〈5.〉


 灰色の制服の群れ。
 東陽山駅前の広場は、学校帰りの東陽山生で溢れかえっていた。改札を抜けて駅前に降り立った仁木はその光景に圧倒され、しばしその場に立ちつくした。

 どうにもこうにも彼らと自分は住む世界が違うような感覚を覚える。かたや私立の進学校、かたや公立の高校──そんな風に卑屈に考える必要はないと分かってるのに。

 三郷駅前なら、三郷第一高校の紺色の制服が大部分を占めている。けど、ここでは仁木がアウェイだ。紺色の制服を着ている高校生はざっと見渡した限り仁木だけである。すれ違う東陽山生から、ちらちらと好奇の視線が向けられるのを感じる。

 緑の多いこじんまりとした三郷駅前とは違い、東陽山駅は都会らしい華やかな駅だった。人も車も店も多い。仁木は目の前にそびえたつ大きな商業施設を見上げ、建ち並ぶオフィスビルを見上げ、タワーマンションを見上げた。思わず感嘆のため息がこぼれる。同じ都内といえども駅によってかなり雰囲気が違う。

 ここではどうしても三郷第一の制服を着ていると浮いてしまう。少しでも目立たないよう身を小さくして、仁木はそろそろと歩いた。あの人に──城ヶ峰に見つからないように。
 東陽山駅といえば東陽山学園のお膝元。城ヶ峰とすれ違ったとしてもおかしくはない。
 仁木の心配をよそに、東陽山生はそこらじゅうにいるのに、その中に彼の姿は見当たらなかった。

 あのデート事件以来、城ヶ峰に対して気まずさを感じていた。
 会いたくないような、会いたいような、そんな複雑な心境だった。照れ臭さからどんな顔をして会ってよいのか分からず、いつも通りに挨拶ができる自信もない。

 勉強会はあの後もつつがなく進み、授業ではよくわからなかったところもかみ砕いて教えてもらうと理解することができた。城ヶ峰は教え上手で、家庭教師のアルバイトでもすればきっといい先生になるだろうと思う。
 切りのいいところで解散することになり、それからはまだ一度も顔を合わせていない。
 城ヶ峰が直接的に言葉にすることはなかったけれど、デートに誘う意志があったということは──つまり仁木に好意を持っているということなのか? 揶揄われているのでなければだが。

 ──と、そのとき、広場を連れ立って歩いているふたりの東陽山生の姿が目にとまった。
 どちらも女子生徒だ。駅前のコンビニの前までくると、ひとりは用があるのか店内へと入っていき、もうひとりは手を振って別れると再び歩き出した。

「田岡さん!」

 くせのないロングヘアをひとつに束ねた女子生徒。グレーの制服は天下の東陽山生たる証だ。
 ポニーテールをなびかせて振り返った彼女の目に驚きが広がる。中学の頃と変わらない、賢そうな、そして優しそうな顔立ち。その印象に違わず彼女がとても頭がよく親切なことを仁木は知っていた。

「仁木くんだ。久しぶりだね」
「久しぶり。卒業式以来だっけ」
「春休みに皆で遊びに行ったとき以来かなぁ」

 そう言って嬉しそうに笑うかつてのクラスメイトは背が低く、華奢で線が細い。思いがけない場所での再会をふたりは喜びあった。
 ──田岡瑞希。中学のときの同級生で、今は東陽山学園に通っている。

「そっちは学校帰り?」
「そう。仁木くんはここで何してたの? 三郷第一に行ったんだよね、ここまで来るの結構時間かかるでしょ」
「駅ビルの中に入ってる本屋に行きたくて。ほら、あそこの本屋ってこの辺りじゃ一番大きいし、参考書も種類多いから」

 城ヶ峰との勉強会で、おすすめの参考書や問題集についてもいくつか教えてもらっていた。なかにはマイナーなものもあったので、品揃えが豊富な店に行きたかったのだ。

 城ヶ峰に会うのは今は避けたかったが、三郷駅の書店ははっきり言って「ショボい」。背に腹はかえられず覚悟を決めて東陽山駅に降り立ったのだ。

「ネットで買ってもよかったんだけど、やっぱり中身見て決めたかったから」
「実際見るとなんか違うなってなることあるよね」

 頷いたあと、田岡は思いついたように「よかったら案内しようか」と提案した。

「私も新しい参考書買いたいし」
「え、本当? 助かる」
「こっちだよ。地下から行ったほうがわかりやすいから」

 そう言ってエスカレーターへとまっすぐに向かう田岡についていく。
 行き慣れていない巨大な駅はさながらダンジョンのようで、ひとたび迷子になると大変だ。目的地の本屋まで無事に辿り着けるか自信がなかった仁木にとっては有難い申し出だった。

 ふたりで歩きながら、仁木はふと思いついて言った。

「田岡さんさ、あの……二年生の城ヶ峰さんって知ってる?」

 言いながら、城ヶ峰にも最初に話しかけた際、田岡という生徒を知らないかと聞いたことを懐かしく思い出す。

「最近ちょっと知り合って、話すようになったんだ。二年何組かは聞いてなかったけど、すごく背が高くて、大人っぽい雰囲気の人で……部活は入ってなくて帰宅部だったと思う」

 学年が違う生徒はあまり交流がなくわからないと言っていたし、田岡のほうもおそらくは知らないだろう。
 あまり期待せずに返事を待っていると、田岡はちょっと驚いたような顔をして、それから「城ヶ峰さんって……」と口籠った。

「知ってるもなにも、東陽山生なら知らない人はいないと思う。有名人だよ」
「──え」
「城ヶ峰理事長のお孫さんだから」




 スマートフォンを使って少し調べてみればわかることだった。

 まずインターネットのブラウザを開き、「東陽山学園」と入力する。検索結果のページの一番上に出て来るのが東陽山学園の公式ホームページなので、リンクをクリックする。すると、ドラマの舞台にもなりそうな歴史的な雰囲気漂う校舎の画像が現れる。そうしてから、学校紹介のページを開けば、理事長の顔写真とともに城ヶ峰という苗字が確認できた。

 ──疑っていたわけではないけれど、これで田岡の話は本当らしいという裏付けが取れた。

 城ヶ峰一路は東陽山学園の理事長の孫だった。

 調べればわかることだが、調べようとは思わない。自分が通っている高校ならまだしも、他の高校の理事長が誰かなんて気にも留めないだろう。

 田岡の話によると、父親は大企業の重役で、別居状態の母親はすでに現役を退いたものの有名なモデルだったという。随分とまぁ華やかな顔ぶれだ。
 それらの情報もまた、仁木はまったくの初耳だったが、東陽山学園の生徒なら一度は耳にしたことがあるはずだと彼女は力説していた。

「……」

 自室の勉強机の前に座った仁木は、手にしていたスマートフォンを伏せて机に置いた。机の片隅には、今日買ったばかりの参考書が書店の袋に入ったまま重ねて置かれている。

 田岡とともに書店を訪れると、ふたりは参考書コーナーへと向かった。そこで田岡のアドバイスも受けながら選び、結果仁木は二冊、田岡は一冊を購入することにした。
 買い物を終えた後は礼を言って改札で別れたが、家に着いてからもまだショックからは抜け出せずにいた。

 ──城ヶ峰さんのファンはたくさんいるけど、あんまり友達は多くないんじゃないかな。学校だとひとりでいることが多いみたい。
 ──理事長のお孫さんっていわれちゃうと……ほら、ね、やっぱりちょっと近寄りづらいっていうか、浮いてる感じかも。

 城ヶ峰について田岡が話していたことを思い出す。城ヶ峰が店に来るときは必ずひとりだったことと、いつも物思いにふけるような暗い顔をしていた理由が今になってわかった。

 要するに、東陽山学園では城ヶ峰の家のことがすべて筒抜けになっているのだ。
 ──そんな状況は、自分だったら嫌だろうなと思う。気を遣われるのも、遠巻きにされるのも、逆に興味津々で寄ってこられるのも、どれも嫌だろうと思う。

 学校から離れたところにある店に、城ヶ峰がわざわざ通って放課後を過ごしていたのは、恐らくそれが理由だ。
 エレファントバーガー三郷駅前店を気に入っていたのは、店の従業員が親切だからでも、席が空いていて座りやすいからでもない。本当の理由は、東陽山生がいないから。ただそれだけだ。

 遠い店に来ていたのは、東陽山の生徒に会わないようにするため。
 東陽山の女子生徒に対して煩わしそうな態度だったのも、城ヶ峰家の事情を知る相手だったから。
 東陽山に進学した同級生と会っていないのかと聞いてきたのは、城ヶ峰の隠したい事情を聞かされていないか探りを入れたかったから。
 同じ学校だったらよかったのにと言ったら、城ヶ峰が言葉を濁したのも──。

 点と点が線で結ばれていく。
 仁木には家のことを知られたくなかったのだろう。
 城ヶ峰が仁木のことを気に入ってくれたのも、それはひとえに仁木が何も知らなかったからだ。

 東陽山学園の生徒なら知っていることも、他校生なら知らないから。他校生だったから。それだけだ。

 誰でもよかったんじゃないか。知らないなら誰でも。先入観なしで偏見抜きで話ができる相手なら誰だって。
 俺じゃなくてもよかったんじゃないか。たまたま城ヶ峰に声をかけたのが仁木じゃなかったとしても、相馬でも、新谷でも、東陽山生じゃないなら。なんなら俺と話すよりよっぽど楽しい時間が過ごせたかも、と仁木は思う。

 自分は城ヶ峰にとって特別な存在なのかもしれないと思っていたけど、でも──思い上がりなんじゃないか。

 デスクライトの白い灯りに照らされた英語の教科書が目に入る。エレファントバーガーのテラス席で、この教科書をふたりで覗き込みながら勉強をした。

 またあんな風に城ヶ峰と勉強できるだろうか?

 城ヶ峰が隠していたことを知ってしまった自分と、城ヶ峰はまた話したいと思うだろうか。知ってしまったらもう、ほかの東陽山生と同じになってしまうんじゃないか。




 がやがやと賑やかな店内の一角に、仁木は相馬とともにいた。

 トレーの上にはハンバーガー、ポテト、ジュースの三種の神器。──でも、トレーの色もポテトの太さもジュースのカップのデザインも、皆エレファントバーガーのものとは違う。トレーに刻まれた「ヤマモトバーガー」のロゴを見下ろし、食べ慣れない味のハンバーガーを一口小さくかじる。

「ん、結構旨いじゃん」

 向かいの相馬はそう言ったあと、声を少し小さくして「俺はエレファントバーガーのほうが好みだけどな」と付け足した。仁木もまったく同じ気持ちだ。

 ここヤマモトバーガー三郷店は、三郷第一高校の近辺にあるファストフード店のひとつだ。駅からは離れているし、学校帰りに寄るには少々アクセスの悪い土地にあるため、三郷第一高生に人気なのはエレファントバーガーだ。ヤマモトバーガーは二番目か三番目に人気の店である。

 今日はちょっと気分を変えてみようと相馬を強引に誘い、こちらへ来ることにしたのだった。

 初めて訪れたヤマモトバーガーは、エレファントバーガーに比べると落ち着いた雰囲気が漂っていた。内装は北欧風で、近くに大学のキャンパスがあるせいか大学生の客が多い。

「てかさ、近々閉店するらしいじゃん。駅前のエレファントバーガー」

 残念だよなぁ、と言う声はため息まじりだった。
 きょろきょろと店内を観察していた仁木は、だしぬけに友人が言い放った言葉に衝撃を受けた。

「──え……?」
「従兄弟の兄ちゃんから聞いた話。兄ちゃん今エレファントバーガーでバイトしてて、店長から三郷駅前店がやばいって聞いたんだって」

 相馬曰く、アルバイトとして働いているのは三郷駅前店ではなく、エレファントバーガーの別店舗らしい。件の従兄弟は大学生で、その店でのバイト歴は長く、店長とも懇意にしているらしい。それで、一介のアルバイト相手には普通はしないような店の内部事情にも通じているそうだ。

「や、やばいって何が……」
「売上が最近落ちてるとかなんとか、そういう話だよ」
「でも、売上が落ちてるからって閉店するとは限らないんじゃないか?」

 むきになっている自覚はあったが反論せずにはいられなかった。
 たしかに、エレファントバーガー三郷駅前店はいつもそれほど混雑していないから、広々とした店内で仁木達は自由に席を選ぶことができる。
 でも、だからといって閑古鳥が鳴くほどじゃない。放課後には地元の中高生がわんさかやってくる。……まぁ、メインの客層が中高生だから、お金はあまり使わないし、長居することが多いから回転率は悪いかもしれないけど。

 しかし、相馬は仁木の反論に対してあっさりと答えた。

「店の前にも張り紙貼られてたから間違いないって。昨日店の前通ったとき、おしらせの紙が貼ってあるの俺見たし」

 売上の話だけなら反論の余地があったが、実際に閉店のおしらせの張り紙が貼られているのならもう信じるほかない。

「仁木は張り紙見なかった? 自動ドアのところになんか貼ってあったろ」
「最近は全然行ってなかったから……知らなかった」

 城ヶ峰のことがあってから自然と足が遠のいてしまい、エレファントバーガーには一度も行っていなかった。
 城ヶ峰にはかれこれ三週間会っていない。週に一度の部活休みの日に行くのが恒例だったのに、三週続けて行かなかった。相馬にも誘われたが、家で勉強がしたいからと言って今日まで断り続けていた。

「まぁ、あれだよな。エレファントバーガーがなくなったら、こっちに来ればいいんだし」

 励ますように言って笑うクラスメイトの顔を、仁木は呆然としたまま見返した。




 翌朝、仁木は学校に行く前に少し遠回りをすることにした。行き先はエレファントバーガー三郷駅前店である。

 そろそろ冬の足音が聞こえつつある。早朝の肌寒い空気の中、仁木はひたすら前だけを向いて一心不乱に歩いた。

 店の近くまで来ると、自動ドアになにか小さな白い張り紙があるのが見えた。その瞬間、硬直したようにその場に立ち止まる。信じたくない。でも、間違いない。

 ここからでは張り紙の小さな文字は見えない。それでも、なんらかの大切なおしらせだということはわかる。新発売のハンバーガーのプロモーションならもっと大きく、もっとカラフルなポスターにするだろうし。何年か前、近所にあったスーパーが店じまいするときにも似たような張り紙が出ていたのを覚えている。

 城ヶ峰の件もまだ解決していないのに、そのうえエレファントバーガーが閉店するなんて──。

 いや、むしろ店がなくなるほうが都合がいいんじゃないか。城ヶ峰との接点はあの店だけなのだ。店がなくなれば、城ヶ峰と会う機会もなくなる。彼の事情を知ってしまった以上会わないほうがいいのだ。
 だからむしろいいことなんだと言い聞かせても、胸に込み上げる寂しさは大きくなる一方だった。