夏休み三日目の朝。今日はスバくんたちと話題の映画を観に行くことになっている。
「泉は本当に行かないの? みんな泉目当てで俺を誘ったんだろうに……」
泉目当てでもあり、泉が誘う女の子にも期待しているんだと思うけど。
「そんなことないでしょ、それにスバくんたちうるさくて嫌いなんだもん」
「そんなはっきりと……」
歯に衣着せぬ物言いは、父さんによく似ている。
父さんはなにかと俺に、「岳には期待してないんだから、気にせず好きなようにやれよ!」と明るい笑顔で言ってくれる。
それがプレッシャーに弱い俺への励ましの言葉だとわかってはいても、やっぱり気にしいな俺は、なんとなくがっくしきてしまうのだけれど。泉はそれを隣で聞いていて、尊重されていて羨ましいと思うらしい。
まっすぐに言葉のキャッチボールができるのは、すごく生きやすそうだなと思う。
俺はてんでだめ。いつだって裏読みしてしまって、呆れ顔の母さんに「気にしすぎよ」となぐさめられるのが、美園家のお決まりになっている。
泉は行かないというので仕方なく一人で準備をして、俺は向かいのスバくんのうちへ向かった。
「おす、岳ー! セミうるせぇな!」
「おはよ、スバくん。本当、今年は特にすごいね」
「なー」
やっぱりスバくんは、俺が泉を連れてこなくてもなにも言わない。ごく普通に『俺と』遊んでくれる。そういうところが好きだった。
今日は県の中心部でもさらに市街地まで出なければいけないので、バスを二本乗り継いで行く。乗り慣れないバスに浮ついた心持ちでいると、スバくんには「小学生みたい」と馬鹿にされた。
「おまえ、そんなんで東京行って大丈夫なわけ?」
「それはそうなんだよね……」
スバくんの言う通りだ。不安がないと言えば大嘘になる。
けれどやっぱりこの町に、俺の居場所はない気がして。誰も自分を知らない場所に逃げ込みたくなってしまったんだから、やるしかないのだ。
流れていく田園風景をぼんやり眺めているうちに、バスは目的地に到着する。
俺とスバくんは一学年差だけれど、そもそも人口が少ない町なので、俺の友達とスバくんの友達が友達、なんてことがよくある。
今日のメンバーも、俺が高一のときに同じクラスだったツッチーと、スバくんの友達のウエくんが幼馴染だったことがわかって、たまに四人で遊んだりするようになった。
「あれぇ、やっぱり泉ちゃんはいないかぁ。しょぼーん」
ツッチーはわかりやすく肩を落として言う。
「あ、ごめ……」
「おえー、いっちゃんに手出そうなんて、おまえ鏡見たことある?」
「はぁ!? スバくんさぁ、ちょっとモテるからって調子のんなし。東京行けばスバくんだって芋だよ芋!」
「俺が芋なら、おまえは……にんにくとか?」
どっとその場が沸いたけれど、俺は空気になりたかった。
やっぱり泉目当てだったよねという虚無感と、それを庇ってくれたとわかるスバくんの優しさがイタイ。自分がいたたまれなくて、背中が丸まっていくのがわかる。
大ヒット映画の内容は、あまり覚えていない。
ただ、冒頭では死んだ魚の目をしていた女の子が、エンドロール直前には幸せそうに笑っていたから、きっといい映画だったんだと思う。
それから俺たちは、近くのファミレスへ行くことになった。
俺の住んでいる町にはファミレスなんてないから、すごく貴重な体験。つまり注文のシステムがさっぱりわからない。
「スバくん、これが食べたいんだけど……どこに載ってる?」
「ん? ああこれ、番号を打ち込めばいいんだよ」
「なるほど」
慣れた手つきでタブレットを操作するスバくん。近所に住んでるはずなのに、やっぱりスバくんはすごい。デートでファミレス、よく来るのかな。
「なんかさぁ、俺らじゃ考えられないキョリ感だよな、お前ら」
ツッチーの声に顔を持ち上げると、訝しげな視線が俺とスバくんを見やっていた。ウエくんは「じゃあ俺も教えてやろっか」なんてツッチーに顔を寄せてふざけているけれど。
――ああ……これはまずいかもしれない。いつものパターンだ。
嫌な感じがして、どうかいまだけ透明人間になりたい、なんて願ったところで、なれるわけもなく。
「そりゃそうだろ~岳は俺のこと大好きなんだから」
スバくんに、なっ、と兄弟のように肩を組まれて、俺はやっぱり「うん」としか言えなかった。
俺がもっと上手に、冗談っぽくできれば、きっとこの変な空気にはならないのに。スバくんは何度も俺にチャンスをくれるけれど、俺は一度だってスバくんへの気持ちをうまく誤魔化せたことがない。
「へ、へえ~? それはどこまで本気……」
ツッチーのそれ以上の追及は、ウエくんが止めてくれた。
俺はただ目の前にあるグラスの中のオレンジジュースを、くるくるストローでかき回しているだけ。ずっとそう。
俺はスバくんへの気持ちを、真剣にも、笑いごとにもできない。ずっとこうして、混ぜているだけ。
「だけど岳も大学は東京行くって言うし、そしたら俺のことなんて忘れちゃうんだろうなぁ~」
スバくんに顔を覗き込まれると、心臓がぎくりと跳ねる。
「岳、東京の大学行くの!? えーっ、めっちゃうらやましい!」
ツッチーがうらやましがるほど、輝かしい夢や希望があるわけじゃない。俺はただここから、この人から、逃れたいだけなんだから。
「受かれば、だけど……」
「東京いいなぁ。つか一人暮らしがまずうらやましいわ」
「女の子連れ込み放題~」
「でも泉ちゃんに見慣れてたら、女の好みえぐそうではある」
「いやいや、岳はそっちじゃないもんな?」
その一言に、しんっと静まり返るテーブル。空気がとてつもなく重い。
――どうして、そんなことスバくんが言うんだよ。
その俺の気持ちは、やっぱり声にならなかった。できなかった。
どうにか笑顔を作ってはみるけど、きっとすごくへたくそだ。
楽しい夏休みのひと時にしたいのにな。俺はいつもと同じように、なにもできない。へらっと笑って、この空気がどこかへ流されていくのを、ただじっと待つだけ――。
「おひやおもちしましたー」
ガツン、という強烈な音が耳をつんざく。
突然目の前に、水の入ったグラスが一つ、乱暴に置かれた。
びくっと震えたのは、きっと俺だけじゃなかったと思う。「……っくりしたぁ」とツッチーが小さく声を漏らしている。
「あ、お冷もうあります……」
店員さんへそう伝えつつ、顔を持ち上げたとき。
――え。
前髪のカーテン越しに見えた、ぴしっと張りつめた綺麗な色の瞳。
そこに憎悪が滲んで見えるのは、きっと俺たちがうるさかったからだ。店の迷惑ですという意思表示に他ならない。
まさか守ってくれただなんて、おこがましい期待をしちゃだめだ。
「……こみなと、くん……?」
なのにどうして、俺の声は震えてしまったんだろう。喉の奥がきゅうっと締め付けられて、うまく息が吸えなかった。
地元へと帰るバス停の前で、スバくんたちとは別れた。
俺はそのベンチで、バスではなく人を待っている。
一番日差しの強い時間帯に差し掛かり、さすがに日よけの下でも照り返しに耐えられない暑さになってきていた。
そんな灼熱の太陽の下、颯爽と駆けてくるイケメンの姿が目に入る。
「岳さん、すみません。暑かったでしょ」
小湊くんこそ、暑い中小走りで来てくれたじゃん――たまらず俺は、さっき買ったばかりの麦茶を彼に渡した。
「えっいいですよ、岳さんのでしょ?」
「……ううん、まだ開けてないし、いいよ。それにまた熱中症になられても困るから……」
俺ってやつは、まったくかわいくない。普通に「走ってきてくれてありがとう」ってどうして言えないかなぁ。かわいくない子のツンデレは、普通にやなヤツ、だぞ。
「ふふっ……じゃあ、いただきます」
けれど小湊くんには、なんだか色々と見透かされているような気がする。
余裕たっぷりに微笑まれたら、年上としても、男としても、余計に恥ずかしくなってしまった。
小湊くんは、俺たちが会計を済ませたところで、わざわざレジに顔を出してくれた。あと三十分でバイトが終わるから待っててほしい、と呼び止めてくれたのだ。
スバくんのアレはいつものことだし、ツッチーとウエくんも、小湊くんのおひや騒動ですっかり忘れたような空気にしてくれていた。
けれど俺はもう、正直きつかった。小湊くんに間違いなく救われてしまった。
「あの、さっきさ……ありがとうね」
「ん? なにが?」
「えっと……いや、いいや。とにかく俺は救われたので、ありがとう、で……」
「……じゃあ、わかんないけど、どういたしまして?」
いたずらっぽく笑う小湊くんが、あの話を聞いていたのか、いないのか、ほんとうのところはわからないけれど。
ひょっとして知らんぷりをしてくれるのさえ小湊くんの優しさだとしたら、彼は見た目も中身も完璧すぎる、正真正銘のスパダリだな、なんて思った。
「んと……それじゃあ、そろそろ……」
田舎へ帰るバスは本数が少ない。さっき見送った次は一時間後だ。
これ以上、バイト終わりの小湊くんを付き合わせるわけにもいかないし、お礼も言えて満足した。
近くまで小湊くんを見送ろうと、俺がベンチから腰を上げたときだ。
「どこ行くの」
小湊くんに手首を掴まれ、簡単に引き戻されてしまう。
「ど、どこって、俺はどこにも行きませんけど……」
「じゃあなんで立ったの?」
「だって暑いでしょ、そろそろ小湊くんを見送ろうかなって」
「えーやだ。俺まだ帰りませんよ」
やだ、って? えっと……なに? それは三十度越えの暑さのなか、俺とこのベンチに座っていたいということでしょうか――?
そんなことあるわけない、もしや小湊くん、もうすでに熱中症の症状が出ているとか? 意識が混濁するとかって聞くし……。
「あの、意識ある? まさかまた熱中症……?」
「なに言ってんの、俺はまだ岳さんと話したいの」
「あ、そ、そう……なの……?」
だめだ、俺のほうがくらくらしてきた。この子、いったいなんなんだ? ひょっとしてスバくんみたいに、俺をおちょくって楽しんでる?
「ほら、この前借りた漫画の感想もお伝えしたいし」
「えっ、本当に読んだの?」
「そりゃ読みますよ。好きな人に借りたんだから。俺は泣きはしなかったけど」
「そっか、なんかそれはごめ――」
「けど、岳さんはここのシーンで泣いたのかなって思いながら読んだら、普通に楽しかったですよ」
……おちょくってる、は、ないか。
穏やかな顔でそう言われると、前に泉に鼻で笑われたことを思い出した。小湊くんは大丈夫でしょ、だっけ。今ならたしかに、俺もそう思う。この子は、きっとそういう子じゃない。
「そうだ。今から俺んち来ませんか? 漫画返すし」
そうは思っているけれど、漫画を人質にとるのは、ちょっとずるいんじゃないか?
小湊くんのお宅は、駅から徒歩十分ほどの閑静な住宅街に建っていた。
俺んちみたいな昔ながらの瓦屋根じゃなくて、四角いお家だ。おしゃれだし頑丈そうでうらやましい。
「お、お邪魔します」
「大丈夫ですよ、この時間は誰もいませんから」
「あっ……ソウデスカ」
漫画という人質に甘んじてここまでついて来てしまったけど、これで本当によかったのか、いまさら不安になっていた。
せめて自分のこと、正直に伝えてからじゃないと、なんだか卑怯な気もする。小湊くんは俺を、男友達の一人としてここへ招いてくれたんだもんな。
「あの、ごめん。小湊くん。家に上がる前に言っておかないといけないことがあって」
「なんですか? あ、水虫とか?」
「ちっがうよ!!」
「えー、じゃあなに?」
くだけた表情の彼が、俺の独白を聞いたらどんな顔になるのだろう。引きつった笑みも、無理に明るく振る舞ってくれる様子も、なんとなく想像できてしまってつらい。
「……あの、俺さ、男の人が恋愛対象なんだ。だからそのー……部屋に二人きりとか、もしあれなら今ここで……」
スバくんにしか言ったことのない、俺の本当のこと。
ついさっきまで隣にあったスバくんの軽やかな笑い声が、ぐらぐらと視界を歪ませていく。
「知ってますよ?」
「……へ?」
「前にも聞いたじゃないですか。それに、見てればわかります」
「見てればって、俺、そんなにわかりやすく小湊くんに接しちゃってたかな……ごめんね、きもちわ、」
「なに言ってんの」
強く腕を引かれ、とうとう俺は小湊くんのお宅へ足を踏み入れてしまった。
お邪魔します、と心の中で呟くと同時、怒りともとれるような小湊くんの目つきに、全身が硬直する。
「気持ち悪いとか、言わないでよ。俺は岳さんが好きなのに」
「……す……?」
す、き。
すき。
心の中で、何度も繰り返してみる。
「すき……?」
口に出した途端、どっと心臓が壊れそうなほど暴れ出した。
思わず口から飛び出てきそうで、慌てて両手で口を塞ぐ。
「まだわかってくれないの」
それ、中学の頃の家庭教師の先生にもよく言われたな。「何度言えばわかってくれるの」って。
思い返してみれば、さっきも「好きな人から借りた」とか言ってた気がする。俺の頭って本当に、回路がめちゃくちゃに作られてるんだよなぁ……。
「でもそんなの、ありえない……」
その頭で考えたってわかる。俺が誰かに一方的な好意を抱かれることなんて、あるわけがない。まして相手はこの小湊くんだ。
彼は呆れたようなため息を一つ吐いて、俺の腕を引っ張っていく。
きんっと冷えた小湊くんの部屋は、物が少なく、そのうえ整理整頓がきちんと成されているのが一目でわかった。
紺色のカーテンや白色の寝具も相まって、とても落ち着いていて清潔感にあふれる、小湊くんを象徴するような部屋だった。
「タイマーつけてバイト行くんですよ。こんなことしてるから暑さに弱くなるのかも」
がらがらと勉強机の椅子を引いて持ってきた小湊くんは、それに俺を座らせてくれる。対して彼は、俺の目の前、床にあぐらをかいて座った。
「え、じゃあ俺も床で――」
と、慌てて椅子から立ち上がろうとしたとき。
「うわぁっ!」
「いっ……てー……」
椅子のローラー部分に足の指を巻き込まれた俺は、バランスを崩して、目の前の小湊くんの上に倒れ込んでしまった。しっかり俺を受け止めてくれた小湊くんには感謝だけれど……ちょっと、まずい。
まるで俺が小湊くんを押し倒すような体勢になってしまっている。
――な、なにをやってんだ俺は……!
ひっくり返ったり、すっ転んだり、小湊くんの前での俺って、いつも以上にださくて嫌んなる。
「ごごごご、ごめん! すぐどくから!」
大パニックで冷や汗のとまらない俺をよそに、小湊くんは「ラッキー」と一言呟き、腰にひゅるりと腕を回す。
いつもより低いその声に背中がぞくっとして、次の瞬間、燃えそうに熱くなる。
――ラ、ラッキー……ってなに……!?
「あの、ちょっと……! 小湊くん!」
「ん?」
「ん? ではなくて!」
「なに?」
「なに、でもなくて、手だよ手……! 離してくれないと、どけないよ」
小湊くんの匂いや、肌の質感までわかってしまう距離――こんな格好で向き合うのは、とてもよくない。よくないです。
「よいしょっと」
「わっ! ちょっと! 小湊くん!?」
しかしまさか小湊くんは、腰に回した腕でひょいと俺を軽く持ち上げる。あっという間に俺は、小湊くんのあぐらの上に座らされてしまったのだけど。
――俺さっき、恋愛対象が男だって白状したよな!?
そしたら小湊くんはなぜか俺を、す、好き、だって言ってきて。そんな二人がとる体勢では、絶対ないと思うんだけど……!?
「小湊くんってば……!」
俺は今出せる精いっぱいの力で小湊くんの肩を掴み、手を突っ張った。
「えー……離したくないんですけど、ほんとにだめ? やだ?」
「や、やだっていうか、だめだよ、これは……」
「やじゃないなら、このままで」
腰に回された腕が、また一段階、俺と小湊くんの距離をゼロに近づけようとしてくる。突っ張った手は、あまり意味を成していない。
ふと今日の昼に食べたペペロンチーノを後悔して、息がうまく吐けなくなった。
「それにちょうどいいです、これなら岳さんも言い逃れできない。俺の気持ち、ちゃんとわかってもらえる」
「こ、こわぁ……」
小湊くんは、俺の前髪のカーテンの下を何度も覗き込んで目を合わせようとしてくるけれど、さすがにそれは勘弁してほしい。
この距離で見つめられたら、もう、心臓とまる。
あちこちに目を泳がせているうちに諦めてくれたのか、やっと小湊くんは話を始めた。
「俺、バイト掛け持ちしてて。今日のファミレスと本屋でバイトしてるんですよ。北高の近くの本屋、よく来るでしょ?」
「え、うん……あっ!? だから知ってるの!?」
「ピンポーン」
待って、ちょっと、そんなのはどうかと思う。いくらかわいくはにかんだって、ゼッタイダメ。お客様の趣味嗜好をスマホにメモるなんて言語道断だろ?
「もちろん、そんなことするのは岳さんにだけですよ。他の人はただのお客さんだもん」
「もん、じゃないんだよ……!」
「東京の大学に進学するってことも、そこで知ったんです」
「ああ、なるほど……」
って、なに納得してんだ。それだって十分おかしい。
「……それに俺と岳さん、本屋じゃないところでも会ったことあるんですよ」
「え?」
「まあ、それはいっか。きもがられるし」
「えっ、なに? どこで?」
「とにかく俺は、前から岳さんを知ってたんです。だから、レジにえぐい表紙の漫画持ってきたときは、ちょっとびっくりしました。男いけるのかって」
「いやいやいや……腐男子っていっても普通に女の子が好きな人のほうが多いと思うよ……?」
俺は偶然そうだっただけで、SNSで繋がっている同志たちも、彼女がいたり結婚している人のほうが断然多い。
けれど世間的には、そう見られることもあるのか。それはあまり考えたことがなかった。
「でも岳さんは男が恋愛対象なんですよね? じゃあセーフ?」
「セーフって、小湊くん、本当にどうかしちゃってるよ。俺みたいなやつに、君みたいなスパダリがさ――」
「スパダリ、って、なんですか?」
「……ううん、ごめんなんでもない、忘れて、一生のお願い……」
ぐだぐだになっている俺を目の前にしても、小湊くんは甘い顔を崩さない。そんなのやっぱりおかしい。……どうして? スバくんなら絶対笑い飛ばすとこなのに。
「岳さん、とろけそうな顔してるんですよ。本屋で漫画を手にするときも、俺にその話してくれるときも」
小湊くんの手が、俺の髪に触れる。まるですごく大事だよって言うみたいな優しい撫で方、やめてほしい。
だって俺はそんな価値のある人間でもないし、小湊くんが言ってる『とろけそうな顔』って、要するに俺が「ムフッ」とか「グフッ」ってしてるその顔のことだろ?
どう考えても恥ずかしいし、普通にキモいって言ってくれたほうが、むしろ安心するまであるんだけど……。
「あの顔好きです。俺にも向けて欲しい」
「な、なに言って……」
「俺も岳さんの好きなものになりたい」
「ちょっ、と、こみなとくん」
「その声もかわいくて好き」
「なっ……ちょ、ちょっともうストップ! 無理無理! 限界っ!」
「え、なに? 力強かった?」
怒涛の攻めに、いよいよ俺は怒りを覚えた。ずるい。経験値が違うんだ。もう少し手加減してほしい。好き好き好き好き、俺には刺激が強すぎる。
どうにか腕の中から抜け出して、やっとまともに息ができる――そう思ったのも束の間。
「離れすぎ」
ふわりと後ろに引き戻されれば、今度は背中に小湊くんの鼓動が響く。耳元を、小湊くんの息がかすめていく。
「距離がおかしい……!」
もう誰か助けて――いまにも叫び出したい気持ちだった。
「こういうの、俺とじゃ嫌ですか?」
いや、とか、そうじゃないとか、考える余裕も与えないくせに、そんなこと聞かないでほしい。
ばっこんばっこん、心臓がうるさい。
けど、その合間合間に、違う音がすることに気がついた。とっとっと……まるで駆け足みたいな音。
これ、背中から伝わってくる、小湊くんの心臓の音だ。
――ドキドキしているの、ひょっとして俺だけじゃないの……?
どこからどう見てもまごうことなきイケメンで、すべての要素を兼ね備えたスパダリの小湊くんが、俺なんかを包み込んでドキドキ……するか? 信じられない、そんなの。
けど、鼓動の速さは自分の意思じゃどうしようもないことも、よくわかっている。今の俺だって同じだ。少し落ち着け! と何度言い聞かせてみても、ちっとも言うことを聞いてくれない心臓を抱えている。
「……俺はこういうの慣れてないから、よくわかんない、けど……」
ごく、と唾を飲んだ。
それから、きゅっと身体を縮めて、なんとか声にする。
「……いや、ではない、と思う……」
自分よりもずっと大きな身体に抱き締められることなんて、生まれて初めてのことだから、よくわからない。けど、突き飛ばせないわけじゃない。俺だってこれでも一応、男だ。小湊くんだって、本気で俺を組み敷こうとする力加減じゃない。
逃げようと思えば逃げられる。けど、逃げないってことはつまり――
嫌、ではないよな……?
「あぁー……そう……なるほど、俺のこと殺そうとしてんだ、岳さん」
「はあ!? 何ふざけて……ん……の」
ついうっかり、小湊くんの腕に抱かれたまま、後ろを振り向いてしまったんだ。すぐそこに顔があること、わかってたのに。
だって変なこと言うから。まるで俺の一言で自分がだめになるみたいな、そんな言い方をするから。
人と目を合わせるのは苦手だ。せいぜい三秒が限界。
けれど今この瞬間だけは、小湊くんの迫るような熱い瞳に、釘付けになってしまった。
「ふざけてないよ」
この子、本当に俺なんかのことが好きなの……?



