二学期が始まって、数日が経った。
「ちょっ……瑛人! それ、ぜんぶ入れちゃだめ……!」
「え? だってここに――」
きょとんとした顔して、まったく手元を止めようとしない瑛人。
俺は身を乗り出して、その手を引っ掴んだ。
「それ、お好み焼きの作り方だから……!」
鉄板の上で、じゅうじゅうと音を立て焼かれているキャベツが数本。
「もんじゃは先に具を焼いて、そのあとキャベツ入れて、そのあと汁――って聞いてる?」
「あ……ごめんなさい。ちょっとどきっとしちゃった」
「は!? な、ちがっ……これは瑛人が……!」
どんぶりをひっくり返そうとしていた瑛人の手を、ぎゅっと握ったままだった。
俺が手を握ったくらいで「どきっと」なんて、やっぱりちょっとおかしいと思うけれど……。
「ん? 俺が?」
そんな嬉しそうな顔で真正面から見つめられたら、逃げ場がない。
「もっ、もう、貸して! 俺やる!」
「男前だぁ、岳さん」
「からかってんでしょ!」
瑛人の手からどんぶりを奪おうとすると、名残惜しいとでも言いたげに、指先がいつまでも追いかけてくる。
「からかってない」
――か、顔つよ~……!
やっぱり今でも信じられない。このスパダリ様が、俺なんかをす……好き、とか。
けれどあの花火大会のあと、夏休みの最終日には、瑛人の部屋でゲームを教えてもらった。
それから今日。お互い学校が半日で終わるので、駅ビルの飲食店街で一緒にお昼を食べようと約束をした。
そうやって少しずつお互いを知っていくのが『恋愛』らしいことは、腐男子の俺はよく知っているので。ちょっとくすぐったい気持ちになる。
「もしかして岳さん、もんじゃのプロ?」
「え」
「この写真と一緒じゃん、すげー」
「べ、べつに普通だよ、昔駄菓子屋さんでよく食べてただけ」
ちょっと謙遜した。土手を作るのがうまいって、昔からスバくんや家族にもよく褒められた。もしかしたら俺の特技なのかもしれない。
「駄菓子屋さんでもんじゃ……? どゆこと?」
「店の半分が駄菓子屋で、もう半分は居酒屋、みたいなとこなかった? 都会にはないのかな」
「そんなのなかったなぁ。駄菓子屋さんだって、こういう所に入ってるのしか見掛けたことないです」
「都会っ子……」
とはいえ俺の地元のその駄菓子屋さんも、もう今ではなくなっている。もともと子どもなんてあまりいない地域だし、仕方ないのだろうけど。
「……俺も、ちっちゃい岳さんともんじゃ食べたかったな」
――な、なんだって……? 疑いようのないいじけた声色に、うっかり手からヘラがこぼれた。
「あっっつ!」
慌ててそれを拾おうとしたために、じゅ、っと一瞬、自分の指先が焼ける。
「大丈夫ですか!? これ、冷やして!」
瑛人が差し出してくれた結露したグラスをぎゅ、と握る。べつにほんの一瞬のことで、やけどってほどじゃないのに。
「岳さん、もうぜんぶ俺がやる。俺が食べさせる」
「なにを言ってんの……!」
もんじゃを一口ずつ食べさせるなんて、現実味がなさすぎる――いや、食べさせることがそもそもおかしいんだけど!
「もう大丈夫だから……ほら、食べよ?」
「あーん、しなくてほんとに大丈夫ですか?」
「大丈夫だよっ!!」
もう、もんじゃの味なんてよくわからなかった。けれど瑛人は一口食べるたびに「おいしい!」と言ってくれたから、それはまあ……嬉しかった。
それから少し駅ビルを散策したりして、瑛人のバイトの時間が近づく。
「あのさ、岳さん」
「ん?」
「岳さんはバイトとか塾とか、なんか固定で予定ある曜日ってある?」
「ううん、なにもないよ」
言ってからすごく恥ずかしくなった。年下で俺より頭もいい瑛人は、バイトを二つも掛け持ちしてるっていうのに……お気楽だな、俺は。
「じゃあ水曜日、俺もシフト入れないようにするから――放課後、会わない?」
「え……う、うん、大丈夫。どこ行く?」
来週も会ってくれるんだ――素直に高ぶる心臓がちょろすぎて憎い。
「あー……ちがくて。そうなんだけど、そうじゃなくて」
「ん……?」
並んで歩いていた瑛人は、俺の前に回り込み、向き合って立ち止まる。
「毎週。できれば毎週、会いたいんですけど」
「ま、まいしゅう……?」
「毎週」
前髪のカーテン越し、おそるおそる見上げた瑛人の顔は、やっぱり真剣だ。
まっすぐ、その綺麗な瞳に俺を映してくれている。こんなふうに俺を見る人なんて、この世に瑛人しかいないような気がする。
「……う、うん……」
やっぱり三秒以上、その瞳を見つめ返すことはできないけれど。
「……毎週、だいじょうぶ、です」
たどたどしい返事に、瑛人が小さくガッツポーズしたのがわかった。
それから何度かの水曜日を一緒に過ごして、今日は九月最後の水曜日。
俺の部屋に、瑛人がいる。
ローテーブルを挟み向かいあって座っているけれど、なんだかまるで合成のような……違和感というか、不思議な光景だ。
「……手、止まってますよ」
「あ、ご、ごめん!」
前は瑛人の家にお邪魔したから、と、うちへ誘ったはいいものの、特におもしろいものもなく、ひとまず宿題をやることになったのだけれど。つい、伏し目がちな瑛人の長いまつ毛に気を取られてしまった。
「べつにいいんですけど……そんな見られると、期待するんで」
――き、期待……!?
「ち、ちがっ……まつ毛の本数を数えてただけっていうか……!」
「なんだそれ。何本ありました?」
ふ、と小さく笑われる。ぜったい馬鹿だと思われた。最悪だ……。
瑛人と二人で過ごす時間は、相変わらず少しだけ緊張する。別れたあとなんて、肩がガチガチに固まっていたりするし。
けれど、やめたいとは思わない。
いざ会えば緊張して妙なことを口走り、あーあもう……なんて一週間ずっと後悔に苛まれたりするくせに。それでも毎週水曜日が少し楽しみ――だなんて、自分でもよくわからない感情に振り回されっぱなしの日々だ。
「岳さん、漫画読んでてもいい?」
「いいけど……BLしかないよ」
瑛人はやっぱり頭がいいんだろうな。あっという間に宿題を終わらせてしまって、そんなふうにねだってくる。
部屋の本棚はBLでぎゅうぎゅうなので、少年・少女漫画は泉の部屋に置かせてもらっていた。読みたければ取ってこようか、と聞いたのだけど。
「岳さんの好きなやつがいいです」
「……そ、そうですか……」
そんなにまっすぐ、綺麗な目で見ないでくれ……。
俺はなるべくその綺麗な目に似合うような、ほっこり日常系のBL漫画を選りすぐったつもりだ。
「岳さんも、終わったら一緒に漫画読みましょ」
「い、一緒に……?」
BLを? 俺たちが? 一緒に読むの……!?
想像してしまうと、じわじわ、じわじわ、顔が熱くなる。
瑛人にとっての解釈と、俺にとっての解釈はきっとちがう。まだ瑛人に、濃厚な描写のあるBLは貸したことがないし、今後とも貸す予定はない。
なのでいたって健全な気持ちで――ようするに少年漫画の貸し借りと同じテンションで、瑛人は誘ってくれたのだろうけど……。
やましい気持ちに支配された俺のことなんておかまいなしに、瑛人はそつなく隣に肩を並べてくる。
ベッドを背もたれにして、涼しい顔で漫画を読み始めた。
……よし、一旦、忘れよう。
んんっ、と咳払いで気を取り直して、目の前の問題に集中しようとしたときだ。
「――なに想像してんの?」
ひそやかな声とともに、瑛人の指先が顎に触れる。
「はっ!?」
大慌てで顔を逸らそうとしたけれど、くい、と顎を掴まれてしまうともう無理だ。脳内大パニックで、なにもわからない。
「な、ななな、なにして……っ!」
前髪のカーテン越し、視界を埋め尽くす、瑛人の美しすぎるご尊顔。瞳は日に透かしたビー玉みたいにキラキラ――じゃなくて! 見惚れてる場合じゃない!
「え、瑛人……ちょっと、な、なに……!?」
「あれ、なんかちがいます?」
「へ?」
呆けている俺に、瑛人は漫画のコマを指差す。
「あっ……!」
たしかにそのページには、『なに想像してんの?』と余裕たっぷりに笑う攻めが、顎クイで受けに迫るシーンが描かれている。このあとまんまと絆されるのかと思いきや、受けのほうから胸ぐら掴んで唇を奪う――後世に語り継ぎたい、名シーンではあるのだけど……。
「ちょっ、ごめん! それやめよう!」
「え、なんで」
「なんでも!」
だってそのあとの展開――受けに返り討ちにされた攻めの理性がぶつんと切れてどうなるのか――を、俺は知っているので。
かっかと全身が火照ってきてしまってまずい。こんな顔してたら、言わずとも次のシーンがバレてしまいそうだ。
慌てて漫画を取り上げようと手を伸ばすけれど、俺の手はすいすい躱(かわ)されてしまう。
「瑛人ってば……!」
「まあだいたい、想像つきますけどね」
「は!?」
涼しい顔で、瑛人が言う。
「俺ならこうするな、っていう」
「え、ど、どうするの……?」
いやなにを聞いてんだ、俺は――!
すると、顎から離れた手はすっと顔の横を横切って、ベッドの軋む音とともに、俺の上に、身を乗り出した瑛人の影が落ちる。
「こうする」
――いやまって、俺の心臓、動いてる……?
ベッドと瑛人の間に挟まれて、俺の視界にはもう、瑛人しか映らない。
シャツの隙間から覗く鎖骨の大きさだとか、腕まくりから伸びる男らしい血管、それから言うまでもなくイケメンすぎるその顔も。
瑛人という人間のすべてが、俺の息の根をとめにかかってくる。
「……は……うわぁ……」
高いビルを見上げる田舎者みたいな声。それが出ただけで、一応自分が生きてることはわかった。
「……ちょっと、岳さん」
「ハ……ハイ……」
「はい、じゃなくて。ちゃんと逃げてくださいよ」
やってることと言ってること合ってないけど、大丈夫そう――? 目が点になった。口もぽかんとあいていたと思う。
間抜け面の俺に愛想を尽かすように、ぱっと瑛人の身体は離れていく。
「どうせ俺がなにもしないって思ってんでしょ、岳さんは」
「へ……?」
だめだ、どうしても間抜けな声しか出ない。
「俺のこと、信用しすぎ」
「……な、なんて……?」
思考回路はショートしているので、瑛人の言ってる意味がよく分からない。自分が始めておきながら、逃げろとか信用しすぎだとか、えっと……えっと?
「いつでも手ぇ出せるんですからね、こっちは。分かってます?」
「は……は!?」
「来週から外で会いましょ、それか遠くて申し訳ないけど、俺んち」
ぐしゃぐしゃに髪をかき乱す瑛人の姿に、沸騰した顔の熱が、あっという間に引いていく。
やっぱり退屈だったよな、だから漫画の真似事なんてし始めたんだろうし、やることもう少し考えてから呼べばよかったな――申し訳ない気持ちで、もう一度瑛人を横目に見やる。
すると瑛人は、窮屈そうに膝を抱えて丸まりながら、真っ赤に茹だった顔で俺を見つめていた。
「……岳さんの部屋だと、俺の理性がもたない」
「……うぁ……は、はい……」
俺は胸を押さえつけながら、息も絶え絶えに返事をする。
――な、な、なんだよそれーっ……!?
それからの水曜日は、決まって外で会うようになった。
十月に入って二度目の水曜日。今日は、県の中心部にほど近い、ショッピングモールで待ち合わせだ。
なにをするか事前に決めることは、あまりなくて。会ってすぐファミレスやカフェに入ることもあれば、なんとなく空いているベンチに腰かけて、たわいない話をしたり。
あとはゲームセンターで、対戦ゲームをしたりもした。瑛人はゲームまで上手なのだ。
モールをふらつきながら待っていると、瑛人から少し遅れると連絡が入る。委員会活動が長引いてしまっているらしい。
『がんばって』と返事を打ち、瑛人はなんの委員会に入っているんだろうなぁ、なんて想像を膨らませる。
そもそも学校での瑛人って、どんなふうなんだろう。モテモテなのは間違いないだろうけど、それに対応する姿はあまり想像がつかないな。
見た目のまま王子様のように対応していそうでもあるし、案外クールな一面もあるから、塩対応していても、それはそれで人気が出そうだ。
――でもやっぱり優しいから、王子様対応かな?
ふふ、と口の中に笑みを閉じ込めようとしたときだった。
「あれ、岳じゃん!」
「あっ……ス、スバくん……!」
「なーに、にやついてんだよぉ」
前から歩いてきた集団の先頭に立つスバくんは、今までとなにも変わらない、やんちゃな笑顔で俺をからかった。
あまりにもこれまで通りの態度に、花火大会の日の出来事は夢……? と疑ったけれど、家が目の前なのに今日まで一度も顔を合せなかったのだから、やっぱり夢じゃなかったと思う。
こんなに顔を合わせない日々は、生まれて初めてだった。
「……っスバくん!」
「なあ、ちょっといい?」
声が重なって、あ、と顔を見合わせる。それから、どちらからともなく口元を緩ませて。
「じゃー、そこ座ろうぜ。おまえら適当にどっか行っててー。あとで合流するから」
スバくんは仲間たちにそう声を掛け、俺と並んで、近くのベンチに腰を下ろした。
「あ、あのさ、俺、ずっと話したくて……! 花火のときのこと!」
言わなきゃ、言わなきゃ――そう何度も心の中で決意の拳を握るたびに、声が上ずってしまう。
スバくんはそんな俺を目を細めて見やって、ぽん、と頭に手を乗せた。まるで「落ち着け」って言われてるみたいで、かなり恥ずかしい……。
「ん、俺も。つか俺から行かなきゃいけなかったよな」
あの日、スバくんは気にも留めないような笑い方をしていたけれど。スバくんも、俺のことを考えていてくれたのか。なんだか少しだけ、ほっとした。
「そんなことないよ、俺が言い出したことだし」
「でも傷つけてたのは俺だろ。ごめんな、ずっと気づかなくて」
「そうじゃなくて……! 俺が言いたかったのは、そうじゃないんだ」
スバくんが誰かをからかったり、いじったりするのは、昔から変わらない日常だ。年上だろうと年下だろうと、誰といてもスバくんはそういう立ち位置にいる人で。
けど、周りも、それから俺だって、それが悪意に満ちたものじゃないことくらい、わかってる。むしろ心の壁を取っ払って接してくれるから、スバくんの周りには自然と人が集まってくるんだ。
俺はそんなスバくんに憧れていたし、何度も救われた。だから「ずっと」なんかじゃないんだ。俺が嫌だったのは――。
「自分の好きな気持ちを笑わないでほしかっただけ、というか。でもそんなの、俺が言わなきゃスバくんにわかるわけないのに……俺が言えなかったのが悪いんだ」
「岳は言えねえだろ、そういうの。そんなの俺が一番よくわかってたのにさ」
スバくんの憂いを帯びた眼差しに、勝手に昔のことを思い出して、少し歯を食いしばる。
スバくんのこういう優しさに、ずっと甘えてきたツケなんだと思う。
言わなくてもわかってくれる、そういう関係に、甘え続けてきた。
「俺……これからはちゃんと言うから。いやなことはいやとか、自分の気持ち、言えるようになるから……だから、これからもスバくんの幼馴染でいさせて……ほしく、て」
たったこれだけのことを、十七年来の幼馴染に告げるのさえへたくそで。俺はそんな自分がほんとうに嫌いだ。
だから、変わりたい。
あの花火大会の夜、たくましい背中に守られたときに、たしかにそう思ったんだ。
「……んなのは、俺のセリフだっつうの。いっぱい傷つけたのに、離れないでいてくれてありがとな」
髪の毛をぐしゃぐしゃにかき混ぜられ、前髪のカーテンはしっちゃかめっちゃかだ。スバくんはそれを、す、と左右に分けてしまう。
そうすれば目の前には、情けない顔で笑うスバくんがいた。
「そんな顔、初めて見た……」
「あー? どんな顔だよ、こら」
「いて、いてててっ! や、やめて!」
「ハイ」
鼻をつまみあげられ、俺がとっさにそう言うと、スバくんの手はぴっとお行儀よく膝の上に揃えられた。そんなの、笑うしかない。
「おまいう、だけどさ。やっぱ岳は笑ってろよ、そのほうが絶対いいって」
やっぱり、スバくんはずるい。結局また、そういうことを言ってくるんだから。
いったい何度目だろう。俺がスバくんにこうして慰めてもらうのは。
どの記憶を辿ってみても、胸が、あたたかくなる。……ちゃんとあたたかくなることに、安心した。
スバくんに気持ちがバレてからは、思い出すたびに、つらくなるばかりだったのに。
「もう……大丈夫。俺、いま、ちゃんと楽しくやってるから」
瑛人の優しい笑顔が、ぽっと心に浮かぶ。
「そっか。じゃあ……あのイケメン彼氏に感謝だな。俺にはすげえ感じ悪かったけど?」
「あのときは、俺のこと心配してくれてただけだよ。瑛人は優しくて、かっこよくて、ほんと完璧で……って、だから、まだ彼氏じゃないってば……!」
「あは! ノロけんなよなーったく!」
「ノロけとかじゃなくて!」
そんなのじゃ、ないけど。またこうして、スバくんと向かい合って遠慮なく笑いあえるのは、間違いなく瑛人のおかげだから。
「……ほんとうに、素敵な人なんだよ。俺なんかにはもったいない……と言うことさえおこがまし――」
と、言いかけたとき。スバくんの切れ長な目が、ぎょっと見開いた。
「岳さん」
――へ?
ふ、と背後から伸びてきた腕は、俺の肩を抱き寄せ、あっという間にベンチから立たされた。突然のことに案の定よろめいた俺の貧弱な身体を、片腕で丸ごと受け止めてくれるたくましい人――。
「えっ、瑛人……!?」
かすかに切れた息が、耳元をかすめていく。
「遅くなりました、すみません」
「やっぱこえーんだよ、おまえ……」
目の前のスバくんは、俺の後ろに目をやって、げんなりとそう言う。
「べつに話してただけだから、なあ、岳」
「う、うん! あの、ほんとだよ瑛人――」
と、顔を見合わせて伝えたかったんだけど、な。
ぎゅうっと腕に力を込められて、身動きがとれない。こんなのまるで、自分のだって主張されてるみたいで、恥ずかしいんだけど……!
「……まあ、いいじゃん。岳にはこれくらい、わかりやすいのがいいわ」
「へ」
「じゃな。イケメン、岳のこと離すんじゃねーぞ?」
「言われなくても――」
「はいはいはい!」
スバくんはけらけらと軽快に笑いながら、俺の肩にグーを押し当てて、そのあと瑛人の肩にも同じことをして、去っていった。
なのに、瑛人はまだ、俺を片腕で抱きしめたままだ。
「……え、瑛人さーん……?」
田舎のショッピングモールとはいえ、学生や子供連れがいないわけじゃない。こんなのちょっと……まずい。
「……委員会なんかサボるんだった」
「……えぇ……?」
腕の力が緩んだ隙に、ぱっと後ろを振り向いた。
「……あ、っと、委員会、お疲れさま……?」
「……ありがとうございます」
顔を見合わせると、さっきまで触れ合っていた場所の熱は、あっという間にどこかへ飛んでいく。
だって瑛人――すごく疲れて見える。目に輝きがない。
「あの、どっか座ろっか?」
「……二人になれるとこ、行きたい」
「へ!?」
とんでもないことを言われて、腰を抜かしそうになった。
冷静に考えればわかる。それくらい疲れてるってことだ。それ以外の意味なんてあるわけないのに……俺の煩悩はほんとうに手ごわい。
「え、えと、どこだろ、カラオケ……漫喫……は、近くにはないから……」
「……ふ、嘘。冗談。今の俺とそんなとこ行ったら、岳さんやばいですよ」
「…………な、なんて……?」
石像のように固まった俺のことを置いて、瑛人は先に歩き出す。
その大きな背中に投げかけたい胸の叫び――や、やばいって、なにが……!?
完全に機能を停止した頭を抱えたまま、ぽつぽつ瑛人の半歩後ろを歩いていると。
「寄る?」
瑛人は本屋の前で、俺にそう目配せをしてくれた。
「へ……あ、う、うん。いいの?」
「ん、行こ」
そのときの微笑みが、やっといつもの瑛人のやわらかいそれで、少し安心した。と同時に、心がぽかぽかして、じんわり頬が熱くなる。
どれだけ疲れていても。瑛人は本屋を通りかかれば、俺に目配せしてくれるんだ……そんなのって、ちょっとくすぐったい。
俺のことわかってくれているみたいで、嬉しくて、困る。
ムフッとしてしまわないよう唇を噛みしめながら、俺は行きつけのコーナーへと迷わず突き進んだ。
「はっ……!」
思わず手に取ったそれは、しばらく続巻の出ていなかった王道じれきゅんBLの最新巻。この表紙、見覚えがないし。帯の煽りからして、いよいよ結ばれる気配が漂っている。
いつまでも素直になれない二人が尊いのだけど、こういう二人が結ばれたときの多幸感ってたまらな――。
「あ、それ、前に貸してもらったやつですよね?」
ぽす、と肩に顎が乗せられたかと思えば、覗き込むように顔を寄せられる。瑛人の綺麗な黒髪が、頬をかすめた。
「え、アッ、ソ、ソウカモ」
ひゅっと変な呼吸になった俺とは違って、瑛人はいつも通りの涼しい声で「新しいの出ててよかったね」なんて言ってるんだ。その幸福感をまるごと奪っておいて、ひどいんじゃないか……!?
「ちょっと、近すぎるよ、誰かきたら……!」
「誰もこなきゃいーんだ?」
「なっ、なに言って――」
「漫画とおなじことしたら、きゅんとしてくれんのかなって思ったんですけど。ちがったか」
――ち、ちがうわけないだろぉ……っ!
もうこっちは、とっくに心臓が悲鳴をあげている。きゅん、どころの騒ぎじゃない。ぎゅんぎゅんしてる。
瑛人は、いつか俺の部屋でも、漫画の真似をしてきたけれど。もう少し自分の存在について、正しく認識したほうがいいと思う。
迂闊にこんなことを繰り返していたら、いつか俺が気を失うぞ。
「瑛人はいまのままで……もうそのままで、十っ分、二次元なので……っ!」
「なんだそりゃ」
耳元でくすぐったそうに笑われると、やっぱり恥ずかしかったけど。瑛人が笑ってくれると、嬉しい。距離が近すぎて、恥ずかしくてどうしようもないのに、その笑顔から目を逸らすのがもったいなく感じられた。
「じゃあどんどんやってきますね、こういうの」
「やめて! そんなの心臓もたない!」
「……あとどれくらいドキドキさせたら、岳さんは俺のになってくれんのかな」
「……へ……?」
腰に添えられた手が、ぎゅ、と俺の服を掴んだのがわかった。
「なんて、ねー。ほら、買うなら早くレジ行きましょ」
瑛人はそう言って誤魔化したけれど、誤魔化されるわけない。俺だって、だてに『気にしい』をやってるわけじゃないんだ。今日の瑛人は、やっぱり変だ。
離れていく瑛人の腕を、とっさに引き留めていた。
「岳さん?」
「やっぱり、どっか座ろうよ。お店入ってもいいし」
そう言うと、綺麗な瞳は驚いたように二度、三度瞬く。
「ね、ちょっと話そう?」
瑛人はこれでもかと眉を引き下げて、それから、小さく頷いてくれた。
俺たちは屋上フロアの、人気のないベンチに腰をおろした。
屋上には駐車場しかないので、平日は特に閑散としている。外はだんだん、夕焼けのオレンジに染まり始めていた。
「えーと……」
俺というやつは結局は頭の回路がめちゃくちゃにできているので、言い出したものの、話の持っていき方までは考えついていなくて。
「……あ、っと、瑛人は何委員なの?」
知りたいけど、べつに今じゃなくてもいいこと聞いちゃった――。
「文化祭の実行委員ですよ。男気じゃんけんで勝っちゃったの」
「あは、そういうのするタイプなんだ」
なんとなく、クラスの一番後ろの席で、状況を静観していそうなオーラがあるのに。そんなのちょっとかわいい。
「岳さんは? 委員会……あ、待って、当てるわ」
当たるわけない、だって俺、委員会入ってないし……。
「美化委員!」
「はずれ」
「うっそ、じゃあ放送委員……いや保健委員もアリかも」
真剣な顔にいよいよ罪悪感がわいて「入ってませんごめんなさい」とひと息に告げると、優しく頬をつねられた。
「ごめんね?」
俺が謝ると、くやしそうに歪んだ唇が、ふにゃりと解ける。
「おちょくりやがって」
言葉とは裏腹な無邪気な笑顔――よかった、笑ってくれた。嬉しくて胸がほんわかする。
「……好きだよ、岳さん」
「うん…………ん?」
――あ、あれ? 好き、って聞こえたけど文脈おかしいよな? 繋がらないよなそこに……でも顔、赤いなぁ……。
「好き、ほんとに好き」
聞き間違いじゃなかった……。
瑛人の好き好き攻撃は、あるとき突然、気配もなくやってくる。俺はいつだってそれにおろおろして、すごくかっこわるい。
今もそうだ。なにかを訴えるような視線にじりりと迫られ、耐え切れず目を逸らしてしまった。
「……はやく俺のこと好きになって」
切実さを滲ませた声が、さらに追い打ちをかけてくる。
また心臓が跳ねて、と同時に、あれ、と違和感が押し寄せた。
瑛人はずっと、俺なんかを好きだと伝え続けてくれている。けれどこんなふうに、縋りつくような言い方、したことあったっけ……?
「……ねえ瑛人。やっぱり、なにかあったよね?」
なにが違うかって、うまくは言えないけれど。今日の瑛人は、ちょっと変だ。
俺じゃ相談相手にはなれないかもしれないけど、ただ言葉をこぼすだけでラクになることだってきっとあるはずだと思った。聞くくらいなら、俺にだってできるのに、な。
瑛人は床に視線を落としたまま、言った。
「ほんとに、なんでもないです。すみません、心配させちゃって」
「いや、それは全然……いつも心配かけてるのは俺のほうだし……」
と言ったところで、思い出す。
あれだけ心配をかけたスバくんと仲直りできたってこと、まだ瑛人にきちんと報告できていなかった。瑛人のおかげだって、お礼を言いたかったのに。
「あの、さっきスバくんとね、花火の日のこと、ちゃんと話せたんだよ。俺一人じゃ絶対無理だったんだけど、スバくんも話したいって思ってくれてたみたいで、それで――」
ぱっと顔を、瑛人のほうへ向けた瞬間だった。
「んむっ!?」
口元に押し当てられた瑛人の手のひらは、少し、湿っていた。
「――あんまり名前、呼ばないで」
消え入りそうな声。うるんだ瞳が、どんどん目の前に迫ってくる。
そんな泣きそうな顔、しないでほしい――俺は願うような気持ちで、瑛人の頬に手を伸ばそうとしていた。
「……すみません」
けれど瑛人は俺から手を放し、それから素早く立ち上がる。
「今日、帰ります。今の俺、なにするかわかんないんで」
「え!?」
「待たせちゃったのにこんなの……ほんとすみません」
「や、それはいいんだけど、あの――」
「気をつけて帰ってください。また連絡します」
そう言って去っていく、いつもよりわずかに丸まった背中を、追いかけたほうがよかったのかな。俺にはわからない。
ただ、追いかけたところで結局頼ってはもらえないのだから、変な気を遣わせてしまうくらいなら、そっとしておいたほうがいいような気もした。
――まあ俺じゃ、頼りないよな……。
やっと少し、強くなれたような気がしたのに。まだ全然、瑛人の隣に立つ資格はないんだなと、思い知らされてしまった。



