放課後、教室掃除をすっとばして、楓は部室に向かった。
がらがら、がこん。
さすがに一番乗りだ。
がらんとした部室が、やけに広く感じられる。
「ちわーーっす」
感慨にふける間もなく、類がきた。
こちらも、清掃はさぼったのだろう。
「類くん、こないだ、ありがとね」
楓はバスケ部見学の礼をいった。
「あ、いえ、そんなのは」
類はもごもごと返す。
「いいの、撮れました?」
「うん。すごく、素敵なのが」
楓はさっと写真を差しだした。
「これっ……!」
そう、全部、類を撮った写真だ。
「いいでしょ? この表情とか……」
「べつに」
類は写真を突き返した。
しばらく沈黙が続いた。
「類くんは、バスケしないの?」
楓はきいた。
「やめたんです。—―って、何回同じこと言わせるんですか」
類の声は怒気を含んでいる。
「ごめん。でもさ、類くん、すんごく上手だし、あんなにできるのに、やめちゃうなんて、もったいないかな、とか」
「関係ないっす」
「でも」
「せんぱい!」
類がさえぎった。
「先輩はどうしてそんなに、おれにバスケをさせたいんです? おれを追い払おうっていうんですか? 邪魔なら邪魔って、はっきり言ってください!」
類は一息にたたみかけて、楓をにらみつけた。
荒々しい声、強い目の光。親しくなければ、怖いと感じるだろう。
いや、親しくても怖い。圧倒的な凄みと美しさ……。楓は、しばし、見惚れた。
「先輩、聞いてます?」
「あ、うん。えっと?」
「おれが邪魔なんでしょって話です」
「いや、そうじゃなくてね。じゃなくて、類くん、すごくかっこよくて、楽しそうで。ボールを持ってる類くんは、きらきらしてて」
楓は精一杯、ほめた。
「なんか、そういう類くんを、もっと見たいかなって」
「……」
類は口をへの字に結んだままだ。
「嫌いなの? バスケ」
「――じゃないすけど」
「こないだの学校、行く予定だったんでしょ? ほんとは」
「昔の話っすから」
「うん。でもさ、やってみたら? また」
「おれ、もう、練習してないし。無理っす」
「そんなことないよ!」
自分でも驚くほどの声が出た。窓ガラスだって震えたかもしれない。
「類くんなら、すぐに追いつけるよ」
楓は言いきった。
「バスケのことなんて知らない。でも、類くんのすごさはわかるんだ。あんなふうに動ける人間なんて、ほかにいないって」
「ん~~~、ま、それはちょっと大げさっすけど」
類は冷静だった。
「嫌いじゃないんでしょ、バスケ」
「ん~~、まあ」
「結構好きでしょ?」
「まあ」
「結構、ものすごく」
「ん~~~~~~~~~~~」
バスケへの想いと、苦い思い出がまじりあっっているのだろう。
長い長い逡巡だった。
「応援に行くよ」
「ん~~~~~~~~~~~~~~~~~」
類は転校を決めた。
よかった。これでよかったんだ。そう思っても、寂しさは隠せない。
「類くんね、やめるんだ、写真部」
部員がそろうと、楓は切りだした。
「転校するんですよね」
「バスケかあ」
「やっぱ、そういうのが似合うよね」
「絶対カッコイイ」
「ね~~」
部員たちは盛り上がった。
なんだ。みんな知ってたのか。
もう、話すこともなさそうだな……。
楓はそっと廊下に出た。
類くんがいなくなると、女子ばかりだ。ぼくひとりで、これからどうすれば?
いっそ、類くんを呼び戻そうか。そんな気持ちにさえなってくる。
ふう。ため息をついたときだった。
「わたしもやめます」
背後で声がした。
「えっ」
ふりむくと、ひとりの部員が頭を下げていた。
えっと、これは……、中村さん?
「わたしなんです。文化祭のとき」
中村さんは、顔をあげた。
「ごめんなさい」
みるみる涙があふれた。
「え?」
中村さん……。
そんなことをする人ではないはずだ。
楓の知る中村さんは、口数は少ないけれど、礼儀正しく、笑顔がかわいらしくて、丁寧に育てられたお嬢さまという印象だ。破壊行為とは全然縁がなさそうな。
「本当なんです」
中村さんは力をこめた。
「でも」
信じられない。だれかをかばっているのではないか。親友とか?
「元カレが」
中村さんは言った。
「元カレが類くんと知り合いで。中学のとき、いろいろあったって。だから、頼まれたんです。わたし……」
再び、中村さんは言葉に詰まった。
「わたし、嫌だって、言って。でも、それなら別れるって。だから」
細い肩が震えた。
抱きしめてあげられたら。
楓は思った。
「やめることないよ」
「え?」
「その彼とは別れたんでしょ?」
中村さんがうなずく。
「中村さん、すごく後悔したんじゃないかな、あんなことして」
中村さんはうなずく。前よりもっと深く。
「なんか、もう、いいんじゃないかな。中村さんは十分苦しんだと思うから」
うわっ。ちょっとかっこよすぎるかな、こんなこと言って。
楓はドキドキしながら、続けた。
「ていうかさ、やめないでほしいんだ。お願いだから」
楓は両手を合わせた。
「類くんがいなくなると、みんなもやめるでしょ? そしたら、ぼく、ひとりになっちゃうし」
「え?」
中村さんは、きょとんと目を見開いた。
「やめませんよ、みんなは」
「そうなの?」
「そうです」
中村さんはきっぱりとこたえた。
「類くんの試合に写真部が入れるようにしてくれるって。席も全員分、類くんが確保してくれるから、みんな楽しみにしてるんです」
「えっ!」
そうなのか。類くん、なんという手回しの良さ。
楓は感心した。というか、自分だけ知らないって、何?
翌週には送別会が開かれることになったらしい。
「送別会、月曜日になりました」
部員に報告されたけれど、送別会をするという相談はひとこともなかった。
それは顧問も同じだったみたいだ。
「月曜? おれは会議が……」
抵抗した顧問が、
「終わってから、来てください」
あっさりと言いかえされているのを聞いたから。
放課後、女子たちは買い出しにでかけた。
菓子や飲み物、プレゼントなどを個人で用意することは禁止だという。
みんなで買って、費用は均等に負担する。類くんの厳命らしい。
楓はひとり部室に残された。
ま、いいけど。買い物についていっても、邪魔なだけだし。
う~~ん。これからも、ずっとこんな感じなのかな。
やれやれと、腰かけたときだ。
扉が開いた。
類だった。
「せんぱい」
こうして向き合うのも、これが最後。明日からは類くんがいないのだ。
実感がない。なさすぎて、何と言ったらいいのか、楓にはわからなかった。
「先輩、おれ、ほんとに、先輩のこと、大好きなんですよ」
類の瞳は少しうるんで見えた。
「うん」
楓は努めて明るい声をだした。
「おれ、せっかく教えてもらったのに、写真」
「いいから、いいから」
笑顔を作った。
でも、類の泣きべそ顔は変わらない。
「せんぱいには、すんごく優しくしてもらって。おれ、そんなのはじめてで。ほんと、うれしかったです」
「あ、いや、そんな……」
楓は慌てた。
「おれ、部紹介のとき、舞台でずっこける先輩をみて、この人なら、おれを邪魔にしないだろうって思って。だから、おれ、写真部にしたんっす。部員いないって言ってたし」
「あ……」
そうなのか。あのみっともない演説、見られたのか。
塗りつぶしたい過去だ。
「おれ、写真のこと、何にも知らなくて、迷惑だったでしょ? わかってます。でも……」
「そんなことない! 迷惑だなんて、そんなことないよ」
絶対に、そんなことはないんだ。類くんがいてくれて、ぼくは……。
「ありがとう、類くん。類くんがいてくれて、ぼくは、ほんとに、毎日、楽しかった」
すらすらと言葉が出た。ひとかけらも嘘のない気持ちだ。
「類くんは、ほんとに、まっすぐで、勇気があって、かっこいいよ。類くん。類くんには、そのままで、ずーーーっと、伸びていって欲しんだ。それに……、優しいのは類くんの方だよ。こんなぼくのこと、好きだって言ってくれて。類くんには、あんなに素敵な彼女がいるのに……」
「彼女じゃないっす!」
類が猛烈な勢いで抗議した。
「うんうん。そうだったね」
そうはいっても、すんごく想われてるから。
楓は若菜との会話をおもいかえした。
「せんぱい」
類は難しい顔をした。
「ん?」
「先輩はおれのこと、どう思ってます?」
類は楓の瞳をみつめた。
「おれ、何度も言いましたよね、先輩のこと好きだって」
「うん」
「でも、先輩は、なんか、まともに相手してくれないっていうか、いまだって、じーちゃんみたいなこと言うし……。わかってます? おれの気持ち」
まなざしが熱い。
「おれは、一対一で、深く付き合いたいって意味で、言ってるんですよ」
深く。その深くって、ぼくが思うのと同じだろうか。ほんとに? もし、ほんとうにそうだったら、ぼくは……。
「類くん、ごめん」
楓は頭を下げた。
「えっ?」
「ぼく、類くんに嘘をついた」
類の表情が凍りついた。
「ぼくの好きな写真家って、キャパじゃないんだ。ロバート・メイプルソープ」
「――それって、名前っすか?」
「うん」
メイプルシロップみたいだけど。
「それと、もうひとつ。合宿のとき、ほんとは類くんの写真、撮ったんだ。一枚だけ」
言うんだ。いま、言わないと。そう思っても、楓の声は震えた。
「類くんの寝顔、すごくかわいくて。どうしても撮りたくなって、一枚だけ。それを大きく焼いて、部屋の机の引き出しにしまってる。毎晩、眠る前に、口づけるんだ、写真に。大好きだよって」
「え……」
類は絶句した。
終わったな、これで。
楓は思った。
ひくよね、そんなの。キモすぎる。
わかっている。だから、言うつもりはなかったのだ。最後まで。
ただ、仲良しの先輩と後輩として別れようと、そう思っていた。でも。
「ごめん。もう、やめるから」
だから許してなんて、言えない。
「――そうですね。それって、ひどいっすね」
類の表情がかすかにやわらいだ。
「そんなの、おれに直接してくれればいいのに」
そういうと、にこっと笑う。
「ね?」
類は身をかがめ、目を閉じると、楓に唇をさしだした。
「類くん……」
引き寄せられるように、楓は類に近づいた。
次の瞬間だ。
「手がっ、手が死んだ~~っ」
「あんたが持つっていったんでしょーが」
「言ったけどお~~」
「あっつ~~」
「も~~、死ぬ」
どやどやと、女子たちが戻ってきた。
いったん決めると、類はすばやかった。
あっと言う間に別れの日はやってきた。
結局、ゆっくり話す暇なんてなかったな。
駅に向かう路面電車のなかで、楓はため息をついた。
平日の朝。学校とは逆方向に走る電車のなかはがらがらだった。
「駅で、見送りを」
部員たちの申し出は、顧問に却下された。
「先生、ぼく……」
遅刻扱いでもかまわない。怠学で指導を受けたって。
楓はどうしても最後に類に会っておきたかった。
「おまえは行ってやれ」
「え?」
「部長だろ。代表で見送ってくれ。公欠扱いにしとくから」
「あ、はい!」
元気にこたえたのはよかったんだけど。
やっぱり、その時を迎えると、沈むな……。
見送りに行くことは類に伝えてあった。
ホームで会えるはずだ。
ラッシュの終わったホームは閑散としている。
ちょっと早すぎたかな。
楓はベンチに座った。
やがて、類が乗る列車がやってきた。
けれでも、類の姿は見えなかった。
類くん……。
発車時刻が近づいてくる。
類くん!
連絡をとろうとしたとき、階段をのぼる類が見えた。
「せんぱい!」
類は叫ぶとかけてきた。
あ、走らないで。
注意する間もなかった。
「せんぱい」
目のまえに立つ類の背にはリュックがひとつのっている。
「――荷物、それだけ?」
「とりあえず、朝メシっす。ほかのものは、いれば、送ってもらうんで」
学用品などは一切もっていないらしい。
いや、いるでしょ、さすがに。
突っ込みたいが、そんな時間は残されていなかった。
「いいですか、せんぱい」
乗車口に立って類は言った。
「おれがいないからって、浮気しちゃだめですよ」
近くの乗客がちらりと楓に目をやった。
したくたって、できないよ。そんな物好きはいやしないよ。
楓は乗客を見ないようにして、心の中で叫んだ。
「ま、そのへんは若菜先輩にしっかり頼んであるんで」
「え?」
発車の合図が鳴った。
「あ、そーだ、こんど、全裸のおれ、送りますね。前と後ろ、どっちがいいですか? どっちも……」
ドアが閉まり、列車はじわりと動き出した。
「駄目だよ、類くん、そんなことしたら——」
追いかける楓に、類はガラスのむこうでひらひらと手を振った。
列車は遠ざかり、カーブのむこうに消えた。
類は約束を守った。
写真部全員、練習試合に招んでくれたのだ。
類のチームの控え部員たちのすぐ後ろ、いわば関係者席だ。
茜の姿も見えた。
「先生、どうも。大勢でお邪魔して」
顧問が監督に頭を下げる。
「いやいや~~。先生、彼、なかなかやりますよ。まあ、どうぞ、ごゆっくり」
類はすぐにレギュラーになったらしい。
今日はスタメンだ。
両チーム挨拶をかわし、試合がはじまった。
バンバンバン、ドドドドドドドドド。
とんでもない勢いで、選手が右往左往する。
かと思うと、鬼の形相で、ボールをむしり取る。
こ、こわい……。
めまぐるしく人が動くなかでも、類の居場所ははっきりとわかった。
よく知っているから、だけじゃない。
ボールを追い、奪い、敵をかわしてゴールをめざす。
すばやく、無駄のない動きが際立っていた。
楓は夢中でその姿を追った。
シュートしようとした瞬間に、相手チームの選手とからまりあって、類は倒れた。
「あっ」
楓は思わず声をあげた。
笛が鳴る。
相手の反則だったらしい。
類はフリースローの権利を得た。
位置につき、ボールをかまえる。かがめた膝がすっと伸びると同時に、ボールは浮き上がり、ゴールに吸い込まれて落ちた。
類はその勢いのまま、ドリブルで走り回り、ダンクシュートを決める。
極めつけは、自陣からのロングシュートだった。
ずさっ。
入った瞬間、アリーナ中がどよめきで揺れた。
「ふーちゃん」
となりで若菜が言った。
そう。類くんは若菜ちゃんまで招待してくれたんだ。
「あんた、やばいよ、これ」
そういう若菜の視線は類に固定されたままだ。
「ものすごいじゃん、類くん」
「うん」
ほんとに。これほどまでとは。
すごいとしか言いようがない。
類のプレー、ひとつひとつに大きな歓声があがる。
「ファイト、類」
大きな幕がかかっているのに、楓は気がついた。
すでに、類の応援団ができているらしかった。
「大丈夫? ふーちゃん、ちゃんと、唾つけた?」
「え……」
いや、そんな、唾って言っても。
「まさかと思うけど、まだ、なーーんにもなし?」
「あ、うん、まあ」
だって、類くんは遠くにいるんだし、あれから会うのは今日がはじめてだし。
「ふーちゃん、あんた、ほんっとに、もう。どうしてそんななの? もたもたしてると盗られるよ、類くん。せっかく、ふーちゃんを譲ったのに」
「ご、ごめん」
若菜ちゃんの怒りはもっともだ。
「でも、いいんだよ、もう。こんなにすごい類くんが、一瞬でもぼくを本気で好きって言ってくれた。その思い出だけで、ぼくは一生生きていけるから」
「はあ?」
試合は類チームの勝利でおわった。
もちろん、一番の得点源は類くんだ。
挨拶を終えると、類は観客席にあがってきた。
ずんずんずん。
一段とばしで近づいてくると、若菜の前を素通りして、がばっと楓に抱きついた。
「せんぱ~~~い」
ほっかあ~~~っ。
火が付いたように類の熱が伝わった。
類のユニフォームはびしょぬれだ。
「類くん、おつかれ」
ぎゅう~~~~。
類はますます腕に力を込めた。
く、くるしい。でも、うれしい。
もう、このまま類くんの腕の中でつぶれてしまってもかまわない。
なんて最高な終わり方なんだろう……。
恍惚にひたる楓のよこで、茜が呆然と立ち尽くしていた。
「もしかして、類の大切な先輩っていうのは、この人……?」
若菜をふりむく。
「うん」
若菜は軽くうなずいた。
「!」
みるみる茜の顔が、名前と同じ茜色に染まる。
「(ぎゃ~~~っ。わたしったら。なんて勘違いを! ぐわあああああ)」
唇が声にならない叫びを発している。
「ご、ごめんなさい! わたしっ! あのっ、あのときっ、類の恋人、若菜さんかと、思ってっ」
「いいの、いいの、大丈夫よ~~」
若菜はそっと茜の腕に触れた。
「平気だから」
若菜はとびきりの笑顔を作ってみせた。
その間も、ふたりは離れない。
「わたし、なんだか複雑です」
茜が言った。
「よね」
若菜も応じた。
「若菜さんもですか?」
「まあね」
ふう~~。ため息がハモった。
「類くん、脚、大丈夫?」
ようやく解放された楓がきいている。
「痛いの?」
ぎゅーっ。こたえるかわりに、類はまたしがみついた。
「そっか、そっか、がんばったね」
楓が類の背中をとんとんする。
もう、一生終わらないのか。
そう思った時だった。
「るい~~! 撤収!」
フロアから声が飛んだ。
「あ、はいっ!」
即座に類はしゃきんと身を起こし、ずだだだだと、もとの場所へ帰っていった。
「よかった」
楓がいった。
「よかったね」
若菜がこたえる。
「よかったですよね」
茜が加わる。
三人は顔を見合わせ、手を取り合った。
「よかったね~~~!」
盛り上がる三人に、いつのまにか、女の子の集団が近づいていた。
「お兄さんですか?」
ひとりが楓にたずねた。
「そうよ」
若菜はこたえた。
「だから、サインもらっとくといいわよ」
きゃあ。
どよめきとともに、女子が楓を囲んだ。
「え? あの」
「じゃあね~~、お先に」
若菜と茜は楓に大きく手を振った。
「いや、待って? ぼく」
助けて、類くん……。
「はいはい、また今度な~~」
埋もれる楓を助けてくれたのは、顧問だった。
「なにやってんだ? おまえ」
「い、いやあ、類くん、すごい人気で」
「ふん」
顧問は鼻で笑った。
「それで、おまえを選ぶっていうのが、わからないけどな……。まあ、蓼食う虫も好き好きっていうから」
「せ、せんせい……」
ばれてる?
「おまえも、せいぜいがんばれ」
がっはっは。顧問は笑った。
がらがら、がこん。
さすがに一番乗りだ。
がらんとした部室が、やけに広く感じられる。
「ちわーーっす」
感慨にふける間もなく、類がきた。
こちらも、清掃はさぼったのだろう。
「類くん、こないだ、ありがとね」
楓はバスケ部見学の礼をいった。
「あ、いえ、そんなのは」
類はもごもごと返す。
「いいの、撮れました?」
「うん。すごく、素敵なのが」
楓はさっと写真を差しだした。
「これっ……!」
そう、全部、類を撮った写真だ。
「いいでしょ? この表情とか……」
「べつに」
類は写真を突き返した。
しばらく沈黙が続いた。
「類くんは、バスケしないの?」
楓はきいた。
「やめたんです。—―って、何回同じこと言わせるんですか」
類の声は怒気を含んでいる。
「ごめん。でもさ、類くん、すんごく上手だし、あんなにできるのに、やめちゃうなんて、もったいないかな、とか」
「関係ないっす」
「でも」
「せんぱい!」
類がさえぎった。
「先輩はどうしてそんなに、おれにバスケをさせたいんです? おれを追い払おうっていうんですか? 邪魔なら邪魔って、はっきり言ってください!」
類は一息にたたみかけて、楓をにらみつけた。
荒々しい声、強い目の光。親しくなければ、怖いと感じるだろう。
いや、親しくても怖い。圧倒的な凄みと美しさ……。楓は、しばし、見惚れた。
「先輩、聞いてます?」
「あ、うん。えっと?」
「おれが邪魔なんでしょって話です」
「いや、そうじゃなくてね。じゃなくて、類くん、すごくかっこよくて、楽しそうで。ボールを持ってる類くんは、きらきらしてて」
楓は精一杯、ほめた。
「なんか、そういう類くんを、もっと見たいかなって」
「……」
類は口をへの字に結んだままだ。
「嫌いなの? バスケ」
「――じゃないすけど」
「こないだの学校、行く予定だったんでしょ? ほんとは」
「昔の話っすから」
「うん。でもさ、やってみたら? また」
「おれ、もう、練習してないし。無理っす」
「そんなことないよ!」
自分でも驚くほどの声が出た。窓ガラスだって震えたかもしれない。
「類くんなら、すぐに追いつけるよ」
楓は言いきった。
「バスケのことなんて知らない。でも、類くんのすごさはわかるんだ。あんなふうに動ける人間なんて、ほかにいないって」
「ん~~~、ま、それはちょっと大げさっすけど」
類は冷静だった。
「嫌いじゃないんでしょ、バスケ」
「ん~~、まあ」
「結構好きでしょ?」
「まあ」
「結構、ものすごく」
「ん~~~~~~~~~~~」
バスケへの想いと、苦い思い出がまじりあっっているのだろう。
長い長い逡巡だった。
「応援に行くよ」
「ん~~~~~~~~~~~~~~~~~」
類は転校を決めた。
よかった。これでよかったんだ。そう思っても、寂しさは隠せない。
「類くんね、やめるんだ、写真部」
部員がそろうと、楓は切りだした。
「転校するんですよね」
「バスケかあ」
「やっぱ、そういうのが似合うよね」
「絶対カッコイイ」
「ね~~」
部員たちは盛り上がった。
なんだ。みんな知ってたのか。
もう、話すこともなさそうだな……。
楓はそっと廊下に出た。
類くんがいなくなると、女子ばかりだ。ぼくひとりで、これからどうすれば?
いっそ、類くんを呼び戻そうか。そんな気持ちにさえなってくる。
ふう。ため息をついたときだった。
「わたしもやめます」
背後で声がした。
「えっ」
ふりむくと、ひとりの部員が頭を下げていた。
えっと、これは……、中村さん?
「わたしなんです。文化祭のとき」
中村さんは、顔をあげた。
「ごめんなさい」
みるみる涙があふれた。
「え?」
中村さん……。
そんなことをする人ではないはずだ。
楓の知る中村さんは、口数は少ないけれど、礼儀正しく、笑顔がかわいらしくて、丁寧に育てられたお嬢さまという印象だ。破壊行為とは全然縁がなさそうな。
「本当なんです」
中村さんは力をこめた。
「でも」
信じられない。だれかをかばっているのではないか。親友とか?
「元カレが」
中村さんは言った。
「元カレが類くんと知り合いで。中学のとき、いろいろあったって。だから、頼まれたんです。わたし……」
再び、中村さんは言葉に詰まった。
「わたし、嫌だって、言って。でも、それなら別れるって。だから」
細い肩が震えた。
抱きしめてあげられたら。
楓は思った。
「やめることないよ」
「え?」
「その彼とは別れたんでしょ?」
中村さんがうなずく。
「中村さん、すごく後悔したんじゃないかな、あんなことして」
中村さんはうなずく。前よりもっと深く。
「なんか、もう、いいんじゃないかな。中村さんは十分苦しんだと思うから」
うわっ。ちょっとかっこよすぎるかな、こんなこと言って。
楓はドキドキしながら、続けた。
「ていうかさ、やめないでほしいんだ。お願いだから」
楓は両手を合わせた。
「類くんがいなくなると、みんなもやめるでしょ? そしたら、ぼく、ひとりになっちゃうし」
「え?」
中村さんは、きょとんと目を見開いた。
「やめませんよ、みんなは」
「そうなの?」
「そうです」
中村さんはきっぱりとこたえた。
「類くんの試合に写真部が入れるようにしてくれるって。席も全員分、類くんが確保してくれるから、みんな楽しみにしてるんです」
「えっ!」
そうなのか。類くん、なんという手回しの良さ。
楓は感心した。というか、自分だけ知らないって、何?
翌週には送別会が開かれることになったらしい。
「送別会、月曜日になりました」
部員に報告されたけれど、送別会をするという相談はひとこともなかった。
それは顧問も同じだったみたいだ。
「月曜? おれは会議が……」
抵抗した顧問が、
「終わってから、来てください」
あっさりと言いかえされているのを聞いたから。
放課後、女子たちは買い出しにでかけた。
菓子や飲み物、プレゼントなどを個人で用意することは禁止だという。
みんなで買って、費用は均等に負担する。類くんの厳命らしい。
楓はひとり部室に残された。
ま、いいけど。買い物についていっても、邪魔なだけだし。
う~~ん。これからも、ずっとこんな感じなのかな。
やれやれと、腰かけたときだ。
扉が開いた。
類だった。
「せんぱい」
こうして向き合うのも、これが最後。明日からは類くんがいないのだ。
実感がない。なさすぎて、何と言ったらいいのか、楓にはわからなかった。
「先輩、おれ、ほんとに、先輩のこと、大好きなんですよ」
類の瞳は少しうるんで見えた。
「うん」
楓は努めて明るい声をだした。
「おれ、せっかく教えてもらったのに、写真」
「いいから、いいから」
笑顔を作った。
でも、類の泣きべそ顔は変わらない。
「せんぱいには、すんごく優しくしてもらって。おれ、そんなのはじめてで。ほんと、うれしかったです」
「あ、いや、そんな……」
楓は慌てた。
「おれ、部紹介のとき、舞台でずっこける先輩をみて、この人なら、おれを邪魔にしないだろうって思って。だから、おれ、写真部にしたんっす。部員いないって言ってたし」
「あ……」
そうなのか。あのみっともない演説、見られたのか。
塗りつぶしたい過去だ。
「おれ、写真のこと、何にも知らなくて、迷惑だったでしょ? わかってます。でも……」
「そんなことない! 迷惑だなんて、そんなことないよ」
絶対に、そんなことはないんだ。類くんがいてくれて、ぼくは……。
「ありがとう、類くん。類くんがいてくれて、ぼくは、ほんとに、毎日、楽しかった」
すらすらと言葉が出た。ひとかけらも嘘のない気持ちだ。
「類くんは、ほんとに、まっすぐで、勇気があって、かっこいいよ。類くん。類くんには、そのままで、ずーーーっと、伸びていって欲しんだ。それに……、優しいのは類くんの方だよ。こんなぼくのこと、好きだって言ってくれて。類くんには、あんなに素敵な彼女がいるのに……」
「彼女じゃないっす!」
類が猛烈な勢いで抗議した。
「うんうん。そうだったね」
そうはいっても、すんごく想われてるから。
楓は若菜との会話をおもいかえした。
「せんぱい」
類は難しい顔をした。
「ん?」
「先輩はおれのこと、どう思ってます?」
類は楓の瞳をみつめた。
「おれ、何度も言いましたよね、先輩のこと好きだって」
「うん」
「でも、先輩は、なんか、まともに相手してくれないっていうか、いまだって、じーちゃんみたいなこと言うし……。わかってます? おれの気持ち」
まなざしが熱い。
「おれは、一対一で、深く付き合いたいって意味で、言ってるんですよ」
深く。その深くって、ぼくが思うのと同じだろうか。ほんとに? もし、ほんとうにそうだったら、ぼくは……。
「類くん、ごめん」
楓は頭を下げた。
「えっ?」
「ぼく、類くんに嘘をついた」
類の表情が凍りついた。
「ぼくの好きな写真家って、キャパじゃないんだ。ロバート・メイプルソープ」
「――それって、名前っすか?」
「うん」
メイプルシロップみたいだけど。
「それと、もうひとつ。合宿のとき、ほんとは類くんの写真、撮ったんだ。一枚だけ」
言うんだ。いま、言わないと。そう思っても、楓の声は震えた。
「類くんの寝顔、すごくかわいくて。どうしても撮りたくなって、一枚だけ。それを大きく焼いて、部屋の机の引き出しにしまってる。毎晩、眠る前に、口づけるんだ、写真に。大好きだよって」
「え……」
類は絶句した。
終わったな、これで。
楓は思った。
ひくよね、そんなの。キモすぎる。
わかっている。だから、言うつもりはなかったのだ。最後まで。
ただ、仲良しの先輩と後輩として別れようと、そう思っていた。でも。
「ごめん。もう、やめるから」
だから許してなんて、言えない。
「――そうですね。それって、ひどいっすね」
類の表情がかすかにやわらいだ。
「そんなの、おれに直接してくれればいいのに」
そういうと、にこっと笑う。
「ね?」
類は身をかがめ、目を閉じると、楓に唇をさしだした。
「類くん……」
引き寄せられるように、楓は類に近づいた。
次の瞬間だ。
「手がっ、手が死んだ~~っ」
「あんたが持つっていったんでしょーが」
「言ったけどお~~」
「あっつ~~」
「も~~、死ぬ」
どやどやと、女子たちが戻ってきた。
いったん決めると、類はすばやかった。
あっと言う間に別れの日はやってきた。
結局、ゆっくり話す暇なんてなかったな。
駅に向かう路面電車のなかで、楓はため息をついた。
平日の朝。学校とは逆方向に走る電車のなかはがらがらだった。
「駅で、見送りを」
部員たちの申し出は、顧問に却下された。
「先生、ぼく……」
遅刻扱いでもかまわない。怠学で指導を受けたって。
楓はどうしても最後に類に会っておきたかった。
「おまえは行ってやれ」
「え?」
「部長だろ。代表で見送ってくれ。公欠扱いにしとくから」
「あ、はい!」
元気にこたえたのはよかったんだけど。
やっぱり、その時を迎えると、沈むな……。
見送りに行くことは類に伝えてあった。
ホームで会えるはずだ。
ラッシュの終わったホームは閑散としている。
ちょっと早すぎたかな。
楓はベンチに座った。
やがて、類が乗る列車がやってきた。
けれでも、類の姿は見えなかった。
類くん……。
発車時刻が近づいてくる。
類くん!
連絡をとろうとしたとき、階段をのぼる類が見えた。
「せんぱい!」
類は叫ぶとかけてきた。
あ、走らないで。
注意する間もなかった。
「せんぱい」
目のまえに立つ類の背にはリュックがひとつのっている。
「――荷物、それだけ?」
「とりあえず、朝メシっす。ほかのものは、いれば、送ってもらうんで」
学用品などは一切もっていないらしい。
いや、いるでしょ、さすがに。
突っ込みたいが、そんな時間は残されていなかった。
「いいですか、せんぱい」
乗車口に立って類は言った。
「おれがいないからって、浮気しちゃだめですよ」
近くの乗客がちらりと楓に目をやった。
したくたって、できないよ。そんな物好きはいやしないよ。
楓は乗客を見ないようにして、心の中で叫んだ。
「ま、そのへんは若菜先輩にしっかり頼んであるんで」
「え?」
発車の合図が鳴った。
「あ、そーだ、こんど、全裸のおれ、送りますね。前と後ろ、どっちがいいですか? どっちも……」
ドアが閉まり、列車はじわりと動き出した。
「駄目だよ、類くん、そんなことしたら——」
追いかける楓に、類はガラスのむこうでひらひらと手を振った。
列車は遠ざかり、カーブのむこうに消えた。
類は約束を守った。
写真部全員、練習試合に招んでくれたのだ。
類のチームの控え部員たちのすぐ後ろ、いわば関係者席だ。
茜の姿も見えた。
「先生、どうも。大勢でお邪魔して」
顧問が監督に頭を下げる。
「いやいや~~。先生、彼、なかなかやりますよ。まあ、どうぞ、ごゆっくり」
類はすぐにレギュラーになったらしい。
今日はスタメンだ。
両チーム挨拶をかわし、試合がはじまった。
バンバンバン、ドドドドドドドドド。
とんでもない勢いで、選手が右往左往する。
かと思うと、鬼の形相で、ボールをむしり取る。
こ、こわい……。
めまぐるしく人が動くなかでも、類の居場所ははっきりとわかった。
よく知っているから、だけじゃない。
ボールを追い、奪い、敵をかわしてゴールをめざす。
すばやく、無駄のない動きが際立っていた。
楓は夢中でその姿を追った。
シュートしようとした瞬間に、相手チームの選手とからまりあって、類は倒れた。
「あっ」
楓は思わず声をあげた。
笛が鳴る。
相手の反則だったらしい。
類はフリースローの権利を得た。
位置につき、ボールをかまえる。かがめた膝がすっと伸びると同時に、ボールは浮き上がり、ゴールに吸い込まれて落ちた。
類はその勢いのまま、ドリブルで走り回り、ダンクシュートを決める。
極めつけは、自陣からのロングシュートだった。
ずさっ。
入った瞬間、アリーナ中がどよめきで揺れた。
「ふーちゃん」
となりで若菜が言った。
そう。類くんは若菜ちゃんまで招待してくれたんだ。
「あんた、やばいよ、これ」
そういう若菜の視線は類に固定されたままだ。
「ものすごいじゃん、類くん」
「うん」
ほんとに。これほどまでとは。
すごいとしか言いようがない。
類のプレー、ひとつひとつに大きな歓声があがる。
「ファイト、類」
大きな幕がかかっているのに、楓は気がついた。
すでに、類の応援団ができているらしかった。
「大丈夫? ふーちゃん、ちゃんと、唾つけた?」
「え……」
いや、そんな、唾って言っても。
「まさかと思うけど、まだ、なーーんにもなし?」
「あ、うん、まあ」
だって、類くんは遠くにいるんだし、あれから会うのは今日がはじめてだし。
「ふーちゃん、あんた、ほんっとに、もう。どうしてそんななの? もたもたしてると盗られるよ、類くん。せっかく、ふーちゃんを譲ったのに」
「ご、ごめん」
若菜ちゃんの怒りはもっともだ。
「でも、いいんだよ、もう。こんなにすごい類くんが、一瞬でもぼくを本気で好きって言ってくれた。その思い出だけで、ぼくは一生生きていけるから」
「はあ?」
試合は類チームの勝利でおわった。
もちろん、一番の得点源は類くんだ。
挨拶を終えると、類は観客席にあがってきた。
ずんずんずん。
一段とばしで近づいてくると、若菜の前を素通りして、がばっと楓に抱きついた。
「せんぱ~~~い」
ほっかあ~~~っ。
火が付いたように類の熱が伝わった。
類のユニフォームはびしょぬれだ。
「類くん、おつかれ」
ぎゅう~~~~。
類はますます腕に力を込めた。
く、くるしい。でも、うれしい。
もう、このまま類くんの腕の中でつぶれてしまってもかまわない。
なんて最高な終わり方なんだろう……。
恍惚にひたる楓のよこで、茜が呆然と立ち尽くしていた。
「もしかして、類の大切な先輩っていうのは、この人……?」
若菜をふりむく。
「うん」
若菜は軽くうなずいた。
「!」
みるみる茜の顔が、名前と同じ茜色に染まる。
「(ぎゃ~~~っ。わたしったら。なんて勘違いを! ぐわあああああ)」
唇が声にならない叫びを発している。
「ご、ごめんなさい! わたしっ! あのっ、あのときっ、類の恋人、若菜さんかと、思ってっ」
「いいの、いいの、大丈夫よ~~」
若菜はそっと茜の腕に触れた。
「平気だから」
若菜はとびきりの笑顔を作ってみせた。
その間も、ふたりは離れない。
「わたし、なんだか複雑です」
茜が言った。
「よね」
若菜も応じた。
「若菜さんもですか?」
「まあね」
ふう~~。ため息がハモった。
「類くん、脚、大丈夫?」
ようやく解放された楓がきいている。
「痛いの?」
ぎゅーっ。こたえるかわりに、類はまたしがみついた。
「そっか、そっか、がんばったね」
楓が類の背中をとんとんする。
もう、一生終わらないのか。
そう思った時だった。
「るい~~! 撤収!」
フロアから声が飛んだ。
「あ、はいっ!」
即座に類はしゃきんと身を起こし、ずだだだだと、もとの場所へ帰っていった。
「よかった」
楓がいった。
「よかったね」
若菜がこたえる。
「よかったですよね」
茜が加わる。
三人は顔を見合わせ、手を取り合った。
「よかったね~~~!」
盛り上がる三人に、いつのまにか、女の子の集団が近づいていた。
「お兄さんですか?」
ひとりが楓にたずねた。
「そうよ」
若菜はこたえた。
「だから、サインもらっとくといいわよ」
きゃあ。
どよめきとともに、女子が楓を囲んだ。
「え? あの」
「じゃあね~~、お先に」
若菜と茜は楓に大きく手を振った。
「いや、待って? ぼく」
助けて、類くん……。
「はいはい、また今度な~~」
埋もれる楓を助けてくれたのは、顧問だった。
「なにやってんだ? おまえ」
「い、いやあ、類くん、すごい人気で」
「ふん」
顧問は鼻で笑った。
「それで、おまえを選ぶっていうのが、わからないけどな……。まあ、蓼食う虫も好き好きっていうから」
「せ、せんせい……」
ばれてる?
「おまえも、せいぜいがんばれ」
がっはっは。顧問は笑った。
