〈2.〉


 淡い期待とトレーを抱えながら、階段をのぼっていく。二階に着くと、仁木はさっそく首を回してその人物を探した。

 二階の奥の方、窓に近い席。いつもの定位置。しかし、そこに仁木が探していたグレーの制服は見当たらなかった。かわりに座っているのは、青丘女子の制服を着た学生。イヤホンを左右の耳に差し込み、教科書を机に広げて勉強している。

「……」

 今日は来ていないとわかると、期待が落胆へと変わる。まぁ、べつに会う約束をしているわけじゃないんだから、会えないことだってあるだろう。
 大人しく諦めて、踵を返しその場を離れようとしたときだった。
 ふいに背後からガタンと大きな音が響いた。思わずびくりとして身を竦めながら振り返ると、さきほどの青丘女子の生徒がおろおろと足元に屈もうとしているのが見えた。

 よく見ると、彼女の足元には逆さまになったカップが落ちている。その周りには氷と、カフェオレらしき茶色っぽい液体が水溜まりのように床に丸く広がっていた。

「大丈夫ですか?」

 声をかけながら慌てて駆け寄る。恐らくは、何かの拍子にカップをひっくり返してしまったのだろう。多めに取ってきていた紙ナプキンで濡れた床を拭こうとするものの、なかなか零れた量が多く苦戦する。
 申し訳ないと謝罪を繰り返す相手に仁木は笑って首を振った。

「熱い飲み物じゃなくてよかったですね、火傷してたかもしれないですし。服は濡れませんでしたか? 俺の友達も、この間ここでトレーを間違えて落としちゃったんですけど、そのときは制服がめちゃくちゃになって大変で──」

 話しながらふたりで床を拭いていく。そうこうしているうちに、エレファントバーガーのスタッフが清掃用具を手にやってきた。様子を見ていた誰かがスタッフを呼んでくれたのかもしれない。

 一通り拭いたところでスタッフに後をまかせることにし、仁木は立ち上がった。
 そろそろ一階で注文している相馬が上がってきてもいい頃だが、まだ戻ってこない。なにかトラブルでもあったのかもしれないと思いつつ階段を見やると、ひとりの客がちょうど上がってくるのが見えた。

 グレーの制服がまず目に留まる。それから、額の真ん中で分けた前髪と、スラックスに包まれた長い脚が目に入る。空いている席を探している様子で周囲を見渡すその人物のほうへ、仁木はまっすぐに向かいながら声をかけた。

「城ヶ峰さん。こんにちは」

 名前を呼んで近づいていくと、城ヶ峰もまたこちらに気がついた。長い前髪の奥から切れ長の目が仁木を見下ろす。目が合った瞬間、整った顔貌が微笑に変わり、鼓動が大きくジャンプするのを感じた。

「またそれ注文したのか」
「え……」

 抱えたトレーを指して言う。笑いまじりの揶揄するような声だったが、けっして不快なものではなかった。
 トレーの上には、夏らしいデザインの包装紙にくるまれたハンバーガーがひとつ。サマーエレファントバーガーである。

「そろそろ飽きてきて、別のものが食べたくなることもあるんじゃないか?」

 なるほど、笑ったのはそのせいらしい。仁木に柔らかく微笑みかけてくれたわけではなく、会うたびに仁木がサマーエレファントバーガーを頼んでいるので、それを面白がっているのだ。

 どぎまぎとする胸中を抑えて仁木は誤魔化すように笑ってみせた。

「好きなので飽きません、全然。それに期間限定だから、いまのうちに食べておかないとじゃないですか」

 ──初めて仁木が城ヶ峰に声をかけたのがおよそ三週間前。あれから改めて自己紹介をしあい、店で会うたびに挨拶をし、話しかけ続けるうちに少しずつだが会話が増えていった。

「サマーエレファントの販売は今月いっぱいの予定で……」

 仁木は話しながら、そっと、じろじろと見過ぎないように気をつけて、城ヶ峰の姿をこっそりと観察した。

 城ヶ峰の表情は日に日に、少しずつだが明るくなっているように思う。
 少し前、店で時々城ヶ峰の姿を見かけるだけで話をすることはなかった頃に比べると、その差は歴然としている。心配になってくるような暗い顔でぼんやりとしていたあの頃とは違う。表情豊かで笑顔も多い。
 思い悩むような顔で窓の外を見ている姿は絵になったが、それでも仁木は城ヶ峰が笑ったり、皮肉ったり、軽口を叩いたりしているところを見るほうが好きだった。

 自分という話し相手がいることで、少しは気分転換になったり、明るい気持ちになったりすることができていたらいいなと思う。

 だから会えば必ず挨拶をする。近づいていって少し話をする。余計なお世話かもしれないけど。鬱陶しいやつ、と内心思われてるかもしれないけど。今日も暑いですねとか、何注文したんですかとか、結構店混んでますねとか、アプリのクーポンが出てましたよとか、そんなどうでもいいような話ばかりだけど。

「一階で、いつもお前と一緒に食べてる奴見かけたけど、レジでトラブってたな」
「え、本当ですか」
「機械が故障か何かしたんだと思う」

 どおりで時間がかかっているわけだと納得したとき、階下からトレーを手に上がってきた友人の姿を見つけた。仁木を探してか、きょろきょろと辺りを見渡している。
 それじゃあまた、と城ヶ峰と別れて仁木は友人のもとへ向かった。

「まーたあの怖そうな東陽山生と話してたのか」
「だから城ヶ峰さんだって。怖そうな東陽山生じゃなくて」

 空いていた二人がけの席へと座りながら、仁木は相馬に訂正を求めた。

 城ヶ峰一路というその東陽山生のことを、つい気にかけてしまう。心配もある。元気になりつつあるように見えるけど、それでも。

 ──思えば城ヶ峰さんについては知らないことばかりだ。どうしてこの店に来るのかも知らない。ひとりであんな風にぼんやりと暗い表情をしていた理由も。知っているのは東陽山に通っている学生ということだけ。

 同じ学校に通っていたらもっと話す機会があっただろう。違う学校に通っている以上、会える機会がどうしても限られてしまう。

 あまり立ち入ってしまうと、城ヶ峰は煩わしく感じるだろうか。

 ──本当は、もっと城ヶ峰と話がしてみたいと思っている。挨拶と短い立ち話だけじゃなくて。
 ただ心配だからというだけじゃない。心配を抜きにしても話がしたかった。
 城ヶ峰というその東陽山生は、鋭い目つきのせいかどことなく人を寄せつけない雰囲気があるものの、実際に話をしてみると気さくでおだやかな性格だということがわかる。仁木は城ヶ峰となにげない言葉を交わす短い時間をとても心地よく感じていた。




「仁木またなー」
「また来週」

 ホームルームが終わり、仁木はひとりで教室を後にした。何人かのクラスメイトとすれ違い、声を掛けあいながら廊下を歩いていく。

 今日は部活の練習がない。だから授業終わりに部室へ直行する必要はない。週に一度の休息日には、放課後相馬とエレファントバーガーに行くのが恒例だが、今日は生憎とその相棒が不在なのだった。

 ピコン、とスマートフォンの通知音が響いて画面を覗く。見ると、相馬から体温計を写した画像が送られてきていた。ピントが合っていないので二本の指で拡大して目を凝らす。表示されている温度は平熱より高いものの、微熱程度にまで下がっている。励ましの意味を込めて、ガッツポーズをしたアニメキャラクターのスタンプを送信する。

 相馬は風邪で昨日から学校を欠席していた。スマホを見る元気はあるようで、メッセージアプリには「ヒマ」やら「やばい鼻水止まらん」やら「熱下がってきたかも?」といったメッセージが頻繁に送られてくる。週明けの月曜日には、また元気な姿で会えるだろう。

 今日はこのまま寄り道せず、まっすぐに帰ることもできる。はたまた、別の友達を誘ってエレファントバーガーに行くこともできる。家に一度帰ってから、部活の練習がないかわりにジョギングをして基礎体力づくりをするのもいいだろう。

 どうしようかと思いながら昇降口に降り立つ。自身のスニーカーへ手を伸ばしたとき、仁木の頭にひとつの考えが浮かんだ。




 校門を出てから歩くこと十分。エレファントバーガー三郷駅前店の看板が見えてくると、仁木は歩くスピードを速くした。

 結局、家に帰ることも、ほかの友人を誘うこともせずにここへ来た。ひとりでエレファントバーガーに来るのは思えばこれが初めてかもしれない。通うようになって随分経つが、来るときにはいつも友達連れだった。

 二階建ての建物に近づいていくと、背の高い人物が店先に立っているのに気がついた。グレーの制服と鋭い眼差し。見知った姿である。

「城ヶ峰さ──」

 声をかけようとした仁木だったが、相手がひとりではないことに気がつき慌てて口を噤んだ。
 城ヶ峰の大きな身体に隠れて見えにくいものの、誰かと一緒にいる。仁木はその場で足を止め、離れた場所からそっと相手を観察した。

 城ヶ峰が着ているものと同じ灰色のブレザー。ブラウスの襟を飾るのはやはりネクタイと同じストライプ模様のリボン。そしてプリーツスカート。城ヶ峰が話している相手は、東陽山学園の制服を着た女子生徒だった。

 城ヶ峰以外にもここに来る東陽山生がいるとは驚きだ。家がこちらのほうにあるのか、ひょっとすると東陽山生の間でひそかにエレファントバーガーが流行っているのかもしれない。

 何を話しているのかはここからでは聞き取れないものの、あまり和やかな雰囲気ではないことは城ヶ峰のその煩わしげな表情から伝わってくる。
 どうしたものかと思案する。邪魔をするのも申し訳ないが、店に入るには彼らの真横を通っていくしかない。

 悩んだ末に仁木が一歩足を踏み出したのと、城ヶ峰が話を切り上げて相手のもとを離れたのはほとんど同時だった。こちらを向いた城ヶ峰と目が合うと、一瞬驚いたように目を瞠り、まっすぐ仁木のもとへやってきた。

「今日はひとりなんだな」

 珍しそうな口調で城ヶ峰は言った。これまでとは違い、相馬を筆頭とした同行者の姿が近くには見えない。

「いつも一緒に来てる友達は?」
「友達は……同じ部活の相馬って言うんですけど、昨日から風邪で休んでて」
「そっか」
「だから今日はひとりで、宿題とかしようかと思ったんです。家だとついだらだらして、なかなかやる気になれないんで」

 何も悪いことはしていないのに、仁木は後ろめたさを感じながら答えた。ごまかすように笑ってみせる。

 本当は、城ヶ峰に会えるかもしれないと期待してきたんだとは恥ずかしくてとても言えない。会えるだけじゃなくて、同行者の友人がいなければもっとゆっくり話せるかもしれないと考えたなんて。
 相馬と一緒に放課後の時間を過ごすのが嫌だとか退屈だとか、そういう風に思っているわけではない。いつもとても楽しいけれど、城ヶ峰とも話してみたかった。

 今日、エレファントバーガーにひとりで来ることにした本当の理由はそれだった。勉強をしたいと思ったのもたしかだけど。

「──あの、今話してたのって同じ学校の人ですか」
「あぁ、まぁ。クラスは違うけど」

 そこでたまたま会っただけ、と城ヶ峰はそっけない口調で返答をして店に入っていった。その後を追いかけながら「いいんですか」と仁木は尋ねた。

「たまたまだったとしても、せっかくだし店で一緒に食べたりとか──」
「大丈夫大丈夫。話なら学校でいつでもできるから」

 でも、そんな風にさっさと立ち去ってしまっていいのだろうか。振り返ると、件の女子生徒は名残惜しそうにまだ店先に立っていた。ばったり会っただけなのだとしても、せっかくなのだから城ヶ峰が一緒にどうかと誘えば喜ぶのではないか。

 同じ学校だからこそ盛り上がれる話もあるだろうし。先生の話、授業の話、文化祭や体育祭のような学校行事の話。仁木は学校が違うから、そうした共通の話題で盛り上がりたくともすることができない。

 たとえクラスが違っても、学年が違ったとしても、同じ学校に通っているなら顔を合わせる機会があるだろう。それが羨ましいと思う。
 見慣れた自分の制服を見て、それから違う学校の制服を着た城ヶ峰を見る。

 しかし城ヶ峰はむしろ立ち去りたがっているように見えた。仁木が来たことでその場を脱する口実ができたと、ほっとしているようにすら。




「──ちょっと量多くないか?」
「今日は昼が少なめだったので、俺今めちゃくちゃ腹減ってるんですよ。だから奮発してデザートもつけました」
「それうまいよな、エレファントストロベリーサンデー。俺も前食べたことあるわ」
「城ヶ峰さんはサマーエレファントバーガーにしたんですね。いつもはビッグバーガーなのに珍しい」
「俺の身近にやたらうまそうにしょっちゅう食べてるやつがいるから、そいつに影響されたんだよ」

 階段をのぼりながら、あの低くてぞくぞくとするような声が言う。
 レジで注文を終えた後、ふたりは喋りながら階段をのぼって二階へと向かった。

 城ヶ峰がいつもよく座っている席と、その隣の席が運よく空いていた。隣り合った席へとふたりで腰かける。

 それぞれ一人掛けの席なのだが、席と席の間隔は狭く、隣同士で座るとなかなか左右との距離が近いと感じる。城ヶ峰は身体が大きいし、仁木にしたって小柄なほうではないから尚更だ。席を区切る衝立のようなものもないので、いざ座ってみると城ヶ峰の身体がすぐ真横にまで迫り、なんとも落ち着かない心地がした。

「……っ」

 教科書を取り出そうとしたとき、城ヶ峰の腕がちょっと当たって、灰色のブレザーと紺色のブレザーが重なりあう。制服が少しこすれただけで、身体が直接触れ合ったわけじゃない。なのに妙に緊張してしまう。

 落ち着け、落ち着け。そう言い聞かせながら相手の様子を窺う。

 城ヶ峰はトレーを置くとドリンクに手を伸ばした。コーラを片手に一息つく姿は優雅だ。
 自分と同じ高校生だというのに、ときに気品すら漂って見えるから不思議だ。ただし、王子様という雰囲気ではない。王子様というよりは王様とか、帝王とか、皇帝とか、そんな感じだ。

「東陽山に中学の同級生がいるって言ってただろ。名前は忘れたけど」

 コーラを手にしたまま城ヶ峰はおもむろに口を開いた。ノートを机に広げようとしていた手を止める。

「え? ──あっ、田岡さんのことですか」

 そういえば、初めて城ヶ峰に話しかけた折、話の取っ掛かりを作ろうとしてそんなことを口走ったかもしれない。同じ中学だった田岡のことを知っているか、と。

「その田岡っていうやつとは今でも会って話したりするのか」
「いえ、中学卒業してからは全然ですね」

 仁木が答えると、そうか、と言って城ヶ峰はまたカップに差したストローへ口をつけた。
 秀才の彼女のことを仁木は懐かしく思い出した。特別仲がよかったり付き合っていたりしたわけではないものの、中学三年間を共に過ごした仲間だ。またいつか会って話す機会があればいいなと思う。

 彼女もまた、放課後になれば自分や相馬のように友達とエレファントバーガーのポテトを食べたりしているのだろうか。
 ただ、立ち寄るならこの店ではなく、学校から近い東陽山駅前の店舗を選ぶだろうけど。

「──どうして城ヶ峰さんはこの店に来るんですか?」

 仁木がかねてからの疑問を口にすると、城ヶ峰はテーブルにドリンクを置いてこちらを見た。

「どうしてって?」
「だって、学校から遠いじゃないですか。東陽山駅の近くにもエレファントバーガーならあるのに。家が近いからとかですか?」
「家は東陽山駅のすぐ近くだけど」
「じゃあなんでなんですか。あ、東陽山駅前のエレファントバーガーが、席数が少なくていつも座れないからとか……」
「いや、ここより広いし席も多いと思う」

 近くにあるのに行かないのは、行かない理由があるはずだ。混雑も理由のひとつになるだろうと思ったが、そうではないという。それならほかに一体どんな理由があるのかと思い返事を待っていると、

「この店が気に入ってるから来てるだけだよ」

 と、城ヶ峰はあっさりと答えた。自明の理だとばかりに。
 エレファントバーガー三郷駅前店がいい店なのは間違いない。勿論だ。この店の常連として、気に入っていると言われるのは嬉しいけれど、いまひとつ納得しきれないまま仁木は城ヶ峰を見返した。

「気に入るのはわかりますけど……」
「それに、ここに来れば仁木と会って話もできるし。この店のことも仁木のことも気に入ってる」

 気障な台詞を恥ずかしげもなくさらりと口にする。城ヶ峰の口許には甘い微笑みが浮かべられている。無表情だと何を考えているかわからず恐ろしげだが、笑うと途端に魅力が増す人だ。

「………………またそういう事を……」

 頬が熱を持つのを感じながら文句を言う。以前にもこの東陽山生がよく似たことを言っていたのを仁木は思い出した。

 ──いや、おまえ目当てで。よく来るって言ってたから、来ればまた会えるんじゃないかと思ったんだ。

 頬を赤くしている場合じゃない。またはぐらかされてしまった。
 城ヶ峰がこの店に来るようになったのは、仁木が話し掛けるよりも前だ。三度目に見かけたときに話しかけたのだ。それがきっかけとなって城ヶ峰とは親しくなり、よく話をするようになった。それはそうだが、そもそも最初にこの店に来るようになったきっかけが知りたいのだ。

 そのとき、ふいに後ろから「あの……」と呼びかける控えめな声が聞こえた。

 仁木が振り返ると、小柄な女性が立っていた。セミロングの黒い髪をハーフアップにし、青丘女子の制服を着ている。

「この間は、ありがとうございました」

 緊張気味にそう言って仁木に向かって丁寧に頭を下げる。

 一瞬、その人物が誰なのかわからず、仁木は丸く口を開いたまま固まった。どこかで会っただろうか。なんとなく見覚えがある気がするがはっきりしない。すぐには思い出せずにいたが、彼女が「カフェオレ零しちゃって……」と助け船を出すと、そこでようやく当時の記憶が蘇ってきた。

「私すっごく恥ずかしくて、どうしようってパニックになってたから、話し掛けてくれて嬉しかったです。ありがとうございました」
「あっ、いや、とんでもないです」

 深く頭を下げられて、慌てふためきながら立ち上がり頭を下げ返す。それから一言二言言葉を交わして、これから帰るところだという女性を見送ってから、仁木は再び着席した。
 面映ゆい気持ちが込み上げる。あの時大したことはできなかったし、後片付けをしたのは自分ではなく店のスタッフだったが、それでも役に立てたのだと思うと嬉しくなる。

「──最初は変な奴に声かけられたなと思ったけど、見てるうちにただ真面目ないい奴なんだなってすぐにわかった」
「え?」

 仁木と青丘女子の生徒とのやり取りを黙って見ていた城ヶ峰が、唐突にそう言った。

「なにがあったか詳しいことは知らないけど、さっきの子にも親切にしたんだろ」

 仁木が思いきって声を掛けた日から、城ヶ峰とは何度も店で遭遇している。気づいたら挨拶をするくらいであとは相馬ら友人と過ごしていたが、曰く、店での仁木の様子を城ヶ峰は見ていたらしい。

「俺が前に見たときは、知らない婆さんの長話に付き合わされてた。適当に理由つけて切り上げたらいいのに、十五分くらい延々話してた」

 城ヶ峰の話を聞きながら、その場面を彼が見ていたことに驚く。
 たしかに以前そういうことがあったのだ。たまたま隣に座った相手が七十代ほどの女性で、お喋り好きなひとだった。

「婆さんは話し相手ができて嬉しそうだったけど、付き合わされるほうは楽じゃないだろ」
「そんなことないですよ。最初はちょっと戸惑いましたけど──」

 当時のことを思い返しながら仁木はくすりと笑った。
 最初は突然話しかけられて困惑したが、田舎にいる祖母のことを思い出したし、普段聞けないような昔話もたくさん聞くことができた。嫌々付き合っていたわけではない。

「まだあるぞ。お前がよく一緒にいる……相馬だっけ? あいつの面倒もよく見てるだろ。紙ナプキン渡したり」
「それは、相馬って結構そそっかしいところがある奴で──」

 それ以外にも、仁木の様々な行動を見たという。どれも些細なことばかりだったが、それらを見て城ヶ峰は気に入ったんだそうだ。

「気に入ってる奴にここに来たら会える。だから来る。単純な話だろ」
「……俺に会うために来てるっていうんですか?」
「そう」

 まっすぐに顔を見ながら伝えられる好意が恥ずかしい。わかったから、もうわかったからやめてほしい。

 紺色のブレザーに包まれた自分の腕をできるだけ引き寄せて座る。ぎゅっと制服に皺が寄るくらい強く。そうしていないと、城ヶ峰は平気でこちらのほうへ身を乗り出してくるので、また腕が触れてしまいそうになる。こんな落ち着かない状態で集中して勉強などできるのだろうかと、仁木は小さく息を吐き出した。