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「ぎゃははっ! 下手くそか、ちゃんとレシーブしろ!!」
放課後、クラスでいちばん仲良しの璃々花とおしゃべりをしていたら、うるさい笑い声が響いてきた。
見ると、教室の前方で、男子たちが騒いでいる。高木という声がでかくてチャラい男子を中心としたグループだ。
どうやらひとりのペンケースをバレーボールみたいに投げてトスしてアタックして遊んでいるようだ。当たり前だけどボールじゃないからちゃんと飛ばなくてすぐに落ちる。何が面白いんだか、床に落ちたペンケースを見ては大笑いしている。
バッカみたい。なんで男子って高校二年生にもなってあんな小学校低学年みたいなはしゃぎ方ができるんだろう。
「何やってんのー、危ないからやめなってー」
くすくす笑いながら璃々花が言った。
私は『あ、そういう感じね』と思う。璃々花、ああいう感じが好みなのか。意外だ。でもまあ人それぞれだし。たしかに高田はイケメン枠に入るし、ちょっとガキっぽくてうざいけど性格は悪くない。
私は気を取り直し、璃々花の言葉への共感を示す表情と声音で、
「ほんと、やめなよー」
と言う。本気で危ないともやめろとも思っていないことがちゃんとわかるように。
これはもちろんアホ猿みたいな男子たちに対する遠慮なんかではなく、璃々花に対する配慮だ。
彼女とはいつも一緒に行動している。もしも彼女と気まずくなったり微妙な距離感になったりしたら、私はぼっち確定だ。
だから、私はいつだって璃々花との間に軋轢が生まれないように振る舞う。今のは彼女が彼らに対して好意的な印象を抱いているらしいことを察知したので、私もそれに倣ったまでだ。
これはもちろん私の一方的な歩み寄りなんかじゃないと思われる。璃々花のほうだって、私との関係を良好な状態で維持するために心を砕いていることが伝わってくるから。
私と璃々花は『ちょうど同じくらい』なのだ。
別に不細工ってほどではないけれど決して容姿に恵まれているわけではなくて、でも見た目にはそれなりに気を使って派手にならない程度に軽くメイクやヘアアレンジをしていて、制服も第一ボタンは留めずスカートは膝より二、三センチ上くらいになるように調整している。勉強や運動は平均レベル。色んな意味で『真ん中くらい』の人間。これが私、そして璃々花。
誰からも一目置かれるくらい成績優秀だったり、誰が見ても美人なくらい容姿端麗だったりすれば――つまり一軍だったらそれなりの振る舞いが許される。その逆なら――三軍ならほとんど何も許されない、ただ空気のように自分たちだけの世界の中で息をするだけ。
「なになにー、楽しそー、うちらも入れて」
ペンケースバレーを楽しむ男子たちの輪の中にずかずか入り込んだのは、まぎれもない一軍女子の犬塚さんだ。彼女と仲のいい女子数人も、彼らと何やら騒ぎ始めた。
璃々花はそれを、ちょっと羨ましそうに見つめている。でも何も行動は起こさない。わかるよ、と私は心の中で彼女の手を握る。
私たちは一軍ではないので、犬塚さんたちみたいに堂々と割って入ったり、教室に響くような大声で何かを発言することは許されないけれど(してもいいだろうけど、空気読めない認定をされる)、かといって三軍でもないので貝みたいに固まったり黙ったりする必要はなくて、さっきのように「やめなよー」と遠巻きに(聞こえるか聞こえないかくらいのボリュームで)声をかけるくらいならセーフだ。
私と璃々花は、クラスでそういう立ち位置。
これは学年全体、学校全体という規模で見ても変わらない位置で、たぶん大学生になっても社会人になっても変わらない。特殊メイク級のメイク技術を身につけて別人みたいに綺麗になって昇格したり、逆になんらかのヘマをして降格したりしなければ。
私の人生、こんなもんだ。
とにかく、私のポテンシャルからいけば上限値だと思われるこのぬるま湯みたいな心地いい立ち位置を守りさえできればいい。
このまま、このまま。
だからこそ、古都琴子の存在は、非常に目障りなのだ。
彼女は入部した文芸部の活動の一環として、コンクールに向けて文芸誌だかを制作することにしたらしい。そのネタ探しと称して、転校翌日からせっせとクラスメイトにインタビューを始めた。
そしてなぜか私にも白羽の矢を立てたのだ。
本当に迷惑だ。文芸とか心底どうでもいいし。うちの高校に文芸部なんてあったのかよって感じだし。
何より『ネタ』にされるなんて私がいちばん嫌なことだ。まっぴらごめんだ。
当の古都さんは今、教室にはいない。たぶん部活に行ったのだろう。
彼女が視界から消えるだけでほっとするし、空気が綺麗になった感じがする。
そろそろおしゃべりを切り上げようかなと思っていたら、いきなりガタンッと大きな音が聞こえてきた。
「いってー!」
直後に大笑いする声。
私と璃々花は反射的にそちらへと目を向ける。ペンケースで遊んでいたアホ猿男子たちのひとりが、ある机にぶつかったのだろう、床に倒してしまっていた。
それは廊下側のいちばん前の席だった。
「やべー、机倒しちゃった」
男子たちの会話が聞こえてくる。
「空っぽでよかったな」
「早く直せよ」
「――おい、今のはなんの音だ?」
いきなり、太く低い声が割り込んできた。学年主任の黒田先生だ。体育教師で柔道部顧問でめちゃくちゃ怖い。
黒田先生は教室後方のドアから首を突っ込み、音の正体を探るように視線を巡らせている。
アホ猿軍団がびくっと縮みあがり、先生に気づかれる前にというように大慌てで前方のドアから飛び出していった。
残ったクラスメイトたちは、素知らぬふりでそれぞれ帰り支度をしたりおしゃべりを継続したりする。黒田先生は「ここじゃなかったのか?」と首をひねりつつ立ち去った。倒れた机は先生のいた場所からは見えなかったらしい。
先生が姿を消すと、みんなの緊張の糸がほどけるのがわかった。変な疑いをかけられるのはごめんとばかりに次々に教室を出ていく。
倒れた机は、倒れたまま残されている。
どうしよう、と思いながら、私は璃々花をちらりと見た。彼女はスマートフォンに目を落とし何やら操作している。メッセージか何かを送っているのだろう。
私はふっと小さく息を吐いて立ち上がりつつ、これからやろうとしていることについて璃々花にひとこと言っておくべきかどうか、思考を巡らせた。時間的には一秒にも満たないけれど、たぶん一時間ぶんくらいは考えた。
何も言わないでいきなりやったとしたら、急にどうしたと驚かれるだろうし、らしくない行動だなと不審に思われるだろうし、何かあるのかと問いただされたりしたら面倒なことになる。いや、璃々花はそんな深入りするタイプではないから、問いただしたりはしないだろうけど、そのぶん私に対する不信感やモヤモヤを抱えたままで、変な距離ができてしまうかもしれない。それは困る。
かといって、これからやることをはっきり言葉にして告げたとしたら、これもまた急にどうした、らしくないと思われるに違いない。ちょっと正義感っぽく見えることをやるだけでも気恥ずかしいのに、それをきっぱり事前報告するなんて、もっと居た堪れない。
どっちに転んでも失敗する未来しか見えず、でも何もしないという選択肢もとれなくて、私は中間を攻めることにした。
「……さっ、さすがに直してこよっかな~……」
独り言っぽくさりげなく言うつもりだったのに、しまった、声が裏返った。
璃々花はふいと顔を上げ、なんのことかわからないというようにぱちりと瞬きをした。私はへらへら笑ったまま、
「たまにはいいことでもしよっかな~……なんて……」
とぼそぼそ言いつつ、教室の前方に向かう。
ああ、全然うまくいかなかった。でも大失敗ってほどでもない。たぶん大丈夫だ。正義感で突っ走ってる感じにはならなったはずだし、さりげないふうにできた。
倒れた机に向かっている途中、
「うわっ、なんだこれ」
と男子の声がした。猪飼くんの声だとすぐにわかった。
私ははっとして足を止める。彼は廊下から教室に入ろうとしているところで、倒れた机を見てそう声を上げたらしかった。
猪飼くんがふいっと顔を上げる。私はじっと彼を見ていたので、必然的に目が合ってしまった。
慌てて逸らそうとしたそのとき、
「なんかあったん? 伊勢崎さん」
彼は、なんと私に、そう訊ねた。
これは私が彼にとって話しやすい女子だからとかではない。むしろ私たちが言葉を交わしたことは十回くらいしかないと思う。つまり、ただ私がいちばん近くにいて、目が合って、たぶん事情を知ってそうだと踏んで質問の相手に選んだ、それだけなのだ。
そんなに親しくもない二軍女子にいきなりフランクに話しかけちゃう感じ、さすが猪飼くんだ。こっちは驚きと動揺と緊張でたまったもんじゃない。
「あっ、あー、高木くんたちが遊んでて……」
私は内心大汗をかきながら、なんとかこの場にふさわしい『困っちゃうよね』な笑みを浮かべて答える。
「なるほどねー、ありがと伊勢崎さん」
うわ、猪飼くんから『ありがと』頂きました。
「ったくあいつらしょーがねーなー、ちゃんと直してけよなー」
彼は肩をすくめつつ淡々と言い、ひょいっと机を持ち上げ、元の位置に戻した。
なんてスマートな。さすがすぎる。
そう、猪飼くんは、何事においても『スマート』な人なのだ。
スポーツが得意なさわやか系男子。誰とでも話すし誰にでも親切で、すごくいい人。しかも成績もけっこういい。雰囲気イケメンのくせに一軍気取りの高木たちみたいに制服を着崩したりチャラチャラしているわけではないけれど、なんせ顔とスタイルがいいから必然的に誰が見ても即一軍認定される。とはいえ騒がしくてチャラいだけの他の一軍男子たちとベタベタつるむことはない。でもたまに一緒になってふざけたりはしている。そして紛うことなき一軍なのに二軍や三軍の人間とも普通に話したりする。だから高木たちみたいに二軍以下からこっそり疎まれることもない、なんならだいぶ好かれている。
つまり、なんというか、猪飼くんはバランスをとるのがすごくうまいのだ。
あ、こんなふうに褒めちぎると、まるで私が猪飼くんのこと好きみたいに聞こえるかもしれないけれど、決してそれはない。たしかにちょっといいなとは思うけれど、というかすごくいいなと思っているけれど、それはただアイドルとか俳優とかを推しているような感覚に近い。恋愛感情なんて抱くことすらおこがましい。私は分相応というやつをちゃんと弁えられるタイプなのだ。
猪飼くんが机を直したと同時に、私はさっと踵を返し、璃々花のもとへ戻った。たまにはいいことしよっかななんて言いつつ乗り込んでいって、人に先を越されて結局何もせずに戻る情けなさよ。
「そろそろ行くわー」
私は『何事もなかったように』を必死に装いながら璃々花に告げると、
「んー、じゃあねー」
彼女もさらりと笑って手を振ってくれた。
私の一連の『らしくない』行動に気づいていないわけはなく、きっと思うところもあるだろうけど、いつも通りに振る舞ってくれるさっぱりとした気遣いに感謝する。
やっぱり璃々花は『ちょうどいい』。私も彼女にとって『ちょうどいい』存在であれるように努力を惜しまない決意を新たにする。
教室を出るとき、ちらりと振り返って、猪飼くんの手ですっかり元通りになった机を見た。
あれは実彩ちゃんの机だ。
いや、本当は実彩ちゃんはずっと窓際のいちばん後ろの席だったのだけれど、古都さんのわがままのせいで、今はあそこが実彩ちゃんの席ということになっている、ということだけれど。
私の中で、古都さんへの嫌悪感が確定したのは、あの瞬間だった。
はいどーもーコトコトコでーすなんてふざけた態度で教室に入ってきたときからだいぶ不愉快で、すでにうっすら嫌いだったけれど、自分勝手な理由で他人の席を自分のものとした瞬間、『こいつ最低だ、大嫌いだ』と確信した。
自分が他人とは違う特別な存在であるかのように演出するために、実彩ちゃんの席を奪った。本当に最低だ。
「乃亜さーん」
その大嫌いなやつ本人が、突然私の前に立ちはだかった。
私はひっと息を呑み、足を止める。
古都さんはイラつくくらい嬉しそうな笑みを満面に浮かべ、
「見てたよ~」
と言った。私は頬がぴくぴく痙攣するのを隠すために顔に手を当て、
「えっ、なんの話?」
と問い返す。
「さっき、高木くんたちが倒した机、戻そうとしてたでしょ」
「……っ、」
やばい。言葉に詰まってしまった。
「どうして? なんで戻そうとしたの?」
「……えー? 普通に、倒れてるから直そうと思っただけだよー」
私はなんとか微笑みを浮かべて答えた。
古都さんはにこやかに、でもじっとりと私を見つめてくる。不快だ。
「でも、乃亜さんって、ああいうこと――みんなが見てる前でひとり目立つようなこと、普段しないでしょ。だから気になってさ。あの席に何か特別な思い入れがあるのかな、とか」
私は再び言葉に詰まった。
古都さんの推測は、悔しいけれど、当たっていた。
古都琴子、他人の気持ちに無頓着なように見せておいて、実は鋭い。
ってことは、本当は相手が不快に思っていたり嫌われていたりするのをわかった上で、あえてこういう自分勝手な振る舞いをしているのかもしれない。なおさら最低だ。
ぐうう、と喉の奥が苦しくなる。
目尻が濡れているのに気がついて、慌てて顔を俯向けた。
なに、なんで泣きそうになってるの、私。
「……もう、行かなきゃ」
無意識にそう呟いていた。でも、足が動かない。身体が動かない。
古都さんの爪先が見える。
みんなとは違う、真新しい上履き。
みんなとは違うことが、あなたは怖くないの?
転校生なんだから、二年生の中でひとりだけ新しい上履きを履いていたって当然のことなのに、なぜかそんな思いが込み上げてきた。
あなたは、みんなと違うことをするのが、怖くないの? どうしてそんなふうに平然としていられるの? どうしてそんなに強くいられるの?
必死に抑えようとした涙も、必死に押し殺そうとした嗚咽も、勝手に私の中から漏れ出した。
一度溢れると、もう自分の意思では止められない。
突然、手首をつかまれた。
「さあさあ、君も行こう! ジンガイの世界へ!」
……ジンガイってなんだっけ。
そんな疑問が頭に浮かんだけれど、考える間もなく、私は古都さんに引きずられて階段を駆け上がった。



