~瑛人side~
七歳の夏、俺は西町花火大会の会場で見事迷子になった。
気がついたら目の前にいるのは、チョコバナナ屋のおっちゃんだけ。父さんも母さんもいない。
頼みの綱のおっちゃんも、てんやわんやで、たぶん俺のこと見えてなかったんだと思う。屋台に並ぶ大人たちの視線が痛くて、俺は一人駆け出した。
歩いても歩いても、父さんも母さんもいない。すれ違う大人たちに、俺は見えていなかった。勝手に溢れてくる涙で、余計にみじめな気持になった。
ひょっとしてこのまま、自分は誰にも見えない子になっちゃうのかも……なんて不安になっていたとき、目の覚めるようなオレンジ色のTシャツが、目の前に立っていた。
「ねえ、君も迷子?」
その男の子は、俺をなお追い詰めてきた。
「迷子になったら、動いたらダメなんだよ!」
……俺の絶望ったらない。
だってもう、かなり歩いてきてしまった。振り返ってもチョコバナナ屋なんて見えやしなかった。
大泣きする俺の手を取って、オレンジの子は言った。
「だいじょうぶ! 俺とここで一緒に待ってよ。ぜったいお母さんが迎えにきてくれるから、そしたら迷子をホゴしてくれるところに連れて行ってもらおうね!」
全然知らない子だけど、俺はこの子に頼るしかなかった。
それに不思議と、この子が言う「だいじょうぶ」は、本当に大丈夫な気がしたんだ。よく考えれば、おなじ迷子なのに変な話だけど。
そのオレンジの彼は、俺の名前を聞いてすぐ「えいと!」と屈託なく笑った。
「俺はガクだよ! がっくしのガク!」
「がっくし?」
「がっくしだよ、うーんと……今の俺たちの気持ちみたいな? せっかく花火大会来たのに、迷子になってがっくし~」
「ああ……しゅんとするみたいな気持ち?」
「そうそう! そんなかんじ!」
歯抜け笑顔でにかっと笑われて、全然しゅんとしてないじゃんって思ったんだけど。
そのあとすぐにガクくんのお母さんたちが見つけてくれて、俺は無事、迷子預り所に届けられた。
そうしたら、ガクくんは俺の手を離したその瞬間、なにかの糸が切れたように、わあわあ泣きだしたんだ。
「まったく、だから前見て歩きなさいってあれほど言ったのに……」
「だってぇ……イズミだと思ってたら、ちがう子だったんだもん……!」
ガクくんは泣きべそかきながら、俺たちと同じ年頃の女の子を指差して、お母さんにそう訴えかけていた。
お姉ちゃんなのか妹なのかわからないけど、泣いてるガクくんの手をずっと握っていて、一人っ子の俺は、それがちょっとうらやましかったりしたんだ。
「あっ、えいと……えいと……!」
ぐちゃぐちゃの顔で名前を呼んでくれたガクくんは、そんな俺の視線に気づいたのかな。わからないけど。
「えいとも大丈夫だよ、ぜったいお母さんたち、きてくれるからね!」
ガクくんは泣き顔から一転、また歯抜け笑顔で、そう励ましてくれたんだ。
あ、そっか、俺があんなに泣いてたから――?
ガクくんは一生懸命我慢して、笑っていてくれたのか。
俺はやっと、ガクくんの優しさに気がついた。
「ガクくん、ありがとうね。ほんとにありがとう」
「え? どうして? 俺のほうがありがとうだよ! えいと、一緒に花火見てくれてありがとう!」
そのときの泣きっ面の笑顔は、甘くてとろけそうで、嬉しいのにくるしい、変な気持ちになった。胸がぎゅっとした。
また会いたいな、また遊びたい、ガクくんはどこに住んでるのかな、どんなゲームが好きかな、なんて考えていれば。今度はうちの親が迎えにきた。
がきんちょだった俺は、それに安心してやっぱり大泣きしちゃって。
少し落ち着いてから、ガクくんにもう一度お礼を言おうと思ったんだ。
けど、振り返ったら、もうそこにガクくんはいなかった。
また遊ぼうって、言えなかった。ありがとうも、バイバイすら言えなかった。
俺はそのあと、ずっと泣きじゃくっていたらしい。自分でもあんまり覚えていないくらい。
それから俺は、毎年西町の花火大会に行った。
まったく近いわけでもないのに、小さな頃は親にせがんで、中学くらいからは友達を誘ったり、一人で行った年もあったな。
もちろん花火なんかどうでもよくて、俺はただ、オレンジ色のTシャツと、とろけそうなふにゃっとしたあの笑顔を探しに行ってたんだ。
けど当然、見つからなかった。この世に運命なんてないって思った。
考えてみれば夏休み中だし、親戚の家に遊びにきていたとか、そういう可能性だってある。でも俺は、なぜかどうしても、ガクくんを諦められなかった。
「なあ小湊、知ってる? 二年に化け物級にかわいい先輩がいるんだって!」
「化け物ならかわいくなくね?」
「まじなんだってば! 吹部のやつが言ってたんだけど、アイドルよりかわいいらしい!」
「へえー」
「興味ねえの? おまえならぜってーいけるって!」
クラスメイトのテンションがうざかったのもあるし、そもそも興味もなかったけれど、その先輩の話は耳にタコができるくらい、何度も何度も色んなヤツから聞かされた。
彼女は「イズミ先輩」と呼ばれていた。
俺はその「イズミ」という名前が引っかかった。
数少ないガクくんの情報の一つ。姉か妹かはわからないけど、あのとき一緒にいた女の子の名前は「イズミ」だった。
めずらしい名前じゃないし、そんなドラマみたいな奇跡はそうそう起きないことも、もう知っていた。
けれど、彼女が時折見せる笑い方に面影がないとも言えず、探りを入れてみればすぐにわかった。
双子のお兄さんがいて、そのお兄さんの名前は「ガク」。地元の高校に通っているってこと。
「すんげえ地味なの! 双子なのに全然似てなくてさぁ」
同中だったらしい男子は、そう言って笑っていた。
地味……ではないよな。あの日の目の覚めるようなオレンジ色が、にかっと笑った歯抜けの笑顔が、目に焼きついて離れない。
ガクくんは優しくて強い、しっかり者の俺のヒーローだ。地味というより、優等生タイプのはず――。
気になってしかたなくて、俺はある日、泉先輩を尾行した。ガクくんかどうか、この目で見たほうが早いと思ったんだ。
「ねえ、なに? あんた一年?」
……一瞬でバレた。さすが町のアイドル。警戒心が半端じゃない。
「泉先輩のお兄さん……ガクさんに会わせて欲しいんです」
「ぜっったいイヤ! どうせ馬鹿にするつもりで――」
「そうじゃなくて!」
幸いにして泉先輩は、お兄さんの迷子事件を覚えていた。つまりここで確定したわけだ。彼女が、あのガクくんの妹だってことが。
やっと……やっと会える。
あの日言いそびれたこと、ずっと抱えてきたむずがゆい気持ち、大きくなったガクくん――けれど俺の興奮とは反対に、泉先輩の目は死んでいた。
「本気……? だってあんなのほんの一瞬……しかも何年前の話よ……?」
「本気ですよ、あの日ガクくんが着てた服の色も覚えてます」
「こ、こわぁ……」
まあ、そうだよな。俺も自分が怖くなるときあるし。
けど、あの日からずっと、なぜかガクくんのことが頭から離れなかった。どうして繋いだ手を離してしまったんだろう、せめて住んでる場所くらい聞いとけばよかったって、何度も何度も後悔したんだ。
こんなチャンス、二度とない。偶然を運命に変えられるかもしれないんだ。
「……北高前の本屋によく寄ってる」
「え?」
「おにぃ記憶力悪いからきっと覚えてないし、あたしも完全に信用したわけじゃないから、紹介は無理。怖いもんアンタ」
……うん、たしかに似てないな。ガクくんはこんな冷めた目、絶対しない。
俺はそれから、毎日本屋に通った。けれどガクくんは来なかった。
なのでしかたなく、家から近いわけでもないけど、そこでバイトを始めることにした。
入学してすぐにファミレスバイトを始めたけれど、ここまで通う交通費は、正直馬鹿にならない。要領はいいほうだと自覚しているし、勉強に差し支えがあればやめればいいか、なんて少し軽い気持ちだった。
そんなある日のこと。常連のオタクっぽい男の子のレジにあたったときだ。
「カバーおかけします……」
「け、けっこうです」
相変わらず食い気味だなぁ……。
会計の終わった三冊の漫画を揃えて男の子に渡そうとすると、半裸……いやほぼ全裸で赤面する男の表紙を見て、彼は口元を緩ませていた。
長い前髪の隙間から覗く、甘くとろけそうな眼差し――
えっ、と一瞬息を呑んだ。
「ガ……っ」
「す、すすみませんっ! 失礼しました!」
一瞬のうちに男の子は漫画を奪い取り、走り去っていく。
「……あれ……?」
なぜか俺は、「ガクくん」、彼に向かってそう口走りそうになっていた。
すげえ地味なんだよ、と笑っていた、いつかの同級生の声が頭に響く。
「もしかして、あれが……ガクくん……?」
あの子なら、何度も何度も、この本屋で見掛けたことがある。
とても信じられない気持ちだった。
けれど何度思い返してみても、あの眼差し――とろんとした、あの眼差しだ。あれは俺がずっと……八年間ずっと、探し続けてきたあの笑顔とおなじだった。
――そっか、あの子が今のガクくん……なのか。
ガクくんがオタクになっていたからって、べつに俺の気持ちは一つも変わらなかった。
多少戸惑いはしたけれど、それでも俺は、ずっとガクくんに会いたかったんだ。それが叶ったんだから、戸惑いよりやっぱり嬉しさが勝る。
今度こそ友達になってもらうんだ――そう思いつつ、どう話しかけようか、どうすれば気味悪がられないか、悩みながら彼を観察する日々が続いた。
よく見ていれば、彼は毎度同じ、とろけそうな顔で漫画を手に取り、それをぎゅっと胸に抱き、気配を消してレジに現れる。
俯いたまま、会計が終わって自動ドアを抜けるその瞬間にやっと、こらえきれないといったように、顔を綻ばせるんだ。
――かわいい人……。
「…………は?」
「どうかした? 小湊くん?」
やばい、声に出てたか。
「なんでもないです、すみません店長」
「ならいいけど、顔も赤いし……具合悪いなら上がっていいよ?」
「……顔、赤いですか」
「うん」
バイト中、自動ドアが開くたび、胸が高鳴る。
それがガクくんだと「いらっしゃいませ」の声が彼の耳に届くように、少し声を張ってしまう。バイト仲間に「居酒屋か」って言われたこともあったな。
迷うことなく二階へと突き進むガクくんの姿を、つい目で追って。
裏表紙を差し出すガクくんのか細い指先を、目に焼き付けようとしている。
今、ガクくんの背中を見送りながら、突如心に降ってわいたひとり言。
おまけに店長いわく、顔も赤かったなんて。もうこんなのは――ひとつしか思い当たらない。
けれど俺は、ガクくんに存在すら認知されていないと思う。ガクくんは、まったく人の顔を見ないから。身長差もあるけど、それでもありえないくらい目が合わない。
王子様みたい、高(たか)嶺(ね)の花なんて言われてきた俺にとって、それはちょっとめずらしいことだったし、何よりあの日、ガクくんは俺の変な色の瞳を褒めてくれたんだ。花火より綺麗だね、って。
少し人と違う瞳の色のせいで、からかわれたり、仲間外れにされたりしがちだったあの頃の俺にとって、それがどれだけ嬉しい言葉だったか――は、ガクくんは当然知らないだろうけど。
とにかく目が合えば、きっと思い出してくれると思ってたのに。全然こっちを見てくれない。ずーっと、やらしい漫画しか目に映ってない。
そんな愛おしそうな目するんだな、ガクくん。
たとえば彼女……いや彼氏なのか? ができたら、ガクくんはあの目で相手を見つめるんだ。
……そんなの、やだな。
やっぱりこれ――恋、だ。
あのとろけそうな眼差しに、俺は一目惚れしてしまったんだ。
誰かを好きになったことなんてないから、正解かはわからなかった。けど、ガクくんのあの笑顔を独り占めにしたい、できればあの瞳に、俺以外なにも映してほしくない、俺が、ガクくんにあんな顔をさせてみたい――こんな身勝手な気持ちは、きっと恋でしかないと思った。
そんなふうに初恋を自覚してから、数日後のことだ。
珍しくガクくんが、漫画じゃない本をレジに持ってきた。俺は目を疑った。
「……これ、東京の大学っすよね?」
「あっ、ハイ、そうです」
再会して初めて交わした会話は、俺にとってあまりに残酷なものだった。
あれこれ一人でのたうち回っているあいだに、ガクくんはまた、ここからいなくなろうとしていた。
もう振り向いてこの人がいないのは、嫌だ。
「泉先輩、お願いします、一生のお願いです」
「そんなクソデカ感情持ってて、今まで何してたの!?」
なんと蔑まれたっていい。なんだってする。毎日昼飯おごれって言われたって喜んでやりますから……だから、お願いです、泉先輩様。俺をガクくんに会わせてください……!
「岳さん、花火、綺麗だったね」
「……うん」
こうして俺はまた、ガクくん……じゃなくて岳さんと一緒に花火を見られたんだ。やっと、やっとここまできたんだ――胸に迫りくるものがあった。
がっくしのガク、あの日、自分のことをそう紹介したガクくんは、俺にはそんなふうに見えなかった。
けどあれから何年もかけて、そのがっくしばかりが煮詰められて今の岳さんになったんだろうなと思うと、俺はどうしようもなく彼を抱きしめたくなる。
「岳さん……今日来てくれてありがとね」
再会した岳さんは、いつも言うんだ。何かするたび言うんだ。
俺なんか、俺みたいなのは、おこがましい、ありえない、ごめんね……うんざりするほど自分を否定する。
「そ、そんなの、俺のほうこそだよ」
ほら、今もそう。俺なんかと、って顔に書いてある。こんなになりふり構わず好きって伝えても、岳さんはまだわかってくれない。
「あ……っと……」
岳さんは、また下を向く。
ねえ岳さん。俺はずっと、出会った日からずっとだよ。種類はちがったかもしれないけど、ずっと特別に思ってきたよ。
もっと早く伝えたかった。そばにいたかった。
つらいとき、自分より相手のために笑える人だってこと、俺は知ってるから。俺が隣で……いや後ろだっていいけど、支えたかったって思うよ。それこそおこがましいけどさ。
「岳さん?」
俯いてなにか言いたげだった岳さんの足が、とうとう止まる。振り向くと、めずらしく視線が交わって心が躍った。
長い前髪ですべて隠されてしまっているけれど、岳さんの猫目はかなり愛らしいんだ。泉先輩の目力百パーセント! とはちがうけど、庇護欲をかきたてる、結構罪深い目つきだと思う。
汗のせいか、いつもより少しだけ分かれた前髪の隙間から、その目がちらちらと俺を見つめていた。
「え、瑛人っ……」
「は、はい」
な、なんだろう、そんな改まって呼ばれると、嫌でも背筋が伸びてしまうんですが……?
「あの……」
やっぱり気の迷いでした、なんて言われたらどうしよう……。おそるおそる岳さんに近づいて、顔を覗き込んだ。
「花火、一緒に見てくれてありがとうっ……!」
……油断した。至近距離で渾身の一撃、くらった。
――えいと、一緒に花火見てくれてありがとう!
あの日のガクくんと、目の前の岳さん。全然別人みたいなのに、おんなじこと言うんだ。
俺の方がずっとありがとうなのに。あのとき手を差し伸べてくれて、俺を励ましてくれて、それから今もまた、こうして俺を受け入れようとしてくれて。ぜんぶ、ありがとうは俺のほうだよ。
岳さんは、俺の憧れたガクくんとは、少しちがう男の子になっていた。
けれどやっぱり、根っこはおなじだ。
自分の気持ちよりも、相手の気持ちを大切にしてしまう人。
ある日突然、妹を利用して目の前に現れた俺を、岳さんは一度だって拒んだりしなかった。
勝手に待ち伏せして、熱中症になって、そんなダサい俺でも、岳さんは引くどころか、看病までしてくれて。
もどかしくてつい一方的に迫ってしまったときだって、結局最後には「いやじゃないと思う」なんて言って、許してくれちゃうし。
これまで、きっとたくさん、傷ついたことがあったはずなのに。
ファミレスでも、ついさっきも、たとえ自分がどれだけの大怪我を負っていたって、無理して笑って、誰も傷つかないように振る舞う。繊細なくせに、優しすぎるんだ。
だからきっと、俺のことも突き放せないんだよな。
俺は悪い男だから、思い切りそれにつけこませてもらう予定だけど。
――その分、一生かけて、世界中の誰よりも幸せにしてみせるから。
――ぜったいに、後悔させないから。
湯気が見えそうなくらいほくほくしている岳さんの顔を、じいっと見つめる。そのいじらしい瞳に、勝手に誓いを立てた。
「……好きだよ、岳さん」
「なっなに急に、」
「好き。好き好き好き……」
「まって、人増えてきたから……!」
まずは、うんざりするほど岳さんが自分を否定するなら、うんざりするほど好きだって、俺が伝えよう。今そう決めた。
照れくさそうに俺を咎めたあと、長い前髪の隙間から、とろけそうな瞳が覗く。岳さんのこの瞳に、やっと俺が映ったんだ。
「……岳さんって、ゲームなにが好き?」
「ゲーム? あんまりやらないけど……あつ森とか」
「ふっ……ぽいわ」
いつかわかってよ、岳さん。自分がどれだけ愛されているのか。
どれだけ自分が、小湊瑛人って人間にとって特別な存在なのか。
大丈夫、時間はたっぷりある。
もうこの手は、絶対に離さないって決めたんだから。



