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 「古都さん。これ、渡すの忘れてた、ごめんね」

 帰りのホームルームが終わったあと、一度前のドアから廊下へ出ていった星野先生がなぜか後ろのドアから戻ってきて、古都さん――じゃない、琴子さんに一枚のプリントを手渡した。

 「書けたら提出してください。わからないことがあったら訊いてね」

 「ん? なんですか、これ」

 琴子さんがプリントを受け取りながら訊ね返す。

 「部活動の入部希望届です。上半分は部顧問に、下半分は担任に提出ね。あ、うちは部活強制じゃないから、入らない場合は『希望なし』に丸つけて担任に渡すだけでいいよ」

 「はーい、了解でーす。ちなみに部活動の一覧とかあります?」

 琴子さんが訊ねると、先生は「えっ」と困ったように眉を下げ、顎に手を当てて首を傾げた。

 「えーと、あったかなあ……。たしか一年生の部活動紹介の時期には全部活が載ったプリントが配られてたけど、今はもう残ってないかも……あっ、学校案内のパンフレットなら載ってるかな?」

 星野先生は今年で教員二年目の若い先生で、まだ学校のことはそんなによくわかっていない様子だ。それに、ちょっと慌てん坊というか、いつもわたわたおどおどしているイメージがある。なんだか余裕がなさそうなので、自分の受け持ち以外の部活には詳しくなさそうだ。

 僕は横からそっと、「たぶん学校のホームページに載ってますよ」と助太刀した。高校受験のときに確認しただけなので変わってなければ、だが。

 「えっ、あっ、そっか、そうだよね。さすが森川くん」

 先生は恥ずかしそうに笑い、じゃあまた明日と小走りで教室を出ていった。

 「ときに涼風くんは何部に入ってるの?」

 琴子さんが唐突に問いかけてくる。

 「いちおう文芸部だよ。幽霊部員だけど」

 答えると、彼女は目をきらきらと輝かせた。

 「文芸部!」

 ……嫌な予感がする。

 「いいねえ、いいねえ。文芸部。なんか青春っぽいね」

 別に彼女が文芸部に入ろうが入らなかろうが、幽霊部員の僕には直接の被害はないはずなのだけれど、なんとなく不穏な気配が漂ってきて不安になり、僕は直感的に首を捻ってみせた。

 「そうかなあ。青春といえばやっぱり運動部じゃない? 文化系なら吹奏楽とか。文芸部ってかなり青春とは遠いような気がしないでもないけど……」

 「そんなことはない! 私にはわかる、青春の波動を感じる……」

 意味がわからない。勝手にしてくれと思いつつ僕は腰を上げた。面倒ごとに巻き込まれる前にさっさと退散しよう。

 「よし、決めた。私も文芸部に入る」

 「へえ、そうですか。ご自由に……」

 僕はそう言って下校するべく教室を出よと歩きだしたのだけれど、気がついたら右腕をがっしり(つか)まれていた。

 「えっ? な、何なに!?」

 嫌な予感メーターが急速に上昇し、頭の中で警告音が鳴り響く。

 「ね、文芸部の顧問の先生って誰なの? 入部届出したいから連れていってよ」

 「はあ? なんで僕が……」

 「私、転校生。顧問わからない。先生の名前もわからない」

 彼女は僕の腕を両手で掴んだまま、なぜか片言で言う。

 「君、同じクラス、同じ部活。どう?」

 どう、と言われても。いやまあたしかに、転校生が自分の所属する部活に入りたいと言ったら、顧問や部活仲間のところに連れていくのが当然の流れかもしれないけれど、転校生側から『連れていって』って普通言うか? それに僕は幽霊部員だって言ってるのに。

 それらすべてひっくるめて、

 「ず、図々しいなあ……」

 思わず本音が飛び出した。慌てて「あ、ごめん」と謝る。

 「あっはは!」

 彼女は気にするふうもなく、心底おかしそうに笑い飛ばした。

 「いや、謝ることないよ。自覚してるから。でもさ、『他人から図々しいと思われたくないから、やりたいけど我慢する』って、私いやなんだよね」

 図々しいと思われることは、つまり相手に迷惑をかけるなり不快感を抱かせるなりしてしまう言動ということだ。それを避けるのは、礼儀や常識だと僕は考える。

 「ま、誰にどう思われようと、私はやりたいことはやるし、君に頼みたいことは頼む。それだけだよ。シンプルでしょ?」

 「……琴子さんは、嫌われるのが怖くないの?」

 またもや思わず本音が飛び出した。口にしてから、ずいぶん失礼な言い方だと気づく。これじゃまるで、『君って嫌われてるけどどうなの?』と問いかけているようなものだ。

 「あ、いや、これはその……」

 「怖るるに足らず」

 彼女は芝居がかった口調できっぱりと言った。

 「嫌われても死ぬわけじゃないし、罰金とられるわけでもないからね」

 僕は黙って彼女を見つめる。

 彼女が今述べたような言説は、過去にそれなりに見聞きしたことがある。周りから嫌われたって別にかまわない、気にすることはない。命をとられるわけでもないし、嫌われたって平気だと思っていればいい。自分を嫌いな人のことではなく、自分を好きでいてくれる人のことだけ考えていればいい。我が道を行け。などなど。

 言っていることはわからないでもない。死ぬこと以外かすり傷なんて言葉もあるし、たしかにそうかなと思う瞬間もある。

 だけど僕は、そういう意見を聞くたびに、綺麗事だろと思っていた。嫌われる自分に傷つきながら、そんな自分を受容し肯定するために、『別に嫌われたって……』などと耳触りのいい御託を並べて正当化し、自己保身しているに過ぎないだろうと。

 嫌われているとわかっていながら本当に平然と生きていける人なんているのだろうか。悪意を受け、疎外されながら生きるなんて、苦しいに決まっている。

 だって、人間は群れを作って生きる動物だ。社会性によって生存確率を上げ、種を維持拡大してきた動物だ。

 群れから離れてひとりになっては生命を維持できない、という本能的な恐怖が植えつけられているから、嫌われ疎まれ孤立するのを怖れてしまう。

 別にみんなから好かれなくたっていいけれど、せめて嫌われずに、悪意は向けられずに平穏に生きたい。そう思うのが人間の自然な感情ではないか?

 そんな僕の反感を知ってか知らずか、彼女はにやりと笑った。

 「私を嫌うなら好きなだけ嫌ってくれてかまわないと思ってるよ。むしろ私のことを嫌いな人間が私を見ていちいち不愉快になってイライラしてはせっせと自らの幸福度を下げてるんだと思うと、快感ですらあるねえ」

 「ええ~……性格悪う……」

 「どーもどーも」

 性格が悪いなんて最大級の嫌味を言ってしまったのに、彼女は妙ににこにことご機嫌だった。

 「……僕は、嫌われるのが怖いよ」

 そんな彼女を相手にしているからか、いつもなら決して口にしないようなことを、僕はぽろりと呟いてしまう。

 「なるべく嫌われたくない、疎まれたくない。だから、下手なことは言わないようにしてるし、浮かないようにしてる。それが僕の行動原理なんだ」

 ふむふむ、と彼女が頷いた。

 「涼風くんは人間なんだね」

 「……は?」

 わけがわからなかった。そりゃあ人間だろう。君だって人間だろう。

 「私はジンガイだから、そういう感情とは無縁なんだ」

 「は、ジンガイ……? あ、人外? 人間じゃないってこと?」

 たしかに彼女は人間離れした雰囲気をまとってはいる。たとえば『実は化け狐なんです』と言われたら納得してしまうような。

 しかし僕はあいにくロマンティストでもオカルト好きでもないので目の前の人間(どこからどう見ても人間にしか見えないもの)から、いきなり『ワタシ実はアヤカシなんです』なんて言われても信じられるわけがない。

 でも、もしかしたら妖怪とかって本当に存在してるのかも? 自分が見たことがないからって実在しないと言いきることはできない。悪魔の証明というやつだ。

 もしかして、本当にそうなのか……。彼女をまじまじと見つめる。

 彼女はにたりと笑った。

 「私はもう『人間』は引退したんだ。もちろん元は人間として生まれ育ったし身体はたしかに人間のままだから、人間OBとでも言えばいいかな」

 僕は首を傾げる。

 「……それは普通の人間とどう違うの?」

 うーん、と彼女は少し考えるような仕草をしてから、

 「人間らしくあることを放棄したってこと」

 と答えた。僕はゆっくりと瞬きをする。

 「『人間らしい』とされていること、『普通はこうする』と考えられるものを、全部やめることにした」

  『人間らしさ』や『普通』に縛られることをやめたということか。言いたいことはなんとなくわかる。わかるが。

 「その中にはもちろん、子どもらしさとか女らしさとか高校生らしさとか日本人らしさとか転校生らしさとか娘らしさとか孫らしさとか色々、とにかく色んなものが含まれていて、私はそれら全部ひっくるめて放棄した。『ナニカらしく』振る舞うことを放棄した。そしたら『私らしさ』だけが残る」

 彼女はふっと視線を上げ、窓のほうを見た。

 気づけば教室内には数人しか残っていない。

 窓から射す光が彼女の横顔を照らしている。僕は眩しさに目を細めた。

 内側から輝くように輪郭を光らせて、彼女は続ける。

 「私は私。私らしくあることだけを重んじる」

 理想論だ。綺麗事だ。そう思わずにはいられない。

 すべての「周囲から求められる『らしさ』」を放棄して生きるなんて、可能なわけがない。

 普通に社会の一員として、波風立てず悪目立ちせずに生きようと思えば、世間から求められる『らしさ』を演じざるを得ない場面が多々ある。というか演じなくていい場所や時間というのはごくごく限られている。自宅で家族と過ごしているときですら本当の意味で『自分らしさ』だけを考えていられるわけではない。なんにも気にせずありのままの自分でいられるのなんて、家族みんなが寝静まったあとの自室くらいじゃないだろうか。

 「いいんだよ、別に理解してくれなくたって」

 僕の思考を読んだかのように彼女は言った。

 「理解されようとも理解されたいとも思ってないからね。悪しからず」