「軽音楽部の卒業ライブ、サイコーだったね」
「マサムネ先輩、格好良かった!卒業しちゃうの、まじ寂しい」
「バンドも今日で解散なんでしょ。もっと見たかったなぁ」
「それにしても外、寒っ。早く帰ろ」

 体育館の扉が開き、中から熱気と共に、たくさんの生徒たちがゾロゾロと渡り廊下へ出てくる。
 僕は慌ててその場を立ち去ろうとするが、寒さにかじかんだ手足が、すぐには動いてくれない。
 とりあえず制服のブレザーの袖で涙を拭って、必死にさりげなさを装った。
「よぉ、カズミチ。オマエどこにいたんだよ」
 声のするほうを向けば、ラグビー部らしいガタイのいい体格がこちらを見ている。
「あぁ、アキラくん。どうだった?マサムネくんの卒業ライブ。中で見てたんでしょ?」
「オマエ、まさかまた中に入らず、渡り廊下で音だけ聴いてたのか?」
「だって……」
 深くため息をついたアキラくんが、ぐるりと首を回し、体育館前方の扉を振り返る。
 つられるように僕もそちらへ目線を向けると、軽音楽部の部員たちが機材を運び出し始めていた。そこにはマサムネくんの姿もあって、いきなり目が合ってしまう。距離があるのに、彼の眉間に一瞬皺が寄ったような気がし、慌てて視線を逸らす。
 僕は心の中で、必死に言い訳をした。
(違うんだ。体育館には足を踏み入れたりしてないよ。僕は今、たまたまここを通っただけで……)
 逃げるように校舎に向かって走り出した僕に、アキラくんだけが声をかけてくれる。
「待てよ。一緒に帰ろうぜ。どんなライブだったか教えてやるから」
 僕は足を止めてもう一度振り返る。もうマサムネくんの姿はなかった。
 僕の吐く白い息が、視界を不透明に見せた。

 三年間の高校生活は、終わりを迎えようとしている。我が校は大学附属の高校で、ほとんどの者は十二月までに進路が決まった。
 だから、三月一日の卒業式まで二週間となった今、最後の思い出作りみたいなゆるい時間が、ゆっくりと流れている。

「それで、どうだった?マサムネくんの卒業ライブ」
「盛り上がってたし、女子たちがキャーキャー言ってた。顔がいいとか、声がいいとか」
「あぁ、目に浮かぶ。そりゃギター持って歌う姿なんて、格好いいに決まってるもん」
「ちっとも上手いバンドじゃないけどな。まっ、文化祭でやるお遊びバンドとしては、あの部の中じゃ一番まともだよ」
「アキラくんは辛口だね」
「カズミチはさ、結局三年間で一度もマサムネのライブしてるところ、見てないんだろ?」
 コクリと頷かざるおえない。
「マサムネくんが軽音楽部入ったの、高一の夏以降だし……」
「全く何なんだろな、オマエらって」
「オマエらって一括りにしちゃダメ。僕が勝手に引きずってるだけだから」
「はいはい」
 呆れたような返事とともに、アキラくんはため息をついた。

 通い慣れた駅までの通学路は、雪でも降り出しそうな曇天で、時折強く冷たい風が吹く。
 もうすぐ駅に着くというタイミングで、アキラくんが立ち止まった。
「あのさ、カズミチ。卒業式まであと十四日だ。オマエとマサムネは同じ大学とはいえ、キャンパスの場所が全然違うんだぞ」
「知ってる」
 僕も足を止める。
「知ってるならさ、これが最後のチャンスだって分かってるだろ」
「でも……」
「でもじゃないんだよ、オマエもマサムネも。間に挟まれてる俺の身にもなれよ。関係修復しようって努力をみせてくれよ」
「だけど……」
「あぁもう、腹立つ」
 アキラくんは、僕を置いて怒ったように歩き出し、一人で駅へと吸い込まれていった。
 彼が心から真剣に、僕らのことを思って助言してくれたのだと分かっている。
 確かに「だって」「でも」「だけど」と、言っている場合ではないのかもしれない。
 卒業式の日までに、互いに目を見て「卒業おめでとう」と言葉を交わすくらいの関係修復ができたら、どんなに幸せだろう。卒業式当日には、見てもらいたい物もある。
 今更の僕の努力次第で、それは叶うのだろうか。



 先週末、アキラくんに言われたことは、ちゃんと僕に響いていた。夜寝るときも、朝起きたときも、マサムネくんに「卒業おめでとう」と言える卒業式を思い浮かべてみた。
 ただ、頭に思い描いては(やっぱり無理無理)と首を振ってしまうのだが。
 ボーとした頭で、母が用意してくれたご飯と味噌汁と卵焼きという朝飯を食べる。
 目の前のテレビでは朝の情報番組が、騒がしく喋っていた。
「次は来月公開するアニメ『大海原水中対戦2』の話題です」
「あらこれ。カズとマサくんが、前に一緒に観に行っていた映画じゃない?続編やるのね。また二人で観に行くの?」
 おそらく何の他意もなく母が言う。ご飯が口いっぱいで喋れません、というポーズを取っていると、さらに畳み掛けてくる。
「マサくんも中学の頃はあんな頻繁に、うちに遊びにきてくれたのに。高一の夏くらいから全然来なくなっちゃったわね。やっぱり高校生活は忙しかったのかしら」
 その発言は、まるで探りを入れてきているかのようだ。しかしおっとりした母が、何かに気がついているとは、思えない。
「そうだ!卒業式で、マサくんと会えるじゃない。浴衣を着付けてあげたとき以来だから、更に大人っぽくなったでしょうねぇ。お母さん、楽しみ」
 雑談が続く母の声を無視し、テレビに集中しているフリをした。

「今日から二週間、アニメ『大海原水中対戦』に出てくる愛されキャラ『タコミン』が占いコーナーを担当してくれます。CMのあと朝の占いです」
 タコミンは、シリアスな大海原水中対戦の中で、唯一の癒しキャラだ。まん丸のタコがモチーフになっていて可愛らしく、とても人気がある。
 CMに入ると母は席を立ち、二階の寝室へ父を起こしに行った。僕は食べるペースを落とし、ラスト一切れの卵焼きをゆっくりと咀嚼する。
「二月十七日月曜日、朝の占いだタコ。今日の第一位は……、山羊座のアナタ」
 山羊座の僕は思わず、身を乗り出す。
 占いなんて気にしたこともないし、情報番組の占いを真剣に見たこともない。けれど、タコミンに一位だと言われれば、悪い気はしなかった。
「一位の山羊座さんは、悔やんでいる過去の出来事を修復するチャンス!ラッキーカラーは青。ラッキープレイスは図書館。勇気をだすタコ」
 占いを信じたわけではない。それでも僕は、なんとなく青いハンドタオルを持って、家を出た。

 学校では、教科書を使った授業のようなものは、もうほとんど無い。
 ありがたい話を聞いたり、卒業式で歌う合唱の練習があったり、よく分からないアンケートの提出を求められたり。
 ボーッとしていれば終わってしまうようなことばかりだ。
 下校の時刻も、他の学年より早い。特に今日は冷たい雨が降り出しそうで皆、足早に帰っていった。
 傘を持ってこなかった僕も、早くに帰宅するべきだろう。そう分かっていたのに学校の近くにある図書館へ寄った。
 目的もなく館内を流し見る。途中、美術部元部長らしく画集のコーナーに少しだけ立ち寄ったが、五分ほどで出口へと向かう。
 自動ドアが開けば、暖かい館内から一気に真冬の寒さだ。ぶるっと身震いしてしまう。
(雨、ポツポツと降り出してるし。ラッキープレイスだっていうから図書館に寄ったのに何もないし。山羊座が一位って言ったんじゃタコミン)
 屋根のある場所から寒々しい空を見上げ、タコミンをなじった。

 辺りはシンとしていて、人の気配はなく、一人だけ冬の世界に放り出されてしまったみたいに思える。
 とりあえずスマホを取り出し、雨雲レーダーをチェックする。どうやら雨は小雨のままダラダラと降り続けるようだ。
(ビニール傘、買うほどでもないか)
 ため息をついてスマホから顔を上げた時、青い傘が一つ、視界に入る。その色はまるで、晴天の空のような鮮やかなスカイブルーだった。
 傘で顔が隠れているけれど、持ち主は僕と同じ制服を着ていた。
 傘は、一歩一歩、図書館へと近づいてくる。
 僕にはそれが誰なのか分かっていた。手足が長い骨格、纏っているクールな雰囲気、無駄のない綺麗な歩き方、全部よく知っているものだったから。

 傘の角度が変わり、顔が見えた。
 驚いた顔をしている。まさか図書館に僕がいるとは思わなかっただろう。
 目を逸らされるかと思った。けれど僕を見据えたまま、玄関前の屋根に入ってきて傘を閉じた。
 隣に並ぶように立ち、さっき僕がしたように彼も雨空を見上げている。
(何か言わなくちゃ)
 そう思ったけれど言葉が出ない。マサムネくんも何も喋らない。どれくらい二人で並んで立っていただろう。長く感じたけれど、一分程度だったかもしれない。
 背後から小さな子どもの声が聞こえた。
「ぼく、まだ帰らないーーー」
 お母さんと何か揉めている。
 世界には僕ら以外にも、人が存在していたことを思い出した。
 マサムネくんが僕へと視線を向ける。目線が両手やカバンに動く。そして、スッと傘を差し出してくれた。
「この傘、使えよ」
「えっ、でも」
 さっきの子どもがお母さんに急かされる声が、より近くで聞こえる。
「ほら、早く」
 僕は右手で、差し出された折り畳み傘を受け取った。マサムネくんは、黙って図書館へ入って行こうとする。
「あっ、マ、マサムネくん」
 振り向いた彼に、カバンから青いハンドタオルを取り出して渡した。
「使って」
 受け取ってくれたマサムネくんは、何か言おうとしたけれど、自動ドアが開き親子が出てきてしまった。僕は小さな声で「ありがとう」とだけ告げ、傘を差して駅への道を走りだした。

 角を曲ったところで走る速度を落とし、歩き始める。いっそのこと、スキップしたい気分だった。
 だって、マサムネくんと喋れたから。久しぶりに「マサムネくん」って名前を呼べたから。普通の友達のように傘の貸し借りをしたから。
 この後、マサムネくんは雨に濡れてしまうかもしれない。けれど、一本の傘に一緒に入って歩くなんてこと、僕らにはできない。
 だから僕に傘を貸してくれたのだ。
 明日には、この折り畳み傘を返すというミッションも生まれた。さり気なく、誰の誤解も生まないように、うまく返さなくては。
 万が一にも僕らの仲が怪しいなんて思われないように、気をつけなくては。
(あぁ、タコミン。山羊座の運勢、確かに一位だったよ。ラッキープレイスは図書館だったし、ラッキーカラーは青だった。ありがとう、タコミン)
 僕は生まれて初めて占いというものに、感謝をした。