家の中の荷物を片付けて、なんとなく引っ越しの準備のようなものを始めて数日。
ピンポーンと鳴ったチャイムを聞いて、今日も玄関のドアを開けに行った。
「はい、こんにちは」
「相談屋さん、こんにちは。あの……」
「あぁ、長谷ちゃん」
今日の訪ね人は、大学を卒業したばかりの女の子。
最後に見た時は希望していた所に就職が決まったと、嬉しそうな顔をしていたものだけど、今日は溜息でもつきそうな様子だ。
「とりあえず上がって。コーヒーを淹れるよ」
「ありがとうございます……」
「あ~、お姉さんだ! 久しぶり!」
「めぐみちゃん……?」
私の後ろから聞こえてきた元気な声に、長谷ちゃんは驚いた顔をする。
私は振り返りながら「今、うちに泊まってるんだ」と説明して、今日も元気なめぐみちゃんが廊下の奥で手を振っている様子を眺めた。
「ほんと、久しぶりだね。めぐみちゃんは今春休み?」
「うん! ってか、小学校卒業したから、私、今フリーなんだよ」
「あ、そっかぁ。めぐみちゃんも、もう少ししたら中学生になるんだね」
来客に対応するために履いたサンダルを脱いで、リビングに向かって歩きながら、長谷ちゃんの様子を見る。
めぐみちゃんと気心が知れた様子で話している長谷ちゃんは、先程よりも明るい顔で微笑んでいた。
少し気持ちが浮上したならいいことだ。
「めぐみちゃん、これから長谷ちゃんとお話するから、別の部屋で遊んでてくれる?」
「はーい。じゃあまたね、お姉さん!」
「うん」
私達と入れ違いにリビングを出て行っためぐみちゃんは、笑顔で手を振って、めぐみちゃん用に貸している部屋に入る。
めぐみちゃんに手を振り返していた長谷ちゃんにテーブルを勧めると、私はキッチンでコーヒーを二人分用意した。
湯気が立つマグカップを運んでテーブルの前に座ると、お互いにコーヒーを一口飲んでから口を開く。
「それで、どうしたの?」
「はい……4月が迫ってきたら、なんだか緊張してきて、色々考えちゃって……」
「そっか。学生から社会人になるんだもんね」
「そうなんです……バイトはしたことあるけど、これから仕事が大部分の生活を送るんだって考えたら、私、ちゃんと社会人ができるのか不安になってきて……」
「うーん」
(懐かしい悩みだなぁ)
若々しさを感じながら、私はマグカップに口をつけて、コーヒーを一口含んだ。
私が長谷ちゃんと同じような悩みを抱えていたのは、もう10年も前の事になる。
「今までと全く違う生活って、全然予想がつかないから不安だよね」
「はい……最初はやりたい仕事ができないって聞くし、慣れないことがいっぱいで疲れるって……」
「そっかぁ。職場にどんな人がいるかもまだ分かんないもんねぇ」
「はい……」
はぁ、と溜息をついた長谷ちゃんを見て、コーヒーを勧めた。
マグカップを両手で持ってコーヒーを一口飲んだ長谷ちゃんは、視線を落としたまま。
「みんな、緊張して、不安になって、先輩に仕事を教えてもらって、失敗して、ってやっていくものだから、大丈夫だよ」
「失敗……やっぱり、します?」
「失敗しない人は、新社会人じゃなくても、きっといないんじゃないかなぁ。私も仕事を始めたての時は、いっぱい失敗したよ」
「……どんな失敗をしたんですか?」
「うーん、意気込んで高いカメラを買ったのに、転んですぐ傷つけちゃったとか。大手に売り込みをかけて相手にされなかったりとか」
「わぁ……」
「他にも沢山あるよ。数年後にあれはマナー違反だったんだ、って知ったこともあるし。私はフリーの写真家だから、長谷ちゃんとは土俵が違う感じもあるけど」
苦笑いしてみせると、長谷ちゃんも少し笑って、俯く。
きっと一言二言アドバイスをするよりも、不安に思っていることを聞いて、少し励まして、を繰り返していく方が、彼女の気持ちが晴れそうだ。
「長谷ちゃんはどんなことが不安?」
「……私は――」
ぽつり、ぽつりとこぼされた言葉を聞いて、頷き、一言二言励ましの言葉をかけながら、長谷ちゃんの表情が晴れるまで、長い時間話を聞く。
冷め切ったコーヒーを何回か淹れ直した後に、長谷ちゃんは明るい笑みを浮かべた。
「相談屋さん、ありがとうございます。とりあえず頑張ってみようっていう気持ちになりました」
「そっか。それはよかった」
「また不安になることがあったら、相談に来てもいいですか?」
「うーん……この街にいる間は、いつでも大丈夫だけど。私、春には次の街に行こうと思ってるから、会って話すことは難しいかも」
「えっ……相談屋さん、別の所に行っちゃうんですか!?」
「うん。スマホは持ってるから、連絡をくれる分には、いつでも大丈夫だよ。繋がりが悪い時があったらごめんね」
長谷ちゃんは目を大きく開いて、少しの間黙り込む。
「あ、長谷ちゃんと仲良くなれそうな人も紹介するから。年上の人だから、仕事の相談もできると思うよ」
「あ、ありがとうございます。そっか……相談屋さん、この街から離れちゃうんですね。寂しくなるなぁ……」
「ありがとう。ここには随分いたからね」
コーヒーを飲むと、長谷ちゃんも一口コーヒーを含んだ。
それから顔を上げて微笑む。
「引っ越す日が決まったら、教えてください。私、見送りに行くので」
「それは嬉しいな。ありがとう」
私も笑顔を返して、少し雑談をしてから、めぐみちゃんを呼びに行った。
3人で賑やかに話すと、時間はあっという間に過ぎてしまう。
家に帰る長谷ちゃんを見送ってすぐに、私は夕飯の支度を始めることにした。



