2025-11-02
『一生続け、と願った夜』

演じる必要なんてなかろうに
善い人を演じてしまっていて。

「私に任せてください」

そんなことを言って仕事を請け負い
あなただけが頑張る姿を見ていると
「無理はしないで」と思ってしまう。

同じ職場で働いている女性。
善い人を演じているような。

殆どが帰ってしまった職場にポツンと1人。
「お疲れ様です」と言って僕も帰路につく。

職場を後にした僕は駅に向かって歩を進めるが
後ろを振り返ると女性のいる部屋だけが明るく
いつまで残って仕事をするつもりだろうと思う。

家に帰ってもすることなんてないし
珈琲を買って職場へ戻ることにした。

僕は履いていた革靴をカツカツと鳴らしながら
「どう言って渡そうか」と考えていたけれども。

パソコンを凝視して仕事をしている姿を見て
なんと言おうかは容易に思いついてしまった。

「よかったら、これどうぞ」

まずはパソコンから目を逸らさせることが
彼女にとっては大事なことなんだと思った。

「あ、ありがとうございます」
「すみません、ブラックは...」

ブラック飲めなかったか、と後悔したが
一緒に買っていたカフェオレを手渡すと。

「お気遣いありがとうございます」と
初めて見せてくれた笑顔に心は奪われ。

「いえいえ」と平然を装ってはいたが
内心はバクバクしていてままならない。

実は、僕もブラックは飲めない。
けれど、善い人を演じてしまい。

僕は蓋を開けて一口だけズズっと飲んで
「どういう仕事なんですか?」と訊いた。

彼女も蓋を開けて一口だけ飲み
ボソッと「美味しい...」と言い
「秘密です!」と言って笑った。

「ああ、そりゃそうですよね」
「容易に教えられないですね」

この何とも言えない時間よ、一生続け。
そう願いたくなるほど、彼女は笑った。

善い人を演じることは大変なことばかりだが
確かに誰かを救っているわけでもあると思い。

目の前にいる彼女も誰かを救っていると思うと
なんだか胸の奥が温かくなっていくのを感じた。

きっと救われたのは僕だ。
そして救ったのは彼女だ。

「もう遅いですし、明日にしませんか」と僕。
「そうですね、今日は終わろうかな」と彼女。

2人で駅に歩を進めていく途中で
後ろを振り返って見たが何もなく。

ただ全ての部屋の電気が消えた職場が見える。
「無理はしないでくださいよ」と僕は言った。

「そちらこそ、無理はしないでくださいね」と彼女。
「無理してないから元気なんです」と冗談を言うと。

ふふっ、と笑われた。
一生続け、と願った。

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