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「じゃあ、次の問題。今日は十一日だから――」
三時間目、英語の長岡先生がそう言った瞬間、嫌な予感に心臓がぎゅっと縮んだ。
長岡先生は二十代半ばの男の先生で、すごく厳しくて怖い。
「出席番号十一番は……佐東だな。佐東流奈」
私は「はい」とおそるおそる手を挙げる。でも声は震えて掠れて、きっと先生には届かなかった。
それに私の前には大柄な男子が座っているので、たぶん挙げた手も先生からは見えなかった。
「おい佐東、返事!」
びりっと来るような大声で名前を呼ばれて、私は肩が震え、涙が出そうになるのを必死に堪える。
「は、はい……」
「声が小さい! 起立!」
「はっ、はい……」
私は慌てて椅子から立ち上がった。
「この一文の訳は?」
「え、えと、あの……」
予習で使っている和訳ノートを見るけれど、今訊かれている部分は真っ白。わかっていたけれど、絶望する。
教科書に目をうつし、英文をじっと見つめる。ああ、どうしよう。全然わからない。そんなに難しい単語や文法はない気がするのに、文章じゃなくてただのアルファベットの羅列みたいに見えてきて、なんの意味もなさない落書きみたいに、私の頭を素通りしてしまう。
ああ、やっぱり私はだめだ。
私は昔から、みんなと同じことができない。みんなと同じペースでできない。
みんなが当たり前みたいに簡単にできることでも、何倍も時間がかかるし、時間をかけてもかけてもできないことだって多い。
幼稚園でも、私だけ入園式で号泣したり、私だけトイレを失敗したり、私だけ自分で着替えができなかったり、私だけお泊まり保育で夜中まで寝られなかったりした。
早生まれだから成長がゆっくりなんだね、と優しく受け止めてもらえたのは小学校低学年のころまでで、三年生になるころには、私はすっかり『できない子』『だめな子』のレッテルを貼られていた。
中学生になると、テスト時間内に問題を解き終わることができなくなった。得意な教科はぎりぎり間に合うけれど、見直しはできない。小学校のころは、運動は苦手だけど勉強は中の上くらいだったのに、中学校ではなんとか平均点。家に帰ってゆっくり問題を解き直したら、九十点とか八十点とかとれるのに、返却された答案を見たら五十点以下のこともあった。
教育熱心な親が焦って早く高校受験の準備をしなきゃと、厳しいことで有名な学習塾に週六で通うことになり、先生が『とにかくスピードをつけないと』ということで同じような問題を繰り返し繰り返し解いて少しずつ慣らして、なんとかこの北高校に合格できた。もちろん余裕なんかじゃなくて、補欠合格で。
でも、無理して入ったからか、正直授業のレベルについていけない。レベルというか、スピードについていけない。私が必死に板書を写している間に先生はいつの間にか違う話に移っていて、ふと気づくと今何をやっているのかわからなくなっている。まだノートに写している最中なのに先生が板書を消してしまって、でも他の子たちはみんなちゃんと写し終えている。そんなふうに、いつもひとりだけ間に合わなくて、焦って慌てて、ひとりでパニックに陥ってしまう。
昨日の美術の授業だってそうだ。配布されたプリントに印刷された写真を見ながら絵を描くという課題で、みんな一時間で描き終えたのに、私は全然終わらなかった。輪郭の線を一生懸命描いていたら、ふと気づけば一時間経っていて、見たらみんな色まで塗り終えていて、私だけがさぼっていたのかというくらいに遅れていた。美術の先生は優しいから何も言われなかったけれど、提出したスケッチブックを二度見されたから、『これだけ? 一時間も何してたの?』と思われたに違いない。
私だけみんなと違う時間軸で生きてるみたいだなって、子どものころから何度も思った。
勉強は嫌いではなくて、苦手とも思っていなくて、時間さえかければ、それなりには解ける。でも、昨夜はこの長文読解の予習の途中で午前二時を迎えて、さすがにもう寝ないと朝起きられないと思って、最後の三段落くらいを残して途中で切り上げた。その部分が授業で当たりませんようにと願っていたのに、当たってしまった……。
「おいどうした佐東!」
考えにふけっていた私は、先生の怒った声でやっと我に返った。
答えがわからなすぎて、全然違うことを考えてしまっていたのだ。
「……わ、わかりません……」
私は青ざめながらそう言った。
「聞こえない! 声が小さい!」
「わっ、わかりません……!」
声を振り絞って答えると、長岡先生の目がぐいっとつり上がった。
「簡単に諦めるな! わからないなら考える! 基本問題だぞ! すぐに諦めるんじゃない! そんなんじゃいつまで経ってもできるようにならないぞ」
「は、はい……」
教室の空気が凍りつくのがわかった。
長岡先生は、いったん怒り出すと、どんどん不機嫌になるのだ。そうなると他の人たちにも迷惑がかかる。
だから、なんとか、なんとかしなきゃ。
そう思うのに、もう私の頭は真っ白だ。
先生の顔が、声が、怖くて怖くてしかたがない。問題を考えるどころじゃない。
はあ、はあ、と呼吸が浅く、速くなる。息が苦しくて、視界がぼやけてきて――。
「広太郎先生、ちょっと質問いいですかー?」
突然、呑気な声が言った。
張りつめていた空気が、ふっと和らぐ。
はっとして振り向くと、窓際の後ろの席で、古都さんが伸びやかな腕をまっすぐに挙げていた。
「おっ? おう、古都か。質問? 言ってみろ」
「それってパワハラじゃないですか?」
「……はっ?」
古都さんががたんと立ち上がった。そして、まるで法廷に立った敏腕弁護士みたいに、腕組みをしてゆっくりと教室の前方へと歩き出す。
「流奈さんは別に反抗的な態度をとってるわけでも非行に走ったわけでもないのに、そんなふうに怒鳴りつけるみたいに話す必要あります?」
みんなは唖然として古都さんを見る。先生も例外ではない。
「流奈さんに対する広太郎先生の高圧的で威圧的な態度、わからないと言ってるのに答えるまで許さないとかいう生産性皆無の厳しさ。そしてそれを聞かされる私たちの精神的苦痛。これパワハラ上司の典型ですよ。直接怒った相手だけじゃなくて、怒声や叱責を聞かされる周囲に対してもパワハラって成立するんですよ。クラスメイトが怒鳴られて涙目になってるのを見せられる私たちの気持ちにもなってくださいよ」
長岡先生は眉をひそめて古都さんを見ていたけれど、何か言っても無駄だと悟ったのか、
「それはすまなかった」
と謝った。
「古都さん、すげー。長岡先生黙らせた」
前の席の猪飼くんが小さく言った。私の隣の伊勢崎さんが「さすがだね」とくすくす笑う。
先生は聞こえたのか聞こえなかったのか、ごほんと咳払いをして、
「佐東、もういい。座りなさい」
と言った。声がクールダウンしていた。私はほっとして腰を下ろす。
「あ、先生!」
古都さんが席に戻りながらまた挙手をした。
「なんだ……」
「その和訳、私がやっていいですか? 反抗的な態度とっちゃったんで挽回させてください。これで態度点プラマイゼロですよね?」
長岡先生は呆れたように溜め息をつき、答えてみろと言う。
古都さんはすらすらと英文を訳した。お手本みたいな綺麗な和訳だった。
私はほう、と息をつく。



