年が明けて四日目。まさかクリスマスのあと一度も会わずに今日を迎えるとは思ってなかったけれど、お互いに帰省が入れ違いになってしまって、こうなった。
瑛人の家の近くにある住吉天神は、このあたりでは有名な学業の神様が祀られていて、俺たちは今日そこへ初詣に行って、それから――瑛人の家にお邪魔することになっている。
「憧れのシチュエーションとか、あるんですか?」
「……え、なんて?」
「だから、キスですよ。岳さん色々夢見てそうじゃん」
「や、やや……そういう目で読んでないよ、あくまで俺は尊い二人……たまに三人だけど、彼らの恋愛模様を応援してるモブ視点というか」
「なるほど?」
「そこ、なるほど、で受け入れてくれるの、瑛人くらいだと思うな……」
――って、こんなところでなんの話をしているんだ……?
三が日を過ぎても神社には多くの参拝客がいて、拝殿までの列ができていた。
そこへ並んでいるわけだけど、瑛人が涼しい顔でそんなことを聞いてくるものだから、うっかり俺も、いつもの腐男子ムーブをかましてしまった。
なんだか神様に怒られそうだ。
キス――クリスマスに、いつかしよう、みたいな、そういう約束をした。
それ以来初めて顔を合わせた今日このあと、俺たちは二人きりの密室に行く予定で。そのうえこんな質問……。
「岳さん、顔真っ赤」
「瑛人がこんなとこでそんな話するから……!」
「あは、岳さんに罰あたったら困るから、家帰ってからしよっか」
煩悩まみれの俺の心配をしてくれるのは、ありがたいけど。もう少し早く気づいてください――。
瑛人の手はするりと俺の手を掴み、右ポケットへと誘う。
「……罰、当たるんじゃなかったの」
「これくらい許してくれるでしょ、神様だもん」
「そ、そっか……?」
そっか、ではたぶんないけど、まあいっか。
俺は有難く、瑛人の右ポケットにお邪魔した。なるべく誰にも見つからないように、身体を寄せ合って、俺の左半身は湯気でも立ち上っていそうなくらいホットだ。
神社の境内には屋台が並び、食欲をそそる香りが漂っている。
拝殿の隅では甘酒を配っていたり、年に一度の見慣れた光景ながら、新しい年を迎えたおめでたい空気感に、ずんと胃のあたりが重くなるかんじがした。
「俺、お守り買いたいです」
「うん、俺も」
「いや、そうじゃなくて」
「ん?」
「俺が、岳さんに買いたいんだけど」
ポケットの中の指がこしょ、と小さく動く。
それじゃあなんだか、俺は貰ってばかりな気がする。クリスマスの遊園地のチケットだってそうだ。しかも俺のほうが年上なのに……。
「な、なんで? 自分で買えるよ?」
一歩、列が前に進む。俺はそれについていこうとしたけど、瑛人は足を動かそうとしない。
横顔を窺い見ると、心なしか唇を尖らせ、なんだか不服そうな顔を浮かべていた。
「え、ごめん、どうし――」
「俺があげたいんだよ」
「へ」
「岳さんのそばに置いといてほしいの」
訴えるような視線が言わんとすること。それを想像すると、胸の奥の開けちゃいけないやつの蓋が、ぱかっと開いた気がした。
「……じゃあ、瑛人のは俺が買う」
「え、いいです、いいです。俺神様に頼るタイプじゃないんで」
「さすがスパダリ……」
「それ関係あります?」
瑛人の表情がふわっとやわらかくなって、安心した。
胸の奥底から湧いてきた、このねちょっとした感情は、できれば瑛人には気付かれたくなかった。
「神様に頼らないなら、俺に頼るってことで、ね?」
本音を言えば、ただお揃いが欲しいだけだけど。
「……岳さんって、たまにかっこいいですよね」
「たまに……」
「あ、嘘です、いつも、いつもかっこいいです」
「もう遅いよ!」
賽銭箱には奮発して五十円玉を投げ入れた。今年は受験生なので大盤振る舞いだ。五百円でもよかったかもしれない。
けれど、神様に手を合わせるほんの一瞬でさえ、瑛人の手の温もりが恋しくなってしまうんだから、いくら入れたところで俺の願いは叶えてもらえないような気もした。
――これからもずっと……離れても、できれば。瑛人と一緒にいられますように。
学問の神様に対して、受験生がするお願いごとじゃないもんな、こんなの。
それからお守りを買って、俺たちはお互いに渡しあった。
「……お揃い、だ」
呟いた言葉を、瑛人は聞き漏らさない。
「お揃いだけど、もうちょっとそれっぽいのもあげたいです、俺」
「うん……俺も。俺だって瑛人にあげたい」
いつになく素直な言葉が、口からこぼれた。『学業成就』その四文字がきっとそうさせている。
「嬉しいけど、岳さんの誕生日のほうが先だから、俺が先~」
心の奥底のねちょねちょを吹き飛ばす、瑛人の爽やかな笑顔。そういえば俺、瑛人の誕生日知らないや。
「……って、え? なんで俺の誕生日知ってるの? 言ったっけ」
「ん、泉先輩の誕生日、周りに聞いたら教えてくれたから。四月四日、でしょ?」
「あ、そういうことか……びっくりした……」
瑛人の情報収集力をなめちゃいけない。この人は俺が買った漫画のタイトルを、一語一句違わずスマホにメモしていた人だ。誕生日くらい余裕だな。
「瑛人は? 誕生日、いつ?」
「六月だよ、六月……ほんとにこれは偶然なんだけどさ」
「ん?」
瑛人は紙コップをくいっと傾けて、甘酒と同じくらい甘くとろんとした目で俺を見つめる。
「初めて岳さんちにお邪魔した日、あったでしょ。泉先輩に頼んで連れて行ってもらった日」
「ああ……あの日ね」
腐男子バレに慄いて、バケツに尻がはまってひっくり返った日……。
「あの日、誕生日だったんだ。六月二十日」
「え! そうだったの?」
瑛人はこくりと頷く。
「あの日、岳さんの目にやっと俺が映ったから。最高の誕生日だったんだよな」
バケツにはまって世界が回ったとき、俺は最悪だと思ったのに。瑛人は最高って思ってたのか。そんなのちょっと、ラブコメすぎるな。
締まりのない無垢な笑顔に、まっすぐ思う。
――好き……だなぁ……。
「……瑛人……」
「ん?」
また、ねちょねちょが暴れ出す。瑛人を好きだと思えば思うほど、くるしくなる。
「家……行きたい、です」
こぼれ落ちた言葉が瑛人に届くと同時、強引に奪われた手は、右ポケットにしまわれることはなかった。
俺たちはろくな会話もせずに、瑛人の家へと早足に歩いた。
今日、瑛人の家族は県外の親戚の集まりに顔を出しているのだそうだ。つまり家には二人きり。
それでもいいかって、瑛人はちゃんと俺に確認もとってくれた。俺なんて両手バンザイで飛びつきたい気持ちなのに。ちゃんと俺の歩幅に合わせて隣を歩いてくれる。
俺は瑛人のそんなところが好きだ。
「わっ……」
「岳さん、なんなのもう」
玄関の扉がしまった瞬間、俺の背中を抱き締めてくれる瑛人の温もりがもどかしい。
「瑛人―……」
回された腕に、ぎゅうっとしがみついた。
このまま温もりに絆され、このねちょねちょをぶちまけたら、俺はきっとラクになれる。だってわかりきってる。瑛人は俺の気持ちのぜんぶを、あったかく包み込んでくれる人だ。
けどそれは、できればしたくない。
支えてもらうんじゃなく、俺は瑛人の隣に、並んで立っていたいから。
「……ねえ岳さん。前に言ってくれたよね、俺に」
「へ?」
「俺が一人で悩んでたらさみしいよ、って」
瑛人の腕がゆっくり離れて、それからまた俺の両肩に添えられる。ぐるっと身体を反転させられて、瑛人のまっすぐな視線が降り注ぐ。
「俺だっておなじです。岳さんが一人で悩んでたらさみしい。なにかあるなら言って?」
不安げな瞳に、心が揺らぐ。
――言って、いいのかな、こんなこと。だって俺が……俺なんかがさ……。
「……受験で、あんまり、会えなくなっても……もし受かって、東京に行ったとしても、さ。……俺のこと、好きでいてほしいなって……」
俺、きっと、すごくわがままなことを言っている。
瑛人はどんな俺でも好きだと言ってくれる。それに完全に甘えていると思う。
遠距離なんて無理って、本音では思っているかもしれないし、瑛人が俺を好きでいてくれればいてくれるほど、きっとさみしい思いだってさせてしまう。
それでも俺は――。
「瑛人と、ずっと一緒にいたいなって思って……少し不安になった、というか……」
相変わらずのたどたどしさを、瑛人はやっぱり笑わず聞いてくれるんだ。聞いてくれるんだけど……あれ? 目が据わってる。どっと後悔が押し寄せていた。
「……あ、ごめ――」
「岳さん、やっぱわかってないわ。俺がどんだけ岳さんのことが好きか」
「え……?」
「わからせる」
ぎょっと目を見開いたけど、瑛人はそんなのおかまいなしに、自分の部屋へと俺を引っ張っていく。俺はやっぱり心の中で――お邪魔します、と断った。
「ん、座って」
瑛人はコートも脱がずに、床にどかっとあぐらをかいて、その膝の上を俺に差し出した。
「ここ……?」
「どうせ椅子持ってきても、またこけるでしょ」
「ひ、ひど……!」
たしかにそんなこともあったけど。いつもよりちょっといじわるな瑛人に、どきっとしてしまった。
俺はお言葉に甘えて、おどおどと瑛人の膝の上にまたがる。
瑛人の手は、ゆっくり優しく、俺の頬に触れる。
「ずっと探して、やっと見つけたんだよ。受験で会えないとか、遠距離になるとか、そんなのは俺にとっては大したことじゃないです。岳さんが俺を好きでいてくれるなら、そんなのはほんとに、どうとでもなる」
「そんなの、俺は……ずっと好きだけど……」
俺が不安なのは、瑛人の気持ちだ。会えないからって、俺の気持ちが揺らぐことは絶対ない。そう言い切れる。
「なら大丈夫だよ。俺の気持ちが岳さんから離れることは、絶対ないから」
「なんでそんなこと言えるの……そんなのわかんな、」
「わかる。振り向いて岳さんがいなかったときの気持ち、俺は知ってるから」
なんのことを言ってるんだろう、俺がのんびり歩いてるときのこと? きっとちがう。
ちがうってわかるけど、なんのことを指しているのかがわからない。
「瑛人、なんのこと言ってるの?」
「……知らなくていい。けどわかっててください。俺はずっと岳さんを探して、見つけて、追いかけて、今ここまできたんだってこと。そんな簡単に手放せません」
ぐさぐさと心臓に突きたてられるまっすぐな言葉が、不安というねちょねちょを一匹ずつ退治してくれるみたいだった。
すうっと心が晴れて、俺は瑛人の綺麗な瞳に、吸い込まれてしまいたくなる。もうこのまま、この瞳の中で暮らせたらいいのにな――。
「――キス、したい」
瞳の中に入れないならせめて。今よりもっと、近くにいきたい。
「ずっと俺もそう思ってました」
唇の端をきゅっと吊り上げた瑛人は、頬から手を滑らせ俺の後頭部に添える。俺もそれに従って、ゆっくり、顔を寄せた。
――まつ毛……ながぁ……。
ふさふさで黒々とした立派なまつ毛――、
「ちょっと、岳さん。目閉じてくださいよ」
「あ、ごめん、そっか……!」
ぱちっとその目が開いて、俺は火を噴きそうなくらい恥ずかしくなる。初心者にもほどがある。キスしたいとか一丁前なこと言っておいて、最悪だ……。
「ん、目閉じて」
「は、はい……」
鼻の頭でつんと合図されて、今度の俺はしっかり瞼を閉じた。
柔らかな感触が唇に触れる。ほんとうに触れるだけの、音もないキス。
瑛人の匂いが、鼻孔から身体中に満ちていく。たまらなくなって、着たままだったコートの襟を握りしめると、ふっと唇が離れていく。けど、またすぐ、引き寄せられる。
そんなことを何度も何度も繰り返して。俺の頭には『しあわせ』の四文字以外なにもなくなったところで。
「……まだ、いけます?」
瑛人が低い声で囁き、ついでみたいに耳にもキスを落とす。
――い、いけるとは……!?
「や、やれます」
なんか体育会系の返事になっちゃったよ……。瑛人も耳元でふっ、と小さく笑っている。
顔を見合わせるのは気恥ずかしいけど、瑛人のその瞳はあまりにも愛おしそうに俺を映すものだから。かえって心がやわらかくなった。
ぜんぶを、明け渡していいんだなと思えた。
「好き、岳さん」
瑛人の親指がそっと俺の唇に触れ、確かめるように撫でたあと、ほんの少し下唇を下げられる。熱を孕んだ瞳に、じりじりと追い詰められる感覚。追いやられるように俺は目を瞑り、察して唇の力は抜いた。
「……っ……」
声にならない声が、瑛人に塞がれる。さっきよりも深く熱が伝わってきて、一瞬逃げ出したいような衝動に駆られた。
それを見透かすように、後頭部に添えられた瑛人の手がもう一段階強く、俺たちの唇を重ね合わせる。
時折甘噛みされる唇にびくっと肩を震わすと、なぐさめるような優しいキスに変わる。やっぱり俺は、瑛人のこういうところが好きだなと思う。
「……ん……っ」
「は……っ……」
俺のか、瑛人のか、よくわからない吐息が、部屋にぽっと浮かんでは消えていく。頭がぼーっとしてきて、俺が薄目をあけようとしたとき。
――……え!?
「ちょっ……!」
思わず身体を引くと、瑛人はぺろりと自分の唇を舐めた。目に毒だ――じゃなくて!
「なんで目ぇ開けてんの!?」
「ばれたか」
ばれたか、じゃない、さっきあれほど俺に目を閉じろって言ってきたくせに……!
「なっ、いつ、いつから……」
「んー……?」
瑛人はうっとりした顔で、俺の髪や頬や耳、顎、太ももとか、色んなところを撫でてくる。くすぐったさに絆されてしまいそうになるから、ちょっと困る。
「ねえ俺……白目になってなかった……?」
ほら、こんな色気もへったくれもないこと聞いちゃったよ……。
「全然? めちゃくちゃえろい顔してました」
「なあっ……!? 瑛人!」
「うわ、岳さんって怒るんだ」
「怒るよそりゃ……! 俺だって瑛人の顔――」
って、なに言おうとしてるんだ俺……。もうだめだ、頭がパンクしてるんだ。
慌てて口をつぐむと、瑛人は誘うような視線で俺を見つめる。
「じゃあ……次は目開けたまましますか」
「ぜ、ぜったいむり!」
信じられない気持ちで頭を小突くと、なぜか瑛人は嬉しそうに笑う。その笑顔で結局全部チャラにされてしまう。瑛人が笑うと、俺は嬉しいんだ。
そういうことを、なるべくちゃんと伝えていきたい。少しずつでも。
恥ずかしくて透明になりたくなるくらいの愛おしさも、みっともない、目も当てられないような綺麗じゃない感情だって。
瑛人は俺の精いっぱいを笑ったり、足りないと催促したりしないから。ゆっくりでも、ちゃんと俺なりに伝えていきたいと思う。
ぎゅうっと瑛人のコートの襟元を掴んで、それから俺は。
「……目、閉じて」
ぎこちなく鼻の頭をつんっと合わせて、しっかりまつ毛の束を確認してから。ゆっくり瑛人の唇に触れた。
「好き……だよ」
どれだけ強く思っていても、やっぱりかっこよくは言えなくて。けど、言わないって選択肢は、もう俺にはない。
そう思えるようになったのは、瑛人が何度も何度も、わからせてくれたからだ。
どんなにぎこちなく、たどたどしくなっても、ありのままの俺でいいと、何度もわからせてくれたから。
俺はまっすぐに、瑛人に気持ちを伝えたいと思えるようになった。
「俺も……大好き。大好きだよ、岳さん」
見つめ合うと、どろどろに溶けてしまいそうになる。きっとすごく、はしたない顔をしているとも思う。
けど、この時間がずっと続けばいいのに、なんて。素直に、そう思える。
「はあー……これ以上したら、唇腫れちゃうかな」
「へ!?」
とんでもない言葉が耳に入ると同時、ぐるりと世界が回って、あっという間に俺の身体は床に寝かされ、上に瑛人が覆いかぶさってくる。
「岳さん、やっぱわかってないんだよな。俺、岳さんのその顔好きだって言いましたよね?」
その顔――? ショートしかけた思考回路で必死に考えて、つまりそれが「グフッ」顔であるとわかった途端、恥ずかしさでのたうち回りたくなった。
「責任とってくださいね」
「は……ぇ……?」
「まだキスしたい」
熱い瞳に迫られ、俺はきっとさぞかし「ムフッ」っとしながら。瑛人の頬に触れて、幸せを瞳の中に閉じ込めるように、大人しく目をつむった。
おわり



