国道沿いに建つ、薄暗い書店の二階。
 その一番奥にひっそり構えられたコーナーは、俺の心のオアシスだ。
「……うん、うん」
 お目当ての漫画をそっと手に取り、高ぶる気持ちを鎮めるように一人(うなず)く。
 ――先輩、オレ以外に見せないでよ、その顔――
 だって、なにこれ、最高か……?
 ついうっかり、ムフッと緩んでしまった口元を、固く結びなおした。
 階段の踊り場からこっそり一階の様子を(うかが)い、人気(ひとけ)がないことを確認したら、(しのび)のようにさささっとレジへ向かう。
 ここで知り合いに会ったら終わるので、一番気を引き締めなければいけないポイントだ。
「カバーおかけしま――」
「け、けっこうです」
 背後が気になって、一秒でも早くこの場を去りたいっていうのに。
「ありがとうございましたー」
 女性店員さんは、ゆっくり丁寧に漫画を手渡してくれるので、ちょっと困る。
 俺は慌ててリュックにそれをしまい、涼しい顔を作って自動ドアを抜けた。

 少し窮屈なこの田舎町に生まれて、十七年。俺は高校二年生になった。
 なにかと『気にしい』な俺が、今日もこの町で笑っていられるのは、他でもない、BL漫画のおかげだ。俺は日々、BLに救われている。
 だから本当は、こんなふうにコソコソしたくはない。
 けれど、なにかから隠れるように伸ばした長い前髪に、友達には「女子より細い」なんて言われてしまう貧相な体つき、その極め付けが腐男子とくれば、さすがに引かれる気がして。結局、ああいう奇妙な振る舞いになってしまう。
 誰に関心を持たれているわけでもないのに、まったく滑稽な話だけど……。
 ――いそげ、いそげ……!
 俺はせっせと自転車のペダルを漕ぎ、田んぼ道を走り抜けた。
 一分一秒でも早く、ご褒美にありつきたい――その一心で。
「ただいま!」
 じんわりこめかみに(にじ)んだ汗を(ぬぐ)い、部屋の中へ声をかける。と同時、綺麗に揃えられたローファーが目に入った。
 丁寧に手入れされ、黒光りしているそれ。俺の小汚いスニーカーよりずっと大きい。……これ、男のだ。
「おにぃ! おかえり、待ってたんだよ」
 双子の妹の(いずみ)が、居間のほうから駆けてくる。
 はっきりと整った顔立ちに、女の子にしては高身長なモデル体型。それでいて頭も良く、県の中心部にある名門進学校に通っている。
 性格は明るく、ハキハキとした物言いで嫌味がない。才色兼備な泉は、生まれたときからずっと、この田舎町のアイドルだ。
 そんな妹だから、彼氏を連れてくるのなんて当然のことなんだけれど。
 できれば鉢合わせたくはなかった。
 田舎のごく普通の高校に通う地味オタク――それが双子の兄だと知られるのは、泉にとって絶対プラスにはならないし。
 俺だって、どんな顔でいればいいのか、よくわからない。
「ま、待ってたってなに、お客さんいるんでしょ」
「そうなの、紹介するね」
 いいよしなくて――心の声は、当然届かない。
小湊(こみなと)くん。同じ学校の後輩なの」
 泉の後ろから出てきたその男の子は、(ふすま)の枠に頭をぶつけそうになって、少しかがんだ。
 背、すごく高いな……泉と頭一個分以上の差があるってことは、俺とも同じくらいの差があるということだ。
「小湊です、お邪魔してます」
 ぱっと向けられた顔から、咄嗟(とっさ)に目を逸らしてしまった。
 よく見なくてもわかる。この子、イケメンだ。
 雰囲気が、オーラが、ハイスぺ男子のそれでしかない。
「……ぁ、ハイ」
「ハイ、じゃないでしょ、おにぃ!」
 オーラに圧倒され語彙力(ごいりょく)の溶けた俺を、泉が(とが)める。
「そ、そうだよね、ごめん、びっくりしちゃって……えっと、泉の兄の美園岳(みそのがく)です」
 渋々小湊くんのほうへと目を向ける。……ま、まばゆい……。ちょっと引くくらいのイケメンだ。
 さらさらの黒髪はきちんとセットされて清潔感に(あふ)れているし、瞳の色も、俺なんかとは違う。確実に黒ではなく、かといって茶ともグレーとも言い難い綺麗な色をしている。
 つんっととがった鼻も、ふにっとやわらかそうな唇も、どのパーツももれなく綺麗なせいか主張が強すぎず、総じてバランスが完璧だなと惚れ惚れしてしまう。
 背が高くて、顔も綺麗で、泉と同じ学校ということは頭もいいってことだ。眉目秀麗とは、きっと彼のような人のことを指すんだなと思った。
 そんな小湊くんは、その綺麗な瞳で、じーっと俺を見ている。
「え、えーっと……?」
 人と目を合わせるのなんて三秒が限界の俺からしてみれば、信じられないことをする子だ……。かろうじて声になった戸惑いは、泉がすくい上げてくれた。
「あのー、ほら、小湊くん! ね!」
「あっ、ハイ。えっと……あのー……」
 なんだなんだ? 美男美女が目配せしあって、モブの立場がないのでやめてほしい――。
 もう一度外へ出ていようかなと、口を開こうとしたときだ。
 小湊くんが、泉の後ろから一歩前へ出て、俺に近づいてくる。
「がっ、岳さん」
「は、はい?」
「あの……ずっと見てました」
「……ん?」
 な、なにを?
 背中にじんわり嫌な汗をかいていた。
 だってほんとう、オーラがすごすぎる。泉に見慣れた俺ですら戸惑ってしまうくらい。
「岳さんのこと、ずっと見てたんです」
「……俺?」
 なにか悪いことでもしたっけ、と自分の胸に手を当てる。……もしかして、たまにする自転車の二人乗りを見られていたとか?
 ずっと見ていた、だなんて見張っていた、ってことだろ?
 それくらいしか悪さした心当たりはないけれど……俺一体、なにをやらかしたんだ……?
「岳さんに一目惚れしたんです。本屋で」
「…………な、なんて? 一目惚れ? 誰が? 誰に?」
「ちょっとおにぃ! 話ちゃんと聞いてた!?」
 泉に叱られたけれど、間違いなく俺は話を聞いていた。
 ずっと見ていました、一目惚れしました、本屋で……本屋で?
「本屋で!?」
「そうです。岳さんが買って行ったタイトルも全部メモしてあります」
「メモ!?」
「とろけるオメガにオトされた僕、スパダリ彼氏の夜は長い!、アルファ様の調教指導……」
「わぁーっ!? なっなっなにを言ってるの!? 小湊くん!?」
 俺はそのとき、はじめて見た。
 白い歯を見せて笑った小湊くんを――って、今そんなのはどうでもよくて!
 どうして彼が、俺の愛読書を把握しているんだ……っ!?
 驚きのあまり膝の力が抜け、俺は尻もちをつき、その尻は母さんが置きっぱなしにしていたバケツに見事すっぽり収まって、そのままぐるんと世界が回った。
「ちょっ!? おにぃ大丈夫!?」
 ごめんね泉……ださくて腐った兄で本当にごめん……!

 妹の彼氏の小湊くんに、腐男子バレしていたことが発覚してから数日後のこと。
 さすがに地元の本屋には行く気になれず、県の中心部にほど近いショッピングモールまで出る羽目になった。
『オメオト』作者さんの新刊は、連載当初から単行本化を心待ちにしてきたのだ。描き下ろしにだって、特大の期待を寄せている。今日買わないわけにはいかない。
 バスの往復運賃というやや余計な出費がかかってしまうけれど、それはもうしかたないと諦めた。
「あれ岳じゃん。どうしたの、こんな時間にめずらし~」
「わっ、スバくんっ!」
「おつかれ~」
 後ろから肩を(つか)まれ、一瞬心臓が跳ねあがったけど。それがスバくんで、ほっとした。
 近所に住んでいる一つ年上の幼馴染、スバくんは、がっつり刈り上げた右サイドがトレードマークの、見た目はちょっといかついけど、中身はすごく優しい、みんなの兄貴分だ。
 ……それから、俺の初恋の人でもある。
 スバくんは俺の手元のBL漫画をじっと(のぞ)き込み、「過激なの読んでるなぁ」と何食わぬ顔で、頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜてくる。
「ちっちがっ……これはストーリーが緻密に作られていて、この幼馴染が実はオメガで……」
「はいはい、わかったわかった。この子がウケでこの子がネコ、うんうん、わかるわかる~」
「全然違うってば! 受けとネコって同じ意味だし!」
 俺がどんなに気持ち悪くなっても、スバくんはいつだってそれを、けたけた笑い飛ばしてくれる。そんなの大したことじゃねーじゃん、ってスバくんの口癖そのまんまの笑い方が、大好きだった。
 帰り道、自転車通学のスバくんは、後ろの荷台に俺を乗せてくれる。
 だめとわかっていても、スバくんとならつい、悪いこともやってのけてしまう。もちろん本当は、だめなんだけれど。
「今日は勉強サボりの日~?」
 ちら、と俺のほうを振り向きつつ、スバくんは明るい声で言う。
 物覚えのあまりよくない俺は、東京の大学へ進学するために、日々こつこつ勉強することに決めていた。スバくんに遊びに誘われても、勉強する、と断ることも多くなったから、そんなふうに聞かれたのだと思う。
「今日は新刊の発売日だったし……それにこの間、泉が彼氏連れてきたんだよ。だからちょっと家に帰りにくい」
「えっ!? いっちゃんついに彼氏できたの!?」
「うん、そうみたい。めちゃくちゃ綺麗な男の子だった。しかも同じ学校だっていうから頭もいいんだよきっと。泉と並ぶと少女漫画の世界みたいだった」
 つらつらと出てくる感想を、スバくんは時折相(あい)槌(づち)を挟みながら、おもしろそうに聞いてくれる。俺みたいな話下手にも、話そうという意欲を与えてくれる。スバくんはやっぱりすごい人だ。
「まぁ、いっちゃんにこれまで彼氏がいなかったことのほうが変だよなぁ。このへんじゃ韓ドルよりいっちゃんのほうがよっぽどアイドルじゃん」
 妹への評価に対して、兄が返す言葉としては、やや気持ち悪いかもしれないけれど。俺は「そうだね」と頷く。その妹が選んだ相手として、小湊くんは納得でしかなかった。
「岳、掴まっとけよ。ウンコロード入るぞ」
「はぁい」
 野生動物のフンが落ちていることが多い道、いわゆるウンコロードでは蛇行運転になるので、落ちないように掴まってろ、とスバくんが忠告してくれる。
 もう数えきれないほど何度も二人乗りをしてきたけれど、毎回かかさず言ってくれるんだ。
 スバくんの大きな背中に抱きつけるから、俺はいつも野生動物たちに大感謝していた。
「で、岳はどうなの、最近」
「俺? まあ……自分の頭が足りなすぎて泣きたくなるときもあるけど……なんとかやってる」
「相変わらず息するようにネガるね~! 俺、岳のそういうとこおもしろくて好きよ」
「……ほめてんのか、けなされてんのか、俺の頭じゃわかりませーん」
「あっははは! 卑屈ぅ~!!」
 下り坂で思い切りペダルを踏み込んだスバくんは、パリピみたいにテンションアゲアゲで俺をなじった。おかしくって、俺も思わず声を出して笑ってしまった。
「岳は笑っとけ、そのほうがかわいいぞ」
 スバくんはすごくずるい。
 俺がスバくんを好きだったこと知ってるくせに、簡単にこんなこと言って俺の心をひねりつぶす。
 スバくんはいつまでも俺を逃がしてくれない。
 だから早く、ここから逃げたいんだ。