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そのあと僕は琴子さんに引きずられるようにして職員室へ向かった。
「で、文芸部の顧問は誰先生なの?」
と彼女が僕に問う。
「仮屋先生っていう若い男の先生だったけど……代わってなければ」
そう付け加えたのにはもちろん理由があって、僕が部顧問と接触したのは一年生の四月、入部届を出したときの一度だけなのだ。
もしかしたら今年の四月で別の先生になっていることもなきにしもあらずだ。なんせ幽霊部員だし友達もいないので、もしも文芸部の顧問が代わったとしてその情報を僕が入手できる可能性は限りなく低い。それに仮屋先生は僕たちの学年を担当していないので、校内で遭遇することもほぼないし、実は僕が気づいていないだけですでに別の学校にうつっていることだってありえた。ただ、仮屋先生の名前は離任式で読み上げられなかったので、たぶんまだ本校に在籍しており、そうなると顧問も代わっていない可能性が高いんじゃないかと思う。
「仮屋なに先生?」
古都さんが訊ねてきた。僕は意味がわからず「え?」と首を捻る。
「仮屋先生のファーストネームは?」
「えっ、知らないよ……」
「なーんだ、残念」
ていうかなんで知りたかったんだ。知ってどうするんだ。
僕は琴子さんに呆れつつ、職員室の入口ドアのガラス部分から中を覗き込んだ。
ところで僕は課題やプリントの提出期限を必ず守るし、問題行動を起こすこともないし、授業でわからないところがあれば先生に質問するのではなくインターネットで調べるタイプである。なので、先生に呼び出されたり面会に行くようなことは皆無で、昔から職員室にはとんと縁がない。
したがって、高校の職員室に来たのは二、三回目で、もちろんどこに誰が座っているのかまったくわからない。それに仮屋先生の顔もうろ覚えだ。むしろ一年以上接点がなかったのによく名前を覚えていたものだと思う。
見たらわかるかなと思ったが、若い男性教師はたくさんいる。わからない。
少し前かがみになって覗き込んだままの姿勢で硬直していたら、
「ん、いないの?」
琴子さんに訊かれた。
「ん~……いない、ような気がする。でも、いるかもしれない」
「どういうこと? 涼風くん目が悪いとか?」
「いや、視力は大丈夫なんだけど……」
正確には目はものすごく悪くて裸眼だと三十センチ先も見えないレベルだがコンタクトレンズを入れているので矯正視力には問題がない、ということだ。が、わざわざ説明するようなことでもないのでそう答えた。
「だけど?」
「僕は仮屋先生の顔を覚えてないから、いるかいないか断言できない」
「そういうのは早く言えーい!」
彼女からまっとうな突っ込みを入れられた。これはさすがにその通りすぎて、返す言葉もない。
そのとき、ドアの脇に『職員室座席表』なるものが貼られているのに気がついた。なんだ、先生たちにも座席表があるのか。わかりやすくて助かる。
ええと、仮屋、仮屋……と、おそらく一クラスの生徒よりも多そうな先生たちの名前をひとつずつ確認していると、ふいにがらりとドアが開いた。
「失礼しまーす!」
真横で耳をつんざくような声が上がる。
驚いて目を向けると、予想はしていたが琴子さんが犯人だった。
にこにこ笑顔で職員室に足を踏み入れ、室内をぐるりと見渡しながら大声で訊ねる。
「仮屋先生いらっしゃいますか~?」
在席してパソコンやら書類やらに向かって仕事をしていた数十人の先生たちが一斉に振り返った。その圧に僕は怯み、一歩あとずさる。
しかし彼女はかまわず、
「かーりやせんせーい」
と口に両手を当てて山びこのように呼びかけた。
僕の記憶が正しければ、仮屋先生というのはいかにも陰気そうな、地味な感じの人だった。こんなふうにみんなの前で大声で呼ばれたら萎縮してしまうんじゃないかと不憫になり、
「そんな大声出さなくても……。普通に呼べば、中にいるなら聞こえるんじゃ」
と言ったそのとき、
「僕が仮屋ですが、何か御用ですか」
小さな声とともに、がりがりに痩せた猫背の先生が立ち上がった。なんと目の前の席に座っていたのだ。背を向けていたから気づかなかった。
振り向いた先生の顔を見て、ああ、たしかにこんな感じの顔だったかも、と一年ちょっと前の薄ぼんやりした記憶と結びつく。
というか、こんな目の前にいたのなら、僕らが探しているのはわかっていたんじゃ。もしかして聞こえないふりをしていた?
隣の彼女はにっこりと笑い、なぜか敬礼のポーズをした。
「仮屋先生、こんにちは! はじめまして。本日二年生に転入してきた古都琴子と申します」
「ああ……」
先生のその反応から、琴子さんの存在というか名前は知っていたのだろうと思う。わからないけれどたぶん職員会議的なやつで転入生の情報を共有されるだろうし、彼女の名前は一度耳にしたら忘れられない響きを持っている。
「まず、つかぬことをお伺いしますが、先生のフルネームを教えていただけませんか」
古都さんが平然と言うのを聞いて、僕はぎょっとする。初対面の先生にいきなり訊くことがそれか。
「はあ……? 仮屋圭一、ですが」
先生は戸惑いを隠さず、でも淡々と答える。
琴子さんは「圭一先生ですね、ありがとうございます!」と微笑んだ。
同じ名字の教員が複数人いるとかでもないのに、いきなり先生を名前で呼び出したので、僕は唖然とした。仮屋先生も目を瞠っている。
それでは、クラス担任の星野先生を由宇香先生と呼んでいたのも、べつに知り合いだからとかではなく、こういうふうにいきなり名前を聞き出したのだろうか。なぜ? すべての言動がいちいち常識外れだ。
琴子さんはかまわず口を開いた。
「じゃあさっそく本題に入りますね。圭一先生は文芸部の顧問ですか?」
「……ああ。そういえばそうですね」
今思い出した、という様子だ。
文芸部はたしか活動実績が真っ白だった。つまり全員幽霊部員で、先生も部顧問の自覚をなくすくらい存在感の薄い部活なのだろう。
「私、文芸部に入ります」
「ああ、なるほど……」
やっぱり陰気な先生だなと、僕は関係ないことを考えていた。会話の相手である琴子さんと全然目を合わせようとしない上に、表情は乏しいし、声も小さくてぼそぼそしゃべるからよく聞こえないし。なんで教師になろうと思ったのか不思議だ。
「これ、入部届です」
琴子さんが差し出したそれを先生は「はい」と受け取り、ざっと目を通すと、
「問題ありません。では判子を押してこちらで提出しておきます」
「よろしくお願いしまーす」
「はい、では」
席に戻ろうとした仮屋先生を、彼女は「先生」と呼び止める。
「部員は何人ですか?」
先生は明らかに困ったように、というか面倒そうに眉をひそめた。そんなの聞いてどうする、と思っていそうだ。僕もそう思っている。
「……ちょっと待っててくださいね」
はあ、と小さく息を吐いて、先生は机の引き出しを開けた。
職員室では、教科書やノートやプリントや書類が机に山積みになりゴミ溜めの中で仕事をしているかのような様相を呈している先生もあちこちに見受けられる中、仮屋先生の場合は机上も引き出しの中もきちっと整理整頓されているようだった。それでもすぐにはお目当てのものが見つからないようで、いくつかの引き出しを開けたあとに、やっと手が止まった。
ずいぶん奥のほうにしまいこまれていたらしいファイルを取り出して、中を確認している。表紙に『文芸部関係書類』と几帳面そうな文字で書かれているのが見えた。
「お待たせしました。書類上の部員は三十五人ですね。古都さんが入ったら三十六人になります」
「えっ、めっちゃ多いじゃないですか」
「部活をしたくない生徒たちの受け皿になっているんです。実際活動している部員はいないと思いますよ」
「え、そうなんですか?」
「はい、おそらく。誰も部室の鍵を借りにきている形跡がないので」
先生はすぐ横にある壁のほうを指さした。たくさんの鍵がぶら下がっていて、その横に『鍵貸出表』なるものがある。鍵を借りるときには生徒がそこに鍵のナンバーと氏名と使用目的を記入する決まりのようだ。たしかにこの表を確認すれば、文芸部は誰も活動していないことが一目瞭然なのだろう。
「あ、じゃあ、鍵貸してください」
琴子さんはずいっと手を出した。仮屋先生がちょっと嫌そうな顔をする。
「……展開が早いですね」
「ああ、私そういうの気にしないことにしてるんで。前のめりだなと思われようが図々しいなと思われようが展開早いなと思われようが、今すぐ部室に行ってみたいっていう欲望は我慢しないんです」
「はあ……そうですか」
先生は呆れたように、諦めたように軽く肩をすくめた。
「部室の場所はわかりますか。第三校舎の四階にある社会科資料室の……」
文芸部の部室の鍵を探しながら、先生が言う。
「……って口で説明してもわからないですよね。今日転入してきたんですもんね」
「あ、大丈夫です。涼風くんが連れていってくれるので」
「えっ」
急に名前を出されて、僕は声を裏返らせた。それで初めて存在に気がついたというように、仮屋先生が僕を見る。
「……えーっと、君は?」
「あ、はい、二年C組の森川といいます。いちおう文芸部に……名前だけですけど」
なんせ先生の言ったとおりまさに『部活をしたくない』から形だけ入部している幽霊部員なので、なんだか気まずくてぼそぼそと自己紹介をすると、先生は先ほど取り出した部員一覧表らしきものを見て、「なるほど」と頷いた。
「では森川くん、古都さんをよろしくお願いします」
「ええっ」
なぜか丸投げされてしまった。焦る僕の隣で、琴子さんはにこにこしている。
仮屋先生が少し改まった口調で説明を始めた。
「僕は調理部と兼任で顧問していてですね。調理部の部員たちはわりと熱心に活動してまして、刃物やら火やら使うから危険を伴うので基本的に顧問が常駐しないといけないんです。というわけで、文芸部が活動するとなっても僕はあまり顔を出せません」
なるほど、文芸部は活動実態がないので、先生のほうも幽霊顧問だったわけか。おそらく学校全体で文芸部はそういう認識で、とりあえず顧問の名前だけ決めておけばいいだろうという感じだったものと想像する。そしてそのお鉢が仮屋先生に回ってきたわけだ。貧乏くじというやつだ。なんだか可哀想になってきた。しかも琴子さんの登場によりにわかにふたつの部活の顧問を兼務しないといけなくなったという、さらに気の毒な状況なのだ。
「文芸部にも副顧問の先生はいらっしゃいますが、お子さんがまだ小さくて部分休業をとってらっしゃるので放課後には退勤されてるんです。なので僕の代わりに文芸部のサポートをお願いするのは難しいです」
「へええ。先生たちにも色んな事情があるんですねえ。そりゃそうか」
琴子さんがふむふむと顎に手を当てた。
「もちろん僕が顧問であることには変わりありませんので、何か相談や必要な手続きがあるならいつでも話をしに来てください。職員室にいなければ他の先生に伝言を。調理部の実習がない日なら身体も空けられますし」
ずいぶん無気力でそっけない教師だと思っていたが、僕の想像よりはだいぶちゃんとしている人らしいとこっそり見直した。
「圭一先生は料理が得意なんですか? 家庭科の先生ですか?」
琴子さんが訊ねると、先生は静かに首を横に振った。
「いえ、僕は国語科です。そして学校の調理実習でしか包丁を握ったことはありません。料理は門外漢です」
「えー、じゃあなんで先生が調理部の顧問になったんですか? 普通は家庭科の先生がやるんじゃ?」
「本校の家庭科は非常勤の先生なので、調理部の顧問は家庭科以外の教員が受け持つしかないですが、おそらく料理ができる他の先生は他にも得意なものや競技経験のある部活があって他の部顧問に任命され、余った僕が調理部顧問に回されたということだと思われます」
こちらでもお鉢を回されていたわけか。たぶん断れない性格が災いして人手のない役職にさくさく入れられてしまうんだろう。さらに気の毒になってきた。
「なるほどー。あ、そういえば文芸部の部長って決まってますか?」
「決まってないですね」
それはそうだろう、なんせ全員幽霊部員なのだから。
琴子さんがにんまりと笑った。
「じゃあ、私が部長になっていいですか?」
「……まあ、なりたいなら、どうぞ」
「やった! ありがとうございます。それでそれで、せっかく文芸部に入るんだから何かイベント的なのを目標にしてちゃんとやりたいんですけど、文芸ってコンクールとかあるんですか?」
「さあ……俳句甲子園の案内が来てましたが、たしか申し込み期間はもう終わってますね」
「ええっ、そんな殺生な!」
彼女はがくりとうなだれた。先生はその姿をちらりと見て、
「……部誌とかつくればいいんじゃないですか」
いかにも適当という感じで呟いた。なんて無責任な、と僕は辟易する。
でも、琴子さんはしっかり真に受けて、ぱあっと顔を輝かせた。
「部誌! いいですね、文芸誌ってやつですね!」
「まあ、だいたいそんな感じですかね」
「ああでも、それだとちょっとイベント感が足りないかなあ。もっとこう、目標になるイベントというか、盛り上がりというか、ヒリヒリするような興奮というか、そういうのないですかねえ。本当なら文化祭で部誌を配布とかがいいんですけど、今年の文化祭ってもう終わっちゃったんだよね?」
琴子さんがいきなり僕を見て訊ねたので、僕はこくりと頷いた。北高の文化祭は毎年六月に行われる。
「なんかないですかねえ、青春っぽいやつ」
彼女は仮屋先生に視線を移した。先生はゆっくりと瞬きをしてから、
「……たしか、あれが……」
と小さく呟いて、先ほどの『文芸部関係書類』のファイルをめくり、クリアホルダーの中から一枚のプリントを抜き出した。内容を確かめてから、琴子さんに手渡す。
「これです。全国高校文芸部誌コンクール。締め切りは十月上旬みたいなので、時期的にもちょうどいいでしょう。これを目標にすれば『イベントっぽい』のでは?」
プリントを見て、彼女の目がさらに輝く。
「いいじゃないですかー! 全国の高校生たちによる文芸誌をめぐる熱き闘い……!ってことですよね。まさに青春! よし、これやります!」
琴子さんは声高々と宣言した。
文芸誌をひとりでつくるつもりか? と僕は心の中で肩をすくめる。ずいぶん大変そうだ。まあ、せいぜい頑張れ。
「ひとりでつくるんですか? 大変そうですね。頑張ってください」
仮屋先生も僕の心の声と同じようなことを言った。すると彼女は「滅相もない」と顔の前で手をひらひら振る。
「ひとりじゃないですよ。もちろん涼風くんも一緒に」
僕は心底ぎょっとして目を剥いた。
「いやいや、なに言ってんの! 僕は幽霊部員だって言ったじゃん!」
「一度幽霊部員になったらもう活動しちゃいけない決まりなんてないでしょ」
「そりゃそうだけど……文芸誌なんて……」
父の書斎にあるものを何冊かぱらぱら流し読みしたことがあるけれど、ものすごく濃密だった。
何かの特集や企画・テーマに合わせた読み切りの短編小説だったり、連載小説だったり、書評や作家評だったり、現代詩や漫画もあったっけ、そういうものがぎっしり掲載されていた。しかも短編小説と言ってもなかなかの分量だった。高校生がちょっとやってみようと思って作れるものとは思えない。
というかそもそも僕には小説なんて書けない。
もちろん本を読むのは嫌いではない、だから名ばかりとはいえ文芸部を選んだわけだ。でも読書好きと胸を張って言えるようなものじゃなく、たまに気になるのがあるときに読むくらいだった。作文なんて国語の授業か夏休みの宿題の読書感想文くらいでしか書いたことがない。
そんな僕に小説なんて書けるわけがないじゃないか。
「だーいじょーぶ。なんとかなるって! まあ私に任せて」
僕の困惑や不安を打ち消すように、彼女は妙に自信満々にグーサインを作った。



