〈3.〉


「駅前のエレファントバーガーでさ、昨日一緒に話してた人って誰?」

 そう尋ねる女子生徒は、紺色のブレザーのかわりにブラウスの上からライトグレーのパーカーを羽織っていた。制服のタータンチェックのスカートからはモデルのようにすらりと細く長い脚が伸びている。

 同じ一年生で、隣のクラスだということは知っているけど名前はわからないし、今までに話したこともない。名前も知らない女子生徒と仁木は教室の片隅で向かい合っていた。

 彼女が休み時間に教室へ訪ねてきたのは、仁木に聞きたいことがあるからだという。突然現れた大人っぽい雰囲気の彼女を前にして、たじろぎながらも質問の答えを見つけ出す。

「……あ、相馬のこと?」

 昨日は部活が休みだったので、たしかにエレファントバーガーにはいた。同じバドミントン部の相馬とふたりで。
 エレファントバーガー三郷駅前店には、仁木以外にもたくさんの三郷第一高生がやってくる。昨日彼女もたまたま同じ時間にエレファントバーガーに来ていて、ふたりの姿を見かけたのかもしれない。

 教室の中を振り返ってみると、黒板の近くでクラスメイトと楽しそうにふざけあっている相馬の姿が見えた。

「相馬ならあそこにいる──」
「違う違う、東陽山学園の制服着てたし。うちの学校にあんなにかっこいい人いないし」

 パーカーのポケットに両手を突っ込んだ彼女は、仁木の指差す方を見ようともせずあっさりと否定した。

「あぁ、その人なら……」

 相馬ではなく、東陽山の制服を着ていて、三郷第一高校中を探しても匹敵する相手はいないほどかっこいい人物──。これらの情報から導き出される人物はひとりしかいない。なるほど、隣のクラスの彼女が探していた相手は城ヶ峰だったようだ。

 エレファントバーガーに相馬と行ったのは間違いないが、話をした相手は相馬以外にもう一人いた。話したといってもほんの少し立ち話をした程度だったので、無意識に除外してしまっていた。

「今、一年の間で結構噂になってんだよー。エレファントバーガーにメロい東陽山生が来るって」
「そ──そうなんだ」
「うちのクラスでも推してる子多いから。私もだけど」

 全然知らなかった。とはいえ、そんな風に噂になるのも当然かもしれない。ただでさえ東陽山の制服は目立つのに、そのうえ城ヶ峰は背が高く、さらには顔立ちも華やかで整っている。印象に残らない理由がない。
 そんな人物が三郷第一の制服を着た生徒と話していたら印象深く覚えているだろう。

「あの人と仲いいの?」
「いや、会ったらちょっと挨拶する程度だし、仲がいいっていうほどじゃなくて、ちょっとした知り合いというか……」

 友達、というのもなんとなく違うような。城ヶ峰との関係を表現する言葉で一番近いものは「先輩と後輩」だろうか。でも、それもなんだかしっくりこない。

「そーなんだ。仲良さそうに見えたけどなー」

 探るような彼女の上目遣いに思わず目を逸らす。

 ──この店のことも仁木のことも気に入ってる。
 そう城ヶ峰は言っていた。気に入っている、と。思い出すだけで気恥ずかしいようなむず痒いような心地になる。でも、気に入られていることと仲がいいかどうかはまた別の話ではないか?

「あの人ってエレファントバーガーにはよく来る?」
「えっと、うん。結構見かけるかな」
「昨日は四時過ぎくらいに見かけたけど、いつもそれくらいの時間にいる?」
「だいたいそれくらいの時間だと思うけど……」
「ひとりで来てる? 友達と一緒?」

 次から次へとぽんぽんと繰り出される質問に答えていく。
 これで彼女の訪問の目的ははっきりした。エレファントバーガーで見かけた東陽山生についての情報を聞き出すために、彼と話をしていた仁木のもとへやって来たのだ。もっというと、城ヶ峰との接点をつくるために。

 そうしているうちに次の授業の開始を告げるチャイムが鳴り、ふたりは解散した。彼女のほうはまだ話が聞きたそうだったが、ようやく解放されたことで仁木はほっと一息ついた。




「ぅ、わっ」

 思わず上擦った声が出てしまい、仁木はしまったと慌てて口を噤んだ。そのままこそこそと隠れるように顔を伏せる。

「え、何? 急に」

 三郷第一高校で、今ひそかに話題の人となっているとはつゆほども知らない男は、突然の仁木の奇声と奇行に驚くでもなく訝しげな声を出した。顔を伏せているので表情は見えないもののきっと眉間に皺を寄せているだろう。

 テーブルを挟んで向かいに座っているのは、「メロい東陽山生」こと城ヶ峰一路だ。

 ──今日も今日とてエレファントバーガー三郷駅前店を訪れた仁木は、同じく来店していた城ヶ峰と鉢合わせた。
 相馬は家の用事があるというので先に帰ってしまい、仁木ひとりで来ていたので、いつかのようにまた城ヶ峰とふたりで過ごすことになったのだ。

 今年の夏から始まったこの東陽山生との交流は、秋になっても変わらずに続いていた。
 エレファントバーガーの二階の窓から見える景色も、青々とした緑と青空から、赤や黄色に紅葉した葉と秋空へ変わりつつある。サマーエレファントバーガーは販売終了し、今はもう秋限定のメニューへ切り替わっている。今日仁木が頼んだのもそのうちのひとつ、サツマイモを使ったスイーツドリンクだ。

 テーブルの上のドリンクへ手を伸ばし、一口飲む。甘いサツマイモの味が口の中に広がり、ひと息ついたところで仁木は城ヶ峰に顔を向けた。

「えーっとですね、言いにくいんですが、そのー……あっちのテーブルの人達が……」
「あっちのテーブル?」

 皆まで言わず、視線だけをそれとなく向ける。店内の端のほうに位置するソファ席へと。
 そこには一組の若い男女が座っていた。三郷第一高校の制服を着た生徒である。おそらくは二年生。
 ソファに並んで座ったふたりの距離は限りなくゼロに近い。ぴったりとくっつきあって座り、男子生徒は女子生徒の肩に腕を回している。お互いを愛おしそうに見つめ合い、どんどん顔を近づけ──そして、キスをした。

 なにげなく彼らのほうを見た拍子に濃厚なキスシーンを目撃してしまい、さっきはびっくりして声を上げてしまったが、幸い彼らには聞こえなかったようだ。こちらのことはまるで気にせず見つめ合っている。

「店員さんに言って注意してもらうほどじゃないですけど、こんなところで……他のお客さんも周りにいるのに」

 付き合いだしたばかりなのかもしれない。はたまた、生まれて初めてできた彼女、彼氏なのかもしれない。それなら浮かれてしまうのも無理はないけど──気まずいものは気まずい。

 気まずさを感じているのは仁木だけではない。彼らの席の近くに座っている人のなかには、物言いたげな視線をちらちらと送ってみたり、大きく咳払いをしてみたり、席を立って離れた別の席へ移動してみたり、ささやかな抵抗を試みている人がちらほらいる。

「あー……あれか」

 城ヶ峰はちらりと肩越しに振り返ってほんの一瞬目をやると、それだけで興味を失くしたようにすぐ前に向き直った。

「外野なんか気にならないんだろ。相手のこと以外見えてないから周りが目に入らない。だから平気でいちゃつける」
「はぁ、そういう……」

 自分には想像もつかない境地だった。白昼堂々キスをするなんて理性と羞恥心が許さないだろう。
 ──でも、周りなんて目に入らないくらいに夢中で、理性も羞恥心も失くしてしまうほど好きになるなんて、それはそれで幸せなことなのかもしれない。

「あれくらいだったらまだ微笑ましいと思うけどな」

 仁木と同じく、秋限定のサツマイモのドリンクを飲みながら城ヶ峰は唇の片側を持ち上げて笑った。

「先週見たやつらはトイレの前の通路で抱き合っていちゃついてたけど、彼氏の方も彼女の方もほとんと服脱げかかってたから」
「──…………え、それって……」
「詳しく話そうか?」
「いやいいですいいです聞きたくないです」

 通れなかったら声かけて退いてもらったけど、とこともなげに城ヶ峰は言う。
 城ヶ峰が目撃したというそのふたりに比べれば、たしかに今目の前で繰り広げられている光景は微笑ましいものだろう。トイレの個室へと続く短い通路を見やり、そんなとんでもない場面に出くわさなかったことを仁木は心から感謝した。気まずいどころの騒ぎじゃない。話を聞いているだけで羞恥と眩暈と居心地の悪さを覚える。

「あの日は勉強してて、いつもより店出るのが遅くなったからそのせいもあるかもな。これくらいの時間帯ならそんなに変なやつは見かけない」

 三郷駅前店の閉店時間は夜の二十三時。暗くなるにつれて客層も変わる。
 三郷駅前は比較的治安はいいほうだが、夜が更けてくるといわゆる不良の少年少女達が行き場を失くしてやってくることもある。
 仁木よりも城ヶ峰のほうが店を出る時間はいつも遅い。常連の仁木も知らない、夜のエレファントバーガー三郷駅前店のことを知っているのだ。

「高一には刺激が強過ぎたな」
「……っみ、耳元で言うのやめてください」

 センターパートの前髪から覗く眼差しをからかうように細めて言う。
 城ヶ峰と親しくなるにつれてわかったのは、彼はときにわざと意地悪なことを言ってこちらの反応を面白がっている、ということだ。
 眇められたその目に上から顔を覗き込まれ、仁木は負けじと挑むように見返した。

「そういう城ヶ峰さんだって高二でしょう。一歳しか違わないのに大人ぶらないでくださいよ」

 カップルのキスシーンに動揺してしまったことが恥ずかしく、照れ隠しに文句を言う。でも、たしかに城ヶ峰は自分に比べてずっと平然としているように見えた。




 部活の練習がある日は帰りが遅くなってしまうので、あまり寄り道はしない。疲れて身体はクタクタだし、早く帰って休みたいというのが本音だ。
 練習が早く終わることになった日や、練習自体が休みの日に相馬と誘い合ってエレファントバーガーに行くのが恒例だ。試験前にも、テスト対策の勉強をふたりでするためによく行く。

 なんであれ、一緒に行く相手は相馬が多い。ときどきクラスの仲のいい友人が加わることもあるが、多くてもせいぜい三人か四人だ。

 ──だから、今目の前に広がる光景は、仁木にとってなかなかに異例のものだった。

 四人席のテーブルが三つ並んでいるところに、三郷第一高校のバドミントン部部員十人が座っている。皆揃って三郷第一の制服を着て、通学鞄とスポーツバッグを足元や座席の端に置いている。

 今日これほどの大所帯で来ることになったのは、二年の先輩の一言がきっかけだった。
 たまには皆でメシでも食って親睦を深めよう、バドミントン部の団結を強めよう、と言い出したのだ。大会の後に打ち上げに行くことはあるが、普段の練習終わりに行くことはあまりなく、行くにしても少人数のグループに別れることがほとんどだった。

 席についているのは全員男子部員だ。学年はそれぞれで、一年生から三年生までいる。テーブルの前にはジュースやポテト、チキンナゲット、ハンバーガーがずらりと並び、それらをつまみながら皆雑談している。話題は部活のこと、受験のこと、最近発売されたゲームの話、恋人とのいざこざなどなど多岐に渡る。

 仁木はにぎやかな部員達の声を聞きながらポテトを一本つまんだ。
 常連として毎週のように来ている店なのに、こうして部員達が勢ぞろいしているといつもの店ではないように思えるから不思議だ。

「仁木はどう思う?」
「──えっ?」

 突然名前を呼ばれ、二本目のポテトに手を伸ばそうとしていた仁木ははっとして顔を上げた。

「だから、部室の話だよ。バスケ部もテニス部ももっと広い部室なのにさぁ、うちだけあんなに狭いのは不公平だろ?」
「部員の数はたいして変わんないのに。なぁ」
「あ、えーっと……」

 お前もそう思うだろと同意を求められ、押し切られるようにして仁木は頷いた。たしかに、お世辞にも広いとは言えない部室だ。練習の前後はいつも押し合いへし合いしながら着替えなければいけない。

「どうしたんだよ。さっきからぼーっとして」

 ふいに横から小突かれて、見ると相馬が探るような目を向けていた。仁木は取り繕うように笑って、

「昨日はあんまり寝れなかったから、寝不足なんだよ」

 と、答えた。
 スマホのゲームについつい夢中になって、いつもより夜更かしをしていたのは事実だ。嘘じゃない。嘘じゃないけど──まるっきり真実というわけでもなかった。

「……」

 そっと目線をずらすと、通路を挟んで向かいの席にいるひとりの客が目に留まる。

 グレーの制服を着て、ソファの背凭れに身体を預け、長い脚をテーブルの下に収めている。あの鋭い眼差しは今は手許のスマートフォンに向けられていた。誰かとメッセージのやり取りでもしているのか、それともSNSをチェックしているのか。画面が見えないので城ヶ峰が何をしているかはわからない。

 ──そう、よりによって先輩達が選んだ席は、城ヶ峰がいつも好んで座る席の真向かいのテーブルだったのだ。

 先輩達の話に集中することができないのはそのせいだ。仁木の座った場所からはどうしても城ヶ峰が視界に入るので、気になってそっちに意識が向いてしまう。

 ──なんだか、落ち着かない。
 べつに、城ヶ峰さんと今日会う約束をしてたわけじゃない。いつもそうだ。約束はせず、店で顔を合わせたら挨拶をして、ちょっと話をするだけ。相馬を連れていないときは、何度か同じ席で食べたこともあるけど、それはたまたまだ。

 それでも、店で会えば必ず話しかけている。

 今日は部の仲間と来てるんだから、話せないのは仕方ない。状況は見ればわかるだろうし、仁木が声をかけなかったからと言って城ヶ峰が気を悪くすることはないはずだ。

 でも、と仁木は思う。城ヶ峰さんがすぐそこにいるのに、挨拶もせずにいるのはやっぱりよそよそしいし、失礼なんじゃないか。

 どうしようかと悩んでいる間にも時間は刻々と過ぎていく。ふいに城ヶ峰が席を立つのが見え、仁木ははっとした。城ヶ峰はテーブルの上を手早く片付けると、トレーを抱えて席を離れた。

「──すみません。俺、ちょっとトイレ行ってきます」
「おー」
「すぐ戻ります」

 このままでは城ヶ峰が帰ってしまう。仁木はとっさに嘘をついて席を立ち、遠ざかっていく広い背中を追いかけた。

「城ヶ峰さん!」

 呼ぶと城ヶ峰は立ち止まり、こちらを振り向いた。
 城ヶ峰のその整った顔を見上げながら、怒っているのかもしれない、と不安を覚える。普段の彼とどこか雰囲気が違うような気がする。少しだけピリピリしているような、よそよそしいような──。

「──あ、あの……うるさくしてしまって、すみません」

 仁木は身を竦めるように小さくしながらも謝罪の言葉を口にした。
 部員らのいる賑やかなテーブルをちらりと見る。楽しそうな笑い声がここまで響いてくる。

「騒がしいですよね。周りのお客さんに迷惑かけないように、俺達も気をつけてはいるんですけど」

 城ヶ峰が機嫌を損ねているように見えるのは、自分たちが騒がしくしていたせいかもしれない。ひとりの時間を邪魔してしまったから。縮み上がる仁木だったが、城ヶ峰はきょとんとした様子で瞬き「そうか?」と首を捻った。

「俺は全然気にならなかったけど。考え過ぎじゃないか」
「そ、そう……ですかね。ならいいんですけど」
「もっと騒がしい客もよく見るし。高級レストランに来てるわけじゃないんだから、そこまで気遣わなくてもいいだろ」

 考え過ぎと言われ、ほっとした仁木は強張っていた表情を和らげた。城ヶ峰は賑やかなテーブルを眺め、しばらくしてから仁木のほうに向き直った。

「あそこにいるのって同じ部活の人?」
「あ、はい。皆バドミントン部です。練習終わりの打ち上げって感じですかね、先輩が今日急に行こうって言い出して」
「ふーん」
「最初は駅前のカラオケに行こうって言ってたんですけど、満室だったんです。それで話し合って、エレファントバーガーなら空いてるし座れるんじゃないかって相馬が」

 ここまでの経緯を聞き終えると、城ヶ峰はふっと息を吐くようにして笑った。

「──で、打ち上げの途中だったのに、わざわざ俺のところまで挨拶にきてくれたのか。真面目たな、早く戻ったほうがいいんじゃないか?」
「それは……」

 挨拶をしないのは失礼だと思って、と言いかけて口を噤む。
 いや、本当にそうか? 礼儀として、同じ部活の仲間に嘘をついてまで城ヶ峰を追いかけてきたのか。

「上下関係に厳しい部活の先輩だったら、挨拶しに来いよって言われるかもしれないけど、俺は別にお前の先輩じゃないだろ。他校の人間なんだからそういう礼儀とか先輩後輩とか気にしなくてもいいんだぞ」

 城ヶ峰の言う通り、部活の上下関係やら後輩根性やらが染みついているせいで、それで挨拶にきたんだろうか。
 それとも、城ヶ峰のことが心配だから? 放っておけないから? 本当に? 仁木は自問自答する。そうじゃない、本当は──。

「ただ俺が城ヶ峰さんと話したかったからです」

 辿りついた本当の理由はひどく単純なもので、口にしてみるとなんだかひどく幼稚に聞こえた。途端に気恥ずかしさが込み上げて頬がじわりと熱をもつ。

「……そろそろ戻らないといけないので……っ」

 仁木は逃げるようにそそくさと立ち去ろうとしたが、歩き出すよりも先に城ヶ峰が腕を掴んで引き留めた。

 普段あまり目にすることのない真剣な表情にどきりとする。気品漂う穏やかな空気は鳴りを潜め、強引な手つきで仁木の身体を引き寄せようとする。

 城ヶ峰の雰囲気がいつもとは少し違ったものに感じられ、仁木はどぎまぎとして言葉を失った。

「──正直言うと、俺にも構えよ、とは思った」

 トイレの前の狭い通路に引き込まれ、壁際に追いつめられる。すぐ目の前に城ヶ峰が立ち塞がっているせいで身動きできない。

「仁木が全然構ってくれないから、若干拗ねてた」
「か──構ってるじゃないですか、いつも……っ」
「いつもはな。今日は部活の先輩がいたから、俺のことは後回しになってただろ」
「それはだって、仕方ないじゃないですか」

 独占欲をあらわにする城ヶ峰に息が止まりそうになりながら、それでもなんとか反論する。

「仕方ないのはわかってる。だから今日は邪魔しないように帰ろうとしたんだ」

 城ヶ峰の顔がすぐ間近まで迫ったかと思うと、首筋のあたりへと鼻先を埋めるようにして押しつける。そのとき仁木の頭によぎったのは、トイレの前の通路で抱き合っていたというカップルの話だった。

「ちょ……っと、城ヶ峰さんっ」

 相馬達が座っているテーブルから、自分たちの姿は見えているだろうか。通路に飾られた観葉植物によって見えにくくはなっているだろうが、椅子から立ち上がったり、席を立って移動したりすればすぐに見えてしまうだろう。

 仁木がトイレからなかなか戻ってこないことを不審に思って誰かが様子を見にくるかもしれない。
 いや、そもそも、トイレの近くの席に座った他の客からは見えているんじゃないか? こんなにも近い距離で話をしているところが。こんな、抱き合っているような体勢で。

「わざわざ公共の場でいちゃつく奴の心理がわかった気がする」
「っえ……?」
「見せつけて分からせたいんだよ。俺のものだって」

 身体を少し離しながら、囁くようにいう声が、吐く息が耳に触れる。
 ──自分はこの声に滅法弱くて、もう、どうにかなってしまいそうだった。クラスの女子がよく言っている、メロついている、というのはこんな状態なんだろうか。すっかりメロメロになって何もかも言いなりになってしまいそうだ。


 * * *


「本当にごめん」

 殊勝な声で謝罪する男へと、仁木は下からそっと恨みがましい視線を向けた。城ヶ峰の表情はその声と同じようにひどく申し訳なさそうなものだった。

「……そんなに謝らなくてもいいですよ。もう気にしてないですから」
「俺の気が済まないから奢らせてほしい。好きなだけ頼んでいいから」

 ふたりはエレファントバーガーの一台のセルフレジの前に立っていた。
 画面には、メニューの一覧が画像とともにずらりと並んでいる。好きなものを好きなだけ頼んでいいと言われているものの、カートにはまだ何も追加されていなかった。

 なぜこんなことになっているのか。理由は一週間前に遡る。

 先週、部活の練習後に仁木は部員らとともにエレファントバーガーへやって来た。そこに居合わせた城ヶ峰と帰り際に話をし、そして──その、なんというか、一悶着あったのだ。

 ──あのときはまるで、大きな肉食獣に追い詰められた草食動物のようで、生きた心地がしなかった。
 仲間のもとへ戻ったあともずっと城ヶ峰のことで頭がいっぱいだった。

 そして迎えた今日。部活の練習が休みの日、いつものようにエレファントバーガーを仁木は訪れた。相馬は一足先に二階へ向かっている。
 城ヶ峰もきっと来ているだろうと思っていた。会うのはあの日以来で、どんな顔をして会えばいいのかわからずにいたが、彼は開口一番にごめんと謝った。あの時はどうかしていたと言い、お詫びをさせてほしいと言う。

「そこまでしなくても……」
「いいから」
「……じゃあ、ポテトで」

 何もいらないと言っても城ヶ峰は一向に引き下がらず、根負けした仁木は最終的にそう言った。

「ほかには?」
「ポテトだけでいいです」
「わかった」
「……あ、注文するときはアプリのクーポン使ってくださいね。その方がお得なので」
「クーポン?」
「五十円引きになるんです。次の画面でクーポンの番号を入れてください」

 奢ってもらうのに、お得も何もないのではないか。そう思いながらも、レジを操作してさっさと支払いに進もうとしている城ヶ峰を見ていると、どうしても口を挟まずにはいられなかった。
 こちらを振り返った城ヶ峰は一瞬面食らったような表情を浮かべたが、すぐに面白がるような笑顔へと変わった。