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「はいどうもー! 『コトコトコ』でーす!」
ある朝のHR。教壇に立った担任が、改まった調子で「えー実は今日からクラスに新しい仲間が…」と言いかけたとき、彼女はいきなり北高2-Cの教室に飛び込んできた。
担任から呼び入れられるのも待たずに(待てずに?)勝手にガラガラガラッとドアを開け、躊躇なく教室に足を踏み入れ、そして軽く挙げた右手を振りつつ颯爽と歩きながら、彼女はにこやかに冒頭の名乗りを上げたのだった。
まるで観客の前に出てくるお笑い芸人みたいな仕草と口調に、よく通る声で、僕は思わずこれから漫才でも始まるのかと錯覚してしまった。
『コトコトコ』という軽快な語呂のよさがそう感じさせたのもあったと思う。お笑いコンビ名にあっても全然おかしくない。
とにかく彼女の登場と名前はあまりにインパクト大で、一瞬の沈黙ののち、教室が沸騰したように騒然としたのは言うまでもない。あちこちで「コトコト?」などと呟く声がする。
僕も、口には出さなかったけれど、コトコトコ・コトコトコと頭の中で反芻していた。早口言葉になりそうだ。聞き間違いか、あるいは彼女なりのご挨拶の冗談なのかもしれないと思った。
みんな戸惑いつつも、笑いをこらえているというか、笑ってもいいものかと周囲の反応を窺っている様子だ。冗談なら笑えばいい、むしろ笑ってあげたほうがいいだろう、でももし本名なら笑ったら失礼だ、さあどうしよう、お前はどうする? そんな心の声が聞こえてくるようだった。
彼女はぽかんとしている担任を「ちょっと失礼」と横においやり、ぱしんと教卓に両手をつくと、ざわつくクラスをぐるりと見回した。
「あーはいはい、そういうの、もういいんで。こちとら飽きるほどこのくだりやってきてるんでね、もうお腹いっぱいなんですよ。もちろん皆さんの困惑も理解できますけど、ってわけでさらっといかせてもらいますね。はーい、ワタクシの名前、漢字で書くとこういう感じでーす。あ、ダジャレじゃないですよー」
練習しつくした台本のセリフみたいにさらさらと言いつつ、彼女は黒板にチョークを走らせ、でかでかと『古都琴子』と書いた。
「どうせ訊かれると思うんで先に言っときますが、これ芸名でもペンネームでもないでーす、本名です戸籍名です。なかなか洒落てるでしょ? はい、私からは以上です」
彼女はそう言って軽く会釈すると、こちら――教室の後方に目を向け、最後列の窓側の席――僕の左隣の席を指差して、担任に問いかけた。
「私の席ってあそこですか? 転入してきた生徒ってだいたいあそこですよね。いわゆる転校生席ってやつ」
僕は内心あちゃあと思う。だって僕の隣の席は、二年生の始業式以来一度も姿を見せたことがない、つまり不登校と思われる生徒の席なのだ。座席表上はということだけれど。これは固定になっていて、席替えのくじ引きはいつもこの席には番号が振られず、いわば空席扱いとなっていた。
担任の星野先生は、若干気まずそうな表情を浮かべ、
「あ、ごめんね、ちがうの。あっちじゃなくてこっちです」
と廊下側のいちばん前の席を指差した。
その席は、これまでなかったものだった。今朝登校してきたら、昨日まではがらんどうだったその場所になぜか机と椅子が置かれていて、だからクラスの人たちは「転校生が来るのかな」とすでに察知していた。
まあ、まさかこんなとんでもない転校生だとは思わなかったけれど。
「じゃあ、古都さん、席についてね」
そのまま着席すると思いきや、なんと彼女は「ええ~」と不服そうに顔をしかめた。
「嫌です。私あっちがいい」
彼女の指先はまだこちらを向いたままだ。
まさか教室の席順について普通にわがままを言うなんて予想もしていなかったので、僕は唖然と彼女を眺めた。
「だって、転校生といえばあそこでしょ。それに私、クラスの人たちのこと観察したいから、後ろがいいんですよね。空いてるならいいじゃないですか」
「いや、空いてるっていうか……あそこは他の子の席なの」
星野先生の言葉に、彼女は目をぱちくりとさせた。
「えっでも由宇香先生さっき言ってたじゃないですか」
由宇香というのは星野先生の名前だ。なんでそんな呼び方するんだろう。知り合いなのか?
「さっきホームルームの前に教室の中覗いて、『あーよかった今日はみんな来てる、古都さんをみんなに紹介できるね、よかったね』って」
「えっ。あ、いや、あの、えーと……」
先生の視線が動揺したように泳ぐ。
僕はひそかに先生に同情した。これまで一度も来ていないのだから、正直僕だって隣の席以外すべてが埋まっている日は『今日は欠席なしだな』と思ってしまう。たぶん他の生徒もそうだ。
でも、教師という立場上、不登校の生徒をまるで元からいない生徒のように認識した発言は、大変よろしくないだろう。
「ああ、不登校の人の席ってことですか?」
彼女が先生に訊ねた。僕は内心ぎょっとする。なんて無神経で無遠慮なんだろう。生徒たちはぎょっとし、先生も目を白黒させている。
教卓前の席に座っている猪飼くんが見かねた様子で「そうだよ、不登校」と助け舟を出した。
「あの席の子、四月から一回も来てねえの」
彼女は「へえ」と瞬きをする。
「じゃ、どうせ今日も来ないでしょ。私あそこにします。あ、もしその子が奇跡的に学校来たらちゃんと代わるんで」
「ちょっ、ちょっとそんな、勝手なこと……」
止めようする先生の手をすり抜け、彼女は飄々と歩き出した。
「別に私があの席に座っちゃいけないなんて法律も校則もないですよねー」
呆然とする先生や生徒たちにかまわず、僕の隣へやってくる。
「やあやあ、どうも、古都琴子です。よろしくしたいこともお願いしたいことも特にないけどひとまずよろしく」
ひとこと余計、というのを体現したような人だなと思った。
さっきの『その子が奇跡的に学校に来たら』にせよ、今の『よろしくしたいこともお願いしたいことも特にない』にせよ、普通は思っていてもあえて言葉にはしないこと、わざわざ言わなくてもみんなわかっているからみんなわざわざ言わないことなのに、彼女は口に出さずにはいられないのだろうか。口は災いの元って習わなかったのか。
そんなことを思いつつ、僕は「よろしく……」と応えた。
彼女に対して思うところは色々あるけれど、初対面だし「普通は思っていてもあえて言葉にはしないこと」なので、そのまま呑み下した。
彼女はにこやかに椅子を引いて腰掛け、机の上にリュックを置いた。そしてふんふん鼻歌を歌いながらリュックの中身を机の中にうつしていく。そこが本来なら他人の席だということは、もう忘れているようだ。
ご機嫌なお隣さんを横目に見ながら、僕は無意識に溜め息をつく。
ふと黒板の上に掛けられている時計を見たら、HRが始まって五分しか経っていなかった。
登場からたったの五分で、彼女はおそらく教室内の全員からドン引かれている。
僕は隣の彼女に視線を戻した。
この人は、好かれたいと思わないのだろうか。いや、好かれなくてもせめて嫌われないようにしようと思わないのだろうか。
嫌われるのが怖くないのだろうか。
あんな悪目立ちする行動をして、あんな非常識な発言をして、みんなから馬鹿にされたり、軽蔑されたり、疎まれたりしてもいいのだろうか。
ああ、もしかしたら、引かれていることに気づいていないのかもしれない。ものすごく鈍感で、あんなことをしたらみんなから嫌われると分からないとか。分からないのなら、可哀想だ。
突然、彼女が振り向いた。
目が合って、見ていたことがばれた気まずさから僕はさっと目を逸らす。
すると彼女が微笑んで言った。
「――君がこの物語の主人公だね」
それこそ物語の始まりを予感させるような、勿体つけた口調だった。
「……えっ?」
しかし当然なんの心当たりもない僕は、眉をひそめるしかない。
僕なんて『地味で平凡』を絵に描いたような、一生主人公なんかになれっこない無味無臭の人間だと、自分がいちばん分かっていた。
「だって、そこ、主人公席でしょ」
彼女は僕の机を指差して言う。
「は……?」
「ほら、転校生といえば、担任『じゃ、あの空いてる席に座って』、主人公『ええっ、マジかよ、俺の隣!?』ってのが定番パターンでしょ」
いちおう他人の席に勝手に座っておいて、この言い種である。担任が言ったのではなく自らの意思で強奪したくせに。
彼女のあまりの傍若無人ぶりに、さすがの僕も黙っていられず、
「いや、そもそも、そこ、空いてる席じゃないから……」
と思わず小声で突っ込んでしまった。らしくない。
機嫌を損ねるかと思いきや、彼女は片眉をくいっと上げて、「ふうん……」とにったり笑っている。不気味だ。
「ていうか、どちらかと言えば転校してきた君のほうが主人公なんじゃ」
変人だし、という言葉はなんとか呑み込んだ。
「いやいや、何をおっしゃるやら。ただの美少女転校生が主人公の物語なんて面白みがないでしょ。それより可憐な美少女が転校してきてなぜか都合よく主人公の横の席が空いてて美少女と隣同士になって自由奔放な彼女に振り回されつつもなぜか惹かれちゃうドタバタラブコメのほうが鉄板とはいえ何だかんだ楽しいに決まってますよ」
話している内容はさておき、よくそんなに口が回るなあと感心する。正直、僕は彼女がすらすら吐き出した単語の半分も覚えられなかった。
そんなことよりも、彼女は自分の容姿が優れていることに自覚的なんだなと知る。てっきり自覚していないからこんな変人ムーブをかましているのかと思っていた。
たしかに彼女は、さらさらの長い黒髪といい、きりっとした眉とぱっちり二重の大きな瞳といい、抜けるように白い肌といい、ピンク色の頬と唇といい、すらりと細くのびやかな肢体といい、まさに『美少女』と形容したくなるような外見をしていた。テレビや雑誌に出ていったっておかしくないくらいだ。大人になったらきっと絶世の美女というやつになるんだろう。
本来なら、教室に姿を現した瞬間、彼女の美しさに誰もが目を奪われるはずだった。でも、なんせあの芸人みたいな登場のせいで、その美貌に意識が向く前に、妙な迫力に圧倒されてしまったのだ。
おかげでたぶんクラスのみんなの中では今、『美少女が転校してきた』という認識よりも、『変なやつが転校してきた』という認識のほうが強いだろう。
もったいない。せっかく容姿に恵まれているのだから、それなりの言動をすればいいのに。普通に振る舞えばきっと人気者になれるのに。黙っていればそこに座っているだけで称賛やら羨望やらを得られるだろうに。悪目立ちする言動ばかりして、本当にもったいない。
「そうかな……」
僕はまたもや色んな感情や思考を呑み込み、あいまいな返答をした。
「ところで、君の名前は?」
彼女が唐突に言った。
「え……森川だけど」
僕はぼそぼそと答える。
「下の名前は?」
えっ、と思わず声を上げた。ただ隣の席になっただけの人間の、しかも名字を名乗った人間の下の名前なんて、あえて訊かないだろうと思っていた。
「ん?」
彼女が促すように小首を傾げたので、僕はしぶしぶ口を開く。
ここで答えるのを拒否すれば、気にしていることがばれてしまう。気にしていることを知られるのが、僕にとっては何より恥ずかしいから。
「ス……ズ、カ」
さらりと答えようと思ったのに、片言のようにぎこちなくなってしまった。悔しい。
女みたいな名前、と何度からかわれてきたことか。からかわないとしても、笑いを堪えられたり、訊いてしまってごめんとでも言いたげに気まずそうに目を逸らされたり、数えきれないくらい経験してきた。
だから、いつものように微妙な反応をされるだろうと思った。
でも、彼女はくすりとも笑わなかった。笑いを押し殺す様子も、気まずそうな様子もなく、それどころかまったく表情が変わることすらなかった。
「キツネ? それもタヌキ?」
そしてわけのわからない質問で返される。予想外の単語に僕は唖然とした。
「……はい?」
いくら僕が片言になってしまったからって、さすがに『スズカ』がキツネやタヌキと聞き間違えられることがあるだろうか? もしかして冗談のつもりか?
まったく真意がつかめずに黙って見つめ返していると、
「君の名前の『ス・ズ・カ』のアクセントは、『キ・ツ・ネ』系の上がっていくタイプなのか、『タ・ヌ・キ』系の下がっていくタイプなのか、どっち?」
彼女がそのアクセントを図示するように、エスカレーターみたいに手を斜めに上げたり下げたりスライドさせながら言った。それで僕はやっと理解する。
「ああ、そういうこと……。えーと、タヌキのほうですね」
僕はひかえめに手で下りエスカレーターのジェスチャーをしつつ答えた。
「さいですか。鈴鹿サーキットの鈴鹿じゃないってことね」
「……さいです」
「ちなみに私の『コトコトコ』は『ベネズエラ』のアクセントと同じ」
「…………」
「で、『スズカ』を漢字で書くと?」
淡々と問いを重ねられる。僕も淡々と答える。
「『涼しい』に『風』ですね……」
「涼しい風でスズカね」
彼女はこくこくと頷いたあと、
「森川涼風というのかい……風流な名だね」
しわがれた声を出し、女の子が神隠しに遭う某有名アニメ映画の、顔が大きい魔女のお婆さんみたいな口調で言った。
おそらくそのキャラの物真似をしているつもりなのだろうけど、物真似だとしたら正直お世辞にもうまいとは言えず、もしかしたら偶然それっぽく聞こえるだけかもしれないと危ぶまれるレベルだった。ので僕はスルーすることにする(念のため言っておくとダジャレのつもりではない)。
僕の反応がなかったからか、彼女はひょいと肩をすくめてから、
「スズカって鈴鹿サーキットが由来なの? お父さんが車好きなの? 的なことよく訊かれるんじゃない」
「うん、たぶん延べ百回は言われた」
「だろうねえ。ちなみに当たってるの?」
「いや……僕の名前をつけたのは父親じゃないし、鈴鹿サーキットとは無関係な由来らしいです」
彼女の押しの強さに圧倒されているからか、なぜかさっきからちょこちょこ敬語になってしまう。自分でもよくわからない。
「あっはは、そんなもんだよね~。あれだね、『僕の名前はスズカですが鈴鹿サーキットとは無関係です』って札とか首から下げとくといいんじゃない。ほらあの、売り子みたいっていうのか、身体の前後に看板ひっさげるやつね。いちいち名前のこと訊かれなくなって快適だよ、きっと」
「…………」
たしかに快適にはなるかもしれないけれど、その代わりものすごく白い目で見られることになるだろう、それは僕には耐えられないので勘弁願いたい。
あ、もしかして、と思う。彼女があの舞台の口上みたいな自己紹介をしたのは、『コトコトコ』という誰もが無反応ではいられない名前についてあれこれ訊ねられないように予防線を張っていたのだろうか。
コトコトコなんて名前で十七年も生きてきたら、さぞやうんざりするほど質問責めに遭ってきたことだろう。
「じゃ、涼風くんと呼ばせてもらおう。問題ない?」
「えっ。や、問題はない……けど」
別に親しくもないクラスメイトをいきなり下の名前で呼ぶなんて、距離感がおかしい。いや、おかしいのは距離感だけじゃないか……。先生のことも名前で呼んでたしな。
「私のことは琴子でいいよ」
僕はぎょっとして彼女を見つめ返す。
相手が僕をどう呼ぶかは相手の勝手で、ずいぶん馴れ馴れしいなとは思うもののまあ許容範囲だが、こちらの呼び方を指定されるとなると、容易には頷きがたい。
何より、いくら本人からの申し出とはいえ、女子を下の名前で呼び捨てなんて、僕みたいなド陰キャには不可能だ。
「琴子でいいよ」
聞こえなかったとでも思ったのか、彼女が繰り返す。
僕は慌ててぶんぶん首を横に振った。
「いやいや。けっこうです」
「いやいや。琴子でいいよ」
彼女もぶんぶん首を振りつつ、制止するように片手をあげた。
「いやいや。普通に名字で呼びますので」
「いやいや。琴子でいいよ」
「ええ~……」
彼女は手強かった。はいと答えるまでやめてくれそうにない。
「……わかったよ……」
僕はとうとう反論する気力を失い、了承してしまった。
「ふふん。よろしい」
彼女は満足げに笑った。
ああ、これから僕はどうなってしまうんだ。
これまでの無味無臭で平穏な学校生活は、ちゃんと戻ってきてくれるのだろうか。



