登校時にも、類と会うことはなくなった。
 これまでなら、いつのまにか類が現れて、追いかけてきてくれていたのに。
 そう、寝坊して遅刻した時だって。
 あれ? もしかしていつも待ってくれてた? いや、まさか、そんなこと……。
「ふーちゃん、なに難しい顔してんの?」
 背中を叩かれ、楓は我に返った。
「若菜ちゃん……」
「類くん?」
「うん」
「会わないね、あれから」
「うん」
 避けられているのは明らかだ。
「嫌がらせだよね、類くんへの」
「わかんないけど、類くんはそう思ってるんだろうね」
「ほかにないでしょ」
 若菜は断言した。
「類くん、目立つから。ねたまれる要素、大ありだもんね~~」
 言い放って、若菜はずんずんと先にたって歩いた。
「やっぱ、そうかな?」
「そうかなって、ふーちゃん! ほんとはあんたが類くんを守らないといけないんでしょ」
 若菜は楓を叱った。
 わかってる。その通り。ごめん、類くん。こんな頼りない部長で。

 今日こそ、つかまえるぞ。
 楓はかたい決意で、終礼直後に教室を飛び出した。
 ……ところに、類がいた。
「せんぱい、ちょっといいすか」
 いいもなにも、こっちだって話したかったんだよ。
 そう言いたかったけれど、言葉にならなかった。
「やめます、おれ」
 生け垣とゴミステーションとのすき間で、類は言った。
 校内だけれど、人目につかない絶妙のポイントだ。
「類くん、あれは類くんの責任じゃないよ。最後をちゃんと見なかった僕が悪いんだし、それに……」
「おれのせいっす」
 類は譲らない。
「先輩だって、わかってるんでしょ? おれが、まえ、いろいろあったって。だから、あんなことになって……。先輩に迷惑かけて」
「そんな! 迷惑だなんて」
「おれ、中学じゃ、けっこう悪くて、地元で行けるところもないんで、こっち来たんです。ま、先輩も聞いたかもしれないすけど」
 たしかに、きいた。でもそれは都市伝説に近いうわさ話だ。
「ほんとっすよ、大体は」
 類の瞳に翳がさした。
「飲酒、喫煙、無免暴走、家出……。童貞じゃないってのもほんとです」
「えっ」
「あ、知りませんでした?」
 知らなかった。
「おれが写真部入ったのは、単に暇だっただけなんで……。でも、結局、迷惑かけちゃって。だから、やめます」
 ずいぶん、考えたんだろうな、このセリフ。楓は思った。
「――やめたいの?」
 楓は聞きかえした。
「類くんは、ほんとにやめたい?」
「やめたいっす。写真とか、ほんとは興味ないし」
「そっか~~」
 楓は軽く受けた。
「でも、もったいないと思うな、ぼく」
 正直な感想だ。
「類くんの写真はさ、どんな動きを撮っても、ここしかないっていう瞬間を切り取ってる。それが、たまたまじゃなくて、全部そうなんだ。この一瞬、この表情、これしかないっていう瞬間が写ってる。この才能って何だろうって。すごくびっくりしたし、うらやましかった。ぼくなんか、いくら連写で追っても、こうはならない。どうしてだろうって。類くんがバスケしてたって聞いて、なるほどと思った。動きのセンスがものすごくいいんだろうって。きっと類くんは、どんな動きでもすっと自分の身体に入るんだね。だから、最高の瞬間がわかるんだ。それって、ものすごく特別なことだから、やめちゃうのって、もったいないと思うよ」
「いや、おれなんて、そんなっ」
 類は耳を赤く染めた。
「写真やめて、どうするの? バスケする?」
「それはもうやめたんで」
「写真やめるなら、バスケしたら?」
「ここ、バスケ部ないっしょ?」
 そうなのだ。だからこそ、類はここを選んだのだろう。
「じゃあ、写真続けたら? じゃないと、また、部員、ぼくだけになっちゃいそうだし」
 冗談でも何でもない。真実だ。
「みんな、類くんのこと、大好きだよ。迷惑だなんて、思ってない」
 これもまた、真実だ。
 女子部員たちは一時的に混乱に陥ったものの、類への思慕を消し去ったわけではなかった。
「類がかわいそう」
 誰かがいった。そうだ。類は被害者なのだ。
 なんだか知らんが、濡れ衣を着せられて。
 そうだそうだと、女子たちは団結した。
 全員で類の教室まで迎えに行く計画が立てられた。
 直前に気づいた楓が阻止し、未遂に終わったけれども。

 類は写真部に戻った。
 顧問もときには部室に立ち寄るようになった。放任を反省したのかもしれない。
「ねえ、類くん」
 楓は声をひそめた。
「はい」
 類は身をかがめ、耳を楓の口に近づけた。
「こないだ会った子だけど」
「はい」
 類の瞳に緊張が走った。
「写真撮らせてくれるかな?」
「え」
「ここ、バスケ部ないでしょ? ちょっと、撮ってみたいんだけど……。やっぱり無理かな、部外者は」
「………………」
 長い長い沈黙だった。
「――きいてみます」
 うつむいたまま類はこたえた。

「顧問を通せば、オッケーだそうっす」
 数日後、類が言った。
「ほんとに?」
 楓は驚いた。期待していなかったのだ。
「試合の撮影はバツですけど、自主練とか、一人だけのときなら、本人がよければオッケーだって」
「――彼女、いいって?」
「はい……」
 類は答えて、口をへの字に結んだ。
「ありがと、類くん。ごめんね、無理なこと頼んで」
「いえ、それは、別に、いいんすけど」
「ついでにさ、撮影も付き合ってよね」
「え」
「だって、ぼくだけじゃ、心細くて。お願い。ね? 類くん。この通り」
 楓は両手をあわせて、類を拝んだ。

 当日は訪問先の校門前で待ち合わせた。
 顧問、楓、類、そして若菜。
「どうして、わたし?」
「男ばっかりじゃ、なんか、警戒されそうで」
「女子部員連れて行きなよ」
「ん~~、それは、ちょっといろいろとさ」
 女子部員は全員が類のファンだ。
 類が行くなら自分もというだろう。かといって、他校に何十人も、おしかけるわけにはいかない。
「選考が難しいんだ」
「くじ引きすればいいでしょーー」
 文句をいいながらも、若菜はついてきてくれた。
 類は、むすっとした表情をつくろうこともせず、やってきた。
「よし。行くぞ」
 顧問だけが元気だ。

「やあ、先生、今日はお世話になります」
「あ、先生。どうも。ご無沙汰しております」
 いや、どうもどうも。
 体育館に入ると両顧問は挨拶をかわした。
「先生、どうぞ、こちらへ」
 バスケ部顧問は、丁重に一行をスタンド席へと案内した。
「こんにちは!」
「こんにちは!」
 部員たちから一斉に声がかかる。
「やあ、どうもどうも」
 われらの顧問はいつもの調子で片手をあげつつ、のんびりと席についた。
「じゃあ、先生、ごゆっくり」
 バスケ部顧問が降りていく。
 ちらりと類に視線を送ったような気がした。
「先生、知り合いだったんですか?」
 楓はバスケ部顧問を見送りつつ、きいた。
「まあな」
 以前、同じ学校に勤めていたのだという。
「え?」
 そうだったのか。
 緊張が一気にほぐれた。
 強豪校の監督なんて、どれだけ怖いかわからない。
 楓は内心びくついていたのだ。
 いや、しかし。
 ピピーーッ。
 ホイッスルとともに部員の前にたつ監督の顔は修羅のごとくだった。
 両校とも、ビシッと一直線に並んで、頭を下げる。
「お願いします!」
 気合が半端ではない。
 すごいね。
 口にしかけて、楓は言葉を飲みこんだ。
 類の顔に血の気がなかった。ただ、瞳だけがぎらぎらと、コートをにらみつけている。
 類くん……。
 自分はなにかとんでもないことをしてしまったのではないか。類くんが断ち切ろうとした過去に、無理やり向き合わせるような真似をして、類をひどく苦しめているのではないか。もし、そうだったら、どうしたらいいんだろう。類くんはバスケに戻りたいはずだと、勝手に思いこんでいたけれど。でも、こんなの、類くんにとっては、閉じた傷跡をこじあけるような、残酷なことだったのかもしれない。ごめん。類くん。やっぱり、やめよう。ぼくが悪かった。いますぐ帰ろう。
「類くん……」
 立ち上がりかけたときだった。
「せんぱい」
 類が口を開いた。
「おれ、朝メシ食ってなくて。ちょっと出てきていいっすか?」
 ふだんと変わらない調子でいった。
「いいけど?」
「じゃあ、ちょっと……。あ、せんぱい、何かいります?」
「ううん。ぼくは大丈夫」
「じゃ」
 長身を揺らして、類は行ってしまった。
 しばらくして戻ってきた類は、ペットボトル片手にニコニコしていた。
「はい」
 と、ボトルを楓にさしだす。緑茶だ。
「くじで当たったんす」
 おれ、当たるのはじめて。類は心底うれしそうだ。
 顔色もすっかり戻っていた。
「いま、どのへんです?」
 と、きかれても、楓にはわからない。
「ん~~、あんま進んでないっすね」
 しばらくコートを見ていたが、類は少々眠そうだ。
 それでも、茜の動きは追っているらしかった。
「あ~~」
 ときどき声がもれる。
 惜しいプレーだったのだろう。
 点差はほとんどなかった。
 最後に茜がシュートを外し、こぼれたボールを相手方に決められた。

「いつも大事なところで外れる」
 茜は、試合の汗もそのままに、ゴールに向けてボールを放った。
 ごん。
 ボールははじかれて、飛んだ。
 ようやく写真部の出番だ。
 だが、敗戦のあとでは、茜の表情は冴えなかった。
「力、入りすぎだろ」
 転がるボールを類が拾った。
「なんかさあ、もっと気楽にやれば?」
 いいながら、片手でボールをふわっと浮かせた。
 ボールはまっすぐに、ゴールに吸い込まれた。
「ほいっ、そりゃー、とりゃーっ」
 掛け声とともに、類は、身体をひねりながら、次々にボールをゴールに放りこんだ。
「ラストは、スリーポイントシューーーート!」
 叫ぶと、類は軽くボールを放った。
 ボールは美しい放物線を描いて、輪の中に落ちた。
「おっしゃあ」
 類はガッツポーズで跳ねた。
「類」
 じっと見ていた茜がいった。
「わたし、やっぱり、類にバスケしてほしい」
「え」
 類のテンションがみるみる下がった。
「いや~~、いまの、まぐれまぐれ」
 さあ、撮影開始、とカメラを構えてみせる。
「類にはボールの方が似合う」
「んなことねーし。ほら、さっさと練習して」
「どうして、類……」
 写真なんか、とは言わなかったが、その気持ちは楓にもよくわかった。
 ほんとに。これだけ動けて、どうして写真部なんかに……。
「だって、おれがいないと先輩がひとりぼっちになるから」
「え?」
 え? 楓もハモりそうだった。
「大切な人なんだ、すごく。だから、おれは先輩の側にいる」
 類くん……!

 話はそれで終わらなかった。
 翌日、下校する若菜を、校門前で茜が待っていたというのだ。
「びっくりしたよ。何事かって」
「うん」
 楓は一部始終をきかされた。
「で、立ち話って感じじゃないから、ミスド行って」
「うん」
「そしたら、茜ちゃんが、わたし、ふたりの邪魔をするつもりはないんですって」
「ふたり?」
「わたしと類くん」
「え?」
「でね、ふたりの邪魔をする気はないけど、類くんにはバスケをさせてくれって」
「ほお」
「あんな動き、類くんじゃないとできない。類くんは全国でも通用する。もしかしたら、世界でも、とか言って。でね、類くんが好きなら応援してほしいって」
 ふう。若菜は息を継いだ。
「もう、びっくり」
 いや、こちらもびっくりだけど。楓は思った。
「いったい、どこをどうすれば、そういう話になるわけ? だいたい、年下なんて、趣味じゃないんだから」
 若菜は憤慨する。
「でね、聞いたんだ。類くんのこと。中学でいろいろあったって」
「ああ」
「――って、あんた、知ってたの?」
「いや、そんなことないけど」
「類くん、バスケ、すんごくうまいでしょ? 当然バスケ部で、一年なのに最初っからレギュラーで。でも、そういうのが気に入らない人もいて」
「ああ、それはね」
「で、結局さ、部室で、カバンに、ほかの部員の財布を入れられて」
「え」
 それは、ひどい。
「なくなったって、騒ぎになって。類くんが疑われて」
「類くんは、そんなこと」
「うん。もちろん、類くんじゃないよ。誰かにはめられたんだよ」
「だよね」
「でね、茜ちゃんも、類くんじゃないと思ったって。でも、言えなかったって。みんなの反応がこわくて、何も言えなかったって。茜ちゃん、めっちゃ泣いちゃって。ま、とにかくさ、そんなこんなで、類くんはバスケやめちゃったらしい。それから学校も来なくなって、遊びまわるようになったって」
 そうなのか。
 朝から重い話だ。
 そんなことがあったなんて。類くん……。
 それなのに類くんはいつでも元気で明るい。
 なんて、健気なんだろう。類くん……!
「でも、もう、二度と、あんなことさせない。何かあったら、わたしが絶対に守るからって。それを類くんに伝えてほしいって」
「それはさ、類くん、すご~~く想われてるよね?」
「ね」
 若菜は唱和した。
「なのに、ふーちゃんがいいって、類くんも変わってるけどね」
 いや、それは、そうかもしれないけど……。
 でも、それをいうなら、若菜ちゃんだって、ぼくのこと、好きとか言ってなかったっけ?
 楓は思ったが、口に出すのはやめておいた。

 やっぱり、類くんはバスケをすべきなんだ。
 授業がはじまっても、楓は考え続けた。
 あんなに上手なんだから。
 類くんは、きっと、生まれつきバスケの神さまに捧げられているんだ。
 類くん楽しそうだったな、ボールを持って、くるんくるん、動いて。
 あんなに楽しそうな類くんて、見たことないかも。
 バスケすべきだ。
 類くんのためだけじゃない。ぼくのためにも。
「おっし」
 心が決まった楓は、ぐっと拳を握った。
「ん? 解けたか? じゃあ、吉田、板書してくれ」
 数学教師にあてられた。
「え、いや、あの、まだ、その」
 数学は最大苦手教科だ。
 できるわけがない。微分積分なんて。
 先生だってわかっているはずなのに……。
「文系だからって、捨てるんじゃないぞ。入試で差がつくのは数学の点数だからな。国語や社会は、文系の奴らなら、みんなそこそこできるぞ~」
「はい……」
 先生のいう通りだ。
 だから教科書の最初のページから復習するのだが、いつでも十ページあたりで、頭の働きが止まってしまうのだ。
 しーーーーん。
 類くん。類くんは数学できるのだろうか。
 いや……。あんまり勉強できそうな感じはしないけど。
 でも、いいんだ、類くんは。あんなにバスケうまいんだから。
「お~~い、きいとけよ、吉田」
 教師は板書の手を止めて、ふりむいた。