うわさはひそやかに、しかし、確実にひろがった。
 内容は細切れだった。
「類はバスケをしていた」、「暴力行為で退学になった」、「少年院に入っていた」、「家族に捨てられた」などなど。「家族が刑務所にいる」というものもあった。真偽は不明だ。とにかく、地元にいられなくなって、遠い学校にやって来たのだということだった。
 楓は類と家庭の話をしたことはなかった。
 確かなのは、地元中学校の出身ではないこと、祖母の家から通っているということだけだ。
 でも、類くんは悪い子じゃない。
 身体が大きくて、声もでかいから、ちょっと強面にみえる。口のきき方も雑だし。
 でも、話してみれば、とっても優しくて、いい子なんだ。
 類くんがなにかの事情で実家を離れたのは事実だろう。でも、それ以上のことは、本人の口から聞くまでは信じない。
 問題は類くんが何をしたかじゃない。どうしてそんなうわさを流す奴がいるのかということだ。
 類くんは中学の頃から目立つ存在だった。それをよく思わない人間がいるのだ。もしかしたら、校内に。
 うわさなんて忘れよう。楓は決心した。
 心配なのは、類くんだ。きっと、本人の耳にも入っている。なにしろ、ぼくの耳に入るくらいだから。
 類はいつもの通り、にこにこしている。
 でも、無理してるのかもしれないな……。
 そんなとき、事件は起きた。

 写真部に新しいカメラが入った。
 最新のミラーレス一眼。高速連写でもオートフォーカスが効くすぐれものだ。
「ひゃ~、どうしたんです、これ?」
 部室にやってきた類は声をあげた。
「ぴかぴかの新品っしょ?」
「うん」
「先輩の?」
「まさか」
 楓はぶんぶんと頭をふった。
「部の備品なんだ」
 といっても、部費で購入したわけではない。
「卒業生の寄付が余ったんだって」
 卒業時に有志が(といっても、ほぼ全員だが)学校に寄付をするのが慣例だ。
 今春の寄付では、講堂の暗幕を新調した。
 そこで余りが、微妙に出たらしい。
 それならばということで、各部に希望調査があり、なぜか写真部の希望が通ったのだという。
「金額がちょうどよかったのかもしれないね」
 窓に向けて、シャッターを切る。
 カシャッ。
 心地よい、乾いた音が鳴った。
「おおっ」
「すごく反応いいよ」
 類にカメラを渡す。
「うおっ。新品の匂い!」
 類は受けとると、
「画面きれいっすね~~」
 目を輝かせてモニターをのぞきこんだ。
 女子部員たちがやってくる。
 一様に声をあげ、カメラに群がった。
 その日はずっと、試し撮りして回った。
 下校時刻が近づいてきた。
「そろそろ、しまおうか」
 ロッカーの扉を開けたときだった。
 放送で楓の名が呼ばれた。担任の声だ。
「あ……」
「いいっすよ。おれ、やっときます。部屋のカギも閉めちゃっていいっすか?」
「うん。ごめん。進路のことだから、ちょっと長くなるかも、なんだ」
「オッケーです」
 類は敬礼して見せた。

 翌日だった。
 部室に入った楓は棒立ちになった。
 ない。カメラがない。
 ロッカーの扉は解錠されていた。
 だれか他の部員が持ち出したのだろうか?
 ここには自分が一番乗りのはずだけど。
 楓の鼓動は速まった。
 まさか、盗難?
 でも、部室の入口は鍵がかかっていたし……。
 こんなことなら、昼休みに見に来るんだったな。
 後悔しても仕方がない。
 ほんとにどうしたんだろう。
 勝手に持ち出す部員がいるとも思えないし……。
 空のロッカーを呆然と見つめていた時だった。
「ちわ~~っす」
 威勢のよい声がして、扉があいた。類だ。
「あ、類くん」
「ん? どうしたんです?」
 類は楓の表情にすぐに気づいた。
「うん、カメラがね」
「え?」
「昨日、しまってくれたでしょ?」
 類はそういうことはきちんとしてくれる子だ。
「あ、はい」
 類の表情にわずかに影がさした。
「ないんだよね~~。ぼく、一番乗りだと思ったんだけど。だれか持ってるのかな?」
 楓は普段の調子を崩さなかった。
「あ、さあ……」
 類が口ごもる。
「類くんも今来たんだもんね」
「はい」
「う~~ん。どうしたんだろう。もうちょっと、他の部員、待ってみようか」
「はい……」
 類の声は消えそうに小さかった。
「やだなあ、類くん。類くんのせいじゃないよ。ちゃんとしまってくれたんだから。誰か持ってると思うんだけどね」
 類は無言でうつむいた。
「大丈夫だよ、類くん。すぐ見つかるよ。ね?」
 激しい落ち込みかたに、楓は慌てた。
「こんにちは~~」
 部員たちが連れだってやってきた。
 楓はひとりひとりにカメラの所在を尋ねたが、知るものはなかった。
 部員たちの沈黙が重い。
 類は、顔を白くして、石像のごとく動かなかった。
「とりあえず、先生に連絡してくるよ」
 楓は声をあげた。
「先輩、おれ!」
 類が立ち上がった。
「類くんも一緒に行く?」
 こたえをきかず、楓は部室を出た。
 類が従った。
 職員室は本館二階だ。
 きょうは特別に遠く感じる。
「失礼します!」
 どこから出るのかと、自分で突っ込みたくなるようなハイトーンだ。
「先生、カメラが……」
 と、そのとき、顧問の机上に置かれたカメラが見えた。
「あ~~~っ!」
 楓は思わず叫んだ。
 室内の教師たちが一斉にふりむく。
「なんだ?」
 顧問だけが落ち着いていた。
「それ、部室にないから……」
 楓はカメラに視線を向けた。
「ん? ああ、ちょっと借りた」
「んも~~。探しましたよ。なくなったかと思って」
 顧問にこんな口をきくのははじめてだ。
「すまん、すまん。どんな感じか、ちょっと、試そうと思って。ほい、戻しといてくれ」
 顧問はカメラを楓の手の中に収めた。

「ほんと、いい加減なんだよな、あの人」
 部室に向いながら、楓はぶつくさ言った。
「類くんもごめんね、心配させちゃって」
「せんぱい、おれ……」
「ん?」
「なんでもないっす」
 類は顔を背けてごまかした。

「機材使用時は貸出簿に記入すること(顧問を含む)」
 楓は部室に戻ると張り紙をこしらえた。
「あの人がさ、一番信用できないんだよ。ふだん全然部活に来ないくせに」
 楓は笑顔をみせた。
 凍りついた雰囲気がすこしだけ緩んだ。
「今までひとりだったから、いろいろ適当になっちゃってたね。反省反省。ごめん。みんなにも心配かけて」
 ふう。部長の発言として、こんなもので合格か?
 カメラはみつかった。
 類のせいでも部員のせいでもなかった。
 けれど、類の顔色は冴えなかった。
 その後も、女子部員たちと会話する様子はなかった。
 ただ、黙って、隅の方に座っている。
 やはり、気にしているのだろうか。
 類くんのせいじゃないのに。
 疑われたと感じているのかもしれないな。
 楓は努めていつも通りにふるまうが、類の表情は硬かった。

「類くん」
 週末、部活が終わると、楓は類をよびとめた。
「あのさ、あさっての日曜、時間ある?」
「え?」
「映画とか、どうかなって思って? これ、二枚あるから」
 楓はチケットをみせた。
「嫌ならいいんだよ。あんまり、趣味じゃないかもしれないし」
 だんだんとしどろもどろになった。
「それって、デートですよね?」
 類の顔に生気が宿った。
「え? あの、まあ、そうなのかな?」
「行きます!」
 類がこたえた。
 久しぶりに耳にするフル音量だった。

「類くん、何か買う? ポップコーンは?」
 劇場につくと楓はきいた。
 ロビーは大変な混雑だ。
「そうですね~。じゃ、でかいの買って、一緒に食いましょ」
「え」
「だって、デートでしょ?」
「あ、うん」
 デートって、そうなの? ふたりでひとつのポップコーンを?
 類に言われるままに、特大サイズのポップコーン(塩)と、オレンジジュースをふたつ買った。
 落とさないように慎重に……と思っていたら、類がひょいと取り上げて、すいすい先に立って歩いていった。
 背中がかっこいい。
 場内に入る。明るいけれど、階段は要注意だ。楓のようなうっかりものには。
「あ、ここです」
 類はまっすぐに席をさがしあてた。
「ペアシートじゃないんすね」
「あ、うん」
 迷ったけれど、やめておいたのだ。
「そっちの方がよかった?」
「デートだったら、そっちかと思って」
「ごめん、次、気をつける」
「いや、そんな、謝ることじゃないんで」
 類は慌ててこたえた。
 場内が暗くなった。
 大量の予告編がおわり、ようやく本編がはじまる。
 けれど、楓の全神経は類に集中していた。
 類くんが隣にいる。
 ほんとに、類くんが。
 楓は、スクリーンの光に照らされた類の横顔を眺めた。
 類の視線はまっすぐにスクリーンに向けられたままだ。
 画面では、超大物俳優が危険なスタントを繰り広げている。
 これなら外れないと選んだ作品だった。
 類は画面に集中している。
 よかった、これにして。
 楓は深く息を吐いた。

「あれはさすがにCGっすよね、飛行機から飛び降りるっつーのは。死ぬでしょ?」
「いや、ほんとに飛んだらしいよ」
「え~~っ、マジっすか?」
 ああだこうだ言いながら、ロビーに出たときだった。
「ルイ!」
 背後から声をかけられた。
 ふり向くと、背筋をすっと伸ばした女の子が、類をみつめていた。
 類は一瞬目をやって、すぐに会話を続けた。
「人間じゃないでしょ、あの人……」
「ルイ!」
 女の子は再度、呼んだ。
 まっすぐでサラサラのショート、すらりとした身体がスポーツ選手を思わせる。
「類くん、行ってあげなよ。ぼく、そこで待ってるから」
 楓は、向かいの書店を指さした。

 あれは、きっと、彼女だ。いや、元カノ、かな。だって、「ルイ」って呼び捨て。つきあってるんじゃなかったら、ああいうふうには呼ばないよね……。
 楓はぐるぐると書店内を回りながら、考えた。
 わかってたことなんだ。
 類くんは、所詮、自分とはつりあわないんだ……。
 やっぱり、類くんの隣りには、ああいう素敵な彼女がいるのが似合う。
 ほんと、さっきの彼女、お似合いだな……。
「せんぱい、せんぱい!」
 落ち込む楓の耳には、類の声も届かなかった。
「せんぱいってば」
 ぐいっと腕をつかまれ、ようやく楓は類に気づいた。
「類くん」
 ものすごく間抜けな声が出た。
「もういいの?」
「いいです」
「お友達でしょ? ゆっくりしたら……」
「終わりました!」
 類はふて腐れたようにいうと、ずんずんと店外へ歩き出した。
「あ、類くん」
 慌てて楓はあとを追った。
 と、急に類は立ち止まった。
「中学の知り合いです。つきあってたとか、ないですから。部活、一緒だっただけで」
 顔は怖いまま固まっている。
「部活?」
「――バスケ」
 消え入りそうな声で類は答えた。
「でも、もうやめたんで。おれには写真がありますから」
 類は話を終わらせた。

 バスケ。バスケットボール。
 類くんにはぴったりだ。
 ドリブル、シュート。
 ボールを自在に操り、コートを駆ける類の姿が、まざまざと脳裏に浮かんだ。
 そうか、バスケか。
 なのに、どうして、うちの学校に?
 そのうえ、写真部に入るなんて……。
 楓は類のこわばった表情を思いだした。
 よほどの事情ってやつがあるんだ。それはそうにちがいないけど。
 でも、類くんには写真よりバスケの方が似合う。
「そうか」
 楓は思わず声をあげた。
 類の撮る写真のことだ。
 類は動きを捉えるのが抜群にうまいのだ。これしかない。そういう瞬間を類のカメラはいつでも正確に捉えていた。
 そして、表情。
 被写体は生き生きとして、いまにも動き出しそうにみえる。
 どんなに速い連写で狙っても、楓は、類のようには切り取れない。
 楓は感心し、そして、少し不思議に思っていたのだ。
 その謎が、いま解けたような気がする。