答えた。
「えっ? で、でも、結構時間かかるかもしれないのに」
「別に平気。どうしても今日話したい」
そう請われると突っぱねることもできず、気付けばこくりと首を縦に振っていた。
話したいと、会いたいと思っていたのはこちらも同じだ。その思いをどうにか我慢して抑えていたが、こうして城ヶ峰と直接対峙すると抑えられなくなってしまう。
ヤマモトバーガーを後にすると、仁木は城ヶ峰とともに近くの公園へと移動した。
相馬とは店の前で別れた。仁木が城ヶ峰と交流があったことは相馬もよく知っているし、気に掛けているようだったが、仁木が席についたあとも何も聞かず何も言わなかった。城ヶ峰とのことがどんな形であれ決着がついたら、相馬には話をしよう。
公園は広く、街灯のおかげで日が暮れた後でもそれなりに明るく、ランニングウェアで走っているランナーや犬の散歩をしている人達もちらほらいた。
「城ヶ峰さん、その……」
空いているベンチを見つけ、そこにふたりで腰かける。話を切り出そうとした仁木だったが、その先に続く言葉が出て来ずに口を噤む。
「……ずっと仁木が店に来なかった間、俺待ってたんだぞ」
城ヶ峰がわずかに背を屈め、仁木のほうに顔を寄せる。ベンチがぎしっと軋む音が響いた。
近い距離でじっと見つめられ、咄嗟に仁木は身体を後ろに引こうとしたが、いつのまにか城ヶ峰の腕がベンチの背凭れに回されていた。背中が腕に当たる感触がしたかと思うと、その手に身体を引き寄せられる。振りほどけないほどの力じゃない。──でも、本当に振りほどいて逃げたいのか?
「今日やっと仁木に会えてうれしかった」
「そんな、っほ……ほかの三郷第一の生徒に、声かければよかったじゃないですか。話し相手がほしいなら……」
「座ってたら何人かに声はかけられたけど、仁木がよかったから断った」
──駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。また城ヶ峰の甘い言葉に、甘い声に、甘い仕草にめろめろにされて流されてしまう。ほだされてしまう。それでは駄目だと言い聞かせて、メロついている場合じゃないだろと自分を叱咤する。仁木はぐっと城ヶ峰の胸を押しやった。
「──っ中学の同級生が、東陽山に通ってるって言ったじゃないですか。その同級生とたまたま会って……」
仁木は、エレファントバーガーから足が遠のくきっかけとなった出来事を話した。田岡からあの日聞いたことを。
城ヶ峰の祖父が東陽山学園の理事を務めていること。城ヶ峰の家の事情。城ヶ峰が、東陽山学園で知らない人はいないほどの有名人で、有名であるがゆえに様々なプライベートの事情まで筒抜けになっていること──。
そうしたことをすべて知ってしまったのだと洗いざらい話すと、仁木は城ヶ峰の反応を待った。そのまま何も言わずにベンチから立ち上がり、公園から立ち去ったとしても不思議はない。
だが、話を聞いた城ヶ峰はベンチに腰掛けたままだった。考え込むような神妙な面持ちで黙っていたが、やがておもむろに口を開いた。
「──……校内では、まぁ、有名な話なんだ。理事長と同じ苗字だったら、言われなくても誰でも察しがつくだろ」
そこで言葉を区切り、苦笑いを浮かべて一息つく。
「親同士の噂話が子供の耳に入るのもよくあることだろ。住んでるマンションの階数から、俺の両親の職業、出身大学、別居のこと、別居の理由とかそんなことまで……そういうのって気持ち悪くないか?」
色んな奴に知られてた、と城ヶ峰は言う。
仁木がその話を何かの拍子に耳にすることも充分考えられたし、覚悟もしていたという。
「本当、それくらい有名な話だから。公然の秘密っていうか。一度も話したことない奴でも知ってた。……だから、俺の家のことを知らない相手と話したかったんだ」
「……そうだったんですね」
「長い間隠してたことは、本当に悪かったと思ってる。ごめん」
そう言って目を合わせ、城ヶ峰は頭を下げた。
学園中の誰も彼もに知られ、学校生活に辟易としていた城ヶ峰に、あの日たまたま声をかけたのが仁木だったのだ。
「……その相手が、俺でよかったです。城ヶ峰さんと話せて嬉しかった」
知らない相手なら誰でもよかったんだとしても。俺である必要なんかなくても。
「最初は誰でもよかった。けど、そのうち仁木に会えるから来るようになったんだ」
「……だから、それは結局俺が、城ヶ峰さんの家族のことを知らなかったからですよね。知らないなら別に誰でもよかったはずです」
「仁木と話すのが楽しかったんだ」
「……っ」
仁木と、と力を込めて言いながら城ヶ峰は手を握った。城ヶ峰の手はとても温かく、そして大きかった。上から見ると灰色の袖と紺色の袖が仲良く並んで見える。
「でも、もう俺も、城ヶ峰さんの家族のことは知ってしまったので──」
「知ってていい。話しておきたいことがあるって前に言っただろ、このことを話したかったんだ」
本当は自分の口から伝えたかったけど、と城ヶ峰は笑った。
そういえば、と思い出す。城ヶ峰の家族の話や閉店のことでそれどころではなくなってしまい、いつのまにか有耶無耶になっていたが、たしかに以前にそんな話をしていた。まさかそれがこの件だったとは予想もしていなかったが──。
「お前に知られないようにずっと黙ってたのに、段々全部知ってほしくなったんだ」
知ってなお、まだ城ヶ峰のそばにいてもいいのか。本人が知ってほしかったと言っているんだからそのはずだが、未だ信じられない。
周りの人間に何もかも知られている状態が苦痛で、逃げ場所のようにエレファントバーガーへ来ていた城ヶ峰が、自分のことを知ってほしいと思っている。泣き出しそうな気持ちで仁木は顔を見上げた。
知ってしまったから──だからもう、城ヶ峰との関係は終わりにするしかないと思っていた。
俺は本当にそうしたいと思ってるのか? 自分自身に問いかけてみると、仁木は散々躊躇った末に口を開いた。
「──……城ヶ峰さんはもう俺と話したくないかもしれないと思ったんです。だから会わないように行く店を変えて……っけど、俺はもっと話したいです。あなたと」
そう、それが本音だ。本当は城ヶ峰に会いにエレファントバーガーに行きたかった。
今度は自分の方から手を伸ばし、城ヶ峰の手を握りしめる。すると、その掌はすぐに仁木の手を握り返した。
また、城ヶ峰とふたりで勉強会ができる日がくるのかもしれない。──けれどその場所は、エレファントバーガーの、あの木漏れ日の差し込むテラス席ではないかもしれない。
エレファントバーガー三郷駅前店は、仁木が最後に来たときと変わらない姿でそこにあった。
ほっとして胸を撫で下ろす。閉店するとは聞いていたが、いつから店を閉めるのかは知らない。少なくとも今日はまだ営業しているようだ。店先にはメニューの看板が出されているし、一階も二階も灯りが灯っているし、食事をしているお客さんの姿も見える。
けれど、自動ドアに貼られたあの白く無機質な張り紙もそのままだ。今日ではないが、遠くない未来にこの店がなくなる事実は変わらないんだとその紙が告げている。
──公園で話を終えたあと、城ヶ峰に誘われてエレファントバーガーに行くことになった。家には帰りが遅くなるかもしれないと連絡をしているし、ドリンクを頼んでちょっと話すくらいだけだから、そんなに夜遅くにはならないはずだ。
「相馬から、駅前のエレファントバーガーが閉店するって聞きました」
店に向かって歩きながら、ぽつりと仁木が言うと城ヶ峰は怪訝な表情を浮かべた。
「閉店? 本当か? そんな話聞いたことないけどな」
「本当です。三郷駅前店の売上が落ちてるそうで……店の前に張り紙もあるので間違いないです」
そう言ってなお首を捻り、怪訝そうな表情を崩さない相手に違和感を覚える。
ここに来る前にエレファントバーガーに寄ってきたと城ヶ峰は言っていた。そこで仁木達がヤマモトバーガーに行ったかもしれないという情報を得たのだ。だから、店に入る前に気づかなかったとは考えにくい。
小さなひっかかりを覚えながら、仁木は自動ドアへと近づいた。
閉店するのは仕方がないにしても、いつまでこの店が営業しているのか確認しておかなければ。それまでの間にできるだけ来るようにしよう。
自動ドアに張り紙があるのを遠目に見ただけで、こまかい文章まではまだきちんと目を通していなかった。というのも、相馬からすでに閉店すると聞いていたから読むまでもないと思ったのだ。もっと言うと、閉店のおしらせを自分の目で見て、愛着のあるエレファントバーガー三郷駅前店が閉店するという現実を直視したくなかった。
「……」
腹をくくり、ふたりで張り紙の前に立つ。自動ドアはボタンを押して開けるタイプなので、前に立っただけでは開かない。閉じられたままのガラスに貼られた紙を仁木は見下ろした。
「──……あれ?」
張り紙に書かれてある文言が目に飛び込んできた瞬間、仁木は気付けば間の抜けた声を洩らしていた。
顔を紙に近づけて再び目を通す。しかし、何度読んでもそこに「閉店」の文字は見当たらない。どこにも。
「やっぱり閉店じゃないだろ。リニューアルオープンのおしらせだ」
耳を疑うような城ヶ峰の言葉が聞こえた。
そこには、城ヶ峰の言う通り「リニューアルオープンのおしらせ」という文言と、改装工事を行う期間とリニューアルオープンする日にちが書かれている。
「なんかおかしいと思ったんだよな。この張り紙ならさっき来たときにも見たけど、リニューアルするってことしか書いてないだろ。閉店と勘違いしてたってことか?」
「え、でも、閉店するって……」
言いかけて、仁木は相馬から聞いた話を今一度思い出す。
エレファントバーガーでアルバイトをしている従兄弟が言っていたのは「売上が落ちている」ということだけだ。閉店云々は売上と張り紙の話からふたりが想像したことに過ぎない。
相馬も張り紙があるのを見かけたとは言っていたが、仁木のように遠目に見ただけで、売上の噂から勝手に閉店のおしらせだと思い込んだのかもしれない。
事実、リニューアルオープンと書かれている。
「売上が落ちてるから閉店するんじゃなくて、テコ入れの意味でリニューアルオープンするんじゃないか?」
「まぁ……壁紙が剥がれかけてるところとか、ガタつくテーブルとか、たしかに古くなってる部分もあったので、改装はいいかもしれませんね」
店内の様子を思い浮かべながら頷く。成程、それなら筋が通る。
そこでようやく実感が湧き、仁木は詰めていた息を吐き出した。そうか、閉店しないんだ。なんだ。そうだったんだ。……よかった。
ここは友人と一緒に数えきれないほど立ち寄った店で、部活の仲間と打ち上げもした場所で──そして城ヶ峰と出会った場所でもある。店は存続し、たくさんの思い出がずっと残り続ける。その嬉しさに笑顔がこぼれた。
「じゃ、中入るか」
「──はい」
城ヶ峰は促し、自動ドアのボタンを押した。
* * *
「──週末、どこ行きたいか決まったのか」
スプリングエレファントハンバーガーの載ったトレーを受け取り、城ヶ峰はフロアを歩き出した。同じくトレーを手にした仁木は後を追う。
今週末にまたどこかへ出かけようと誘われ、行き先の候補を考えておいてほしいと先週のうちに言われていた。一週間あれこれ考え、やりたいことがひとつ見つかった。
「はい。天気がよさそうだからちょっと遠出しませんか」
夕方四時、地元の中高生が学校帰りにやってくる時間。
エレファントバーガー三郷駅前店がリニューアルオープンし、無事一ヶ月が過ぎた。リニューアルがきっかけとなり客足が少し増えた気がする。新しくなった店内を眺めつつ歩く。
──紆余曲折を経て、再び以前のように城ヶ峰とはエレファントバーガーで会い、話をするようになった。
勿論、なにもかも同じというわけではない。城ヶ峰の家の事情も今では知っているし、城ヶ峰の方からも家族の話題を時折口にするようになった。また、学園内でも少しずつ打ち解けて話せる友人が出来始めたと聞いている。
そして、以前とは違い、エレファントバーガー以外の場所でも城ヶ峰と会うようになった。城ヶ峰の受験勉強と部活の合間を縫って、休みの日になるとふたりでよく色んな場所に出掛けている。
「テスト期間で部活がずっとなかったので、身体を動かせたらいいなと思ってて」
身体が重くなまっているような感覚があるので、おもいっきり運動がしたいところだ。ボーリングでもいいし、屋内のアスレチック施設なども最近は増えている。
「城ヶ峰さんはどこかいいところ知りませんか?」
「あー……ここから電車で一時間くらいかかるけど、デカい自然公園がある。芝生の広場があって、そこなら運動もできると思う」
「バドミントンのラケット持って行きます」
「自主練のために行くんじゃないからな、言っとくけど」
「……わかってますよ」
城ヶ峰がどういうつもりで誘っているのか、仁木にはもうわかっている。最初は勘違いしてしまったけれど、デートに誘ってくれているのだと今ならわかる。だから込み上げる嬉しさと恥ずかしさに頬を染めて頷いた。
仁木が城ヶ峰の隣に並んで歩くと、灰色のブレザーと紺色のブレザーがそっと触れ合った。
END
ヤマモトバーガーはちょっとした混沌に陥っていた。
というのも、店のセルフレジが故障によって停止してしまったのだ。復旧の目途が立たず、すべてのセルフレジの画面に「メンテナンス中」の張り紙が貼られ、少ない有人レジだけでなんとか対応している。
間の悪いことに新商品の発売日と重なってしまい、いつにも増して客が多いなか、スタッフは仕事に追われてんてこまいの状態だった。なかなか進まない列にあからさまに苛立ちを募らせている客もいる。
「先頭でお待ちのお客様、こちらへどうぞ!」
「あ、はいっ」
相馬とともに行列に並ぶことかれこれ十分、ようやく列の先頭まで来た仁木は、手を挙げているスタッフのレジへと向かった。
「店内でお召し上がりですか?」
「はい。ヤマモトバーガーセットで、ドリンクはコーラで──」
──放課後にヤマモトバーガーに来るのはこれで三度目だ。
城ヶ峰と鉢合わせてしまう可能性を考えると、エレファントバーガーには行けない。たぶん、城ヶ峰とはもう会わないほうがいい。それがいい。何も知らないふりをして会うことはできないし、記憶を抹消することもできないのだから。
「今日混んでるなぁー。先に席取っときゃよかったな」
「持ち帰りの人も多いだろうし、さすがに満席じゃないと思う。行ってみよう」
相馬と足を踏み出そうとしたときだった。順番を待つ人で溢れ返り、カオス状態のレジ前の一帯が、にわかにざわつき始めたのだ。
何事だろうと足を止めて振り返る。行列に痺れを切らした客がスタッフに文句を言ったり、はたまた他の客と喧嘩でも始めたのかと思いきや、どうもそうではないらしい。
見ると、入口から新たに客がひとり入って来たところのようだった。ざわめきの中心部にいるのがその人物で、周囲の客の注目を一身に集めているのだとわかる。仁木はその人の顔を見て──自分の目を疑った。
「──あれ、激メロ東陽山生じゃん」
隣に立った相馬がやってきた客を見て驚いたように言う。
仁木が最初に思ったことは「隠れないと」だった。店の出入り口はひとつしかない。逃げられない以上は隠れるしかない。しかし、突如現れたその名門校の制服を着た男子高校生は、仁木の焦りも色めきだつ周囲も一切省みることなくこちらへ向かってきた。
そうして仁木達の前まで来ると立ち止まった。
「仁木」
「な、なんで城ヶ峰さんがここに……」
数週間ぶりに見る城ヶ峰は、手に黒色の学校指定のコートを抱えている点を除けば、最後に見たときとまるで変わらない様相だった。──いや、少しだけ元気がなさそうにも見える。
今日はたしかに部活が休みの曜日で、エレファントバーガーなら居合わせてもおかしくはない。けれどここはヤマモトバーガーだ。東陽山学園からはエレファントバーガーよりもさらに距離がある。
偶然居合わせたとは考えにくい。そう思っていると、城ヶ峰は仁木の疑問に対する答えを淡々と口にした。
「エレファントバーガーに来てた三郷高生捕まえて聞いた」
「どこに行ってるかなんて話してないし、相馬以外は誰も知らないはず……」
「この辺で三郷第一の生徒がよく行く店って言えば、エレファントバーガーかヤマモトバーガーくらいだって教えれくれた」
見ず知らずの他校生に、どうしてそんなに親切に教えたんだと眩暈を覚える。──けれど、城ヶ峰を相手にしていると、その甘い言葉に誑かされてめろめろになっていく感覚に襲われることがままある。城ヶ峰にかかれば聞き出すのは案外簡単なことなのかもしれない。激メロ男の名をほしいままにしている男の本領発揮である。
込み入った事情があるのを察したのか、相馬は「先に席座っとくから」と一言言い残して立ち去った。
「今から話せるか?」
城ヶ峰の少し掠れた切実な声色に気持ちが揺らぐ。
「……俺、これから相馬と食べるつもりで……もう注文した後なので、今からはちょっと難しいです」
手にしたトレーを城ヶ峰によく見えるように差し出して言う。
そう言えば城ヶ峰も諦めて帰るかもしれないと期待したが、仁木の予想に反して男は「じゃあ食べ終わるまで外で待ってる」と答えた。
「えっ? で、でも、結構時間かかるかもしれないのに」
「別に平気。どうしても今日話したい」
そう請われると突っぱねることもできず、気付けばこくりと首を縦に振っていた。
話したいと、会いたいと思っていたのはこちらも同じだ。その思いをどうにか我慢して抑えていたが、こうして城ヶ峰と直接対峙すると抑えられなくなってしまう。
ヤマモトバーガーを後にすると、仁木は城ヶ峰とともに近くの公園へと移動した。
相馬とは店の前で別れた。仁木が城ヶ峰と交流があったことは相馬もよく知っているし、気に掛けているようだったが、仁木が席についたあとも何も聞かず何も言わなかった。城ヶ峰とのことがどんな形であれ決着がついたら、相馬には話をしよう。
公園は広く、街灯のおかげで日が暮れた後でもそれなりに明るく、ランニングウェアで走っているランナーや犬の散歩をしている人達もちらほらいた。
「城ヶ峰さん、その……」
空いているベンチを見つけ、そこにふたりで腰かける。話を切り出そうとした仁木だったが、その先に続く言葉が出て来ずに口を噤む。
「……ずっと仁木が店に来なかった間、俺待ってたんだぞ」
城ヶ峰がわずかに背を屈め、仁木のほうに顔を寄せる。ベンチがぎしっと軋む音が響いた。
近い距離でじっと見つめられ、咄嗟に仁木は身体を後ろに引こうとしたが、いつのまにか城ヶ峰の腕がベンチの背凭れに回されていた。背中が腕に当たる感触がしたかと思うと、その手に身体を引き寄せられる。振りほどけないほどの力じゃない。──でも、本当に振りほどいて逃げたいのか?
「今日やっと仁木に会えてうれしかった」
「そんな、っほ……ほかの三郷第一の生徒に、声かければよかったじゃないですか。話し相手がほしいなら……」
「座ってたら何人かに声はかけられたけど、仁木がよかったから断った」
──駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。また城ヶ峰の甘い言葉に、甘い声に、甘い仕草にめろめろにされて流されてしまう。ほだされてしまう。それでは駄目だと言い聞かせて、メロついている場合じゃないだろと自分を叱咤する。仁木はぐっと城ヶ峰の胸を押しやった。
「──っ中学の同級生が、東陽山に通ってるって言ったじゃないですか。その同級生とたまたま会って……」
仁木は、エレファントバーガーから足が遠のくきっかけとなった出来事を話した。田岡からあの日聞いたことを。
城ヶ峰の祖父が東陽山学園の理事を務めていること。城ヶ峰の家の事情。城ヶ峰が、東陽山学園で知らない人はいないほどの有名人で、有名であるがゆえに様々なプライベートの事情まで筒抜けになっていること──。
そうしたことをすべて知ってしまったのだと洗いざらい話すと、仁木は城ヶ峰の反応を待った。そのまま何も言わずにベンチから立ち上がり、公園から立ち去ったとしても不思議はない。
だが、話を聞いた城ヶ峰はベンチに腰掛けたままだった。考え込むような神妙な面持ちで黙っていたが、やがておもむろに口を開いた。
「──……校内では、まぁ、有名な話なんだ。理事長と同じ苗字だったら、言われなくても誰でも察しがつくだろ」
そこで言葉を区切り、苦笑いを浮かべて一息つく。
「親同士の噂話が子供の耳に入るのもよくあることだろ。住んでるマンションの階数から、俺の両親の職業、出身大学、別居のこと、別居の理由とかそんなことまで……そういうのって気持ち悪くないか?」
色んな奴に知られてた、と城ヶ峰は言う。
仁木がその話を何かの拍子に耳にすることも充分考えられたし、覚悟もしていたという。
「本当、それくらい有名な話だから。公然の秘密っていうか。一度も話したことない奴でも知ってた。……だから、俺の家のことを知らない相手と話したかったんだ」
「……そうだったんですね」
「長い間隠してたことは、本当に悪かったと思ってる。ごめん」
そう言って目を合わせ、城ヶ峰は頭を下げた。
学園中の誰も彼もに知られ、学校生活に辟易としていた城ヶ峰に、あの日たまたま声をかけたのが仁木だったのだ。
「……その相手が、俺でよかったです。城ヶ峰さんと話せて嬉しかった」
知らない相手なら誰でもよかったんだとしても。俺である必要なんかなくても。
「最初は誰でもよかった。けど、そのうち仁木に会えるから来るようになったんだ」
「……だから、それは結局俺が、城ヶ峰さんの家族のことを知らなかったからですよね。知らないなら別に誰でもよかったはずです」
「仁木と話すのが楽しかったんだ」
「……っ」
仁木と、と力を込めて言いながら城ヶ峰は手を握った。城ヶ峰の手はとても温かく、そして大きかった。上から見ると灰色の袖と紺色の袖が仲良く並んで見える。
「でも、もう俺も、城ヶ峰さんの家族のことは知ってしまったので──」
「知ってていい。話しておきたいことがあるって前に言っただろ、このことを話したかったんだ」
本当は自分の口から伝えたかったけど、と城ヶ峰は笑った。
そういえば、と思い出す。城ヶ峰の家族の話や閉店のことでそれどころではなくなってしまい、いつのまにか有耶無耶になっていたが、たしかに以前にそんな話をしていた。まさかそれがこの件だったとは予想もしていなかったが──。
「お前に知られないようにずっと黙ってたのに、段々全部知ってほしくなったんだ」
知ってなお、まだ城ヶ峰のそばにいてもいいのか。本人が知ってほしかったと言っているんだからそのはずだが、未だ信じられない。
周りの人間に何もかも知られている状態が苦痛で、逃げ場所のようにエレファントバーガーへ来ていた城ヶ峰が、自分のことを知ってほしいと思っている。泣き出しそうな気持ちで仁木は顔を見上げた。
知ってしまったから──だからもう、城ヶ峰との関係は終わりにするしかないと思っていた。
俺は本当にそうしたいと思ってるのか? 自分自身に問いかけてみると、仁木は散々躊躇った末に口を開いた。
「──……城ヶ峰さんはもう俺と話したくないかもしれないと思ったんです。だから会わないように行く店を変えて……っけど、俺はもっと話したいです。あなたと」
そう、それが本音だ。本当は城ヶ峰に会いにエレファントバーガーに行きたかった。
今度は自分の方から手を伸ばし、城ヶ峰の手を握りしめる。すると、その掌はすぐに仁木の手を握り返した。
また、城ヶ峰とふたりで勉強会ができる日がくるのかもしれない。──けれどその場所は、エレファントバーガーの、あの木漏れ日の差し込むテラス席ではないかもしれない。
エレファントバーガー三郷駅前店は、仁木が最後に来たときと変わらない姿でそこにあった。
ほっとして胸を撫で下ろす。閉店するとは聞いていたが、いつから店を閉めるのかは知らない。少なくとも今日はまだ営業しているようだ。店先にはメニューの看板が出されているし、一階も二階も灯りが灯っているし、食事をしているお客さんの姿も見える。
けれど、自動ドアに貼られたあの白く無機質な張り紙もそのままだ。今日ではないが、遠くない未来にこの店がなくなる事実は変わらないんだとその紙が告げている。
──公園で話を終えたあと、城ヶ峰に誘われてエレファントバーガーに行くことになった。家には帰りが遅くなるかもしれないと連絡をしているし、ドリンクを頼んでちょっと話すくらいだけだから、そんなに夜遅くにはならないはずだ。
「相馬から、駅前のエレファントバーガーが閉店するって聞きました」
店に向かって歩きながら、ぽつりと仁木が言うと城ヶ峰は怪訝な表情を浮かべた。
「閉店? 本当か? そんな話聞いたことないけどな」
「本当です。三郷駅前店の売上が落ちてるそうで……店の前に張り紙もあるので間違いないです」
そう言ってなお首を捻り、怪訝そうな表情を崩さない相手に違和感を覚える。
ここに来る前にエレファントバーガーに寄ってきたと城ヶ峰は言っていた。そこで仁木達がヤマモトバーガーに行ったかもしれないという情報を得たのだ。だから、店に入る前に気づかなかったとは考えにくい。
小さなひっかかりを覚えながら、仁木は自動ドアへと近づいた。
閉店するのは仕方がないにしても、いつまでこの店が営業しているのか確認しておかなければ。それまでの間にできるだけ来るようにしよう。
自動ドアに張り紙があるのを遠目に見ただけで、こまかい文章まではまだきちんと目を通していなかった。というのも、相馬からすでに閉店すると聞いていたから読むまでもないと思ったのだ。もっと言うと、閉店のおしらせを自分の目で見て、愛着のあるエレファントバーガー三郷駅前店が閉店するという現実を直視したくなかった。
「……」
腹をくくり、ふたりで張り紙の前に立つ。自動ドアはボタンを押して開けるタイプなので、前に立っただけでは開かない。閉じられたままのガラスに貼られた紙を仁木は見下ろした。
「──……あれ?」
張り紙に書かれてある文言が目に飛び込んできた瞬間、仁木は気付けば間の抜けた声を洩らしていた。
顔を紙に近づけて再び目を通す。しかし、何度読んでもそこに「閉店」の文字は見当たらない。どこにも。
「やっぱり閉店じゃないだろ。リニューアルオープンのおしらせだ」
耳を疑うような城ヶ峰の言葉が聞こえた。
そこには、城ヶ峰の言う通り「リニューアルオープンのおしらせ」という文言と、改装工事を行う期間とリニューアルオープンする日にちが書かれている。
「なんかおかしいと思ったんだよな。この張り紙ならさっき来たときにも見たけど、リニューアルするってことしか書いてないだろ。閉店と勘違いしてたってことか?」
「え、でも、閉店するって……」
言いかけて、仁木は相馬から聞いた話を今一度思い出す。
エレファントバーガーでアルバイトをしている従兄弟が言っていたのは「売上が落ちている」ということだけだ。閉店云々は売上と張り紙の話からふたりが想像したことに過ぎない。
相馬も張り紙があるのを見かけたとは言っていたが、仁木のように遠目に見ただけで、売上の噂から勝手に閉店のおしらせだと思い込んだのかもしれない。
事実、リニューアルオープンと書かれている。
「売上が落ちてるから閉店するんじゃなくて、テコ入れの意味でリニューアルオープンするんじゃないか?」
「まぁ……壁紙が剥がれかけてるところとか、ガタつくテーブルとか、たしかに古くなってる部分もあったので、改装はいいかもしれませんね」
店内の様子を思い浮かべながら頷く。成程、それなら筋が通る。
そこでようやく実感が湧き、仁木は詰めていた息を吐き出した。そうか、閉店しないんだ。なんだ。そうだったんだ。……よかった。
ここは友人と一緒に数えきれないほど立ち寄った店で、部活の仲間と打ち上げもした場所で──そして城ヶ峰と出会った場所でもある。店は存続し、たくさんの思い出がずっと残り続ける。その嬉しさに笑顔がこぼれた。
「じゃ、中入るか」
「──はい」
城ヶ峰は促し、自動ドアのボタンを押した。
* * *
「──週末、どこ行きたいか決まったのか」
スプリングエレファントハンバーガーの載ったトレーを受け取り、城ヶ峰はフロアを歩き出した。同じくトレーを手にした仁木は後を追う。
今週末にまたどこかへ出かけようと誘われ、行き先の候補を考えておいてほしいと先週のうちに言われていた。一週間あれこれ考え、やりたいことがひとつ見つかった。
「はい。天気がよさそうだからちょっと遠出しませんか」
夕方四時、地元の中高生が学校帰りにやってくる時間。
エレファントバーガー三郷駅前店がリニューアルオープンし、無事一ヶ月が過ぎた。リニューアルがきっかけとなり客足が少し増えた気がする。新しくなった店内を眺めつつ歩く。
──紆余曲折を経て、再び以前のように城ヶ峰とはエレファントバーガーで会い、話をするようになった。
勿論、なにもかも同じというわけではない。城ヶ峰の家の事情も今では知っているし、城ヶ峰の方からも家族の話題を時折口にするようになった。また、学園内でも少しずつ打ち解けて話せる友人が出来始めたと聞いている。
そして、以前とは違い、エレファントバーガー以外の場所でも城ヶ峰と会うようになった。城ヶ峰の受験勉強と部活の合間を縫って、休みの日になるとふたりでよく色んな場所に出掛けている。
「テスト期間で部活がずっとなかったので、身体を動かせたらいいなと思ってて」
身体が重くなまっているような感覚があるので、おもいっきり運動がしたいところだ。ボーリングでもいいし、屋内のアスレチック施設なども最近は増えている。
「城ヶ峰さんはどこかいいところ知りませんか?」
「あー……ここから電車で一時間くらいかかるけど、デカい自然公園がある。芝生の広場があって、そこなら運動もできると思う」
「バドミントンのラケット持って行きます」
「自主練のために行くんじゃないからな、言っとくけど」
「……わかってますよ」
城ヶ峰がどういうつもりで誘っているのか、仁木にはもうわかっている。最初は勘違いしてしまったけれど、デートに誘ってくれているのだと今ならわかる。だから込み上げる嬉しさと恥ずかしさに頬を染めて頷いた。
仁木が城ヶ峰の隣に並んで歩くと、灰色のブレザーと紺色のブレザーがそっと触れ合った。
END
