朝の情報番組をチラチラと見ながら、右手で目玉焼きを口へ運び、左手でスマホをいじる。
 昨日から何度も何度も、新しく写真フォルダ―に入った写真を眺めてしまう。
「お行儀が悪いわねぇ」
 洗濯物を持った母が背後を横切り、僕に注意しながらスマホを覗き込んできた。
「見ないでよ」
 隠そうとしたが、母は目敏い。
「あら!マサくんじゃない。アキラくんも。いつ撮った写真?これ最近よね。なんだお母さん、てっきり貴方たちケンカでもしちゃったのかと思ってた。ちゃんと仲良しだったのね。安心したわ」
 母は洗濯物をベランダへと運びながら、「そっか、そっか」とうれしそうに呟いている。
 昨日のタコミンの占いは、山羊座のラッキーカラーが紫色、ラッキーパーソンは兄弟の多い友達だった。
 僕らの関係修復に手を貸そうとしてくれているアキラくんは、まさに兄弟の多い友達。しかも彼のスマホカバーは紫色だった。
 そんなアキラくんはもうすぐ、遠くへ行ってしまう。
 卒業式でマサムネくんに「おめでとう」が言えればいいと思っていた僕の考えは、少し進化した。
 マサムネくんと二人で、東京駅へアキラくんの見送りに行く。それが今の目標だ。
 
「二月二十五日火曜日、朝の占いだタコ。今日の第一位は……」
 時刻は七時半になり、タコミンの占いが始まる。
「六位の山羊座さんは、もらったメッセージにはすぐに返信をしよう。ラッキーカラーはオレンジ。ラッキーワードは「約束」。スムーズに進むタコ」
(返信か。でもまずは僕からメッセージを送ってみないと、始まらない……)
 マサムネくんに、「一緒にアキラくんの見送りに行きたい」と持ち掛けるためには、どんな文面を送信したらいいだろう。電車の中で、書いては消して、消しては書いてを繰り返していたが、上手く書けぬまま駅へと到着してしまった。
 そもそもアキラくんは屋上で、「二人の仲が元に戻ったらさ、俺にこと東京駅まで見送りに来てくれよ」と言った。仲が元に戻るというのは、どの状態を指しているのだろう。
 僕は多くを望まないように自分を律しながらも、この前池の畔で、頭をポンポンと撫でられたことを思い出し、一人赤くなる。
 あのときはてっきり、アキラくんがマサムネくんに頼んでくれた結果、思い出作りとして僕に親切にしてくれたのだと思った。でも、どうやら違ったらしい。
 ということは、ポンポンしてくれたのはマサムネくんの意思だと思っていいのだろうか。

 ますますメッセージの文面をどうしていいのか分からなくなり、勇気のない自分にため息をつきながら、学校の正門をくぐる。そのとき、ポケットの中でピコンと音が鳴った。
 スマホを取り出してみると、マサムネくんからのメッセージだった。
『カズミチとゆっくり話がしたい。明日の放課後、池の畔のベンチで待っていてくれるか?』
(マ、マサムネくんからの、お誘いだ!どうしよう。どうしよう)
 とにかく、タコミンの言う通りすぐに返信をしなくては。
『承知しました』
 慌てるあまり、あまりに他人行儀な送信をしてしまった。違う、違う。こんなんじゃなくて、メッセージをもらってうれしいってことを、伝えなくては。
 お気に入りのスタンプから、オレンジ色の犬がご飯を前にヨダレを垂らしているイラストを、エイっと送る。
 いや、これも、チョイスミスだったかもしれない……。玄関ロビーでアタフタしていると、すぐに返信がきた。
『笑。じゃ、明日の放課後。約束な』
『うん。約束』
 僕は思わず、スマホを抱きしめてしまった。

 その日の帰りのホームルームで、学校の校章が中央にプリントされたバンダナが配布された。これは毎年恒例のものらしく、卒業の記念に、生徒同士や後輩、先生方から、このバンダナに寄せ書きをもらうのだという。
「各自でマジックペンを持参するように。卒業式当日はもちろん、前日も総練習で時間がないから、明日と明後日で済ませるようにしてください」
 担任が皆にそう呼びかけ、終礼となった。

 僕も美術部の部員や、顧問、それからアキラくんに書いてもらいたい。できれば、マサムネくんからも……。そう思って廊下を歩いていると、アキラくんの姿が見えた。
「アキラくん!昨日はありがとう」
 振り向いた彼は、なんだか赤い顔をしている。
「あれ?どうしたの?もしかして風邪っぽい?」
「うわぁ、俺、あからさまにそんな感じ?カズミチ、近寄るな。俺もう帰るわ。昼過ぎから喉が痛いんだよ」
「大丈夫?送るよ」
「いや、まじでいい。うつしたら大変だからさ。じゃあな」
 こんな時期に風邪なんてと心配になったが、してあげれることはなかった。



 翌朝。アキラくんからメッセージが届く。
『三十八度超えの熱出たわ。妹のハナの風邪がうつったっぽい。でもコロナとかインフルじゃなかったから、卒業式には行けると思う』
 卒業式までは残り三日なのに……。
『心配だよ。大丈夫?』
『これくらい平気、平気』
 おでこに冷却シートを貼って、お粥を食べる自撮りの写真が送られてきた。
 無理やり笑ったような写真だったけど、熱のせいか目が潤んでいて、しんどそうに見えた。

「二月二十六日水曜日、朝の占いだタコ。今日の第一位は……」
 あっ、そうだ。今日はマジックを持っていかなくてはいけない。
「三位の山羊座さんは、思い切った予定変更も、ときには必要。ラッキーカラーは緑。ラッキーパーツは肩。力を合わせるタコ」
 三位。なかなかの上位だ。今日はマサムネくんとの約束もある。
(どうか良い一日になりますように。アキラくんの風邪も早く治りますように)
 思わず、画面の中のタコミンに手を合わせ拝んでしまう。母に見られなくてよかった。

 学校へ着くと、すでに皆がバンダナを広げ、寄せ書きをし合っていた。
 Aクラス前の廊下には、マサムネくんの姿があって、すごい人だかりになっている。さすが、軽音楽部で一番人気のあるバンドのボーカルだ。どさくさに紛れ、後輩たちまで並んでいた。
 僕も昼休みに、美術部の部員たちと、言葉だけじゃなく思い出のイラストを、緑のマジックで描き合ったりした。
 その間、何人かの顔見知りが僕のところへやってきては、尋ねてくる。主にアキラくんと同じラグビー部の人たちだ。
「あのさ、アキラ知らない?どこにもいないんだけど」
「アキラくん、熱が出て休んでるんだ。卒業式には来れるって本人は言ってたけど」
「まじか。アキラ、もうすぐ引っ越しちゃうだろ。寄せ書きしてやりたかったのに残念だなぁ」
「そうだよね……」
 何度かそんな会話をしているうちに、僕は、ある決心をした。

 ホームルームが終わってすぐ、マサムネくんにメッセージを送信する。
『ごめん。今日の放課後の予定、変更したいんだ。ちょっと相談したいことがあって、どこか人のいないところで話せないかな』
 朝、昼休みに続き、放課後もマサムネくんの周りには、人垣ができている。ザワザワしていて、メッセージの着信にも気が付かないみたいだ。
「時間が無いんだ。明日でもいいかな?」
 そんな風に女子たちと会話しているのが、聞こえる。寄せ書きを打ち切って、公園へ向かおうとしてくれているのかもしれない。
 僕は、どうしよう、どうしようと、人垣の周りをウロウロとする。
 できれば、マサムネくんが学校を出る前に話をしたい。でも、人のいるところで話しかけたら、迷惑を掛けてしまう。

「カズミチ」
 マサムネくんの声がハッキリと、僕の名前を呼んだ。
 群がっていた女子が皆、一斉に振り向き、キッと僕を睨みつけてくる。高一の夏に僕を糾弾した女の子の姿もあった。
 マサムネくんは、そんな女子など見えていないかのように、彼女たちの間をすり抜けて真っ直ぐ僕へと歩いてくる。
 皆の目が注がれている。それでも堂々と僕の目を見てくれていた。
「どうした?カズミチ」
 そう問うてくれた声は、少し擦れていた。手に持った緑色のマジックも、微かに震えている。
 マサムネくんは、変わろうとしてくれているのだ。僕との過去を隠したいはずなのに、こうして、皆の前で、話しかけてくれたのだ。
 だから僕も勇気を出して、話し始める。
「あ、あのね。アキラくんが風邪で休んじゃったんだ。それでね、卒業式には来れるらしいけど、明日も明後日は無理だと思うって」
「まじか」
「うん。だからアキラくんに寄せ書きしてあげたい人たちは、書けずにいて、残念がってて」
「あぁ、アイツ引っ越しちゃうのにな」
「ねぇ、僕らで代わりに集めてあげられないかな?寄せ書き。ぼ、僕はあまり顔が広くないから、特にラグビー部は知らない人が多いから、マサムネくんにも手伝ってほしいんだ……」
 周りの目が気になって、段々と声が小さくなってしまう。

 知らない女子が「マサムネは忙しいんだけど」と声をあげる。
 僕は咄嗟に「ごめんなさい」と謝って、俯いてしまった。
 でもマサムネくんは僕の肩に手を置いて、「いいじゃん。寄せ書き、代わりに集めてやろうよ」と言ってくれた。その手はまだ震えている。
「で、アキラのバンダナはどこにあるか分かるのか?」
「ううん。もしかしたら持ち帰っているかもしれないし。先生に予備をもらおうかと思ってて」
「わかった。一緒に職員室行こう」
「え?私たち、まだマサムネに書いてもらってないんだけど」
「ごめん。でも、今はこっちのほうが大切だから。行こう、カズミチ」
 僕の肩に置かれたマサムネくんの手は、もう震えていなかった。

「ごめんね。みんなのいるところで、僕と会話することになっちゃって……」
 職員室前の人のいない廊下で、マサムネくんに謝る。
「カズミチ。頼む、謝らないで。謝るのは俺だから。今日、池の畔のベンチでその話、するつもりだった」
「その話?」
「それは改めてちゃんと言う。とにかく、俺はカズミチと、前みたいにたくさん会話をしたい。今更って思うだろうけど、俺はようやく、ようやく勇気が出せたんだ」
「マサムネくん……」
 職員室のドアが突然開き、ちょうどアキラくんの担任が出てきた。
「何か用か?」
 休んでいるアキラくん用に、予備のバンダナが無事もらえた。
 そして僕らは、明日の朝から寄せ書きを集めることを約束した。
 マサムネくんは、「女子たちへの寄せ書きを今日中に終わらせてくる」とA組の廊下へ走って戻っていった。
 途中、振り向いて僕に手を振ってくれた顔が、昔みたいに幸せそうに見え、僕もとびきりの笑顔で手を振り返した。